江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

8月31日 礼拝メッセージ

2008-08-31 13:44:44 | Weblog
主日礼拝式(三位一体後第十六主日)    2008.8.31
「恐れの心で」 ヨシュア記7:1-13

 Ⅰ導入部
おはようございます。8月の最後の主日を迎えました。今日も愛する兄姉とともに礼拝を守ることができますことを感謝します。
28日、29日と長野県にあります聖山高原チャペルを見学してきました。みどりのキリスト教会の所有するキャンプ施設です。自然の中にあるすばらしい施設でした。礼拝堂、体育館、教室、宿泊施設、食堂とキャンプに適した場所でした。外は自然がいっぱいで、子どもたちにはアスレチックがあり、家の子どもたちも喜んでいました。テニスコートやグランド、冬はスキーもできるようです。
 施設側の方々はセミナーよりもキャンプ場ですと言っておられ、これから秋、冬、春に向けて施設の活用を検討していくようです。山の上ですので音楽はいくら音を出しても大丈夫ですから、音楽のキャンプやセミナーがいいと思います。また自然が豊かですから黙想のための集まりができるように思います。青葉台教会から5時間ほどかかりますので、なかなか使うのには勇気がいりますが、自然は最高ですので、何かの集まりに使用できればと思いました。また、機会があればご参加下さい。皆さんのお祈りに感謝致します。
 今日のテキストはヨシュア記7章1節から13節で、「恐れの心で」という題でお話したいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈主に聞く習慣
先週は、6章を通して神様の言葉に従ってエリコの町を攻略しました。エリコの周りを6日間1日1週、7日目には7週回るというだけでエリコに勝利しました。イスラエルの人々は難攻不落なエリコを陥れて意気揚々となっていたことでしょう。イスラエルには、「敗北」という文字はないとまで自信を持ったことでしょう。けれども、そのような勝利の喜びの裏には大変な事があったのです。イスラエルの中ではただ一人アカンだけが知っていること、神様の命令「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物庫に納めよ。」(ヨシュア6:18-19)を破り、罪を犯したのです。
7章1節を共に読みましょう。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽してささげるべきことに対して不忠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽してささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤っておられた。」
イスラエルの人々は、エリコの勝利に酔っていました。しかし、神様は憤っておられたのです。勝利は間違いのないことですが、そこに罪がありました。罪のある所には主はおられなかったのです。だから2節以下の事が起こります。
2節、3節を読みましょう。「ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、「上って行って、あの土地を探れ」と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、ヨシュアのもとに帰って来て言った。「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。ニ、三千人が行けばいいでしょう。取るには足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」」 イスラエルの人々は、あの難攻不落の町エリコに勝利して自分たちに自信を持ったことでしょう。しかし、エリコの勝利は神様です。神様の言葉に忠実に従ったからです。その事が全くイスラエルの人々、そしてヨシュアの内にないというのが残念です。それほどに、エリコの城壁が頑丈であった事、エリコに勝利するということが人間的に見てすごいことだったのでしょう。しかし、忘れてはならないことは、神様の勝利だということです。私たちも信仰生活の中で、家庭生活や社会生活の中で神様の大きな恵みや祝福の数々を経験します。それをあたかも自分ひとりで得たかのように、このイスラエルの人々のように思ってしまうことがないでしょうか。これは最も危険なことです。傲慢につながります。このことから守られる方法はディボーションです。日々、変わらずに聖書を読み、神様の前に静まる。神様に与えられた恵みや祝福を感謝することができるのだと思います。イスラエルの人々の心、ヨシュアの心には、アイという町がエリコに比べて小さいこと、戦う人数が少ないということが、傲慢にさせたのかも知れません。「前より簡単だ。楽勝だ。」 ヨシュアはエリコの戦いの前には、主からの約束の言葉をいただき、割礼を施し、過越しの祭りを行い、なお一人エリコの戦いを考えて居た時、抜き身の剣を手にした男から「主の軍の将軍である」という励ましの言葉をいただくほどに慎重でした。しかし、今回は目に見える所に惑わされたのです。それ以上に、神様のみ声を聞くという一番大切なことを忘れていたのです。大きな勝利の後、祝福の後が大切です。私たちは、日々神様と交わり、神様の言葉に触れて、神様のみ声を聞く者でありたいと思います。祝福された後こそ、主に聞くことを忘れてはならないのです。

