主日礼拝式(三位一体後第十六主日) 2008.8.31
「恐れの心で」 ヨシュア記7:1-13
Ⅰ導入部
おはようございます。8月の最後の主日を迎えました。今日も愛する兄姉とともに礼拝を守ることができますことを感謝します。
28日、29日と長野県にあります聖山高原チャペルを見学してきました。みどりのキリスト教会の所有するキャンプ施設です。自然の中にあるすばらしい施設でした。礼拝堂、体育館、教室、宿泊施設、食堂とキャンプに適した場所でした。外は自然がいっぱいで、子どもたちにはアスレチックがあり、家の子どもたちも喜んでいました。テニスコートやグランド、冬はスキーもできるようです。
施設側の方々はセミナーよりもキャンプ場ですと言っておられ、これから秋、冬、春に向けて施設の活用を検討していくようです。山の上ですので音楽はいくら音を出しても大丈夫ですから、音楽のキャンプやセミナーがいいと思います。また自然が豊かですから黙想のための集まりができるように思います。青葉台教会から5時間ほどかかりますので、なかなか使うのには勇気がいりますが、自然は最高ですので、何かの集まりに使用できればと思いました。また、機会があればご参加下さい。皆さんのお祈りに感謝致します。
今日のテキストはヨシュア記7章1節から13節で、「恐れの心で」という題でお話したいと思います。
Ⅱ本論部
⒈主に聞く習慣
先週は、6章を通して神様の言葉に従ってエリコの町を攻略しました。エリコの周りを6日間1日1週、7日目には7週回るというだけでエリコに勝利しました。イスラエルの人々は難攻不落なエリコを陥れて意気揚々となっていたことでしょう。イスラエルには、「敗北」という文字はないとまで自信を持ったことでしょう。けれども、そのような勝利の喜びの裏には大変な事があったのです。イスラエルの中ではただ一人アカンだけが知っていること、神様の命令「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物庫に納めよ。」(ヨシュア6:18-19)を破り、罪を犯したのです。
7章1節を共に読みましょう。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽してささげるべきことに対して不忠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽してささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤っておられた。」
イスラエルの人々は、エリコの勝利に酔っていました。しかし、神様は憤っておられたのです。勝利は間違いのないことですが、そこに罪がありました。罪のある所には主はおられなかったのです。だから2節以下の事が起こります。
2節、3節を読みましょう。「ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。ニ、三千人が行けばいいでしょう。取るには足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」」 イスラエルの人々は、あの難攻不落の町エリコに勝利して自分たちに自信を持ったことでしょう。しかし、エリコの勝利は神様です。神様の言葉に忠実に従ったからです。その事が全くイスラエルの人々、そしてヨシュアの内にないというのが残念です。それほどに、エリコの城壁が頑丈であった事、エリコに勝利するということが人間的に見てすごいことだったのでしょう。しかし、忘れてはならないことは、神様の勝利だということです。私たちも信仰生活の中で、家庭生活や社会生活の中で神様の大きな恵みや祝福の数々を経験します。それをあたかも自分ひとりで得たかのように、このイスラエルの人々のように思ってしまうことがないでしょうか。これは最も危険なことです。傲慢につながります。このことから守られる方法はディボーションです。日々、変わらずに聖書を読み、神様の前に静まる。神様に与えられた恵みや祝福を感謝することができるのだと思います。イスラエルの人々の心、ヨシュアの心には、アイという町がエリコに比べて小さいこと、戦う人数が少ないということが、傲慢にさせたのかも知れません。「前より簡単だ。楽勝だ。」 ヨシュアはエリコの戦いの前には、主からの約束の言葉をいただき、割礼を施し、過越しの祭りを行い、なお一人エリコの戦いを考えて居た時、抜き身の剣を手にした男から「主の軍の将軍である」という励ましの言葉をいただくほどに慎重でした。しかし、今回は目に見える所に惑わされたのです。それ以上に、神様のみ声を聞くという一番大切なことを忘れていたのです。大きな勝利の後、祝福の後が大切です。私たちは、日々神様と交わり、神様の言葉に触れて、神様のみ声を聞く者でありたいと思います。祝福された後こそ、主に聞くことを忘れてはならないのです。
⒉神様から目を離さない
4節、5節では、イスラエルがアイに打ち負かされ、民の心は挫(くじ)け、水のようになったことが記されています。勝利を確信していたイスラエルの人々は意気消沈したのです。ヨシュアは衣服を裂き、長老と共に主の箱の前に静まりました。何故、イスラエルは負けたのでしょうか。傲慢だった。主に聞かなかった。その通りでしょう。しかし、一番問題なのは、罪があるのに罪の処理、罪の解決がされていなかったからです。戦いに負けたのは、イスラエルが弱かったからではありません。イスラエルの罪ゆえに、主が共におられなかったからではないでしょうか。それは、神様の言葉、命令を破ったこと、罪を犯したことが原因でした。それはただアカン一人の罪でした。アカンの犯した罪を聖書は、イスラエルの人々が不誠実であったと語っています。罪は連動します。罪は強い菌のようにあっという間に広がるのです。旧約聖書では、一人の罪を問うのではなく、その民族そのものを問うのです。
