江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2013年12月29日)

2013-12-29 14:04:06 | Weblog

年末感謝礼拝(降誕後第一)     2013.12.29

やられたらやり返す恩(恵み)返しだ」 ルカ18:21~35

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第五日曜日を迎えました。今日は2013年の最後の礼拝、年末感謝礼拝を皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝します。

冬休みになり、故郷に帰省されたり、旅行されたりしておられる方々もおられるでしょう。今日は、その土地での教会で礼拝を守られたり、ユーストリームでの礼拝を守っておられる方々がおられるでしょう。場所は違っていても、同じイエス様を礼拝することができることは本当に幸いだと思います。

先週は、クリスマス礼拝、洗礼式、愛餐会、子どもクリスマス、キャンドルライトサービスがあり、み子イエス様の誕生を多くの方々と共に祝う事ができました本当に感謝でした。

先週の日曜日、22日の夜8時10分に、愛する梶原眞兄が天に召されました。79年と11カ月22日の生涯でした。私はキャンドルライトサービスで、前の方にいたのですが、聖歌隊の席には、梶原陽子姉、修兄、真理姉、点火の奉仕に結姉、そして真人君と輝君も会場にいました。なんと眞兄と同居していた家族全員がキャンドルライトサービスに出席しておられました。メッセージの原稿にはなかったのですが、その事をお話ししました。家族のものが召され、木曜に感謝と讃美の会(前夜式にかわるもの)、金曜日には告別式をひかえているのに、家族全員がキャンドルライトサービスに参加するということは普通ではありません。しかし、クリスチャンは、その普通でないことができる。復活の望み、永遠の命の確信があるからです。眞兄は、神様のみもとにあるとの安心が家族にそうさせたのであり、また、眞兄自身がそのことを望んでいたであろうと思うのです。

しかし、愛する者の別離は、たとえ復活の望みがあっても悲しいものです。辛いものです。どうか、ご家族の上に、神様の慰めと励ましがありますようにお祈り下さい。

私たちは、このようにして一年の最後の日曜日を礼拝をもって終えることができますことを感謝します。来年、2014年も毎週の礼拝を大切に守り続けたいと思うのです。

今年最後のメッセージは、マタイによる福音書18章21節から35節を通して、「やられたらやり返す恩(恵)返しだ」という題でお話ししたいと思います。

 

Ⅱ本論部

一、何をしてもしなくても愛されている

私たちは、この1年誰もが神様から平等に時間が与えられました。1年365日を私たちは歩んできました。この1年間、誰もが後悔するできごとや問題があったでしょう。「あんなことするんじゃなかった。」とか、逆に、「ああしておけばよかった。」とか、やったらやったで後悔し、やらなかったら、やらなかったで後悔する。結局、何をやったとしても、何もやらなったとしても後悔の連続が私たちの歩みでもあるように思うのです。

梶原眞兄は、アルツハイマーが発病して約20年、ケアホームに入所して約10年でありました。その間、梶原陽子姉を初め、ご家族の方々は、心を尽くして、眞兄を介護し、愛し、仕えて来られました。それは、大変な労力であり、心労もあったでしょう。自分の自由な時間もなかなか持てない。そんな20年間でありました。周りから見ていると、そこまでやるか。そんなにもと思います。けれども、陽子姉やご家族は、もっとああしてあげればよかった。こうもしてあげればよかったと後悔する部分があるのかも知れない。でも、絶対そんなことはない。陽子姉も家族もよくやった。眞兄は誰よりもそのことを理解し、感謝しておられたのに違いないので、後悔したりしないでほしいと思います。

私たちもそうです。親として、子どもとして、夫や妻というそれぞれの立場で、家族の者を愛し、仕え、家族のために働く。けれども、もっと何かできないか。あしてばよかったなどと後悔する。落ち込むということのないようにと思うのです。教会でも、もっと奉仕をしたらよかっとか、聖書をもっと読んでいたらとかあるかも知れません。

皆さんは、それぞれにこの1年、あるいは今まで、よくやられたのです。よくがんばったのです。そのことを後悔するのではなく、神様が支え守って下さったことを覚えて感謝したいと思うのです。

また、今日の聖書の個所にあるように、私たちは誰かを許したり、許さなかったということでいやな思いを心に持つということがあるように思います。

私たちは、言葉で過ちを犯します。また、行動でも過ちを犯します。聖書は語ります。

「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」(ヤコブ3:2) 私たちは、完璧な人間ではありません。クリスチャンになったからと言って、過ちはおかさなくなるのではありません。クリスチャンでも、度々過ちは犯すのです。失敗があるのです。許せる時もあれば、許せない時もあるのです。

私たちは、神様を信じてクリスチャンになったのに、人を許せない自分を許せないということはありませんか。人を許せないことで自分を責めることはありませんか。それは別に悪くはないかも知れませんが、許せない自分を責めて、信仰も落ち込んでしまうということがよくあるように思うのです。覚えて下さいね。人を許せない私をイエス様は赦し、受け入れて下さるのです。

 

二、どこまでも自己中心

今日の聖書の箇所には、1万タラントン借金している家来がいます。ある注解書には、1タラントンは、25万円なので、1万タラントンは、25億円となるのですが、とてつもない多額の借金です。払えずはずがない。無理という金額です。返済できない家来に、持ち物、妻や子を売ってでも返済するようにと命じられた。家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」しきりに願いました。本当に返せるのでしょうか。

27節を共に読みましょう。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」 リビングバイブルでは30億円とありますが、それを全部帳消しにしてもらったのです。何と幸いなことでしょう。めでたしめでたしで、ハッピーエンドではありません。続きがあります。

多額の借金を帳消しにしてもらった家来はうれしかったでしょう。彼は王にどんなに感謝しても感謝しきれない。そんな思いで胸がいっぱいだったでしょう。家来が家に帰る途中でしょうか。自分に百デナリオン(100万円)の借金をしている仲間に出会いました。

先ほど、莫大な借金を帳消しにしてもらったので、彼はその仲間の借金を帳消しにしてやりました。めでたしめでたしとはいかないで、仲間の首を絞め、借金を返すように命令したのです。仲間は、先ほど、この家来がしたように、ひれ伏して、「どうか待ってくれ、返すから」としきりに頼んだのです。

30節を共に読みましょう。「しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」 31節には、家来の仲間たちが、事の次第を見ていて、非常に心を痛めたとあります。何故、心を痛めたのかと言うと、先ほど王の前で、仲間の家来が立場が逆で、王の前に、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」としきりに願った、あの光景を知っているからです。そして、彼は25億円という借金を許してもらったという事実を知っていて、当然、百デナリオンを貸している仲間の借金を許してあげるものを思っていたので、そうしなかったゆえに心を痛めたのです。

彼らは、その事を王に報告しました。王は怒ります。32節と33節を読みましょう。

「そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

「やられたらやり返せ」と王は言ったのです。憐れみを受けたのだから憐れみで返すのです。結局、せっかく帳消しにされた25億円を返すまで、この家来は牢役人に引き渡されたのです。

 25億円の借金を帳消しにされた家来は、自分が許されたように、100デナリオンを貸した相手を許してあげるべきでしたが、それが出来なかったのです。それゆえに、王からお叱りを受け、帳消しが帳消しになってしまいました。

 

 三、許せない私が許されるという現実

35節を共に読みましょう。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 聖書に、このように記されているので、私たちは許しあいましょう。というメッセージでしょう。けれども、そう言われても、そう命令されても私たちは、自己中心ですから、許せないどころか、憎んでしまう。そんな私たちだと思うのです。

