江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(4月26日)

2015-04-26 16:55:57 | Weblog

                                           日曜礼拝(復活後第三)         2015.4.26

                                                    「ペトロの面接試験」 ヨハネ21:15~19

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。

 横浜では桜の花も散り、北海道では桜の花が満開だと聞いています。これから、春の花が咲き乱れ、ゴールデンウィークもあちこちらで、春の花を楽しまれるのだと思います。

神様が創造された自然を思いっきり満喫できたらいいですね。ゴールデンウイークでの、家族との交わり、友人知人との交わり、教会の愛する方々との交わりが祝福されますように祈ります。ゴールデンウイークにお仕事があったり、しなければならない所用のある方々は、必要な事がなされますようにお祈り致します。

 神戸におりました時は、ゴールデンウイークと言えば、塩屋聖会と言って、私の母校であります関西聖書神学校で聖会が連日開催され、高校生の頃から参加して聖書の言葉に触れ、献身の思いが与えられた場所でもありました。そのような集会が関東でもまた始められたらと願い祈ります。

 今日は、ヨハネによる福音書21章15節から19節を通して、「ペトロの面接試験」という題でお話したいと思います。今週、「ペトロの面接試験」という題で、表の看板に書かれてあり、スーツ姿のサラリーマンの方々でしょうか。看板を見ながら歩いておられました。かつて就職のための面接試験を思い出されたのでしょうか。青葉台教会が面接の会場になっているかのようにも思えたのかも知れません。ペトロという会社の面接試験と見ることもできますが。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様との個人的な交わり

 学校の試験でも、就職の試験でも面接試験はあります。面接のための本もあるでしょう。いかに監督する試験官に好印象を与えるのか。どのように答えるべきかと苦労して学んだ方々もおられることでしょう。せっかく面接のための準備や学びを充分にしても、当日、試験官の前で頭が真っ白になって、何を答えたのかわからないというような経験をした方がおられるのかも知れません。何を聞かれるのかが分かっておれば、安心ですが、面接試験というのは心臓に良くないですね。

 イエス様の弟子たちは、イエス様の弟子になる時、イエス様から面接されるということはなかったのでしょう。イエス様は、夜を徹して祈り、12弟子を決めました。3年と少しの間、イエス様の立ち振る舞いに接し、イエス様の言葉に触れ続け、イエス様の奇跡の業に接し続けた弟子たちでしたが、彼らはいつも、地上的、この世的考え、損得勘定をいつもむき出しで、天から遣わされ、僕として生きるイエス様の生き方を弟子たちは、なかなか学ぼうとしないで、先生のしもべとしての姿勢を弟子として受け継ごうとしないで、「誰が一番偉いのか」というこの世の尺度しか考えられませんでした。ですから、イエス様が律法の専門家やファリサイ派の人々から苦しめられ、殺されること、そして、死んでよみがえられるというイエス様の言葉を信じないで、イエス様を通して与えられるこの世の栄華ばかりを見つめていたのです。

 ですから、弟子たちにとってイエス様の十字架の死は、大きな悲しみであり、落胆であり、彼らの言うこの世的な出世、この世の栄華の可能性が失われた瞬間でした。イエス様が死んで三日目、女性たちからのイエス様のよみがえりの話しを聞いても、弟子たちは信じられませんでした。そんな彼らの所にイエス様は現れて下さり、ご自身の復活のお体、確かに十字架の傷のあるお体を見せて、弟子たちに喜びを与えられたのです。

 ヨハネによる福音書21章の初めには、弟子たちの何も獲れない漁を通して、3年前の出来事を思い出させ、イエス様は弟子たちと朝の食事をなさったのです。その時、イエス様は個人的にペトロとの交わりを大切にされました。

 ペトロは、自分が弟子の頭、代表だと自負していたでしょう。そんな自分がイエス様を三度知らないと言ってしまった。他の弟子たちは、確かに逃げたけれども、イエス様を知らないなどとは言っていない。イエス様と自分との関係を完全に否定したのは、自分だけだとペトロは痛感していたのです。ですから、よみがえられたイエス様に出会えることは喜びでしたが、自分の過去の大きな失敗が、よみがえりのイエス様に出会うという喜びを半減させるものであることを彼自身感じていたのではないでしょうか。