7節から9節までは、アイの戦いで勝利できなかったことを神様に嘆いています。つぶやいています。そして、周りの国々が自分たちを皆殺しにすると申し立て、何をして下さるのですか、と神様に向かってつぶやき続けるのです。「問題は神様、あなたです。」と詰め寄るのです。イスラエルの人々が出エジプトして、水がない、パンがない、肉がない、とつぶやいたことと同じことです。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。」 これは本当にヨシュアの言葉でしょうか。しかし、ヨシュアが主に語った言葉でした。
信仰者も神様が見えなくなると、びっくりするようなことを語ります。ヨシュアは神様から、「モーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ。」と直接お言葉をいただき、ヨルダン川を渡る時も、主が水をせき止められる光景を見、エリコの戦いにも、奇妙と思える主の言葉に忠実に従って大勝利を経験しながらも、アイの戦いに敗れると、荒野でつぶやいて滅んだイスラエルの民と全く同じことを口にしているのです。神様から目を離すとこうなります。大勝利が与えられながらも信仰を生かすことができませんでした。イエス様のすぐそばでいつもイエス様のお言葉を聞き、主の奇蹟的なみ業を見ていた弟子たちは、信仰を生かすことができないで、イエス様によく叱られました。
ヨシュアは主からお言葉をいただきながらも不信仰になりました。一度主からお言葉をいただいたかからそれで終りではいけないのです。日々、み言葉をいただくのです。毎日、主が何を語って下さるのか、主に聞く習慣、ディボーションを忠実に実践したいと思うのです。湖の上を歩いていたペトロはイエス様から目を離しておぼれかけました。私たちもイエス様から目を話すと不信仰の渦に沈んでいくのです。そのことを忘れないでいたいと思います。
⒊神の言葉は罪から守る
11節、12節を共に読みましょう。「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽してささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽すべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。」 ヨシュアは、ここでイスラエルがアイに破れた理由を知りました。もっと早く、アイと戦う前に、エリコの戦いの時のように、慎重であったら、主に聞いていたら状況は変わっていたのかも知れません。事が大きくても小さくても主に信頼することを忘れないようにしたいと思います。イエス様は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)
後は読みませんでしたが、神様は氏族ごとに、家族ごとに指摘され、ユダ族、ゼラの氏族、ザブディ家、アカンが指摘を受け、アカンは分捕りものの中から、一枚のシンアルの着物、銀二百シケル、重さ五十シケルの金の延べ板を取ったと告白したのです。21節には、「見て、欲しくなって取りました。」とあります。アカンは、着物や銀や金が欲しくなって取りました。神様が、ヨシュアを通して「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」ということを聞いていたでしょう。しかし、欲しいという誘惑に負けました。着物や金や銀を持っていたでしょう。しかし、なお欲しかったのです。アカンの心は、「戦利品なのだから、少しぐらいもらってもいいだろう。
別に誰にも迷惑をかけない。これぐらいなら、他の誰かもしている。」といろいろな思いがあったでしょう。しかし、これはあくまでもアカンの自分勝手な言い分です。神様の言葉は、「滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」。 アカンと同じように、欲しがった人もいたでしょう。しかし、神様の言葉、命令がブレーキをかけたのです。だから、アカンだけが取っていたのです。
人類最初の罪を犯す前を次のように記しています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。」とあります。 神様はアダムに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」と命令されました。エバも知っていたでしょう。けれども、蛇に惑わされました。他の木よりも善悪を知る木に興味を持ちました。蛇が無理やり食べさせたのではありません。その思いに、心に、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなる」ということを強め、神様の言葉を破ったのです。