旧約の時代、目には目だけという律法がありました。イエス様は、その目には目を引用しながら、言われました。「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」」(マタイ5:38~39) 目には目とは、目をやられたら目だけだよと言うことです。私たちは、目をやられたら、今度目と鼻をやるのです。すると相手は、目と鼻と耳をやるというように、目だけでは終わらないのが私たちです。だから、目には目と旧約の律法で言うのです。しかし、イエス様は、右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい、と言われました。イエス様はさらに進んでこう言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44) 敵を憎めと言われているけれども、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というのが、イエス様の教えでした。

私たちは、自分を愛し相手を憎むような者ですが、そんな私たちを愛して、私たちの身代わりに十字架について死んで下さったのがイエス・キリスト様です。私たちには、愛がないので。神様は、イエス様の十字架を通して愛を示して下さったのです。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」とありますが、「許しましょう」と言われても、許せないのが私たちです。だからこそ、イエス様が、人を許せない私たちに代わって十字架で身代わりに死んで下さったのです。このように私たちは、イエス様の十字架を知りながらも、やはり人を許せない者ですが、そんな者をそのままで愛して下さるのがイエス様なのです。

この1年間、神様の十字架を愛をいただきながらも、許すことが素晴しいことだと知りながらも、許せない私を、責めることなく、見捨てることなく、愛して下さるのです。

最初、ペトロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と。日本では3度ですね。「仏の顔も三度まで」と言いますから、キリスト教はさらに上だと言うことでしょうか。イエス様は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われました。7かける70で490回までは言いと言うのではありません。7は完全数ですから、7かける70ですから、どこまでも赦し続けるということでしょう。そして、このたとえを話されたのです。

 

 Ⅲ結論部

 今日は、先週のクリスマス礼拝で洗礼を受けることができませんでした清水鐡雄さんが洗礼を受けられます。中学生の頃、目黒ナザレン教会に友だちに誘われて行かれましたが、いつの間にか行かなくなりましたが、友人の死によりいろいろ考えさせられておられた頃、青葉台駅で、青葉台ナザレン教会という名前を目にして、ナザレン教会が青葉台にもあることを知り、昨年の12月に青葉台教会に来られました。そして、あの懐かしい目黒ナザレン教会と同じような雰囲気に安心されたそうです。そして、礼拝を守り続け、聖書の言葉と神様に触れ続け、自分の心の中に罪があることを知り、その罪を認め、自分の罪の身代わりにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じて救われました。

クリスチャンになったからと言って、私たちはイエス様のようになれるのではありません。あの家来のように、許しを体験しながらも、許せない者です。だからこそ、イエス様の十字架の愛が必要なのです。許せない自分を嘆くのではなくて、許せない自分をそのままで愛し続けて下さるイエス様の愛に目を留め、その恵みに立ち続けたいと思うのです。

目には目を、歯には歯と律法は語ります。けれども、私たちは、この1年の間、神様だけではなく、多くの恵みを人からもいただきました。ですから、やられたらやり返すのです。恩返しをするのです。恵みを倍返しするのです。そのことの実践は、イエス様がこのたとえ話で王の言葉として言われたように、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」というのが原点だと思います。

神様に憐れまれた。命を投げ出すほどに私を愛された。そこにいつも立ち続けることだと思うのです。そこに立ち続ける時、やられたらやり返す恩(恵み)返しの行動につながるのだと思うのです。

この1年間の全てのことに神様に感謝しましょう。そして、2014年の新しい年も、共におられ、憐れみと恵みを注いで下さるイエス様と共に歩んでまいりましょう。

大丈夫。私はあなたと共にいる。何も心配要らない。私があなたを愛し、あなたを支える。そう語られるイエス様の愛と恵み、憐れみと癒しに立ち続けたいと思うのです。

 

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日曜礼拝(2013年12月22日)

2013-12-22 15:26:59 | Weblog

クリスマス特別礼拝        2013.12.22

眠れる家畜小屋のイエス」 ルカ2:8~20

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます。12月の第四日曜日、クリスマス特別礼拝の日を迎えました。アドベントクランツのろうそくに4本火がともりました。

 クリスマスのシーズンには、いろいろな場所におでかけになることでしょう。各駅前では、大きなクリスマスツリーが飾られ、きれいなクリスマス装飾がなされており、クリスマスの雰囲気を大いにもりあげています。金曜日の訪問の帰りに、美しが丘公園の横を通りましたが、巨大なクリスマスツリーが飾られており、すごいな~と思いました。

 教会に帰りますと、飾りや電飾はあるのですが、とても質素で教会らしいと言えば教会らしいのですが、ちょっとさみしい感じもしました。クリスマスと言えば、教会です。全国の日本の教会は、おそらく質素で、あまり目立たなくて、一歩下がった、クリスマスの装飾です。勿論、経済的な事が大きいと思いますし、プロテスタント教会は、聖書のみ、信仰のみ、恩寵(恵み)のみですから、質素な方がプロテスタント教会なのです。しかし、クリスマスは教会こそが本家本元です。この世と同じようにする必要はありませんが、本当のクリスマスを知らない人々が、クリスマスのマス、お祭りを大いに強調しているのですが、私たちはクリスマスのクリス、つまりキリスト、救い主をお祝いするのですから、大いにクリスマスの意義を語ると同時に、見える部分においても、この世に向かって大きく証しすべきだと思うのです。

 中身が大事です。そう思います。けれども、中身に到達するまでの外側もとても大事です。この世は、外側を大事にします。この世が外側を大事にするのなら、私たちも外側、見える部分を大切にして、さらなる祝福である中身、イエス・キリスト様の救いを提供したいと思うのです。イエス様を知らせるために外側も強調するのです。

 人生には、急いですべきことと、べつに急がなくてもよいことがあると思います。イエス様は、マタイによる福音書で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と言われました。その前に、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6:31)と言われました。中心が定まらなくては、どうして周辺、周りが築けるのでしょうか。ゴールがわからないで、どうして順路が決められるのでしょうか。急いですべきことは、私たちに与えられた人生の真の目的を見いだすことだと思います。目的もわからず、定まらないで、ただ急ぐ労苦は、いいことが一つもない人生となります。

私たちの人生の目的は、私たちを愛しておられる神様、イエス様を見いだすことです。人は、この神様を、自分の造り主を見いだしてこそ、はじめて、神の国と神の義が何であるかが見えてきて、その人生に無駄な迷いがなくなるのだと思うのです。

 今日、登場する羊飼いたちは、急いで行って、確かな救い主、イエス様を見いだしたのです。私たちも、私の人生に急いでこの救い主キリスト様を見いだす事に、急ぎ、集中し、時も財も使いたいと思うのです。それこそが、私たちの本当の幸せになるのですから。

 今日は、ルカによる福音書2章8節から20節を通して、「眠れる家畜小屋のイエス」と題してお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、

 先週は、全世界の救い主イエス様の誕生は、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」という、意味のある神様のお・も・て・な・しであることを見させていただきました。救い主の誕生を知るのは、神様とヨセフとマリア、とそこにいた家畜だけでした。

その喜びの知らせが真っ先に届いたのは、8節にあるように、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」、羊飼いたちの所に、救い主の誕生の知らせが真っ先に届いたのでした。

 私たちは、人生の中で良き知らせを経験します。誕生日は、私の生まれ、あなたの生まれですから、とても良い知らせです。facebookでは、登録されている方々の誕生日には、必ず誕生日の招待が来ます。ですから、誰がいつ誕生日なのかがわかります。ですから、誕生日おめでとう、と送るわけです。最近では、もうめんどくさくなって送らなくなってしまいました。誰かに送って、誰かに送らないでいると、「先生は誰誰に送っているのに、私に送ってくれない」というような事が起きます。そんなことは気にしないでいいのですが、それよりも、ただその都度送るのがめんどうというのが真の理由です。誕生日は良き知らせです。結婚も出産もそうでしょう。入試の合格や就職の決まったという報告も良き知らせです。その良き知らせを、一番に誰に知らせるか、きっと皆さんは、一番心配してくれている、最も愛していてくれる家族だと思います。