⒉神様から目を離さない
4節、5節では、イスラエルがアイに打ち負かされ、民の心は挫(くじ)け、水のようになったことが記されています。勝利を確信していたイスラエルの人々は意気消沈したのです。ヨシュアは衣服を裂き、長老と共に主の箱の前に静まりました。何故、イスラエルは負けたのでしょうか。傲慢だった。主に聞かなかった。その通りでしょう。しかし、一番問題なのは、罪があるのに罪の処理、罪の解決がされていなかったからです。戦いに負けたのは、イスラエルが弱かったからではありません。イスラエルの罪ゆえに、主が共におられなかったからではないでしょうか。それは、神様の言葉、命令を破ったこと、罪を犯したことが原因でした。それはただアカン一人の罪でした。アカンの犯した罪を聖書は、イスラエルの人々が不誠実であったと語っています。罪は連動します。罪は強い菌のようにあっという間に広がるのです。旧約聖書では、一人の罪を問うのではなく、その民族そのものを問うのです。
 7節から9節までは、アイの戦いで勝利できなかったことを神様に嘆いています。つぶやいています。そして、周りの国々が自分たちを皆殺しにすると申し立て、何をして下さるのですか、と神様に向かってつぶやき続けるのです。「問題は神様、あなたです。」と詰め寄るのです。イスラエルの人々が出エジプトして、水がない、パンがない、肉がない、とつぶやいたことと同じことです。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。」 これは本当にヨシュアの言葉でしょうか。しかし、ヨシュアが主に語った言葉でした。
 信仰者も神様が見えなくなると、びっくりするようなことを語ります。ヨシュアは神様から、「モーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ。」と直接お言葉をいただき、ヨルダン川を渡る時も、主が水をせき止められる光景を見、エリコの戦いにも、奇妙と思える主の言葉に忠実に従って大勝利を経験しながらも、アイの戦いに敗れると、荒野でつぶやいて滅んだイスラエルの民と全く同じことを口にしているのです。神様から目を離すとこうなります。大勝利が与えられながらも信仰を生かすことができませんでした。イエス様のすぐそばでいつもイエス様のお言葉を聞き、主の奇蹟的なみ業を見ていた弟子たちは、信仰を生かすことができないで、イエス様によく叱られました。
 ヨシュアは主からお言葉をいただきながらも不信仰になりました。一度主からお言葉をいただいたかからそれで終りではいけないのです。日々、み言葉をいただくのです。毎日、主が何を語って下さるのか、主に聞く習慣、ディボーションを忠実に実践したいと思うのです。湖の上を歩いていたペトロはイエス様から目を離しておぼれかけました。私たちもイエス様から目を話すと不信仰の渦に沈んでいくのです。そのことを忘れないでいたいと思います。

⒊神の言葉は罪から守る
11節、12節を共に読みましょう。「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽してささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽すべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。」 ヨシュアは、ここでイスラエルがアイに破れた理由を知りました。もっと早く、アイと戦う前に、エリコの戦いの時のように、慎重であったら、主に聞いていたら状況は変わっていたのかも知れません。事が大きくても小さくても主に信頼することを忘れないようにしたいと思います。イエス様は言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)
後は読みませんでしたが、神様は氏族ごとに、家族ごとに指摘され、ユダ族、ゼラの氏族、ザブディ家、アカンが指摘を受け、アカンは分捕りものの中から、一枚のシンアルの着物、銀二百シケル、重さ五十シケルの金の延べ板を取ったと告白したのです。21節には、「見て、欲しくなって取りました。」とあります。アカンは、着物や銀や金が欲しくなって取りました。神様が、ヨシュアを通して「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」ということを聞いていたでしょう。しかし、欲しいという誘惑に負けました。着物や金や銀を持っていたでしょう。しかし、なお欲しかったのです。アカンの心は、「戦利品なのだから、少しぐらいもらってもいいだろう。
別に誰にも迷惑をかけない。これぐらいなら、他の誰かもしている。」といろいろな思いがあったでしょう。しかし、これはあくまでもアカンの自分勝手な言い分です。神様の言葉は、「滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないに気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」。 アカンと同じように、欲しがった人もいたでしょう。しかし、神様の言葉、命令がブレーキをかけたのです。だから、アカンだけが取っていたのです。
人類最初の罪を犯す前を次のように記しています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。」とあります。 神様はアダムに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」と命令されました。エバも知っていたでしょう。けれども、蛇に惑わされました。他の木よりも善悪を知る木に興味を持ちました。蛇が無理やり食べさせたのではありません。その思いに、心に、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなる」ということを強め、神様の言葉を破ったのです。
私たちも罪を犯すときは、同じような状況だと思うのです。 ヨハネは、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(Ⅰヨハネ2:16)と言いました。アカンは神様のご命令、言葉よりも自分の欲を優先して、家族もろともアコルの谷で滅びました。アカンとは、災いをもたらす、という意味があるようです。アコルとはアカンと同じ意味があるようです。アカンは自分の罪によってイスラエルに敗北を与え、家族を滅びに招いたのです。

Ⅲ結論部
だから、私たちも、罪を認め、告白しましょう、というメッセージもあります。勿論、そのことは大切です。けれども、私たちはイエス様の十字架に目を留めたいと思うのです。アカンの罪の性質、それは私たちにもあります。罪を犯さない人間はいません。アカンはただ一度を罪の故に滅びました。私たちは何度罪を犯し、神様のお心を痛めていることでしょう。それなのに、なぜ、滅びないのですか。裁かれないのですか。それは、私に代わって、あなたに代わって裁かれた方がおらえるからです。本来ならば、私の犯した罪の故に、あなたの犯した罪の故に、私があなたが裁かれ滅びるはずなのに、神様は罪あるそのままの私たちを愛し、私たちの罪を赦すために、神であるお方、罪のないお方を人としてこの世に送り、私たちが犯した罪の身代わりに十字架にかかり、神様から裁かれ、私たちの身代わりに死んで下さったのです。そのことによって、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦されたのです。
アカンと家族は、アコルの谷で滅びました。聖書は言います。「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。」(ホセア2:17) 罪であったその場所が、望みの門となる。罪ある私がイエス様の十字架を通して罪の赦しを得、望みが与えられるのです。けれども、私たちは罪が赦されるのだから、恵みなのだからと簡単に考えるのではなく、「恐れの心」をもって神様から罪を示していただきたいと思うのです。そこには神であるイエス・キリスト様の尊い血が流されたのです。そこに神様の赦しのみ業があるのです。私たちはイエス様を神様として畏れる、畏敬の念をもって、畏れの心を忘れないでいたいと思うのです。
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネ1:7)
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

私たちは、この週もアコルの谷、苦悩、災いをもたらす場所を望みの門として下さる神様に目を留め、イエス様の流された血により全ての罪が赦されること、罪を言い表す者に赦しを与えるお方を「畏れの心で」見上げたいと思うのです。そのためにも日々み言葉に触れ、主の声に従いましょう。
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8月24日 礼拝メッセージ