私たちも罪を犯すときは、同じような状況だと思うのです。 ヨハネは、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(Ⅰヨハネ2:16)と言いました。アカンは神様のご命令、言葉よりも自分の欲を優先して、家族もろともアコルの谷で滅びました。アカンとは、災いをもたらす、という意味があるようです。アコルとはアカンと同じ意味があるようです。アカンは自分の罪によってイスラエルに敗北を与え、家族を滅びに招いたのです。
Ⅲ結論部
だから、私たちも、罪を認め、告白しましょう、というメッセージもあります。勿論、そのことは大切です。けれども、私たちはイエス様の十字架に目を留めたいと思うのです。アカンの罪の性質、それは私たちにもあります。罪を犯さない人間はいません。アカンはただ一度を罪の故に滅びました。私たちは何度罪を犯し、神様のお心を痛めていることでしょう。それなのに、なぜ、滅びないのですか。裁かれないのですか。それは、私に代わって、あなたに代わって裁かれた方がおらえるからです。本来ならば、私の犯した罪の故に、あなたの犯した罪の故に、私があなたが裁かれ滅びるはずなのに、神様は罪あるそのままの私たちを愛し、私たちの罪を赦すために、神であるお方、罪のないお方を人としてこの世に送り、私たちが犯した罪の身代わりに十字架にかかり、神様から裁かれ、私たちの身代わりに死んで下さったのです。そのことによって、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦されたのです。
アカンと家族は、アコルの谷で滅びました。聖書は言います。「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。」(ホセア2:17) 罪であったその場所が、望みの門となる。罪ある私がイエス様の十字架を通して罪の赦しを得、望みが与えられるのです。けれども、私たちは罪が赦されるのだから、恵みなのだからと簡単に考えるのではなく、「恐れの心」をもって神様から罪を示していただきたいと思うのです。そこには神であるイエス・キリスト様の尊い血が流されたのです。そこに神様の赦しのみ業があるのです。私たちはイエス様を神様として畏れる、畏敬の念をもって、畏れの心を忘れないでいたいと思うのです。
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネ1:7)
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
私たちは、この週もアコルの谷、苦悩、災いをもたらす場所を望みの門として下さる神様に目を留め、イエス様の流された血により全ての罪が赦されること、罪を言い表す者に赦しを与えるお方を「畏れの心で」見上げたいと思うのです。そのためにも日々み言葉に触れ、主の声に従いましょう。
「恐れの心で」 ヨシュア記7:1-13
Ⅰ導入部
おはようございます。8月の最後の主日を迎えました。今日も愛する兄姉とともに礼拝を守ることができますことを感謝します。
28日、29日と長野県にあります聖山高原チャペルを見学してきました。みどりのキリスト教会の所有するキャンプ施設です。自然の中にあるすばらしい施設でした。礼拝堂、体育館、教室、宿泊施設、食堂とキャンプに適した場所でした。外は自然がいっぱいで、子どもたちにはアスレチックがあり、家の子どもたちも喜んでいました。テニスコートやグランド、冬はスキーもできるようです。
施設側の方々はセミナーよりもキャンプ場ですと言っておられ、これから秋、冬、春に向けて施設の活用を検討していくようです。山の上ですので音楽はいくら音を出しても大丈夫ですから、音楽のキャンプやセミナーがいいと思います。また自然が豊かですから黙想のための集まりができるように思います。青葉台教会から5時間ほどかかりますので、なかなか使うのには勇気がいりますが、自然は最高ですので、何かの集まりに使用できればと思いました。また、機会があればご参加下さい。皆さんのお祈りに感謝致します。
今日のテキストはヨシュア記7章1節から13節で、「恐れの心で」という題でお話したいと思います。
Ⅱ本論部
⒈主に聞く習慣
先週は、6章を通して神様の言葉に従ってエリコの町を攻略しました。エリコの周りを6日間1日1週、7日目には7週回るというだけでエリコに勝利しました。イスラエルの人々は難攻不落なエリコを陥れて意気揚々となっていたことでしょう。イスラエルには、「敗北」という文字はないとまで自信を持ったことでしょう。けれども、そのような勝利の喜びの裏には大変な事があったのです。イスラエルの中ではただ一人アカンだけが知っていること、神様の命令「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物庫に納めよ。」(ヨシュア6:18-19)を破り、罪を犯したのです。
7章1節を共に読みましょう。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽してささげるべきことに対して不忠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽してささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤っておられた。」
イスラエルの人々は、エリコの勝利に酔っていました。しかし、神様は憤っておられたのです。勝利は間違いのないことですが、そこに罪がありました。罪のある所には主はおられなかったのです。だから2節以下の事が起こります。