 私は、子どもたちが生まれた時は、やはり私と家内の両親にまず報告しました。それは、最も関係のある、大切な存在だからでしょう。

 全世界の救い主誕生の知らせは、本来ならば、関係から言えば、当時の宗教界のお偉いさんたち、祭司長や律法学者たちと伝えられるべきでした。預言書には、救い主の事が預言されており、その預言書をもっとも勉強していた彼らであったからです。しかし、その知らせは彼らのところではありませんでした。また、ユダヤ人の王と言うのですから、その関係から見れば、時のイスラエルの王様や国を支配し、国を動かす人々に、まず伝えられるべきだったでしょう。けれども、彼らにも伝えられなかったのです。

 聖書は、羊飼いたちにまず、救い主の誕生の知らせが告げられた事を記しています。祭司長や律法学者たちから見れば、宗教的に見るならば、最も救い主とは縁のない、程遠い存在である彼らだったのです。聖書も読めない。定まった祈りも出来ない。当然、神殿での礼拝や祈りも守れない。宗教的に見るならば、不信仰な、ダメな、どうしようも救いようのない存在だった彼らにこそ、救い主の誕生は知らされたのです。

 国の支配者が側から見るならば、貧しくて取るに足りない、為政者たちには覚えてもらえない、社会的な弱者、いてもいなくてもその存在すら、わからない羊飼いに、救い主の誕生は、誰よりも先に告げられたのです。これが神様のおこころでした。

 このクリスマスの時期、お祝いムードで、自分には全く関係ないと思っておられる方々がおられるかも知れません。そのクリスマスという華やかな雰囲気に、どうしてもなじめない、同じ思いにはなれない辛い経験や苦しみを胸に抱えておられる方々もおられるでしょう。また、救いとか神とか、まったく関係ない所で生きていると感じている方々もおられるでしょう。もし、自分が誰よりも、このクリスマスや教会や救い主といった事柄の対極、反対側にいると感じておられるなら、自分にはクリスマスは全く関係がないと感じておられるならば、そのあなたにこそ、救い主の誕生が知らされ、語られるべきである事を聖書は、神様は、今日あなたにお語りになるのです。

 

 二、

 神の使い、天使は羊飼いの所に近づき、主の栄光が周りを照らしました。清さとか信仰とかには縁遠い羊飼いに主の栄光が現れました。10節から12節を共に読みましょう。

 「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 「恐れるな」と語りました。今までに、このような神秘的な経験はなかったでしょう。臭い、汚い、きついと言われるような仕事です。誰も好んでする仕事ではないかも知れない。生まれた所が羊飼いの家だったからでしょう。父の仕事を受け継いで羊飼いをしているのでしょう。神の言葉を読み、祈る生活の大切さを学び、知っていても仕事柄、そのような生活はできないでいたのが羊飼いでした。信仰的に見るなら、不信仰、霊的でない、人間的な、自分勝手なと思われていたのだと思うのです。そのような彼らに天使が近づき羊飼いたちに語ったのです。恐れました。驚きました。

恐れるな」がクリスマスのメッセージです。私たちの、この1年間の信仰生活が、いや神を知ってから今までの信仰生活というものが、どんなに惨めで、ふまじめで、不信仰に見えたとしても、「恐れるな」というのが神様のおこころなのです。

 民全体に与えられる大きな喜び、救い主が、メシアなるお方がダビデの町で生まれた。そのように宣言したのです。羊飼いたちも、その救い主の出現を待ち望んでいた事でしょう。自分たちの貧しさや生活の苦しさ、立場の弱さや痛みを顧みて下さる救い主は、彼らの希望でありました。その救い主が今日、生まれた。

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子こそが、救い主のしるしであることを告げられたのです。

 喜びの報告を受けた羊飼いたちは、天の大軍が加わり神を賛美する聖歌隊の賛美を聞きます。「「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 まさに、全世界の救い主誕生の知らせに、まことにふさわしい天使と天の大軍の讃美であったのです。

 全世界の救い主のしるしは、飼い葉桶に眠る乳飲み子でありました。王室に生まれた位の高いお方、羊飼いたちとの天と地の差があるお方ではない。金持ちで位の高い家に生まれ、羊飼いたちが近寄れないお方でもない。普段着ではなくて、スーツやドレスに着替えなければ入る事の出来ない場所で生まれたお方でもない。羊飼いたちが、そのままで、そのままの姿で、そのままの服で、そのままの状態でも安心していく事の出来る場所、そのようなお方であったのです。

 だからこそ、15節にあるように「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、羊飼いたちは話し合い行動することができたのです。

 私たちの救い主は、立場や状況、家柄や地位で近寄れないお方ではない。また、罪深い者、神に一番遠い所にいるという者でさえも、気軽に近づく事のできるお方なのです。ですから、誰でも、そのままで、そのままの姿でお目にかかることのできるお方がイエス・キリスト様なのです。あなたでも勿論、大丈夫なのです。

 

 三、

 16節を皆さんと共に読みましょう。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」 羊飼いたちは、急いででかけました。羊飼いたちが今しなければならないこと、それは羊の世話でもない。食べることでもない。休む事でもない。救い主に出会う事だったのです。

 羊飼いたちは、自分たちの仕事柄、聖書を読むことや祈る事、礼拝を守ること等、ほとんどできませんでした。なぜなら、彼らの仕事は羊を世話することであり、羊は弱い動物なので、いつも一緒にいなければならなかったのです。

 そのような彼らが、羊を置いて、そのままの姿で急いでイエス様を探し、天使の語った通り、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」をみつけ、礼拝したのです。それこそが、全世界の救い主の誕生の報告を受けた者のなすべきことでした。

 全世界の救い主は、その力と財力と知識で覆われた場所ではなく、最も貧しい場所で、貧しく。弱い、小さな存在、人からも神様からの助けてもらわなければ生きていけない存在としてお生まれになったのです。

 生まれた瞬間から貧しさと弱さを、惨めさを経験されたイエス・キリスト様は、全人類の罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さり、墓に葬られ、三日目によみがえられたのです。それは、神様からどんなに離れていようと、神様に背を向け続けていようとも、どんな苦しみや悲しみ、痛みや悩みを持っていたとしても、全てを解決して下さることを指し示しているのです。

 イエス・キリスト様には、私たちが人生で経験する罪の問題も、死の問題も、苦しみや悲しみの問題、病気や痛みの問題、この世のいろいろな問題に解決を持ち、私たちを助けて下さるのです。

 だからこそ、今日神様は、「恐れるな」と語られるのです。今日は、第一礼拝の後に、洗礼式があります。秋山弘子さんが洗礼を受けられます。もう一人、清水鐡雄さんが洗礼を受けられる予定でしたが、今海外に出張中ですので、来週の礼拝において洗礼を受けられることになっています。

 秋山弘子さんは、御家族の中で痛みがあり、大変なご苦労と厳しい道を歩んで来られました。そのような中で、青葉台教会の教会員の方と知り合われ、青葉台教会に導かれました。礼拝に出席され、そのお話しはあまりおわかりにならなかったようですが、礼拝に出席することで心に平安が与えられていたようです。そのような中で、自分も罪人であることを認め、その罪の身代わりにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じて罪の赦しと魂の救い、永遠の命の信仰が与えられました。