 私たちも同じ罪人であり、自分の犯した罪のゆえに、神様の赦しの御業はうれしいけれども、わたしのような罪人、私の犯した罪、失敗は赦されないのではないか、と思っておられる方はおられないでしょうか。イエス様はペトロとの個人的な交わりを願ったように、あなたと個人的にかかわりたいと強く願っておられるのです。

 

 二、より深く愛するために

 15節を共に読みましょう。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」

 イエス様は、他の弟子たち以上に私を愛するか、と問われました。口語訳聖書では、「「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」」 ペトロ以外の弟子たちが、イエス様を愛すること以上に私を愛するか、と問われました。

 イエス様は、十字架にかかられる前に、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく。」(マルコ14:27)と言われた時、「するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。」と言った。」(マルコ14:29)と聖書は記しています。自分以外は全員つまずいても自分だけはつまずかない、と宣言したのです。けれども、弟子たちは、イエス様につまずきました。そして、ペトロだけは、イエス様を三度も否定してしまった。だれよりもつまずいてしまったのでした。

 イエス様は問われるのです。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と。もし、ペトロが、「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。」と言った時と何も変わっていなければ、「はい。他の弟子たちがイエス様を愛する以上にわたしはあなたを愛します。」と宣言したでしょう。しかし、ペトロは大きな失敗を経験し、自分の力に頼ることはできませんでした。ですから、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。

 ペトロは、イエス様が自分を責めたり、裁いたりすることなく、以前と変わらずに愛していて下さったことを感じていたでしょう。ペトロ自身、イエス様との関係を否定してしまったという失敗、罪を犯したからこそ、イエス様を他の弟子がイエス様を愛する以上に愛するということを知っていて下さることを確信していました。

 ペトロはかつて、イエス様がファリサイ派の家に食事に招待された時のことを覚えていたでしょう。ある罪深い女がイエス様に近づいて、涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗った時、ファリサイ派の人が心の中で、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人かわかるはずだ。罪深い女なのに。」(ルカ7:39)と思った時、イエス様は、金貸しに500デナリオンと50デナリオン借りた人が、共に借金を帳消しにしてもらった時、どちらが金貸しをより多く愛するか、と質問し、多く赦してもらった方ですと答えると、イエス様は、彼が食事を招待しておきながら、足を洗う水も出さず、接吻の挨拶もせず、頭にオリーブ油を塗ってくれなかったけれども、この女性は涙で足をぬらし、接吻し、香油を塗ったという行動は、イエス様に多くの愛を示したのだ、と言われました。そして言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)

 ペトロは、自分以外の弟子たちが犯さなかった罪、イエス様を完全に否定してしまいました。そんな、自分をイエス様は他の弟子以上に愛して下さった。それは、ペトロ自身が多く愛するためなのです。彼は、他の弟子たちよりもイエス様に多くのものを赦されたのです。それは多く赦されたからこそ、イエス様を他の弟子たちよりも多く愛するためであることをペトロは感じていたでしょう。だからこそ、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。

 私たちも、もしかしたら他の人が失敗しなかったような失敗があるかも知れない。あなた以外の人が犯さなかった罪を犯したかも知れない。それは、あなたが他の人よりも罪深いからではありません。あなた以外の誰よりもイエス様を愛するようになるためなのです。

 

 三、もう悩み続けなくていい

 16節を共に読みましょう。「二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。」

 一度目の質問との違いがあります。イエス様は、「この人たち以上に」という言葉を使われませんでした。イエス様は言うのを忘れたのでしょうか。省略したのでしょうか。そうではありません。あえて使わなかったのだと思うのです。他の人と比べることなく、ペトロ自身が多く赦された者として多く愛する者とされていることを知り、ペトロ自身に、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われたのです。彼は、かつて他の弟子といつも比べて、優劣で物事を考えていたでしょう。しかし、「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。」というようなことではなく、イエス様ご自身が自分だけを見つめ、自分だけに語られる言葉に答えたのです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。

 17節を共に読みましょう。「三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 イエス様は、ペトロのご自分に対する愛を確かめるように、また同じように「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われました。イエス様は同じように問われましたが、問われたペトロは違いました。三度問われて悲しくなったのです。口語訳聖書と新改訳聖書は「心痛めて」とあります。詳訳聖書では、「気に病んだ」とあります。気に病むとは、「悩む、わずらう、心配する」ということだと思いますが、ある意味には、「失敗をいつまでも悩む」というような意味がありました。ペトロはイエス様に三度、「わたしを愛しているか。」と問われて、自分がイエス様を三度知らないと言ったこと、その失敗を罪をいつまでも悩んでいたということでしょう。そのペトロの悩み、いつまでもイエス様を知らないと言ってしまったと悩み続ける。わずらい続けるペトロに赦しと癒しを、そして慰めを与えるために、三度も問われたのだと思うのです。