2節、3節を読みましょう。「ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。ニ、三千人が行けばいいでしょう。取るには足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」」 イスラエルの人々は、あの難攻不落の町エリコに勝利して自分たちに自信を持ったことでしょう。しかし、エリコの勝利は神様です。神様の言葉に忠実に従ったからです。その事が全くイスラエルの人々、そしてヨシュアの内にないというのが残念です。それほどに、エリコの城壁が頑丈であった事、エリコに勝利するということが人間的に見てすごいことだったのでしょう。しかし、忘れてはならないことは、神様の勝利だということです。私たちも信仰生活の中で、家庭生活や社会生活の中で神様の大きな恵みや祝福の数々を経験します。それをあたかも自分ひとりで得たかのように、このイスラエルの人々のように思ってしまうことがないでしょうか。これは最も危険なことです。傲慢につながります。このことから守られる方法はディボーションです。日々、変わらずに聖書を読み、神様の前に静まる。神様に与えられた恵みや祝福を感謝することができるのだと思います。イスラエルの人々の心、ヨシュアの心には、アイという町がエリコに比べて小さいこと、戦う人数が少ないということが、傲慢にさせたのかも知れません。「前より簡単だ。楽勝だ。」 ヨシュアはエリコの戦いの前には、主からの約束の言葉をいただき、割礼を施し、過越しの祭りを行い、なお一人エリコの戦いを考えて居た時、抜き身の剣を手にした男から「主の軍の将軍である」という励ましの言葉をいただくほどに慎重でした。しかし、今回は目に見える所に惑わされたのです。それ以上に、神様のみ声を聞くという一番大切なことを忘れていたのです。大きな勝利の後、祝福の後が大切です。私たちは、日々神様と交わり、神様の言葉に触れて、神様のみ声を聞く者でありたいと思います。祝福された後こそ、主に聞くことを忘れてはならないのです。
⒉神様から目を離さない
4節、5節では、イスラエルがアイに打ち負かされ、民の心は挫(くじ)け、水のようになったことが記されています。勝利を確信していたイスラエルの人々は意気消沈したのです。ヨシュアは衣服を裂き、長老と共に主の箱の前に静まりました。何故、イスラエルは負けたのでしょうか。傲慢だった。主に聞かなかった。その通りでしょう。しかし、一番問題なのは、罪があるのに罪の処理、罪の解決がされていなかったからです。戦いに負けたのは、イスラエルが弱かったからではありません。イスラエルの罪ゆえに、主が共におられなかったからではないでしょうか。それは、神様の言葉、命令を破ったこと、罪を犯したことが原因でした。それはただアカン一人の罪でした。アカンの犯した罪を聖書は、イスラエルの人々が不誠実であったと語っています。罪は連動します。罪は強い菌のようにあっという間に広がるのです。旧約聖書では、一人の罪を問うのではなく、その民族そのものを問うのです。
7節から9節までは、アイの戦いで勝利できなかったことを神様に嘆いています。つぶやいています。そして、周りの国々が自分たちを皆殺しにすると申し立て、何をして下さるのですか、と神様に向かってつぶやき続けるのです。「問題は神様、あなたです。」と詰め寄るのです。イスラエルの人々が出エジプトして、水がない、パンがない、肉がない、とつぶやいたことと同じことです。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。」 これは本当にヨシュアの言葉でしょうか。しかし、ヨシュアが主に語った言葉でした。
信仰者も神様が見えなくなると、びっくりするようなことを語ります。ヨシュアは神様から、「モーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ。」と直接お言葉をいただき、ヨルダン川を渡る時も、主が水をせき止められる光景を見、エリコの戦いにも、奇妙と思える主の言葉に忠実に従って大勝利を経験しながらも、アイの戦いに敗れると、荒野でつぶやいて滅んだイスラエルの民と全く同じことを口にしているのです。神様から目を離すとこうなります。大勝利が与えられながらも信仰を生かすことができませんでした。イエス様のすぐそばでいつもイエス様のお言葉を聞き、主の奇蹟的なみ業を見ていた弟子たちは、信仰を生かすことができないで、イエス様によく叱られました。
ヨシュアは主からお言葉をいただきながらも不信仰になりました。一度主からお言葉をいただいたかからそれで終りではいけないのです。日々、み言葉をいただくのです。毎日、主が何を語って下さるのか、主に聞く習慣、ディボーションを忠実に実践したいと思うのです。湖の上を歩いていたペトロはイエス様から目を離しておぼれかけました。私たちもイエス様から目を話すと不信仰の渦に沈んでいくのです。そのことを忘れないでいたいと思います。
⒊神の言葉は罪から守る