2008-08-24 16:39:06 | Weblog
           主日礼拝式(三位一体後第十五主日)    2008.8.24
             「それだけでいいの」 ヨシュア記6:1-21

 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第四主日を迎えました。随分と涼しくなり秋の気配を感じるようになりました。先週は後藤献一先生が素晴らしいメッセージを語って下さいました。2回のメッセージ、私も聞かせていただいてとても教えられました。また、機会があればぜひ来ていただきたいと思います。私は先週、神戸の教会に出席しました。小さな教会ですが、私たち夫婦と同じ母教会の姉妹が牧師夫人として働いている教会です。奈良西和教会の頃を思い出しました。
 大きな声では言えないのですが、実は、本当は私はここにはいなかったのです。もしかしたら、私の葬儀が行われていたのかも知れません。夏期休暇をいただいて、日本海へ行ったのですが、海水浴中、亀の浮き輪が流されて、私はそれを取りに行ったのですが、普段から運動不足で体力がありませんので、一生懸命に泳いで体力の限界、息ができないし、心臓がもうパクパク、一瞬死を予感しました。多くのパパたちが、子供が流されたり、浮き輪が流されたりして、子供を助けに行ったり、浮き輪をとりに行ってパパたちが亡くなっているニュースを聞きますが、これなんだと感じました。岸から随分離れていて、浮き輪を取るのを諦めましたが、岸までどうやって帰るか。そこで、自分に言い聞かせました。「落ち着いて!」「神様は助けて下さい。」そうして、岸に向かって泳ぎました。足ひれをつけていましたので、背泳ぎで岸に向かい、何とか岸にたどり着いた時は、もう一歩も動けなくて何十分か、そのままでした。「生きている。生かされている」ということを実感しました。神様が守り助けて下さった。「神様ありがとうございます。」とただ感謝の祈りをささげました。
 よく考えると、おぼれそうになった時間は、朝の祈り会の時間でした。青葉台教会で祈り会があり、祈っていて下さったのだと思います。教会のお一人おひとりも祈って下さっていたのだと思います。後藤献一先生は、礼拝の祈りでも牧師家族が安全で守られるように祈って下さっていたことを知りました。神様は祈りに答えて、助け出して下さったのです。まだ使命があるのだということも強く感じました。今日こうして、皆さんの前でみ言葉を語ることが出来るということは何と幸いなことでしょうか。
 後藤献一先生は、第二礼拝の最後で、宣教師の先生の答え、パーハップストディということで3つのことを言われました。①もしかして、今日自分が最後かも知れない。②もしかして、今日自分の家族、愛する者が最後かも知れない。③もしかして、今日再臨のイエス・キリストが来られるかも知れない。 特に①の今日自分は最後かも知れない、という思いが強く与えられ、生かされていることの喜び、恵みを思いました。私は、イエス様を知っているということ、イエス様を信じていることの素晴らしさを改めて思わされた夏の休みでした。皆さんのお祈りに心から感謝致します。
 今日私たちに与えられました聖書は、ヨシュア記6章1節から21節を通して、「それだけでいいの」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈ただ従うのみ
 1節を共に読みましょう。「エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。」 5章の最後で、エリコとの戦いを考えていたヨシュアに抜き身の剣を持った人が立ち、「主の軍の将軍として来た」と語り、主が先頭に立ち戦って下さると約束して下さいました。その約束を信じてヨシュアは戦うわけですが、現実は、エリコの城門は堅く閉ざされたままでした。「城門を開けるためにはどうしたらいいのか。どんな策があるのか。」神様はヨシュアには何も示されていません。そのヨシュアに神様は言われるのです。2節から4節を共に読みましょう。「そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七週し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。」神様は、エリコとその王と勇士を渡すと言われました。手に渡すはヘブライ語では、完了形で書かれてあるので、「あなたの手に渡した」と、神様の側ではエリコはすでにヨシュアの手に渡してあると言うのです。何のしるしも兆候もなしに「渡した」と勝利の宣言をされたのです。そして、エリコを渡したという宣言をされた神様のエリコ攻略の方法と言えば、「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七日目には何週し」というものでした。エリコをヨシュアの手にすでに渡した、と言われるのに、エリコの周りを六日間、一日一周、七日目には七週周るだけという命令でした。そんなことでエリコを陥れることができるのか。そんなことをしていていいのか。何故、エリコの周りを回らなければならないのか。いろいろと疑問がわいてくるように思います。エリコの周りを回るだけでエリコの町が攻略できるとは思えないような神様のご命令だったのです。これは心理作戦だ、と考えることができるかも知れません。エリコの住民はラハブからイスラエルのことを恐れていると聞いて、エリコの周りを六日間、一日一周、七日目には七週周るというのはエリコの住民にはさらに恐怖なのではないか。これは心理作戦なのですね、と言いたいような気もしますが、心理作戦ではありません。
 私たちは自分なりに、問題解決のためにこの方法だとか、こういうやり方だと決め付けることがあります。重い皮膚病になったスリヤのナアマン将軍は、自分の病気の癒しのためにエリシャが出て来て、患部に触れて祈り癒してくれるものと思っていたが、エリシャは使いに、「ヨルダン川へ行き、七度身を洗いなさい。」という命令を与えただけでした。自分の思いと神様との思いには違いがあります。
大切なのは、自分の思い通り、願いどおりに気持ちよく、スムーズに行くことではありません。自分の考えを貫くことでもありません。思いもよらない神様の導きにただ忠実に従うことなのです。ナアマン将軍も、神の言葉に忠実に従った時、完全に癒しを体験したのです。

