日曜礼拝(復活後第三) 2015.4.26
「ペトロの面接試験」 ヨハネ21:15~19
Ⅰ導入部
おはようございます。4月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。
横浜では桜の花も散り、北海道では桜の花が満開だと聞いています。これから、春の花が咲き乱れ、ゴールデンウィークもあちこちらで、春の花を楽しまれるのだと思います。
神様が創造された自然を思いっきり満喫できたらいいですね。ゴールデンウイークでの、家族との交わり、友人知人との交わり、教会の愛する方々との交わりが祝福されますように祈ります。ゴールデンウイークにお仕事があったり、しなければならない所用のある方々は、必要な事がなされますようにお祈り致します。
神戸におりました時は、ゴールデンウイークと言えば、塩屋聖会と言って、私の母校であります関西聖書神学校で聖会が連日開催され、高校生の頃から参加して聖書の言葉に触れ、献身の思いが与えられた場所でもありました。そのような集会が関東でもまた始められたらと願い祈ります。
今日は、ヨハネによる福音書21章15節から19節を通して、「ペトロの面接試験」という題でお話したいと思います。今週、「ペトロの面接試験」という題で、表の看板に書かれてあり、スーツ姿のサラリーマンの方々でしょうか。看板を見ながら歩いておられました。かつて就職のための面接試験を思い出されたのでしょうか。青葉台教会が面接の会場になっているかのようにも思えたのかも知れません。ペトロという会社の面接試験と見ることもできますが。
Ⅱ本論部
一、イエス様との個人的な交わり
学校の試験でも、就職の試験でも面接試験はあります。面接のための本もあるでしょう。いかに監督する試験官に好印象を与えるのか。どのように答えるべきかと苦労して学んだ方々もおられることでしょう。せっかく面接のための準備や学びを充分にしても、当日、試験官の前で頭が真っ白になって、何を答えたのかわからないというような経験をした方がおられるのかも知れません。何を聞かれるのかが分かっておれば、安心ですが、面接試験というのは心臓に良くないですね。
イエス様の弟子たちは、イエス様の弟子になる時、イエス様から面接されるということはなかったのでしょう。イエス様は、夜を徹して祈り、12弟子を決めました。3年と少しの間、イエス様の立ち振る舞いに接し、イエス様の言葉に触れ続け、イエス様の奇跡の業に接し続けた弟子たちでしたが、彼らはいつも、地上的、この世的考え、損得勘定をいつもむき出しで、天から遣わされ、僕として生きるイエス様の生き方を弟子たちは、なかなか学ぼうとしないで、先生のしもべとしての姿勢を弟子として受け継ごうとしないで、「誰が一番偉いのか」というこの世の尺度しか考えられませんでした。ですから、イエス様が律法の専門家やファリサイ派の人々から苦しめられ、殺されること、そして、死んでよみがえられるというイエス様の言葉を信じないで、イエス様を通して与えられるこの世の栄華ばかりを見つめていたのです。
ですから、弟子たちにとってイエス様の十字架の死は、大きな悲しみであり、落胆であり、彼らの言うこの世的な出世、この世の栄華の可能性が失われた瞬間でした。イエス様が死んで三日目、女性たちからのイエス様のよみがえりの話しを聞いても、弟子たちは信じられませんでした。そんな彼らの所にイエス様は現れて下さり、ご自身の復活のお体、確かに十字架の傷のあるお体を見せて、弟子たちに喜びを与えられたのです。
ヨハネによる福音書21章の初めには、弟子たちの何も獲れない漁を通して、3年前の出来事を思い出させ、イエス様は弟子たちと朝の食事をなさったのです。その時、イエス様は個人的にペトロとの交わりを大切にされました。
ペトロは、自分が弟子の頭、代表だと自負していたでしょう。そんな自分がイエス様を三度知らないと言ってしまった。他の弟子たちは、確かに逃げたけれども、イエス様を知らないなどとは言っていない。イエス様と自分との関係を完全に否定したのは、自分だけだとペトロは痛感していたのです。ですから、よみがえられたイエス様に出会えることは喜びでしたが、自分の過去の大きな失敗が、よみがえりのイエス様に出会うという喜びを半減させるものであることを彼自身感じていたのではないでしょうか。
私たちも同じ罪人であり、自分の犯した罪のゆえに、神様の赦しの御業はうれしいけれども、わたしのような罪人、私の犯した罪、失敗は赦されないのではないか、と思っておられる方はおられないでしょうか。イエス様はペトロとの個人的な交わりを願ったように、あなたと個人的にかかわりたいと強く願っておられるのです。
二、より深く愛するために
15節を共に読みましょう。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」