11節、12節を共に読みましょう。「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽してささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽すべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。」 ヨシュアは、ここでイスラエルがアイに破れた理由を知りました。もっと早く、アイと戦う前に、エリコの戦いの時のように、慎重であったら、主に聞いていたら状況は変わっていたのかも知れません。事が大きくても小さくても主に信頼することを忘れないようにしたいと思います。イエス様は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)
後は読みませんでしたが、神様は氏族ごとに、家族ごとに指摘され、ユダ族、ゼラの氏族、ザブディ家、アカンが指摘を受け、アカンは分捕りものの中から、一枚のシンアルの着物、銀二百シケル、重さ五十シケルの金の延べ板を取ったと告白したのです。21節には、「見て、欲しくなって取りました。」とあります。アカンは、着物や銀や金が欲しくなって取りました。神様が、ヨシュアを通して「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」ということを聞いていたでしょう。しかし、欲しいという誘惑に負けました。着物や金や銀を持っていたでしょう。しかし、なお欲しかったのです。アカンの心は、「戦利品なのだから、少しぐらいもらってもいいだろう。
別に誰にも迷惑をかけない。これぐらいなら、他の誰かもしている。」といろいろな思いがあったでしょう。しかし、これはあくまでもアカンの自分勝手な言い分です。神様の言葉は、「滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」。 アカンと同じように、欲しがった人もいたでしょう。しかし、神様の言葉、命令がブレーキをかけたのです。だから、アカンだけが取っていたのです。
人類最初の罪を犯す前を次のように記しています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。」とあります。 神様はアダムに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」と命令されました。エバも知っていたでしょう。けれども、蛇に惑わされました。他の木よりも善悪を知る木に興味を持ちました。蛇が無理やり食べさせたのではありません。その思いに、心に、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなる」ということを強め、神様の言葉を破ったのです。
私たちも罪を犯すときは、同じような状況だと思うのです。 ヨハネは、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(Ⅰヨハネ2:16)と言いました。アカンは神様のご命令、言葉よりも自分の欲を優先して、家族もろともアコルの谷で滅びました。アカンとは、災いをもたらす、という意味があるようです。アコルとはアカンと同じ意味があるようです。アカンは自分の罪によってイスラエルに敗北を与え、家族を滅びに招いたのです。
Ⅲ結論部
だから、私たちも、罪を認め、告白しましょう、というメッセージもあります。勿論、そのことは大切です。けれども、私たちはイエス様の十字架に目を留めたいと思うのです。アカンの罪の性質、それは私たちにもあります。罪を犯さない人間はいません。アカンはただ一度を罪の故に滅びました。私たちは何度罪を犯し、神様のお心を痛めていることでしょう。それなのに、なぜ、滅びないのですか。裁かれないのですか。それは、私に代わって、あなたに代わって裁かれた方がおらえるからです。本来ならば、私の犯した罪の故に、あなたの犯した罪の故に、私があなたが裁かれ滅びるはずなのに、神様は罪あるそのままの私たちを愛し、私たちの罪を赦すために、神であるお方、罪のないお方を人としてこの世に送り、私たちが犯した罪の身代わりに十字架にかかり、神様から裁かれ、私たちの身代わりに死んで下さったのです。そのことによって、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦されたのです。
アカンと家族は、アコルの谷で滅びました。聖書は言います。「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。」(ホセア2:17) 罪であったその場所が、望みの門となる。罪ある私がイエス様の十字架を通して罪の赦しを得、望みが与えられるのです。けれども、私たちは罪が赦されるのだから、恵みなのだからと簡単に考えるのではなく、「恐れの心」をもって神様から罪を示していただきたいと思うのです。そこには神であるイエス・キリスト様の尊い血が流されたのです。そこに神様の赦しのみ業があるのです。私たちはイエス様を神様として畏れる、畏敬の念をもって、畏れの心を忘れないでいたいと思うのです。
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネ1:7)
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
私たちは、この週もアコルの谷、苦悩、災いをもたらす場所を望みの門として下さる神様に目を留め、イエス様の流された血により全ての罪が赦されること、罪を言い表す者に赦しを与えるお方を「畏れの心で」見上げたいと思うのです。そのためにも日々み言葉に触れ、主の声に従いましょう。