 秋山弘子さんは、イエス・キリスト様を信じて救われたからといって、全ての問題が解決したわけではありません。以前からの重荷や痛みは継続中です。けれども、今までは、そのような痛みや苦しみを人のせいにしていたのですが、今は、苦しみや困難にも意味があり、背後に神様がおられて最善に導いて下さると信じることができ、感謝が与えられ、神様に問題も苦しみをお委ねしながら歩んでおられるのです。

 私たちは、イエス様を救い主として信じたからと言って、全ての事が解決し、問題がなくなってハッピーと言うわけではありません。問題もあり、苦しみもあり、また困難もあります。しかし、確かなことはイエス・キリスト様の十字架と復活により、私たちの犯した過去、現在、未来の全ての罪が赦され、魂に救いが与えられ、イエス様と同じ復活の望み、永遠の命が与えられていることなのです。

 

 Ⅲ結論部

 20節を共に読みましょう。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

 天使たちの言った通り、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に出会い、神をあがめ、讃美して帰途についたのです。

 羊飼いたちは、イエス様に出会って喜びに満たされました。けれども、やはり羊飼いは羊飼いとして、相変わらず礼拝も守れない。神の言葉も読めない。そのような経験でした。

彼らは、イエス様にであって、礼拝を守られるようになりました。聖書も読めます。静かに祈れます、というような生活の変化があったわけではない。けれども、自分たちのために生まれて下さった救い主が、自分たちと同じような、貧しさや弱さ、惨めさや小ささを経験しておられる姿を見て、わたしのことをわかって下さるお方、知って下さるお方として、日々の仕事や生活の中に、恐れないで、心配しないで、救い主を信じる歩みができたのだと思うのです。羊飼いたちは、人生に確かなメシア、救い主を見つけたので、中心が定まりました。だからこそ、羊飼いとして、何の迷いも、悔いも、徒労もなく、喜んで神様と共に人生を送ったことでしょう。

 今日、あなたもイエス・キリスト様、救い主誕生の日の羊飼いたちのように、何をさておき、まず、イエス様を探す事に急いで下さい。救い主を探すのはいつですか。「今でしょ」

 この1年、いろいろな苦しみや悲しみがあったでしょう。生涯の中で一番苦しい時を経験されたかもしれない。どうしてこんな苦しみに出会うのか。なぜ、そんな出来事が起こるのか。誰にもわかりません。でも、ただひとつ言えることは、今日あなたがこの礼拝に出席し、青葉台教会の江上牧師から話を聞いていること、今日こうしてここにあなたがいることが神様の大きな愛なのです。あなたは神様に、救い主に出会うために生まれたのです。そして、今日こそが、救い主に出会い、新しい人生の始まりとなるのです。

 大丈夫、私はあなたと共にいる。何も心配いらない。恐れるな、と神様は私たちに語りかけておられます。このお方と共にこの週も歩んでまいりましょう。もうあなたは、すでに救い主に出会っておられるのです。救い主を見つけたのですから、喜びながら帰ってまいりましょう。

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日曜礼拝(2013年12月15日)

2013-12-15 13:11:35 | Weblog

アドベント第三日曜礼拝        2013.12.15

神様のおもてなし」 ルカ2:1~7

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月第三日曜日を迎えました。今日も、愛する皆さんと共に神様を礼拝する恵みのひとときが与えられ感謝します。

 アドベントクランツにろうそくが3本火がともりました。来週は、いよいよクリスマス礼拝です。イエス様のご降誕を心からお祝いしたいと思います。

 日本では、12月になると、早い所は11月から、キリスト教国かと思われるほどに、華やかなクリスマス色に染まります。あちらこちらで流れるクリスマスソング、電飾の飾りやクリスマスの飾り、店頭に立つ忙しそうなサンタクロースなど、日本の国の人々のキリスト教への寛容さと親近感には、驚かされます。

 クリスマスのマスというのは、ラテン語で祭りの意味で、クリスマスは、キリストの祭り、キリストを祝うという意味があります。

 けれども、日本ではクリスマスのマス、祭り、祝いだけを取り入れて、肝心なキリストは戸の外に締め出したままでのクリスマスとなっています。

 今日の聖書の箇所にあるように、イエス様には泊まる場所がなかった。外ではなかったけれども、締め出されたのです。イエス様の生涯は誕生から十字架に至るまで、ある意味では、今日に至るまで締め出されたお方だと言えるのかも知れません。

 もしかしたら、忙しいという理由で、自己中心とゆえに、この世の事で心いっぱいのゆえに、クリスチャンの心からもイエス様は締め出されているのかも知れません。

 ヨハネの黙示録3章20節には、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」という聖書の言葉があります。

 締め出されたイエス様は、この日本の国、日本の魂の心の戸を叩き続けておられるのです。そして、あなたの心の戸をも叩いておられるのです。この言葉にあるように、イエスの声を聞いて、心を開くならばイエス様はあなたの心に入って下さるのです。

 今日は、ルカによる福音書2章1節から7節を通して、「神様のおもてなし」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、ベツレヘムでの誕生は神様のおこころ

 神様は、御自身の思いを天使ガブリエルを通して、ヨセフとマリアに語りました。そして、二人は神様の驚くべき言葉、びっくりするような言葉に恐れ、戸惑いながらも、「恐れるな」という言葉に励まされ神様の言葉を信じて神様のみこころを進むのです。

 2章の1節には、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」とあります。そのころとは、ヨセフは神様の言葉と預言の言葉のゆえに、マリアを妻として迎え、マリアは示されたエリサベトの妊娠を確認して、ヨセフと共に恐れながらも、神様を信じて歩んでいた頃です。時の皇帝アウグストゥスが人口調査のために、住民登録をするようにと命令を出しました。この命令が出なければ、二人ともナザレの町を出ることはありませんでした。そうであるなら、イエス様の生まれた場所は、ナザレとなり旧約聖書に預言されていた場所とは異なることになります。

 ミカという預言者は預言して語りました。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ5:1)と。

 ベツレヘムという場所は、アブラハム、イサク、ヤコブの、ヤコブの妻ラケルが第二子ベニヤミンを産んですぐに葬られた場所です。また、ルツがナオミに従ってモアブの野から導かれてボアズと結婚して、イエス・キリスト様の系図に名を連ねるようになった地です。ボアズとルツの曾(ひ)孫であるイスラエルの二代目の王ダビデもベツレヘムで生まれ、少年時代には羊飼いとして過ごした場所でした。それ以来、ベツレヘムはダビデの町とも呼ばれた場所でもあります。

 世界の救い主イエス様がベツレヘムに誕生することは、約700年も前に預言されていたのです。この預言のゆえに、ヨセフとマリアはナザレではなく、ベツレヘムにいる必要があったのです。そこで、皇帝アウグストゥスが登場したのでしょう。ヨセフはダビデの家系であり、その血筋であったので住民登録のために、ベツレヘムに行く必要があってナザレからマリアと共にベツレヘムに来たのでした。

 イエス様の誕生が歴史的な事と関係があることをアウグストゥスと人口調査は示しており、ベツレヘムでの預言と誕生は神様のみ業であることがわかるのです。

 私たちの人生においても、偶然だと思うことや突然の出来事があるかも知れません。辛いと思うことやいやな出来事もあるでしょう。しかし、その背後には確かに神様の導きがあることを私たちは信じて、神様のみ業を体験したいと思うのです。

 

 二、見える所に勝る神様の恵み

 ヨセフとマリアの旅は、このように預言の成就でもあり、神様のお心でした。確かに、神様の導きがありました。けれども、二人の旅はナザレからベツレヘムまで、約140キロほどあったようです。妊娠しているマリアを伴う旅は、現代でも大変だと思いますから、この当時としては、思うようには行かない旅、思う以上に、考える以上に大変な旅だったと思います。

