年末感謝礼拝(降誕後第一) 2013.12.29
「やられたらやり返す恩(恵み)返しだ」 ルカ18:21~35
Ⅰ導入部
おはようございます。12月の第五日曜日を迎えました。今日は2013年の最後の礼拝、年末感謝礼拝を皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝します。
冬休みになり、故郷に帰省されたり、旅行されたりしておられる方々もおられるでしょう。今日は、その土地での教会で礼拝を守られたり、ユーストリームでの礼拝を守っておられる方々がおられるでしょう。場所は違っていても、同じイエス様を礼拝することができることは本当に幸いだと思います。
先週は、クリスマス礼拝、洗礼式、愛餐会、子どもクリスマス、キャンドルライトサービスがあり、み子イエス様の誕生を多くの方々と共に祝う事ができました本当に感謝でした。
先週の日曜日、22日の夜8時10分に、愛する梶原眞兄が天に召されました。79年と11カ月22日の生涯でした。私はキャンドルライトサービスで、前の方にいたのですが、聖歌隊の席には、梶原陽子姉、修兄、真理姉、点火の奉仕に結姉、そして真人君と輝君も会場にいました。なんと眞兄と同居していた家族全員がキャンドルライトサービスに出席しておられました。メッセージの原稿にはなかったのですが、その事をお話ししました。家族のものが召され、木曜に感謝と讃美の会(前夜式にかわるもの)、金曜日には告別式をひかえているのに、家族全員がキャンドルライトサービスに参加するということは普通ではありません。しかし、クリスチャンは、その普通でないことができる。復活の望み、永遠の命の確信があるからです。眞兄は、神様のみもとにあるとの安心が家族にそうさせたのであり、また、眞兄自身がそのことを望んでいたであろうと思うのです。
しかし、愛する者の別離は、たとえ復活の望みがあっても悲しいものです。辛いものです。どうか、ご家族の上に、神様の慰めと励ましがありますようにお祈り下さい。
私たちは、このようにして一年の最後の日曜日を礼拝をもって終えることができますことを感謝します。来年、2014年も毎週の礼拝を大切に守り続けたいと思うのです。
今年最後のメッセージは、マタイによる福音書18章21節から35節を通して、「やられたらやり返す恩(恵)返しだ」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、何をしてもしなくても愛されている
私たちは、この1年誰もが神様から平等に時間が与えられました。1年365日を私たちは歩んできました。この1年間、誰もが後悔するできごとや問題があったでしょう。「あんなことするんじゃなかった。」とか、逆に、「ああしておけばよかった。」とか、やったらやったで後悔し、やらなかったら、やらなかったで後悔する。結局、何をやったとしても、何もやらなったとしても後悔の連続が私たちの歩みでもあるように思うのです。
梶原眞兄は、アルツハイマーが発病して約20年、ケアホームに入所して約10年でありました。その間、梶原陽子姉を初め、ご家族の方々は、心を尽くして、眞兄を介護し、愛し、仕えて来られました。それは、大変な労力であり、心労もあったでしょう。自分の自由な時間もなかなか持てない。そんな20年間でありました。周りから見ていると、そこまでやるか。そんなにもと思います。けれども、陽子姉やご家族は、もっとああしてあげればよかった。こうもしてあげればよかったと後悔する部分があるのかも知れない。でも、絶対そんなことはない。陽子姉も家族もよくやった。眞兄は誰よりもそのことを理解し、感謝しておられたのに違いないので、後悔したりしないでほしいと思います。
私たちもそうです。親として、子どもとして、夫や妻というそれぞれの立場で、家族の者を愛し、仕え、家族のために働く。けれども、もっと何かできないか。あしてばよかったなどと後悔する。落ち込むということのないようにと思うのです。教会でも、もっと奉仕をしたらよかっとか、聖書をもっと読んでいたらとかあるかも知れません。
皆さんは、それぞれにこの1年、あるいは今まで、よくやられたのです。よくがんばったのです。そのことを後悔するのではなく、神様が支え守って下さったことを覚えて感謝したいと思うのです。
また、今日の聖書の個所にあるように、私たちは誰かを許したり、許さなかったということでいやな思いを心に持つということがあるように思います。
私たちは、言葉で過ちを犯します。また、行動でも過ちを犯します。聖書は語ります。
「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」(ヤコブ3:2) 私たちは、完璧な人間ではありません。クリスチャンになったからと言って、過ちはおかさなくなるのではありません。クリスチャンでも、度々過ちは犯すのです。失敗があるのです。許せる時もあれば、許せない時もあるのです。
私たちは、神様を信じてクリスチャンになったのに、人を許せない自分を許せないということはありませんか。人を許せないことで自分を責めることはありませんか。それは別に悪くはないかも知れませんが、許せない自分を責めて、信仰も落ち込んでしまうということがよくあるように思うのです。覚えて下さいね。人を許せない私をイエス様は赦し、受け入れて下さるのです。
二、どこまでも自己中心
今日の聖書の箇所には、1万タラントン借金している家来がいます。ある注解書には、1タラントンは、25万円なので、1万タラントンは、25億円となるのですが、とてつもない多額の借金です。払えずはずがない。無理という金額です。返済できない家来に、持ち物、妻や子を売ってでも返済するようにと命じられた。家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」しきりに願いました。本当に返せるのでしょうか。
27節を共に読みましょう。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」 リビングバイブルでは30億円とありますが、それを全部帳消しにしてもらったのです。何と幸いなことでしょう。めでたしめでたしで、ハッピーエンドではありません。続きがあります。
多額の借金を帳消しにしてもらった家来はうれしかったでしょう。彼は王にどんなに感謝しても感謝しきれない。そんな思いで胸がいっぱいだったでしょう。家来が家に帰る途中でしょうか。自分に百デナリオン(100万円)の借金をしている仲間に出会いました。
先ほど、莫大な借金を帳消しにしてもらったので、彼はその仲間の借金を帳消しにしてやりました。めでたしめでたしとはいかないで、仲間の首を絞め、借金を返すように命令したのです。仲間は、先ほど、この家来がしたように、ひれ伏して、「どうか待ってくれ、返すから」としきりに頼んだのです。