 ペトロ自身も、三度「わたしを愛しているか。」と問われて三度目のペトロの答えにも変化がありました。一度、二度目の答えは、「「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」」という答えでしたが、三度目は、「「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。

 イエス様は、私の何でもご存知です。何も隠せません。イエス様の前では、私の弱さも失敗も罪も全てが明らかです。他の弟子たちが犯さなかったような罪を犯してしまう私です。そんな私ですからこそ、あなたの多くの赦しをいただいた者として、わたしがあなたを愛していることもまた、あなたはよく知っておられるのです。ペトロは、イエス様の大きな愛と赦しと恵みをいただいたのです。

 そんなペトロに、イエス様は羊の群れをお任せになったのです。すでにペトロの働きを用意しておられたのです。このイエス様の愛が、ペトロの中に息づいているのです。そのことをペトロは教会の群れに示して行くことになるのです。

 ペトロは、ペトロの第一の手紙5章2節から4節で、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」と語っているのです。6節、7節では、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

 ペトロは、イエスさまの愛を深く感じながら、三度の愛の問いかけの出来事を思い出しながら、この手紙を書いたのではないかと思うのです。

 同じように、イエス様の愛は私たちのうちにも宿っているのです。

 

 Ⅲ結論部

 ペトロの面接試験は合格だったでしょう。イエス様から新しい使命を与えられましたから。ペトロはイエス様が自分の罪のために十字架にかかられて、父なる神様様から罰を受け、苦しみ、血を流し、命を与えて下さった。その事により、自分では拭い去ることのできない罪、自分自身では負い切れない罪を赦して下さり、神であるお方が死を経験されたけれども、三日目によみがえり神の力を現されたのは自分のためであったこと、そして、この十字架と復活の目撃の証人として自分が羊の群れを牧する者としてイエス様が使命を与えて下さったことを強く感じたのです。

 私たちは同じように、イエス様の十字架と復活を通して与えられる罪の赦しと魂の救い、永遠の命を持つ者として、イエス様に愛されているその愛を持って、私たちは家族を、友人を、接する人々を愛していく、愛を実践していく者とさせられていることを覚えて、愛の実践をこの週も、ゴールデンウィークも過ごしたいと思うのです。

 

 イエス様は、ペトロに「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われました。

 ペトロは歳を重ねると、たよりなくなり、支えるものを必要とし、自分の周りにいる者たちに依存し、その結果、自分の意志よりも、周りの者の好むことを、望ことを、言われることを、自分も行わざるを得なくなるというのです。年をとるということはそういうことでしょう。私たちは、自分の力で、自分の思いではできなくなる時がきます。でもそれは悪いことではありません。私たちの内には、イエス様の愛が満ち溢れているのです。自分の思い通り動けないことが幸せではありません。自分のうちにイエス様の愛が満ち満ちていること、これすなわち幸いなことなのです。その愛を私たちは持っているのです。そのことを感謝しながら、イエス様がいつも共におられて、私たちを支え、愛で満たして下さるのです。このキリスト様の愛に押し出されて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2015年4月19日)

2015-04-19 13:27:11 | Weblog

日曜礼拝(復活後第二)         2015.4.19

信じられないことが信じられるようになる」 ヨハネ20:19~31

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。先週は、森下辰衛先生が、「花咲か爺さん」のお話しをして下さいました。とてもおもしろく神様の恵みを知ることができました。

 どこまでもあきらめない。神様を信頼していく姿、自分には不可能でも、神様の可能性をどこまでも期待する者でありたいと思わされました。

 今日は、ヨハネによる福音書20章19節から31節を通して、「信じられないことが信じられるようになる」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、あなたに平和がある

 イエス様が十字架につけられて死んだという出来事は、イエス様の弟子たちにとっては大きな悲しみでた。イエス様をお金で裏切ったユダは死にました。イエス様が死んで三日目、マグダラのマリアがイエス様の遺体が納められている墓に行きましたが、イエス様の遺体がないという出来事が起こりました。マリアは、復活のイエス様に出会い、その事を弟子たちに伝えましたが、弟子たちは信じませんでした。ですから、イエス様は確かによみがえられたにもかかわらず、弟子たちは信じなかったので、弟子たちの心は暗く重く、よみがえりの知らせは、弟子たちには喜びの知らせにはなりませんでした。