 彼らの旅は、神様のご計画の中にありました。神様の導きが確かにありました。しかし、それは楽な旅ではありませんでした。スムーズな旅、思った通りの、自分の考えに沿った旅ではなかったのです。

 私たちの信仰生活も神様の守りがあります。神様の導きがあります。それは確かなことです。でも、神様の守りがあり、神様の助けがあるからと言って、自分の思い通りの信仰生活とは異なった歩みが、そこにはあるのかも知れません。スムーズな信仰生活ではない、険しい道がそこにはあるのかも知れません。しかし、その険しい道、思い通りにいかない信仰生活の中にこそ、神様の思いがあり、神様のお心が確かにあるのです。

 先週の火曜日に、ホームにおられる船越兄姉を訪問させていただきました。なかなか訪問できないでいたのですが、毎週訪問していて下さる柳楽姉から船越兄姉が元気がないので訪問していただきたいとお話があり、柳楽姉、山下姉、梶原陽子姉と共に訪問させていただきました。

 ホームでは、広い場所に多くの方々が椅子に座っておられました。船越兄もおられました。船越姉妹はお風呂に入っておられるということでした。別の場所で姉妹がお風呂を出られるのを待ちました。普段、あまり話されない船越兄といろいろとお話しました。クリスマスの賛美歌を歌いながら、船越姉を待ちました。姉妹が車椅子で来られました。私と目が合った瞬間、姉妹は感激したのでしょうか。涙が溢れていました。聖書を読み、クリスマス賛美を歌い、聖餐式をさせていただきました。長い間、礼拝にもおいでになれなかったお二人と共に、イエス様がご命令になった聖餐の恵みに与ることができました。お二人ともとても喜んで下さいました。

 船越兄姉は、ホームに入るということは自分の思いとは、考えとは違ったでしょう。できるならば、ご自宅で暮らしたかったはずです。けれども、お二人の体のことやいろいろなことを考えた上で、ご家族が判断なさったことだと思います。ホームでは、何もしないでいいのです。船越兄が立ち上がろうとしたら、すぐに職員の方が来られて、「立たないで下さい。車椅子を持ってきますから」と言われ、自分の意志で動くということが制限されてしまいました。おそらく、ホームにおられる方々は、何もしないことを良しとされるのですから、毎日、毎日何もしないで、言い方は悪いですが、ボーッとしているだけのように思います。これでは、今日が何日か何曜日かもわからないし、体も動かさないので、体力も失われていくように思います。

 人生の終わりにこのような状態でいいのかと思います。特にお二人は感じておられるでしょう。そこには神様の守りと導きはないのでしょうか。いや確かにあるのです。神様は、柳楽を毎週、お二人のもとへ導き、お交わりを与えておられます。また、聖餐式を導かれました。神様の恵みが注がれているのです。しかし、現実は、何もしないでいることという辛い道なのかも知れません。しかし、そこにこそイエス様は共におられるのです。

 ヨセフとマリアの困難なたびの中にこそ、確かに神様の守りと導きがあったのです。

 

 三、厳しい現実の中にこそ、神の恵みが確かにある

 二人がベツレヘムについた時には、住民登録をする人々でいっぱいでした。どこのホテルも満員でした。降誕劇の定番で、ヨセフはあちらの宿屋、こちらの宿屋を訪ね歩き、どこの宿屋も満員で泊まることはできない。最後の望みを託して、町外れの小さな宿屋に行ってみても、やはり満員。「ここにはお泊めする場所はありません。けれども、馬小屋なら、家畜小屋でいいならどうぞ。」ということでしょう。ヨセフとマリアは、家畜のいる場所で泊まったのだと思います。

 6節と7節を共に読みましょう。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」 ミカが約700年も前に預言したベツレヘムで、マリアは初めての子、イエス様を産んだのです。預言の成就でした。

 聖書は、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と語ります。神様が全世界の救い主イエス様の誕生に際して、選ばれた場所、その状況は、なんとみじめで貧しく、悪臭と騒がしさに満ちた場所、泊まる場所がなかった。生まれて最初に着せられるものも場所も、救い主にはふさわしくないものでありました。けれども、それこそが、神様のお・も・て・な・しだったのです。

 先週の朝のお祈り会の時、梶原陽子姉がまだお祈り会が終わらない時、先に会堂を山下姉と出られました。入院しておられる梶原真兄の血圧がぐんと下がったので、病院から呼び出しがあり、山下姉が十日市場まで送って行かれたと後でお聞きしました。その後、梶原陽子姉からお電話があり、血圧も随分低下して、もしかしたら今日が山かもしれないと、医師に言われたとのことでしたので、すぐに行きますということで、柳楽姉と山下姉と共に鴨居病院に急ぎました。

 酸素マスクをされていて、すやすやと気持ちよさそうでした。みんなでがやがやとお話して、では聖書を読みますと話したら、目を大きく開けて下さいました。そして、聖書の言葉、詩篇23編を読みました。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」 そして、お祈りさせていただきました。

 梶原真兄は、自分の意志で、自分の言葉ではっきりと表現できません。しかし、その目で、あるいは表情やウーという声で、表わして下さいました。あのまま眠ってスーッと天国に行くのではないかと思いきや、目を開いて、その表情を通して信仰を表わして下さったように感じました。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」と。

 梶原真兄は、今のような状態になられてもう10年ぐらいにはなるでしょう。この10年間、梶原真兄にとっても辛い、大変な道だったでしょう。特に奥様である陽子姉のご苦労、気遣い、その心労は大変なものだったでしょう。また、ご家族も協力し、共に戦ってこられたのです。勿論、教会で篤い祈りがささげられていました。青葉台教会の兄弟姉妹も訪問して下さり、真兄と陽子姉、ご家族を励ましてこられました。祈っても、祈っても現状がよくならない。進展しないということでがっかりされたり、落ち込んだりしたこともあったでしょう。それでもなお、神様に祈り続け、神様に期待して、神様によりすがって来られました。

 陽子姉を初め、ご家族の方々は、真兄を愛し、精一杯のこれ以上できないほどの愛を注ぎ、できる限りのことをされてきました。真兄が弱られてきた時、延命措置はしない。全てを神様の御手におゆだねすることを決断なさいました。家族ですから、一日でも長く生きてほしいと願います。当然です。しかし、こちらの一日でも長く生きてほしいという思いと、戦いの中にある真兄の思いは同じではないかも知れません。真兄も信仰者ですから、全てを神様の御手の中にすでにご自身を置いておられるはずです。

 金曜日に、点滴がはずれて入れなおすという時に、もう点滴もしないで、酸素マスクもしないで、本当に神様の全てをお任せすることにされました。点滴の針で血だらけになり、痛々しい真兄、もうそんな痛々しい、いや痛いでしょう。それをやめて神様におゆだねしました。そこに、現実の厳しさがあります。訪問して、み言葉を読み、全てを神様にお委ねしますとお祈りさせていただきました。

 祈って癒されて元気に信仰生活を送っておられる方々もおられます。けれども。イエス様の十字架と復活を信じる、同じ信仰を持つ者でも、スムーズには行かない。戦いの連続。困難と悲しみの連続を経験するのです。これこそ、イエス様の誕生に見る、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」という道のように思うのです。

 神様の用意されたお・も・て・な・し。それこそが、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」というおもてなしでした。人間的に見て、常識的になんでこのようなと思うような経験をイエス様は誕生と同時に経験され、そして人類の、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死ぬという神であるお方には、もっともふさわしくない場所、それが十字架であり、これこそが、神様が私たちに用意された、お・も・て・な・しだったのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちは、イエス・キリスト様の十字架と復活を信じる者です。そこには、魂の救いと罪の赦し、永遠の命の恵みが確実に与えられているのです。ここにこそ、クリスチャンの喜びと感謝が凝縮しているのです。