イエス様は、他の弟子たち以上に私を愛するか、と問われました。口語訳聖書では、「「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」」 ペトロ以外の弟子たちが、イエス様を愛すること以上に私を愛するか、と問われました。
イエス様は、十字架にかかられる前に、弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく。」(マルコ14:27)と言われた時、「するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。」と言った。」(マルコ14:29)と聖書は記しています。自分以外は全員つまずいても自分だけはつまずかない、と宣言したのです。けれども、弟子たちは、イエス様につまずきました。そして、ペトロだけは、イエス様を三度も否定してしまった。だれよりもつまずいてしまったのでした。
イエス様は問われるのです。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と。もし、ペトロが、「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。」と言った時と何も変わっていなければ、「はい。他の弟子たちがイエス様を愛する以上にわたしはあなたを愛します。」と宣言したでしょう。しかし、ペトロは大きな失敗を経験し、自分の力に頼ることはできませんでした。ですから、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。
ペトロは、イエス様が自分を責めたり、裁いたりすることなく、以前と変わらずに愛していて下さったことを感じていたでしょう。ペトロ自身、イエス様との関係を否定してしまったという失敗、罪を犯したからこそ、イエス様を他の弟子がイエス様を愛する以上に愛するということを知っていて下さることを確信していました。
ペトロはかつて、イエス様がファリサイ派の家に食事に招待された時のことを覚えていたでしょう。ある罪深い女がイエス様に近づいて、涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗った時、ファリサイ派の人が心の中で、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人かわかるはずだ。罪深い女なのに。」(ルカ7:39)と思った時、イエス様は、金貸しに500デナリオンと50デナリオン借りた人が、共に借金を帳消しにしてもらった時、どちらが金貸しをより多く愛するか、と質問し、多く赦してもらった方ですと答えると、イエス様は、彼が食事を招待しておきながら、足を洗う水も出さず、接吻の挨拶もせず、頭にオリーブ油を塗ってくれなかったけれども、この女性は涙で足をぬらし、接吻し、香油を塗ったという行動は、イエス様に多くの愛を示したのだ、と言われました。そして言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
ペトロは、自分以外の弟子たちが犯さなかった罪、イエス様を完全に否定してしまいました。そんな、自分をイエス様は他の弟子以上に愛して下さった。それは、ペトロ自身が多く愛するためなのです。彼は、他の弟子たちよりもイエス様に多くのものを赦されたのです。それは多く赦されたからこそ、イエス様を他の弟子たちよりも多く愛するためであることをペトロは感じていたでしょう。だからこそ、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。
私たちも、もしかしたら他の人が失敗しなかったような失敗があるかも知れない。あなた以外の人が犯さなかった罪を犯したかも知れない。それは、あなたが他の人よりも罪深いからではありません。あなた以外の誰よりもイエス様を愛するようになるためなのです。
三、もう悩み続けなくていい
16節を共に読みましょう。「二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。」
一度目の質問との違いがあります。イエス様は、「この人たち以上に」という言葉を使われませんでした。イエス様は言うのを忘れたのでしょうか。省略したのでしょうか。そうではありません。あえて使わなかったのだと思うのです。他の人と比べることなく、ペトロ自身が多く赦された者として多く愛する者とされていることを知り、ペトロ自身に、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われたのです。彼は、かつて他の弟子といつも比べて、優劣で物事を考えていたでしょう。しかし、「たとえ、みんながつまずいてもわたしはつまずきません。」というようなことではなく、イエス様ご自身が自分だけを見つめ、自分だけに語られる言葉に答えたのです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。