 ですから、彼らはユダヤ人を恐れて、自分たちの家の戸にしっかりと鍵をかけて、恐れと、不安と疲れの中にいたのです。イエス様は、そのような弟子たちの心の様子や状況をよくご存知でした。ですから、弟子たちの所に来て、その真中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語られたのです。新改訳聖書では、「平安があなたがたにあるように」とあり、口語訳聖書には、「安かれ」とあります。原語(ギリシャ語)では、エイレーネという言葉が使われていますが、ヘブライ語では、「シャローム」という言葉です。これは、ユダヤでは挨拶の言葉です。「おはよう、こんにちは、こんばんは」夕方だったので、イエス様は「こんばんは」と言われたのです。しかし、この言葉は、ただの挨拶ではなくて、挨拶を交わす相手の祝福と平和を願う言葉でした。

 弟子たちの心には、平和がありませんでした。平安がありませんでした。その弟子たちに、平和、平安があるようにとイエス様は語られたのです。

そう語られたイエス様は、十字架につけられた時の傷、手とわき腹をお見せになりました。確かに十字架につけられた時のイエス様の傷、よみがえられたイエス様を見て弟子たちは喜びました。マリアが、かつて「わたしは主を見た」という言葉を信じることができました。弟子たちの心は、暗闇から光へ、不安から安心へ、悲しみから喜びへ、恐れから勇気が与えられました。

 弟子たちの心は、イエス様のよみがえりを知り、イエス様を見て喜びに満たされたのです。

 私たちも信仰生活の中で、イエス様を見失うことがあります。苦しみや悲しみ、困難を経験して、問題ばかりを見つめて、心に平安も平和も安心もなく、恐れと不安に満たされているということがあるのだと思います。そんな私たちに、あなたに、イエス様は「平和、平安があるように」と近づいて下さるのです。問題のただ中で、どうすることもできない私たちの所に足を運んで下さるのです。いえ、本来は、いつも共におられるのです。イエス様が共におられるのに、私たちはイエス様を見失い、不安と絶望の中にあるのです。私たちは、どのようなことを経験しようとも、み言葉に触れること、聖書を読むこと、礼拝を守ること、祈り会に参加することをやめないで、悲しいからこそ、問題があるからこそ、み言葉に触れ続け、礼拝や祈り会に出席して、イエス様が共におられ、語っていて下さることを感じたいと思うのです。

 

 二、聖霊と共に生きる

 ご自身を弟子たちに見せ、弟子たちに安心と平安を与えられたイエス様は弟子たちに言われました。皆さんと共に21節を共に読みましょう。「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」」 イエス様は、弟子たちに使命を与えられました。イエス様ご自身が父なる神様に遣わされて人間の世界に来て、十字架と復活を通して、魂の救いと罪の赦し、復活の命を与えられたように、イエス様から学び、訓練され、イエス様の復活の証人として、イエス様は弟子たちを遣わす、と弟子たちに彼ら自身にも働きがあることを示されました。

 22節を共に読みましょう。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」 イエス様は弟子たちに使命を与え、聖霊を受けることをご命令されたのです。 人類の祖先であるアダムは土のちりで創造された時、神様から命の息を吹きいれられて生きる者となったと聖書は記しています(創世記2:7)。

 弟子たちはイエス様の復活の事実を知り、喜びに満たされ、力が湧いてきました。前向きに、がんばろうという意気込みもあったでしょう。しかし、それは人間のがんばりに過ぎません。それは、やがてしぼんでしまうものです。ですから、弟子たちが、イエス様の証人として、力強く生きるためには、聖霊を受けなければならないのです。イエス様はそのことをご存知で、「聖霊を受けなさい。」とご命令されたのです。事実、弟子たちは、イエス様の復活の後50日目に与えられた聖霊に満たされ、イエス様の与えられた使命を全うすることになるのです。

 この聖霊は、イエス様が十字架につけられる前に、最後の晩餐の席で語られた弁護者、助け主のことなのです。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26) 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26) 私たちイエス様を信じる者も、肉の力、肉のがんばりではなくて、イエス様が語られた聖霊を受けて、神様の力に満たされて歩むことが大切なことなのです。