 ⒉従う者にこそ
 ヨシュアは、神様のこの理解しがたい命令に忠実に従うのです。大真面目にイスラエルの人々は実行したのです。 8節を共に読みましょう。「ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。」武装兵がその後に続き、鬨(とき)の声をあげよと命じるまで言葉を発しないようにと命令されたのです。
 ヨシュアも祭司も、武装兵たちも疑問があったでしょう。何でこんなことをするのだろう。攻撃ではなく、ただの行進ではないか。無駄なことではないのか。やっても仕方のないことをしているのではないか。意味がわからない。いろいろな思いや考えがイスラエルの人々の心にあったのだと思うのです。しかし、神様の命令に従いました。11節を共に読みましょう。「彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過した。」
 ここではエリコの民とイスラエルの民とのお話ですが、第三者がいてこの光景を見ていたらどうでしょうか。イスラエルはエリコを攻めるために、エリコの周りを回っているだけです。それだけです。それで、エリコに勝利できると思っているのでしょうか。バカげたことです。指導者のヨシュアは何を考えているのでしょう。批判が集中するでしょう。第三者から見れば愚かなことだったのです。第三者は賛成できない内容でした。エリコの回りを周るイスラエルの人々も理解できないのに、第三者が理解できるはずがありません。 私たちは自分が人から愚かに見えたり、変に見えたりすることを嫌います。避けます。できるだけ人に賢く見えたい。綺麗に見えたい。良く見えたいと思うものです。けれども、神様に従うとは人に喜ばれることとは全く違うことなのです。先週、後藤献一先生がメッセージの中で強調されていたのが、この世の言うことと、聖書が言うこととは違う。反対の事だ、と語っておられました。結婚についてわかりやすく話しておられたのが印象的でした。私たちはクリスチャンとしてかっこよく生きたいと思います。信仰者としてスムーズに人生を生きたいと思います。そういう場合もあります。信仰ゆえに祝福がいっぱいあります。けれども、信仰を持っていても、クリスチャンとして多くの苦労があります。問題があります。ドタバタがあります。けれども、大切なことは、私たちがスマートに生きようが、ドタバタに生きようが問題ではありません。神様の言葉に忠実かどうかなのです。神様の言葉が理解できたから従うのでもありません。神様のご命令に納得できたから従うのでもありません。神様の考えと自分の考えが同じだから従うのでもないのです。神様の導きが唐突でも、理解できなくても、納得できなくても、自分の考えと正反対でも、常識を超えていようとも、神様が語られることに忠実に従うことなのです。
 イエス様の弟子のペテロは、夜通し働いた後、イエス様が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われた時、「なんで今。どうして」と思いました。だから、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」とイエス様の言葉が理解できませんでしたが,イエス様のお言葉どおりに従ったのです。そして、驚くような大漁を経験したのでした。 カギはただ従うことなのです。それだけなのです。

 ⒊神様の計画にまず耳を傾ける
 七人の祭司が神の箱を先導しました。三人でも五人でも先導すればいいんじゃない。雄羊の角笛でなく他の笛でもいいんじゃない。鳴ったらいいんでしょう。エリコを周るのなら、どのような順番でも、何もしないのだから話をしながらでも回るということには変わらないからいいでしょう。神様の言葉に忠実に従うとは、語られたとおりの順番で、方法で従うということなのです。
 イスラエルの人々は、神様の語られた通りに、エリコの周りを六日間、一日一周、七日目には七週周り、神様が鬨の声をあげよという命令に声をあげると、城壁は崩れ落ち、その場からエリコの町に侵入し、町を占領したのです。エリコ攻略の方法は人間が考え出せる方法ではありませんでした。ヨシュアがモーセに従って戦った時には、思いもよらないような方法でした。私たちは自分の経験や知識に頼ることも大切です。けれども、自分の経験や知識に捉われると神様の示される導きに従うことができません。私たちは、神様の言葉、その内容が理解できないようなものでも、納得できないようなものでも、素直に聞き従う素直さや柔軟さを持ちたいと思うのです。ヨシュアはモーセに従った40年の間に、いろいろな経験もあったでしょう。ある程度の自信もあったでしょう。けれども、今回のようなびっくりするような方法にも、直ぐに、忠実に従うことの出来る素直さ、柔軟さがあったのだと思うのです。
 エリコの町は難攻不落な城でした。人間の策略や攻撃では崩されないものでした。けれども、主は忠実に従う民の行動を通して、エリコの城壁を崩されたのです。忠実に従う民と全能の力を持たれる神様との共同作業だったのです。
私たちの人生や信仰生活の前にも、大きな壁、難攻不落、克服不可能と見える出来事に遭遇します。自分の力で、お金や何かで対抗しようとする限り、それは無理なのです。神様の計画に耳を傾けることです。それがディボーションではないでしょうか。神様は思いがけないヒントを与え、脱出の道を示し、驚くべき祝福をすでに与えていて下さるのです。与えたと言われるのです。そのお言葉を信じて従うことが、私たちのすべきことではないでしょうか。
 イエス・キリスト様の十字架、それこそ神様の考えられた救いの道でした。人間の罪を赦し、魂に救いを与える道、神の子が人の身代わりに十字架につくという方法、人間が考えもつかない方法で救いを与えて下さったのです。
 そんなことで救われるのですか。努力はしなくていいのですか。がんばらなくていいのですか。イエス様の十字架を通して与えられる救いの道は、「それだけでいいの」というような単純なことなのです。そうなのです。努力はいりません。がんばらなくてもいいのです。ただ、あなたの罪のために十字架にかかって下さったイエス様を信じるだけなのです。神様の約束はそれだけなのです。