30節を共に読みましょう。「しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」 31節には、家来の仲間たちが、事の次第を見ていて、非常に心を痛めたとあります。何故、心を痛めたのかと言うと、先ほど王の前で、仲間の家来が立場が逆で、王の前に、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」としきりに願った、あの光景を知っているからです。そして、彼は25億円という借金を許してもらったという事実を知っていて、当然、百デナリオンを貸している仲間の借金を許してあげるものを思っていたので、そうしなかったゆえに心を痛めたのです。
彼らは、その事を王に報告しました。王は怒ります。32節と33節を読みましょう。
「そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』」
「やられたらやり返せ」と王は言ったのです。憐れみを受けたのだから憐れみで返すのです。結局、せっかく帳消しにされた25億円を返すまで、この家来は牢役人に引き渡されたのです。
25億円の借金を帳消しにされた家来は、自分が許されたように、100デナリオンを貸した相手を許してあげるべきでしたが、それが出来なかったのです。それゆえに、王からお叱りを受け、帳消しが帳消しになってしまいました。
三、許せない私が許されるという現実
35節を共に読みましょう。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 聖書に、このように記されているので、私たちは許しあいましょう。というメッセージでしょう。けれども、そう言われても、そう命令されても私たちは、自己中心ですから、許せないどころか、憎んでしまう。そんな私たちだと思うのです。
旧約の時代、目には目だけという律法がありました。イエス様は、その目には目を引用しながら、言われました。「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」」(マタイ5:38~39) 目には目とは、目をやられたら目だけだよと言うことです。私たちは、目をやられたら、今度目と鼻をやるのです。すると相手は、目と鼻と耳をやるというように、目だけでは終わらないのが私たちです。だから、目には目と旧約の律法で言うのです。しかし、イエス様は、右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい、と言われました。イエス様はさらに進んでこう言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44) 敵を憎めと言われているけれども、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というのが、イエス様の教えでした。
私たちは、自分を愛し相手を憎むような者ですが、そんな私たちを愛して、私たちの身代わりに十字架について死んで下さったのがイエス・キリスト様です。私たちには、愛がないので。神様は、イエス様の十字架を通して愛を示して下さったのです。
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」とありますが、「許しましょう」と言われても、許せないのが私たちです。だからこそ、イエス様が、人を許せない私たちに代わって十字架で身代わりに死んで下さったのです。このように私たちは、イエス様の十字架を知りながらも、やはり人を許せない者ですが、そんな者をそのままで愛して下さるのがイエス様なのです。
この1年間、神様の十字架を愛をいただきながらも、許すことが素晴しいことだと知りながらも、許せない私を、責めることなく、見捨てることなく、愛して下さるのです。
最初、ペトロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と。日本では3度ですね。「仏の顔も三度まで」と言いますから、キリスト教はさらに上だと言うことでしょうか。イエス様は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われました。7かける70で490回までは言いと言うのではありません。7は完全数ですから、7かける70ですから、どこまでも赦し続けるということでしょう。そして、このたとえを話されたのです。
Ⅲ結論部
今日は、先週のクリスマス礼拝で洗礼を受けることができませんでした清水鐡雄さんが洗礼を受けられます。中学生の頃、目黒ナザレン教会に友だちに誘われて行かれましたが、いつの間にか行かなくなりましたが、友人の死によりいろいろ考えさせられておられた頃、青葉台駅で、青葉台ナザレン教会という名前を目にして、ナザレン教会が青葉台にもあることを知り、昨年の12月に青葉台教会に来られました。そして、あの懐かしい目黒ナザレン教会と同じような雰囲気に安心されたそうです。そして、礼拝を守り続け、聖書の言葉と神様に触れ続け、自分の心の中に罪があることを知り、その罪を認め、自分の罪の身代わりにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じて救われました。
クリスチャンになったからと言って、私たちはイエス様のようになれるのではありません。あの家来のように、許しを体験しながらも、許せない者です。だからこそ、イエス様の十字架の愛が必要なのです。許せない自分を嘆くのではなくて、許せない自分をそのままで愛し続けて下さるイエス様の愛に目を留め、その恵みに立ち続けたいと思うのです。
目には目を、歯には歯と律法は語ります。けれども、私たちは、この1年の間、神様だけではなく、多くの恵みを人からもいただきました。ですから、やられたらやり返すのです。恩返しをするのです。恵みを倍返しするのです。そのことの実践は、イエス様がこのたとえ話で王の言葉として言われたように、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」というのが原点だと思います。
神様に憐れまれた。命を投げ出すほどに私を愛された。そこにいつも立ち続けることだと思うのです。そこに立ち続ける時、やられたらやり返す恩(恵み)返しの行動につながるのだと思うのです。
この1年間の全てのことに神様に感謝しましょう。そして、2014年の新しい年も、共におられ、憐れみと恵みを注いで下さるイエス様と共に歩んでまいりましょう。
大丈夫。私はあなたと共にいる。何も心配要らない。私があなたを愛し、あなたを支える。そう語られるイエス様の愛と恵み、憐れみと癒しに立ち続けたいと思うのです。