 23節の言葉は、弟子たちが神様と同じように、罪を赦す権威が与えられるというのではありません。イエス様の十字架と復活の証人として、また、十字架と復活を通して与えられる罪の赦しと魂の救い、永遠の命の約束を伝える、宣教する使命が与えられ、その使命を通して魂が救われる、宣教をしなければ魂が救われないということを示しているのだと思うのです。イエス様が与えると約束された聖霊様が共におられ、私たちを導いて下さるのです。

 

 三、見て信じても良し、見ないで信じるも良し

 このようにイエス様は、弟子たちに復活されたご自身を示し、新しい使命と共に聖霊を受けることを命令されたのです。しかし、この弟子たちの中には、トマスはいなかったのです。何故いなかったのかという理由は聖書には書いてありません。その理由は大切ではないのでしょう。どのような理由であれ、トマスは他の弟子たちと共にいなかったということなのです。

 トマスからすれば、私がいない時になぜ、イエス様は来られたのか、ということでしょう。言い方を変えれば、私がいないのに、何故イエス様が来られ使命を与えられたのかということです。間が悪かったということではすまされないことです。ですから、他の10人の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言われても、トマスは信じられませんでした。

 それは、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会って、「わたしは主を見ました」と言っても信じられなかった時と同じでしょう。

 けれども、トマス以外の他の10人の弟子たちは、よみがえりのイエス様に会って、復活を信じたのです。けれども、よきがえりのイエス様を見てないトマスは、他の弟子たちが何と言おうとも信じることはできませんでした。おそらく、これがトマスではなく、ペトロであっても、ヨハネであっても、ヤコブであっても、一人だけイエス様に出会えなかった弟子は、トマスのように言ったのではないかと思うのです。「「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」」と。

 イエス様は、8日目に、今度はトマスも共にいて家の戸に鍵を掛けた弟子たちの所に来て、以前と同じように、弟子たちの真中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。10人の弟子たちは、前と同じだと感じたでしょう。しかし、トマスにとっては初めての経験でした。他の弟子たちが言ったように、イエス様はよみがえられていたのです。トマスもまた、イエス様を見て喜んだことでしょう。マグダラのマリアの言ったことも、10人の弟子たちが言ったことも本当だったと思ったでしょう。

 そのように感じていたであろうトマスにイエス様は言われました。27節を共に読みましょう。「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」」 イエス様は、トマスが言った言葉、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」という言葉を知っておられました。そして、触って確認しなければ信じないと言ったトマスを叱り飛ばすことはありませんでした。トマスが言った通りに求めたことをイエス様は許され、手の釘跡を見せ、脇きにある傷に触れさせたのです。そして、見て、触らなければ信じないという彼の言葉を実践させて、「これで満足か、これでわかったか」と信じるものになるのだよと言われたのです。

 トマスは、イエス様の包み込むような愛に触れて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。トマスはイエス様のよみがえりを確信したのです。29節を共に読みましょう。

 「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」 この言葉は、見て信じるよりも、見ないで信じる方が素晴らしい、格が上だということを示しているのではないと思うのです。

 マグダラのマリアも、10人の弟子たちも、そして、トマスもよみがえりのイエス様を見て信じました。それも信じることです。しかし、イエス様は天に帰られるので、よみがえりのイエス様を目にして、見て信じるということはできなくなります。だから、これからの人々は、聖書に記された言葉、神の言葉を通して、また、イエス様のもとに導く弁護者である聖霊様の導きで、私たちはイエス様を肉眼の目で見ないでも信じることができるのです。そして、見て信じた者も、見ないで信じた者も幸いなのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、見ないで信じたことは見て信じたことよりも、あやふやなことではなく、見て信じた時と同じように幸いなのだと語られたのです。信仰とは、見て、触れて、自分の頭で納得して、実証し、検証したから信じるというものではありません。大事なことは、人間的な説明、理解、納得というものではなくて、聖書が語り、聖書が示すイエス・キリスト様を聖書自身が求める、つまり、神様が求める信仰の目をもって受け入れる姿勢と信仰なのです。私たちは、肉眼の目でイエス様のお姿を見ることはできませんが、聖書が示すイエス様、聖霊が導かれるイエス様を、信仰の目を持って見ることができるのです。私たちは、聖書に示されている、信じられないと思われることを聖書と聖霊の導き、弁護者、助け主を通して信じることができるようになるのです。