 Ⅲ結論部
 七人の祭司が角笛を携えて神の箱を先導しエリコの町を回るという行動は、攻撃のための行動ではなく、礼拝でした。神様を礼拝すること、それこそがどのような状況の中にあっても、私たちを神様に目を留めさせるものだと思うのです。私たちは、どのような時にも神様を礼拝することを優先していきたいと思うのです。
 伝道者パウロは、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」と語りました。宣教の愚かさを恥じているということはないでしょうか。私たちがイエス・
キリスト様のお言葉に従って生きるということは、いつの時代にも愚かに見えるかも知れません。けれども、私たちはその愚かに見えることを恥じてはならないのです。イエス・キリスト様の身代わりの十字架の愛を知ることは、信じることは素晴らしいことなのですから。
 救われるということは、イエス・キリスト様の十字架を自分の罪の身代わりに死んで下さったと受け入れる、信じることです。「それだけでいいの」と言われることです。けれども、それが神様があなたを救う唯一の道なのです。
 神様は、私たちが大きな事をしなければならない。頑張らなければならないと思う時に、「それだけでいいの」と思われるようなことを示されることがあります。ヨシュアのエリコ攻略のためにすることもそうでした。そして、そんなことするだけでいいはずがない、と従わないことはないでしょうか。
それは神様の恵みと祝福を失ってしまうように思うのです。大切なことはただ一つ、それがどのようなことであれ、神様のお言葉に従うことなのです。従うことが祝福につながるのです。
 この週も聖書の言葉、神の言葉に触れて、神様に従った歩みをさせていただこうではありませんか。
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8月10日 礼拝メッセージ(来週はありません)

2008-08-10 13:08:27 | Weblog
           主日礼拝式(三位一体後第十三主日)    2008.8.10
            「敵か味方か」 ヨシュア記5:13-15

 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第二主日を迎えました。8月6日は広島の原爆、9日は長崎の原爆の平和記念式典が持たれました。広島市長も長崎市長も核の廃止を強く訴えました。二度と起こしてはならない戦争、悲惨な出来事、私たちは二度の原爆の悲劇を体験した国として、平和を祈る者とさせていただきたいと思います。
 月報の巻頭言にも書きましたが、暦の上では秋のようです。つくつくぼうしが鳴くと夏の終りを感じていました。もうつくつくぼうしが鳴いていますが、暦の上では秋で、もう秋の予感をつくつくぼうしは感じているのでしょうか。まだまだ熱い日が続くようですので、お体にはお気をつけ下さい。
 金曜日は北京オリンピックの開会式があり、昨日から競技が始まっています。開会式の中国のいろいろな出し物と言っていいのでしょうか、素晴らしいものでした。オリンピックにふさわしい中国らしい歓迎振りであったと思います。17日間ですか、日本の選手に応援を送りたいと思いますし、各国の選手に声援を送りたいと思います。
 先週から旧約聖書のヨシュア記を開きました。今日は、ヨシュア記5章13節から15節を通して、「敵か味方か」という題でお話お話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈戦いの前にすべきこと
 1章においてこれからヨルダン川を渡り主が約束された地にはいるためにリーダーとして立てられたヨシュアに、主が「強く雄々しくあれ」と三度も語って下さり、共におられることを示されました。2章においてはエリコを探り、エリコの住民はイスラエルを恐れていることを知ります。        
 3章では、神様の約束の通りに契約の箱を担いだ祭司たちが、堤(つつみ)を超えていたヨルダン川に足を水際に浸すと川上から流れていた水が壁のように立ち、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることが出来たのです。川の水が枯れてから渡るということは、難しいことではありません。けれども、堤を越えんばかりに満ちていた水がある状況で、神様の言葉を信じて足を水際に入れるということは大変難しいことです。しかし、信仰とはそういうことではないでしょうか。聞いたみ言葉に従うことなのです。4章では、ヨルダン川を渡ることができたことを記念して12の石を立てたこと、そして、主によってヨシュアが大いなる者とされたことが記されています。
 5章では、神様がイスラエルの民に割礼を受けさせたことと、過越し祭を祝ったことが記されているのです。5章1節には、「ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちと、沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸(か)らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫(くじ)け、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はいなかった。」とあります。 ヨルダン川を渡ったということが神様の業であること、この神様がついているイスラエルに勝てるはずがないと思っている時がチャンスでした。すぐに攻めれば、戦意喪失しているアモリ人やカナン人に簡単に勝てるのではないでしょうか。今がチャンスだと誰もが考えたでしょう。けれども、神様はこのような時に割礼を命じられたのです。何故でしょうか。
 荒野でつぶやいた人々は割礼を受けていましたが、滅び40年経ち、新しい世代のイスラエルとの間には神様との契約関係が回復していなかったのです。割礼は、創世記で神様がアブラハムとの契約のために命令されたものでした。罪深い自分になお臨んで契約を結んで下さる主に、心から献身するしるしです。神様は新しい世代との契約回復のために割礼を命令されました。イスラエルの民は過越し祭を祝いました。過越しのいけにえを食べることができるのは、イスラエル人でも在留異国人であっても割礼を受けた者に限られていました(出エジプト12:48-49)。過越しの祭りは、エジプトを出た翌年に祝って以来、恐らく一度も祝っていなかったのではないでしょうか(民数記9:1-5)。過越しの祭りは、主の憐れみと力強い御手によって、主がイスラエルの家々を過ぎこされ、滅びから救われたことを記念して行われるものです。もう一度、ここで神様の恵みと憐れみを思い起こしたのだと思うのです。主に信頼することを第一としたのではないでしょうか。
 戦うには、勝つにはチャンスだったかも知れません。しかし、それ以上に神様との関係が大切なのです。あなたは、神様との関係を第一としていますか。目の前に祝福があっても神様との関係を第一にして、勢いで進むのではなくて、神様の言葉に従って歩みたいと思うのです。