17節を共に読みましょう。「三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
イエス様は、ペトロのご自分に対する愛を確かめるように、また同じように「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われました。イエス様は同じように問われましたが、問われたペトロは違いました。三度問われて悲しくなったのです。口語訳聖書と新改訳聖書は「心痛めて」とあります。詳訳聖書では、「気に病んだ」とあります。気に病むとは、「悩む、わずらう、心配する」ということだと思いますが、ある意味には、「失敗をいつまでも悩む」というような意味がありました。ペトロはイエス様に三度、「わたしを愛しているか。」と問われて、自分がイエス様を三度知らないと言ったこと、その失敗を罪をいつまでも悩んでいたということでしょう。そのペトロの悩み、いつまでもイエス様を知らないと言ってしまったと悩み続ける。わずらい続けるペトロに赦しと癒しを、そして慰めを与えるために、三度も問われたのだと思うのです。
ペトロ自身も、三度「わたしを愛しているか。」と問われて三度目のペトロの答えにも変化がありました。一度、二度目の答えは、「「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」」という答えでしたが、三度目は、「「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」」
イエス様は、私の何でもご存知です。何も隠せません。イエス様の前では、私の弱さも失敗も罪も全てが明らかです。他の弟子たちが犯さなかったような罪を犯してしまう私です。そんな私ですからこそ、あなたの多くの赦しをいただいた者として、わたしがあなたを愛していることもまた、あなたはよく知っておられるのです。ペトロは、イエス様の大きな愛と赦しと恵みをいただいたのです。
そんなペトロに、イエス様は羊の群れをお任せになったのです。すでにペトロの働きを用意しておられたのです。このイエス様の愛が、ペトロの中に息づいているのです。そのことをペトロは教会の群れに示して行くことになるのです。
ペトロは、ペトロの第一の手紙5章2節から4節で、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」と語っているのです。6節、7節では、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
ペトロは、イエスさまの愛を深く感じながら、三度の愛の問いかけの出来事を思い出しながら、この手紙を書いたのではないかと思うのです。
同じように、イエス様の愛は私たちのうちにも宿っているのです。
Ⅲ結論部
ペトロの面接試験は合格だったでしょう。イエス様から新しい使命を与えられましたから。ペトロはイエス様が自分の罪のために十字架にかかられて、父なる神様様から罰を受け、苦しみ、血を流し、命を与えて下さった。その事により、自分では拭い去ることのできない罪、自分自身では負い切れない罪を赦して下さり、神であるお方が死を経験されたけれども、三日目によみがえり神の力を現されたのは自分のためであったこと、そして、この十字架と復活の目撃の証人として自分が羊の群れを牧する者としてイエス様が使命を与えて下さったことを強く感じたのです。
私たちは同じように、イエス様の十字架と復活を通して与えられる罪の赦しと魂の救い、永遠の命を持つ者として、イエス様に愛されているその愛を持って、私たちは家族を、友人を、接する人々を愛していく、愛を実践していく者とさせられていることを覚えて、愛の実践をこの週も、ゴールデンウィークも過ごしたいと思うのです。
イエス様は、ペトロに「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われました。
ペトロは歳を重ねると、たよりなくなり、支えるものを必要とし、自分の周りにいる者たちに依存し、その結果、自分の意志よりも、周りの者の好むことを、望ことを、言われることを、自分も行わざるを得なくなるというのです。年をとるということはそういうことでしょう。私たちは、自分の力で、自分の思いではできなくなる時がきます。でもそれは悪いことではありません。私たちの内には、イエス様の愛が満ち溢れているのです。自分の思い通り動けないことが幸せではありません。自分のうちにイエス様の愛が満ち満ちていること、これすなわち幸いなことなのです。その愛を私たちは持っているのです。そのことを感謝しながら、イエス様がいつも共におられて、私たちを支え、愛で満たして下さるのです。このキリスト様の愛に押し出されて歩んでまいりましょう。