 梶原真兄は、人間的な全ての延命装置から離れ、本当に今、一日一日が、一時間一時間が、一瞬一瞬が神様の御手の中にあるのです。神様は、真兄の一瞬一瞬のその歩みに確かに共におられます。この人生の最後の時に、神様の愛と恵みが豊かに注がれ、続けているのです。現実がどんなに不幸に見えても、困難に見えても、私たちの内側にはイエス・キリスト様にある魂の救いと罪の赦し、永遠の命の約束があるのです。これこそ、神様が私たちに与えておられる神様のお・も・て・な・しなのです。

 私たちの今の状況が、歩みがどのように悲惨であろうとも、困難であろうとも、痛みで覆われようとも、希望を見いだせなくても、神様はあなたを愛して、あなたのために、あなたを救う為に、十字架で全てを投げ出して下さったのです。

 今が、どんなに厳しくても、マイナスであろうとも、神様はあなたを愛しておられます。今もなお、あなたのためなら全てをお捨てになって、捨て身であなたを救って下さるのです。この週も、神様が用意しておられるお・も・て・な・しをいただいて、神様の愛を感じたいと思うのです。大丈夫、私はあなたと共にいる。恐れるな、と語られるイエス様と共に、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2013年12月8日)

2013-12-08 12:43:20 | Weblog

アドベント第二日曜礼拝        2013.12.8

男心をのぞいてみませんか」 マタイ1:18~25

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月第二日曜日を迎えました。今日も、愛する皆さんと共に神様を礼拝する恵みのひとときが与えられ感謝します。

 昨日は、恒例の駅前キャロルが行われました。今年は聖歌隊の方々の人数は昨年よりも少なかったのですが、内容はとても素晴らしかったです。買い物で東急に来ていた人々の足を確実に留めていました。良い証になったと思います。45分間の出演のために、飯塚兄を初め、聖歌隊や奏楽の方々が、どれほどの練習と配慮、心使いがあったのかと思うと感謝でいっぱいです。応援のために、参加して見学して下さった方々にも、またその時を覚えて祈って下さった方々にも感謝します。

 昨日、駅前キャロルの前に、家内と共にナザレン藤沢教会のハンドベルのクリスマスコンサートに行ってまいりました。一度行きたいと以前から思っていたのですが、なかなか行けないでおり、思い切って行ってきました。素晴らしい演奏でした。藤沢教会では、ハンドベルのグループがあり、毎年、クリスマスを初め、いろいろなコンサートをされているようです。一杯の人々でした。キャンドルサービスでも演奏されるようです。それぞれの教会が、自分の独自のカラーを生かしたクリスマスの集会が行われています。青葉台教会も、これからいろいろとクリスマスの集会が行われますが、一人でも多くの方々に声をかけて、共にイエス様のご降誕をお祝いしたいと思います。

 今日の説教題は、「男心をのぞいてみませんか」という題です。昨年、膝を痛めて毎週、数箇所の病院を渡り歩いていた時、12月でしたが、ある病院で「男心をのぞいてみませんか」という張り紙を発見しました。その瞬間に、「そうだ。これはまさにヨセフだ!」と感じたのです。そして、1年間温めて今回のヨセフの記事ですので、「男心をのぞいてみませんか」という題でお話しすることにしました。今日は、マタイによる福音書1章18節から25節を通して、ヨセフの心を覗いてみたいと思うのです。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様が共におられるとは

 皆さんと共に23節を共に読みましょう。「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」 マタイが語る救い主は、インマヌエルの神、共におられる神です。マタイの最後の章の最後の節、28章20節には、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とあり、共におられる神、インマヌエルの神を示しています。マタイによる福音書は、インマヌエルの神で始まり、インマヌエルの神で終わるのです。私たちの神様はいつも、いつまでも共におられるお方なのです。

 神様はヨセフと共におられました。けれども、ヨセフは、婚約しているマリアが、妊娠していることを知ることになりました。マリアの宿している子は、聖霊によるものでした。預言者が預言したように、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という神でした。神様が共におられるのに、ヨセフはとても苦しい経験をするのです。

 神様が共におられるということは恵みです。祝福です。けれども、神様が共におられるということは、問題がない。いいことばかりを意味するのではありません。神様が共におられるのに、問題が起こり、困難や苦しみを経験し、悲しみ、嘆くこともあるのです。

自分のあずかり知らない所で、マリアの妊娠が発覚し、婚約者としてのヨセフは、顔に泥を塗られた。メンツが立たない。裏切られた。いろいろな思いがあったでしょう。ヨセフの仕事は、大工でしたから家を建てる仕事につくと2年間も帰らなかったというようなこともあったようです。ですから、マリアの妊娠は、自分の留守の間、そうした状況で起こったとヨセフは考えたのかもしれないのです。

 マリアは14歳か、15歳ぐらいであろうと言われています。では、ヨセフは何歳ぐらいだったのでしょう。マリアに求婚した当時、老齢に近い年齢と言われています。マリアの父の友人というようなことを言われるほど、年齢が高く、10代マリアとは年齢の差がであったのです。最近、そのような結婚が目立ちますが、ヨセフはすでにこの時代から格差婚を実行していました。当時は、そのような結婚が多くあったのかも知れません。

 このように年齢の高いヨセフと若いマリアでありました。ヨセフは、若気の至りでかんしゃくを起こすとか、自分勝手になるというのではなく、それなりの人生経験もあるでしょうから、この事態を深く考えました。聖書は、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と記しています。

 ヨセフは、そのマリアの妊娠という事実の前に、マリアの不貞を思ったことでしょう。それには、自分がマリアをかまってあげられないことや留守がちな状況を理解したのかも知れません。本来ならば、姦淫は石打の刑ですが、ヨセフはマリアを大切に思っていたので、離縁して静かに去らせようと、精一杯の愛情を示そうとするのです。

 

 二、ヨセフの思い、人間の思い

 ヨセフは正しい人でした。真面目な人、律法を忠実に守ろうと努力した人だったでしょう。ヨセフは、若い奥さんをもらえるということで喜んだことでしょう。やっぱり若い方がいいと男性は考えるかも知れません。あまり年齢が離れると話が合わないということもあり、年齢差というものが困難になることもあります。

 ヨセフはある程度の年齢だし、正しい人だし、常識もある。やっぱり罪は罪、罰せられなければならないとも考える。しかし、自分が妻にと決めたマリア、そこには愛情があり、彼女の行く末を考えるとひどいことはできないとも考えるのです。

 辛い時、悲しい時、女性は涙を流す。泣くということができます。けれども、男性はそうは行きません。

 日本では、以前は小さい時から男の子は泣かない。めそめそしないとよく言われて、男の子は我慢をしいられてきたように思います。

 遊園地は、誰もが行きたい場所でしょう。けれども、男性はあまり過激な乗り物は苦手なようです。怖いジェットコスターは、女の子は良く乗りますが、男性はちょっとと遠慮する場合が多いのではないでしょう。

 その理由のひとつは、私が思うのには、女性はジェットコースターで、怖いとキャーキャーと大声を出して、ある意味で発散するわけです。ですから、怖いのだけれども、大声を出して発散するのでいいのですが、男性はキャーキャーと大声を出すわけには行かないのです。男性がキャーキャーと大声を出すのは様にならないのです。

 男性は、プライドがあるので、そんなくだらない乗り物は乗らないと大口をたたくのです。怖いくせに、怖いと言えないのです。男性には、そのようなところがあるように思うのです。