 ⒉どこを見るべきなのか
 ヨシュアは、神様がヨルダン川を渡らせて下さったこと、割礼を受け神様との新しい契約関係が結ばれたこと、過越しの祭りを通して神様の恵みに目を留めて、神様に信頼することを思わされたのです。しかし、これからエリコを攻撃するためには、リーダーとしてどうすべきなのか。どんな策があるのか。どう戦っていけばいいのかといろいろと悩んでいたのだと思います。ですから、目の前にあるエリコの城壁は大きいものでした。神様が共にいて下さることもわかる。「強く雄々しくあれ」と語って下さり勇気もでる。しかし、目の前の敵は現実に大きなもので、その前には恐れ、不安、心配がヨシュアを襲っていたのだと思うのです。
 13節を共に読みましょう。「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、」 エリコの城壁を見ながらいろいろと考えていたら、一人の男がいた。抜き身の剣を手にして。ヨシュアが最初に聞いたのは、「あなたは味方か、それとも敵か」ということでした。エリコとの戦いのことで頭がいっぱいだったヨシュア、「味方か敵か」それが知りたかったのです。
 私たちの人生も敵か味方か、そのように感じる時があるでしょう。いろいろなグループの中で、自分と同じ意見や気が合う人を味方、そうでない人を敵と考えることがあるのかも知れません。受験生では、同じ学校を目指す人は自分以外は全員敵でしょう。今、北京ではオリンピックが行われていますが、スポーツの世界でもレギュラーを取るか、取られるかで、自分以外は敵となるのかも知れません。自分を応援してくれるか人、逆にそうでない人かは重要なことでしょう。もしかしたら、残念なことですが、教会の中でも、そのような敵か味方かなんていう関係があるのかも知れないのです。ヨシュアにとっては、味方か敵かは重要なことでした。
 14節を共に読みましょう。「彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、」
「味方か敵か」という質問に、「いや。わたしは主の軍の将軍である。」というのです。神様は私たちが「味方か敵か」、「白か黒か」という質問に、第三の答えを用意しておられます。ヨシュアにとっては、「味方か敵か」どちらなのか、という内容に、「主の軍の将軍」、これだけでわかったのです。味方です。けれども、味方ですではなく、主の軍の将軍、まさにヨシュアを守り、支え、導いてくれるお方なのです。天使ではありません。主の軍の将軍、最高司令官、神様の軍の中で最高のお方なのです。ある注解書には受肉前のイエス・キリストと思われると記されていました。最も頼れるお方、これ以上に信頼できるお方はいないというお方がヨシュアの目の前におられたのです。
 神様はこれからの戦いに心配しているヨシュアに、主の軍の将軍に出会わせ、何も心配することはない。「強く雄々しくあれ」と示しておられるのです。そして、ヨシュアは主のお言葉には何でも従うという決心をするのです。

 ⒊あなたの立つところは聖なる所
 15節を共に読みましょう。「「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。」  ヨシュアは、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と指示を待ちました。  ヨシュアはエリコ攻略のために、どのような支持があるのかと期待したのかも知れません。けれども、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ということでした。これは、モーセがミデアンの地で、燃え尽きない柴を見に来た時に、主がモーセに語られた言葉と同じでした。神様はモーセにこう語られました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
 ヨシュアは自分が立っている場所、そこが聖なる所だとはわかりませんでした。「聖なるもの」とは、神様によって、神様のために他のものと区別して取り分けられたものを指し、それ故に、聖別されたもの、聖なるものとされるのです。この言葉が、場所や時、物や人に適用される時、それらのものは、聖なるものと見なされるのです。 ヨシュアは恐れ、不安、心配の上に立っていました。しかし、そこを聖なる所と主は言われたのです。ヨシュアはもう一度そこが神様の臨在の場所であることを認める必要があったのです。その時、もう一度主が共におられるということを確認し、主にある戦いを戦うことができるのではないでしょうか。
 今皆さんはどのような所に立たされているでしょうか。問題の連続、不幸の連続という所に立っているでしょうか。思いがけない出来事が起こり、困難や悲しみの上に立っているでしょうか。それぞれにいろいろな課題や問題がある。痛みや悲しみがある。苦しみや困難があるという場所に立っておられるのかも知れません。しかし、神様はその場所を聖なる所である、と言われるのです。足から靴を脱ぐとは、その場所に自分で立つのではなく、神様に全てを委ねて信頼することだと思います。ヨシュアは今までは、自分で自分の足で立っていた。自分の思い、自分の考え、自分の方法でやろうとしていたけれども、神様に委ねる、全てをお任せするという所に立ったのだと思うのです。
 私たちは今立っている所を聖なる所、神様の支配なさる所として認め、足から靴を脱ぐことが私たちのすべきことであって、自分で何とか解決しようとか、いろいろな方法を考え出す、自分の力や考えで切り開いていくことではないのです。
あなたは今置かれている場所が、神様がみこころをとめておられる所として認めていますか。あなたの周りが冷たいとか、悪いことがあるということが問題なのではありません。あなたに課せられていることが難しいことであるかどうかが問題なのでもありません。ただ、そこが、困難の場所が、痛みの場所が、問題の場所が聖なる地であるとして、足から履物を脱ぐかどうかが最も大切なことなのです。神様にお任せしたら大丈夫です。全てを神様にお任せしようではありませんか。