 ペトロは、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:8-9)と言っています。

 榎本保郎先生は、新約聖書一日一章で、「信じないということはやさしいことだと思う。信じることが本当に難しいことだと思う。ところが自分はそんなことは信じられないと言って、鬼の首でもとったように大きな顔をする人があるが、信じないことは赤ん坊でもできる。その信じられないことが信じられるようになることこそ大事なことである。」と言っておられます。

 私たちは見て信じるということもあるでしょう。しかし、聖書に示されている事柄を聖霊の導きで見ないで信じるということもできるのです。見て信じる、見ないで信じるということが優劣、どちらが上か、信仰深いかということではなくて、どちらも尊いことなのです。私たちは、私のために十字架にかかり、尊い血を流し、命を与えて下さったイエス様、死んでよみがえられ、今も生きて共におられるイエス様を信じてこの週も、イエス様と共に歩ませていただきましょう。

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日曜礼拝(2015年4月12日)

2015-04-12 19:59:37 | Weblog

森下辰衛師のために原稿はありません。

青葉台ナザレン教会のホームページより、映像をご覧いただくか、音声でお聞きください

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日曜礼拝(2015年4月5日)

2015-04-12 19:47:04 | Weblog

イースター特別礼拝         2015.4.5

泣かなくても大丈夫だから」 ヨハネ20:1~18

 Ⅰ導入部

 イースターおめでとうございます。おはようございます。全世界の教会でイエス・キリスト様の復活を記念して、イースター特別礼拝が行われています。私たちの青葉台教会も、第一、第二、第三礼拝でイエス・キリスト様の復活をお祝いして礼拝をささげます。愛する方々と共に、礼拝をささげることができますことを感謝致します。集われた一人ひとりの上に、そのご家族の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈り致します。

 今日初めて礼拝においでになられた方々、勇気を持っておいで下さいました。ありがとうございます。あなたを心から歓迎致します。また、久しぶりに来られた方々がおられたら、これまた勇気を振り絞ってこられたことだと思います。心から歓迎致します。また、いつも集って来て下さる方々も、勿論大歓迎します。今日は、第一礼拝では、中高生の皆さんも大人の礼拝に出席しておられます。今日から新中学生の方々も出席しておらます。これから毎月、大人の礼拝に出席しますので覚悟しておいて下さい。

また、ユーストリ-ムでの礼拝をささげておられる方々の上に、神様の祝福がいっぱいありますように心からお祈り致します。   

 心はこの場所にありながらも、入院やご病気、ご高齢のために、この場所に来て礼拝できない方々も多くおられます。イエス様は、その方々を特に覚えて、今共におられ一人ひとりを祝福して下さっていることを願い、信じます。復活の恵み、全能の力、神の愛がそこに豊かに注がれますことを心から願い祈ります。

 今日は、第一礼拝後に野村龍之介君の洗礼式が執り行われました。竜之介君の上に、神様の祝福がありますようにお祈り下さい。

 今日は、2015年度の最初の礼拝です。私が横浜に来ましてまる14年が過ぎて、今日から15年目になります。愛する皆さんに祈っていただき、励ましていただいた14年間でした。ありがとうございました。今年も祈り支えていただいて、励ましていただいて、神様の備えておられる祝福を共に体験させていただきたいと思います。

 今日は、ヨハネによる福音書20章1節から18節を通して、「泣かなくても大丈夫だから」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、救いの完成を信じる

 先週は、受難週で月曜日から土曜日まで連夜の祈祷会があり祈りがささげられました。直接教会に来られて祈りをささげられた兄弟姉妹の、その祈りの姿勢に大いに励まされました。また、直接教会に来ることのできなかった方々も、祈り会を覚えて、その持ち場立場で祈りを合わせて下さったことを信じ感謝します。次回はぜひ、教会においでになって祈りを合わせていただければ感謝です。

 特に、金曜日の受難日、イエス様が十字架にかかられた日、皆さんは各自、イエス様の苦しみを思いながらの一日を過ごされたことだと思います。

 後藤献一先生のお父様の後藤一郎牧師は、私の恩師ですが、厳しい先生でもあります。やはりイエス様が十字架につけられた金曜日の昼は断食するのですが、それを子どもたちにも奨励され、献一先生も学校の給食を抜かれたとお聞きしました。平野教会の持田松代先生も断食しておられました。 私もイエス様の受難日は、お昼を抜こうと思っていましたが、お腹がすいて、すいて、誘惑に負けて昼食を食べてしまいました。この受難節や受難週に、もの断ちや好きなことをひかえて過ごされた方々もおられることだと思います。すばらしいことだと思います。しかし、神様の恵みはそうできない者の上にも与えられていることを感じます。