 ヨセフは、ある程度甘いもすっぱいも経験してきた人物でしょう。マリアの妊娠という思いがけない状況に、その心は揺れたかもしれない。マリアを愛するが故に憎いと思ったのかも知れない。けれども、ヨセフは、マリアのことを表ざたにすることを望まなかったのです。公にして彼女を人の目にさらけ出して苦しめることはできなかったのです。誰にもわからないように、ひそかに縁を切ろうとしたのでした。それも、ヨセフのマリアに対する愛だと思うのです。

 あまり上手に愛を表現できないのが男性かも知れません。思いはあっても伝えられないこともあるでしょう。思いあまって唐突な行動や言葉で相手を驚かすこともあるかもしれません。不器用なのでしょう。ヨセフもそんな男性だったようにも思うのです。彼なりにまじめで、一生懸命だったのです。

 

 

 三、神の言葉の裏づけ

 不器用であっても、マリアを誰よりも思うヨセフに神様は語られるのです。

20節を共に読みましょう。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

 今、現実にヨセフとマリアに起こった問題の中に、神様が介入されたのです。そして、ヨセフに、恐れないでマリアを妻に迎え入れるようにと語り、受け入れる理由として、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と宣言するのです。マリアの不貞のゆえではなく、神様御自身の業であるというのです。そして、それだけではなく、これからのことも語られます。

 21節を共に読みましょう。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 神様の側では男の子とわかり、その名前も神様によって名付けられている。そして、その子の使命も語られるのです。「この子は自分の民を罪から救うからである。」 驚くような内容です。自分の民を罪から救うイエスという名の男の子をマリアが産むと言うのです。ヨセフの驚きを察する神様は、聖書の預言の言葉を語ります。23節を共に読みましょう。「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」

 神様が、すでに預言者の口を通して語られている「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」という預言の成就こそが、マリアがこれから産むであろうイエスと名付けられる男の子なのです。

 ヨセフにとっては、マリアの妊娠そのものも驚くべき事ですが、マリアの妊娠そのものが神様の導き、神様の配慮、神様のおこころだったのです。それを知った、また預言の言葉による証拠により、ヨセフはお言葉どおりに、マリアを妻として迎え入れたのです。

 私たちは、神様を信じていても、神様が共におられるということを知っていても、いろいろな問題が起こります。苦しみを経験します。痛みを経験します。悲しみます。しかし、やっぱり神様はいつも共におられるインマヌエルの神様なのです。どのような事が起ころうとも、マイナスが連続しても、神様は私たちを愛しておられるのです。

 それは、十字架でのイエス様の身代わりの死に、神様の愛が現れているのです。私たちを愛するが故に、イエス様は私たちの代りに十字架で苦しみ、裁かれ、命を投げ出して下さったのです。その神様がいつも共にいて、私たちを守り導いて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちが、神様を信じ、クリスチャンとして生きると言うことは、失敗のない人生を意味しません。罪を犯さないことを意味しません。神様を信じていても、クリスチャンになっても、失敗はあるし、罪を犯すこともあるでしょう。神様が、私たちがクリスチャンとして、失敗しないから、罪を犯さないで清くいるから、助け、祝福して下さるのではありません。私たちが、時には神様が共にいて下さるのに、神様を忘れ、神様に背を向け自己中心になり、自分の力や考えで何とかしようとして、つまずき、倒れ、痛み、悲しむ者に、目を留め、共におられ、救いの手を差し伸べて下さるのです。

 ヨセフは、正しい人でした。けれども、その心は自分が思う以上にマリアを憎んだり、裁いたり、神様につぶやいたのかも知れません。けれども、神様は、そのヨセフの心の中を、思いをご存知であり、ヨセフにマリアの妊娠の真実を語り、聖書の言葉、預言の言葉を示して下さり、ヨセフが納得できる。受け入れることができるように導いて下さったのです。

 神様は私たちの心の中を覗いておられます。覗かなくてもわかるでしょう。クリスチャンなのに、神様を信じているのに、こんな思いがある。こんなことを考えてしまう。そんなあなたを神様は、イエス様は愛しておられるのです。そんなあなたをために、身代わりに命を投げ出して下さったのです。

 クリスチャンだから、心をきれいにするということが目的ではありません。きれいになれませんから。失敗のない人生。問題のない人生を送ることでもありません。失敗も問題も人生にはつきものですから。そのような人生を歩む私たちに、恐れないで、と語られるのです。共にいるからと言われるイエス様と目を留めましょう。

 私たちは、そのままの私をそのままで愛し受け入れておられる神様の恵みにこの週も立ち続けたいと思うのです。

 大丈夫。私はあなたの過去、現在、未来の罪をあの十字架で解決した。恐れないで、私を信じて、私と共にこの週も歩みなさいと言われる主と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2013.12.1)

2013-12-01 12:59:04 | Weblog

アドベント第一日曜礼拝        2013.12.1

あなたの受胎告知」 ルカ1:26~38

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月第一日曜日を迎えました。2013年の最後の月、師走を迎えました。イエス・キリスト様が誕生された記念すべき月、2013年の最後の月を神様の恵みに満たされて送れることを期待しつつ、イエス・キリスト様のご降誕を共に喜び、感謝して、この月を過ごしたいと思うのです。

 先週の月曜日から水曜日まで、掛川にありますヤマハリゾートにおいて、JCGI教会成長のための全国大会があり、私は2年の学びを終えて、教会成長計画書の発表と卒業式を無事終えることが出来ました。皆さんのお祈りに感謝致します。

 教会成長計画書を少し手直しして、来年から皆さんにビジョンを紹介し、共に青葉台教会の祝福のために、共に祈り、共に手を携えて青葉台教会に約束された神様の祝福を共に経験させていただきたいと思います。

 水曜日に研修を終えて、共に2年間学びました田中先生の教会、遠州中央浜北教会を訪問させていただきました。その時に、「ナザレうどん食べに行きませんか?」と言われました。実は、学園教会の久米先生でしたか、facebookで、「ナザレというお店が中部地方にあるらしい。食べてみたい。」とあり、ナザレン教団に所属する者として、私も食べたいと思っていました。もしかしたら、掛川まで行くので、導かれるなら食べてみたいと思っていたのです。何と田中先生の教会の近くにあるということで連れて行っていただきました。店の前で写真を取り、念願のナザレうどんを食べてまいりました。クリスチャンのご夫婦でしょうか。ご夫妻で店をやっておられて、うどんを食べながら、小坂忠先生のクリスマスソングを聞きながらの状況に、うれしくもあり、何かぎこちないようにも感じました。記念に、「ナザレ」という名前の入った割り箸をもらってきました。

 今日の聖書の箇所は、まさしく「ナザレ」という町での出来事です。今日は、ルカによる福音書1章26節から38節を通して、「あなたの受胎告知」と題してお話したいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様の一方的な選びと恵み

 神様は、救い主の誕生のために、ダビデの系図にあるヨセフを選び、そのヨセフのいいなずけであるマリアを選ばれました。ですから、マリアは勿論、選ばれた人ではありましたが、ダビデの系図であるヨセフが重要であったということです。マタイによる福音書1章16節には、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。マタイもどちらかと言うと、マリアの方に重きを置いていますが、マリアがヨセフとの関係、つまりダビデの系図との関係がなければ、何にもならなかったのです。

 マリアが選ばれたのは、信仰が熱心だったとか、純粋だったとか、仕える姿勢が素晴しかったというものもあったでしょうが、最も重要なのはダビデの家系であるヨセフのいいなずけであったということなのです。だから、天使ガブリエルは神様の命令でマリアの所に来たのでした。