 Ⅲ結論部
 敵か味方か、ということは大事なことでしょう。しかし、敵か味方か、という時、自分と相手しか見ていません。味方か敵かというヨシュアの質問に、神様は自分でもなく相手でもなく主を見るようにと、「主の軍の将軍」と神様を見るようにと示されたのです。抜き身の剣とは、今すぐにでも戦えるということです。私ではない。あなたでもない。私を愛し、十字架にかかるほどに私たちを愛されたイエス様が戦って下さるのです。主の軍の将軍が現れたのは、これからの戦いは、ヨシュアが先頭に立って戦うのではなく、主ご自身が先頭に立って民と共に戦うという主の戦いなのです。私たちが必要とするのは、単なる味方ではなく、主の軍の将軍、イエス・キリスト様ご自身なのです。十字架の上で尊い血を流して下さったお方なのです。イスラエルは主に従ってエリコを攻め取るのです。私たちも、心にイエス様を迎え入れて、主の戦いを勝ち抜き人生に勝利することができるのです。
 新約聖書では、剣はみ言葉の剣だと言います。パウロは言いました。「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」 私たちは、この週も、霊の剣である神の言葉、聖書を通して神様の導きの中で、置かれたその場所を聖なる場所として、神様に信頼して歩んでまいりましょう。
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8月3日 礼拝メッセージ

2008-08-03 17:12:47 | Weblog
          平和主日礼拝式(三位一体後第十二主日)    2008.8.3
           「強く雄々しくあれ」 ヨシュア記1:1-18

 Ⅰ導入部
 おはようございます。毎日暑い日が続いておりますがお元気でしょうか。8月の第一主日礼拝を迎えました。今日は平和聖日礼拝として守っています。8月は特に平和を思う月です。戦争の悲惨さを経験してきた日本です。今年も教会学校では戦争の体験談を聞く時が持たれます。戦争の出来事、その苦しみ、私たちは戦争という悲惨な出来事を繰り返さないためにも、戦争を忘れないように戦争によっていろいろな困難を経験された方々のお話しを子どもたちに伝えたいと願っています。
 また、私たちは平和を思う時、イエス・キリスト様を通しての平和に目を留めたいと思います。国と国との争い、民族と民族の争い、愛する者同士の争い、いろいろな争いがあります。その争いに解決を与えて下さるのはイエス様の十字架の愛です。今日もその十字架の愛に目を留めて、真の平和というものを見させていただきたいと思います。
 昨年の8月は出エジプト記を通してモーセについてお話ししました。今年の8月はヨシュア記を通してお話したいと思います。今日はヨシュア記1章1節から18節を通して、「強く雄々しくあれ」という題でお話したいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈指導者ヨシュア
 1節の最初に、「主の僕モーセの死後」とあります。モーセという人物は神様に選ばれた偉大な人物でした。エジプトで苦しんでいるイスラエルの人々をエジプトから脱出させるために指導者として用いられました。また、荒野の40年の間、モーセはイスラエルの人々を導いてきたのです。モーセは、民が水を求めた時、神様が岩に命じて水を出すようにと言われた言葉に従わず、岩を打って水を出したことからモーセは、約束の地カナンを見るだけでその地に入ることはできなかったのです。モーセの死によって、新しい進展が始まるのです。約束の地カナンへの侵入と征服のために立てられたのがヨシュアでした。このヨシュアは、モーセの従者、ヌンの子ヨシュアと紹介されているように、モーセの従者として出エジプトの初めから彼は活躍してきたのです。ヨシュアは、モーセの祈りによってカナン征服のためのリーダーとして任命されました。ヨシュアは選挙によって選ばれたのではなく、神様によってモーセの後継者として任命された指導者でした。
 カナンを12人が偵察した時、10人はその地の悪い情報を流し、イスラエルの民の心に不安を与え、民は泣き、指導者を立ててエジプトへ帰ろうと言い出した時、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、偵察した土地の素晴らしさと神様が導いて下さるという信仰を表しました。このことからイスラエルはカナンを偵察した日数、40日の1日を1年として40年荒野をさ迷うことになり、20歳以上の者は約束の地に入ることができないことが語られました。そして、偵察して悪い情報を流した10人は死にました。しかし、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブだけは生き残ることになるのです。ヨシュアはモーセの従者として40年の間、イスラエルの民のつぶやきをモーセと共に聞いてきたのです。そして、その時モーセがどのように対処してきたかをモーセの側で見てきたのです。モーセ自身もヨシュアがカナン征服のリーダーとして立てられていることを知ってからは、ヨシュアを訓練してきたことでしょう。けれども、多くの人々の上に立つリーダーの困難や試練をヨシュアは見てきたのです。そして、自分の先生であるモーセが死んだということでヨシュアの心には不安や恐れがあったことだと思います。
 今までは指導者モーセに従うことがヨシュアの働きでした。モーセの言うとおりにヨシュアは一生懸命に仕えてきました。しかし、これからは自分が指導者としてイスラエルの民を導いていくのです。新しいスタートをきる時に神様はヨシュアに言われるのです。2節を共に読みましょう。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」 神様はモーセが死んだので注意せよ、とは言わないで「行け」と言われました。モーセは指導者として働いてきましたが、これはモーセ自身の働きではなく、主ご自身に従った奉仕であったということを示していると思います。私たちも、一人ひとりが主の働きのために召されているということを覚えたいと思います。