 全人類の罪の身代わりに、あなたの罪のゆえに、イエス様は、神様からの罰を受け、あなたに代わり、血を流し、命を与えて下さいました。そして、そのことにより、私たちのすべての罪が赦されたのです。すべてです。

 今月の教会の玄関のみ言葉は、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)という言葉です。イエス様の復活の意味が記されています。イエス様の復活は、私たちが義とされるためである、というのです。罪が赦され、罪がない存在。神様の前に正しい者とされた、ということでしょう。十字架と復活は、切っても切れない存在であることがわかります。

 イエス様は、十字架にかかり確かに死なれました。ラザロを死からよみがえらせたイエス様は死なれたのです。「すべてが終わった。完了した。成し遂げられた。」と言われました。それは仕方がない、あきらめだというのではなく、イエス様の十字架での死を通して神様の準備された救いが完了したのです。しかし、これでは終わりませんでした。

 イエス様は、死んで墓に葬られました。安息日は金曜日の午後6時から始まります。安息日になれば何もできません。イエス様は、金曜日の午前9時から午後3時まで十字架につけられ死なれました。それから埋葬の準備が始まりますが、3時間では十分な準備はできませんでした。アリマタヤのヨセフという議員、お金持ちが自分の墓にイエス様を急いで埋葬しました。イエス様は、確かに死んで墓に葬られたのです。

 イエス様の弟子たちも、イエス様についてきて、イエス様の世話をした人々も、イエス様に救われ、イエス様を慕う人々もイエス様の死に嘆きました。すべてが終わったと思ったのです。しかし、それでは終わりませんでした。

 

 二、見るべきものを見る信仰を持つ

 週の初めの日、日曜日の朝、マグダラのマリアは、埋葬の準備が十分にできなかったイエス様の遺体に香油を塗るために、お墓にやって来たのでしょう。当時のお墓は、横穴式で、入口は大きな石でふさがれていました。マグダラのマリアが、墓の入り口に来ると、石が取りのけておるのを見て、誰かがイエス様の遺体をどこかに運んだのだと思いこんだのでしょう。イエス様の弟子のリーダーのペトロの所に行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と言いました。そこで、ペトロとヨハネは急いで墓に行きました。墓の中には、イエス様の遺体に巻かれてあった亜麻布が置いてあったのです。聖書は、離れた所に丸めてあった、と記しています。原語では、「折り目正しく」という意味があるようです。それは、誰かにはぎ取られたというのではなく、イエス様が、ご自分で置いていかれたように。

 9節を共に読みましょう。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」 イエス様は、ご自分の苦しみと、十字架、復活について語っておられましたが、弟子たちは、その言葉を信じてはいなかったのです。ペトロとヨハネは、イエス様の遺体がないことを確認しましたが、帰っていきました。しかし、マグダラのマリアは、イエス様の遺体がないことに悲しみ、墓の外で泣いていたのです。彼女は帰ることができなかったのです。イエス様とのかかわりをなくしたままでは、彼女は生きていくことはできなかったのです。自分の苦しみの人生、イエスに出会い、7つの悪霊を追い出してもらい、イエス様によって新しい人生を始めることができた。イエス様こそ、マリアの信仰の、生のよりどころだったのです。マリアのイエス様を思う、慕う気持ちは弟子たちよりもはるかに大きかったのです。

 マリアは泣きながら、やはり墓の中が気になります。墓の中をのぞくと、そこには天使がいました。天使は、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いました。マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と、自分が泣いている理由を述べました。

 14節を共に読みましょう。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」 不思議なことです。イエス様の遺体がない。イエス様がおられないことのゆえに、マリアは泣いていた。そして、後ろを振り向くと、そのイエス様が立っておられるのが見えたのです。イエス様を見たのです。自分の探しているイエス様を見たのにもかかわらず、イエス様だとはわからなかったのです。マリアの探していたのは、死んだイエス様、イエス様の遺体でした。死んでしまったイエス様を探していたので、よみがえられたイエス様、生きているイエス様を見てもわからなかったのです。

 私たちにも、このようなことはないでしょうか。イエス様はよみがえられているのに、復活されたのに、まだ、死んだイエス様、イエス様の遺体を探している。神様の業は起こっているのに、何も起こっていないかのような歩みをしていることはないでしょうか。