 ですから、28節で言われた、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という天使の言葉にマリアは戸惑いました。ナザレという小さな村、特別に何もない町、そして特別なことは何もないマリア、そのマリアと共に主がおられる、という宣言をいただいたのです。

 私たちは、神様の前に罪深い者です。神様の聖さから遠く離れた存在です。けれども、マリアに語られたように、私たち一人ひとりにも、その聖なる神様が共におられる、という宣言が与えられているのです。私たちが聖いから、まじめだから、りっぱだから、よくできるからという理由で神様が共におられるというのではなく、私たちがどんなに罪深くても、どうしようもなくても、自分が自分をいやになってしまうような者に、マリアに語られたように、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と語って下さるのです。

 マリアはこの言葉に恐れました。罪深い自分に神様が天使を通して語られる。そのことに恐れました。重ねて天使は語りました。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。

 マリアには信じられないような未来の事柄が語られたのです。

 神様は私たちにも、将来驚くべきことを語り告げてくださるのです。私たちの側の何かではなく、神様の側の驚くべき愛と恵み、憐れみのゆえに、私たちを祝福して下さるのです。

 

 二、神様の宣言を信じよう

 34節を共に読みましょう。「マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

 子どもを生むと言われて、マリアは自分の今の状況ではそのような事は起こりえないと思いました。畳み掛けるような天使の言葉にマリアは動揺しました。不信仰というよりも、突然、唐突ということでしょう。マリアはパニックになりました。けれども、神様の側はいたって冷静です。天使はマリアに答えました。「「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

 たとえ、マリアがどのように恐れ、戸惑い、パニックになり、驚きに満たされようとも、神様はご自分のなそうとしている事柄をその権威と意志とを持って宣言し、実行されるのです。そのひとつの印として、不妊であった、子どもができないと言われ、与えられなかったエリサベトは、妊娠六ヶ月になっていたのです。

 マリアはナザレという小さな村で、今まで平凡に暮らしてきました。特別な出来事も、何もなかったでしょう。平々凡々に暮らしてきた。けれども、ダビデ王の家系であったヨセフと婚約したことで、事態がガラリと変わって驚くべき事柄が自分の身に起こった。こんな片田舎のちっぽけな自分になぜと思ったことでしょう。

 先週、私はヤマハリゾートでの研修の時、森林の湯に入りました。ホテル側からの一方的な恵みで、ただで入れる券をもらったからです。露天風呂に入りながら、空を見上げると星がきれいに輝いていました。こんなにゆっくりと夜空を眺めるのも久しぶり。星が本当にきれいでした。その時、神様がこの天と宇宙を創造された。あの星は小さく見えるけれども、それは距離があるから。けれども、私という存在は、本当に小さな者。神様から見たら、どんない小さな存在だろうか。神様は地に住むものをいなごのように見られる、と旧約聖書にありますが、私のような小さな存在、その私をお造りになり、私に目を留め、罪ある私を救うために、イエス様を十字架につけて下った。何と感謝なことかと思いました。ちっぽけな私に目を留めて下さる神様の愛に感動したのでした。

 マリアもそうだったと思います。神様のなさろうとすることを理解できない存在。そんな者をだめだ、というのではなくて「神にできないことは何一つない。」と語って下ったのです。そして、今日、私たち一人ひとりにも神様はお語りになるのです。「神にできないことは何一つない。」と。

 

 三、どうしてと思うことが現実にはあるけれども大丈夫

 この世の中にはいろいろな出来事が起こります。マリアに訪れたように、驚くべきことではあっても、それは良きことでした。けれども、マリアにとっては、半面結婚前に、夫婦になる前に妊娠するという事態は、律法の世界ではあってはならない問題でした。

 私たちも、人生の中で苦しいことや悲しい出来事に遭います。突然の困難や悲しみにどうすることもできないことがあります。なぜ、こんな事が起こるのか。どうしてなのかと問い続けておられるかも知れません。いくら考えても、いくら悲しみ、痛んでも解決はないのです。神様がおられるのだったら、どうしてこのような事がおこるのか。交際相手の男性からナイフで刺されて、亡くなるという事件が後を絶ちません。神様がおられるのなら、どうして守って下さらなかったのか。助けて下さらなかったのか。命だけは助けてほしかった。そんな声が聞こえます。

 では、神様がおられないから悲惨な出来事が起こるのでしょうか。いろいろな問題や悲しい状況は、神様がおられないからなのでしょうか。

 マリアの妊娠は、マリアにとっては、今の状況としてはあってはならない事でした。律法のもとには、不貞を働いたということで石打の刑になる可能性があります。そんなことを許されたのは、神様なのです。神様がおられないからマリアは、とんでもない状況に置かれたのではなく、神様が救い主の誕生のために、神様がなされたことなのです。

 この世のいろいろな問題は、神様がそのように導かれたとは思いません。私たちには、分からないけれども、神様がその事を許されることがあります。神様が沈黙されることがあります。それは、神様が私たちを助けることができない。守ることが出来ないからではありません。

 神様は私たちを愛しておられるのです。神様は私たちを愛するが故に、イエス様をマリアを通して誕生させ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。

十字架で私たちを救う為に、罪を許す為に、血を流し、命を投げ出して下さったのです。

 マリアは、子どもを生むという自分には考えられない事、そして、困難や迫害が予想されることではあるけれども、それは、神様が自分を苦しめるためや自分を見捨てたというのではなく、反対に自分のような者を愛して選んで下さったからだということが理解できた、その事を受け入れることができたのだと思うのです。

 だから、38節の言葉がマリアの心から出たのだと思うのです。皆さんと共に、38節を共に読みましょう。

 「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」

 お言葉どおりにこの身になる、というのは大変な事です。けれども、神様が共におられるのです。神様がマリアを守り、支えて下さるのです。そこに、マリアは立つことができたのだと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 静岡の浜北にある「ナザレ」というお店の中に、額がありそこには次のような言葉が書いてありました。「ナザレの縁起と題して」「イスラエルの国のガリラヤ湖近くにナザレの村里があります。この村で、キリスト・イエスは大工ヨセフの家で成人されました。それでイエスはナザレびとと称えられました。イエスの故郷ナザレは、信仰に励む世界の多くの人々の心の故郷でもあるのです。当店はこのナザレを屋号に、お客様に喜んでいただける味を目指し、神と人々とに愛される営業を心がけます。」

 イエス様は、ヨセフやマリアが生活した場所、ナザレで育たれたのです。マリアの信仰を受け継いだとも言えるでしょう。どのような困難が待ち受けようとも、神様が共におられる。神様が恵みを与えて下さる。そのようなマリアの信仰がイエス様にも受け継がれたことでしょう。そして、全人類の罪の身代わりに、父なる神様に忠実に従ったイエス様の姿勢、十字架の死に至るまで従順であったのです。それは、まさに母マリアの姿勢であったのです。

 私たちは、マリアのようにイエス様を宿すことはできません。けれども、私たちのために命を投げ出して、私たちを愛されたイエス様を心に受け入れることはできるのです。心にイエス様を宿すことはできるのです。まさに、あなたの受胎告知なのです。

浜北の「ナザレ」の店にある言葉のように、「イエスの故郷ナザレは、信仰に励む世界の多くの人々の心の故郷でもあるのです。」

 ナザレは、マリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と信仰を表した場所です。また、来週見るようにヨセフが信仰を現わした場所でもあります。そして、私たちのために十字架にかかって死んで下さったイエス様が育ち、信仰をはぐくんだ場所なのです。

 私たちは、イエス様が共におられ、神に出来ないことはない、と宣言される神様の言葉に信頼して、この週も歩んでまいりましょう。

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