 ⒉共におられる神
 5節を共に読みましょう。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。」カナンの土地はヨシュアの能力によって勝ち取る所ではありません。また、イスラエルの戦力によって自分たちのものとすることのできる土地でもありません。そこは、神様の約束された土地だからできるのです。3節にある、「モーセに告げたとおりに、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」の「与える」という言葉は、完了形で書かれており、神様の中ではすでに占領が完成しているという言葉なのです。神様の約束は必ず実現するのです。モーセに告げられた神様の言葉は全て成就してきました。そのモーセと共にいたように、ヨシュアと共にいて下さる、というなんと慰めに満ちた言葉、勇気の出る言葉でしょうか。 モーセがなしたあの偉業、出エジプトや荒野での導きというものは、モーセの指導力やモーセの信仰によるものではありませんでした。ただ、神様がモーセと共におられ、モーセの行くところに道を備えて下さったのです。モーセはただ、神様の言われる言葉に忠実に従っただけなのです。神様が共におられるということが祝福なのです。
 イエス様の誕生でヨセフに知らされた言葉は、「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23) インマヌエルの神、共におられる神なのです。 士師記には、サムソンの話しが出てきます。彼はナジル人として神様に聖別され、髪の毛を切ることをしませんでした。けれども、デリラという女性に、その力の秘密を打ち明け、髪の毛をそられた時、いつものように力を出そうとしたけれども、もう力がでませんでした。聖書にはこう書いてあります。「彼の力は抜けた。・・・主が彼を離れ去られたことに気づいていなかった。」(士師記16:19-20)神様が共にいるということが祝福であると思います。
 神様は、これからヨルダン川を渡り、カナンの地に行けと命令されるだけではなく、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。」と励ましの言葉をかけて下さったのです。7節では、律法を忠実に守り行うことによって成功と祝福を約束しておられるのです。神様の言葉に従うのは、神様を信じる者の生き方です。いやいや従うのではなく、神様の言葉を喜んで受け、従うことによって神様の祝福と恵みを経験することができるのです。私たちもディボーションによって、聖書の言葉、神様の言葉に従うことを喜びとし、忠実に従い、実行することによって、神様の約束の祝福をいただきたいと思うのです。

 ⒊神の約束があるから強く雄々しくあれ
 神様は5節から9節の間で、3回「強く雄々しくあれ」とヨシュアに命令しています。これからカナンの地に入り、土地を征服していくためには「強く雄々しくある」ことが求められるからだと思うのです。「強く雄々しくあれ」という言葉は、かつてモーセがヨシュアに語った言葉でした。「モーセはそれからヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」」(申命記31:7-8) 
 神様はかつてモーセを通して語られた言葉を3度も語られました。「強く雄々しくあれ」という言葉をヨシュアが聞く時、モーセの告別の説教、最後の言葉として頭に、心に残っていた言葉だと思います。モーセを通して「強く雄々しくあれ」と励まされた言葉を神様は、カナン侵入の直前に、その同じ言葉「強く雄々しくあれ」と三度も語られたのです。強く雄々しくあるということが今のヨシュアにはどうしても必要だったのです。そして、強く雄々しくあることの根拠は、自分が強いとか、しっかりしている、信仰がある、兵が整っているということではなくて、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。」と言われる神様の約束の言葉なのです。
 9節を共に読みましょう。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる。」 主が共にいることが何よりも素晴らしいことなのです。そのことを確認したいと思うのです。
 17、18節を共に読みましょう。「我々はモーセに従ったように、あなたに従います。どうか、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように。いかなる命令であっても、あなたの口から出る言葉に背いて、従わない者は死に定められねばなりません。どうぞ、強く、雄々しくあってください。」イスラエルの民はモーセに従ったように、ヨシュアに従うことを告白し、神様が言われたように、モーセと共におられたように、ヨシュアと共におられること、そして、強く雄々しくあってほしいと願います。ヨシュアの言葉を神様の導きと信じて従うという決意なのです。
 ヨシュアは、指導者として一歩を踏み出すにあたって、神様の励ましと民全体の同意は心強く大きな励ましだったと思うのです。ヨシュアも民も主が共におられること、そして主が共におられるから強く雄々しくあることができるということを確認したのだと思うのです。

 Ⅲ結論部
 神様はモーセから指導者を引き継いだヨシュアに、モーセの励ましの言葉を思い出させ、ご自身もその言葉で励まして下さいました。カナン征服の成功は、主が共におられるということの確信と主の言葉に忠実に従うということでした。イエス様も弟子たちに、励ましの言葉を与えられました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
 私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり死んで下さったイエス様は今も、聖書を通して私たちに語りかけて下さるのです。ヨシュアを励まされたように、弟子たちを励まされたように、聖書の言葉、神の言葉を通して、私たち一人ひとりに、「強く雄々しくあるように」「主が共におられる」ということを語って下さるのです。どんな最悪な状況を経験しても、マイナスがどんなに多くても、イエス様は共におられるのです。そして、私たちを支えて下さるのです。この世がどんなに悪に染まろうとも、イエス様は私たちに、「強く雄々しくあれ」と語られるのです。私たちは、神様の言葉を聞き、その言葉に従うために、日々聖書に触れて、共におられる神様を信じ、祝福を約束しておられる神様を信じ抜こうではありませんか。モーセと共におられた神様は、ヨシュアと共におられると約束して下さいました。そして、ヨシュアと共におられた神様は、わたしと、そしてあなたと共におられる神様なのです。そして、「強く雄々しくあれ」、この言葉は、主のご命令なのです。私が強いのではない、主が強いのです。共におられる主を信じて、この週も歩んでまいりましょう。
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