イエス様が共にいるのにもかかわらず、共におられないかのような信仰生活、イエス様がそばにおられるのに、おられないかのような信仰生活を送っているということはないでしょうか。大丈夫、あなたがイエス様と共にいることを感じられても、感じられなくても、イエス様は必ずあなたと共におられるのです。

 

 三、今は泣いている時ではない

 イエス様を見ているのにもかかわらず、イエス様だとはわからないマグダラのマリアにイエス様は語られました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。

 面白いですね。探さている張本人が、マリアに「誰を探しているのか」と尋ねているのです。マリアは、イエス様が園丁だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と、真実に、切実な思いで語りました。イエス様への精一杯の思いを感じとることができます。

 イエス様は、マグダラのマリアの強い思いに答えて、「マリア」と言われました。すると、彼女は振り向いて、「ラボニ、先生」とイエス様を認めたのです。神様は、聖書の中で、個人の名前を呼ばれます。「アブラハムよ、モーセよ、エリヤよ、ダビデよ、ザアカイよ、パウロよ」と。マリアは、名を呼ばれて、イエス様との個人的な関係を回復したと言えるでしょう。「マリア」「ラボニ、先生」この関係は、信仰生活にとって大切なものです。神様の声に直ぐに答えることのできる関係を私たちはいつも築きたいと思うのです。

 マリアは、大好きなイエス様、自分の人生を変えて下さったイエス様、命よりも大切なイエス様、しかも遺体ではなく、よみがええられたイエス様を見て、認めて、イエス様にすがりたくなったのでしょう。それは、人間として当然です。しかし、イエス様は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言われました。これは触るなという意味ではないと思います。「マリアよ、おまえの気持としてはすがりつきたいのはわかる。しかし、すがりつくよりも、あなたの使命は私が死からよみがえったことを弟子たちに伝えることだ。」ということだと思うのです。すがりつくのではなく、イエス様から離れさって伝えよ、ということなのだと思うのです。

 また、イエス様は復活されたご自身を多くの人々に示されますが、やがて父なる神様のみもとに帰っていかれます。ですから、いつまでもイエス様を肉体の目で見ることはできない。ですから、肉体の目で見る。触れるというような信仰ではなく、見ないで信じる信仰、信仰によるイエス様と生きた交わりを大切にするように、ということなのです。マリアも弟子たちも、これから先ずっと、イエス様を肉眼の目で見つづけることはできません。イエス様の肉体の体に触れ続けることはできないのです。肉体的な事柄、見える事柄だけには、頼るなとのイエス様の思い、お心がそこにはありました。

 マリアは、イエス様の言われたことに忠実に従い、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と証したのです。マリアは、イエス様に触れたかった。イエス様と共にいたかった。よみがえられたイエス様ともっと交わりたかったでしょう。しかし、マリアは自分の思い以上に、自分の思いよりもイエス様の言葉を優先したのです。イエス様の言葉を大切にしたのでした。このマリアの姿勢に、私たちは見習いたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様はマグダラのマリアに、「なぜ泣いているのか」と問われました。マリアの泣いている理由は、イエス様は当然知っておられました。ですから、「なぜ泣いているのか」と問われたのは、泣いている理由を問われたのではなくて、「なぜ泣いているのか」と問うことによって、「もう泣かなくてもいい。」「もう泣く必要はない。」「大丈夫だから」、肉体の目も、信仰の目も開いて私を見るのだ、ということだと思うのです。

 未だに泣き続けている人はいませんか。私たちは、イエス様の十字架と復活により、罪が赦され、魂が救われ、神様の前に義とされ、永遠の命が与えられているのにもかかわらず、罪が赦されていないかのように、魂が救われていないかのように、神様の前に義とされていないかのように、永遠の命を持たないかのように生きている、信仰生活をしていることはないでしょうか。イエス様は、十字架の上に、「成し遂げられた」と救いの完成を示され、復活されて、よみがえりの命を与えて下さいました。もう、泣かなくてもいいのです。あなたの痛みや問題、困難にイエス様は解決を持っておられるのです。何も心配しなくてもいいのです。よみがえられたイエス様は、昨日も、そして今日も、明日も、いつまでもあなたと共におられ、あなたを守り、あなたを支えて祝福して下さるのです。死を見つめて悲しむ人生ではなく、天を見上げて、天国を望み見て、希望をもってこの週も、そして、2015年度も歩ませていただきたいと思うのです。

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