江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

主日礼拝(2010年5月30日)

2010-05-30 13:06:31 | Weblog
              主日礼拝式(三位一体後第一主日)      2010.5.30
         
                   「食べ物の恨みは怖い」 使徒言行録6:1-7

 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月の第五主日を迎えました。今日は賛美礼拝となっております。先週はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。聖霊に満たされた弟子たちが、イエス様の約束の通りに力を受けてイエス様を証しして教会が誕生しました。聖霊によってなされた教会は、使徒の教え(聖書の教え)、相互の交わり、聖餐式、祈りに熱心でした。そこに、魅力的なクリスチャンとして生きた彼らは、周りの人々に好意を持たれ、尊敬されていたのです。私たちも、聖霊とみ言葉によって魅力的なクリスチャンとされていることを自覚し、意識して歩ませていただきたいと思います。
 「食べ物の恨みは恐ろしい」とよく言われます。自分の大好きなものを誰かに横取りされたり、あとで食べようと思っていた大好物のスイカやメロンを冷蔵庫で冷やしていたら、いいものがあると家族の誰かに食べられてしまったとか、回転寿司で大好物のネタを先に取られたとか、大したことでもないけれども、誰かとの関係がギクシャクしてしまうということがよくあります。絶縁状態になってしまうこともあるのです。聖霊によって誕生した教会でも、食べ物のことで問題が起こりました。
 今日は、使徒言行録6章1節から7節を通して、「食べ物の恨みは怖い」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈問題は内側にあり
 使徒言行録6章1節を共に読みましょう。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」 弟子の数が増えてきてとあります。ペンテコステにペトロの説教によって、イエス様を信じて洗礼を受けた者が3千人ありました。また、3章での生まれながらの足の不自由な人の癒しを通して、ペトロとヨハネの語った言葉によって、救われた男の人の数は5千人になっていたのです(使徒言行録4:4)。女性を加えるともうすでに1万人以上の人々がイエス様を信じて、初代教会の群れに加わっていたことになります。
 120名から1万人以上と言う急成長の教会の姿がありました。弟子の数、つまりクリスチャンの数がどんどん増えていったのです。初代教会に加わった人々の中には多くの貧しい人々がいました。やもめの女性たちも多くいました。ですから、聖霊によって形成された教会には、持ち物を共有していました。緊急の必要に迫られた人々や毎日の必要のためにお互いに分け合った麗しい姿がそこにはありました。けれども、聖書が記しているように、「弟子の数が増えてきて」、クリスチャンが増えてきて、問題が起こったのでした。
 数が増えたから問題が起こったのでしょうか。数が増えても、数が少なくても、問題の起こるところは起こるのかも知れません。数が少なくても、増えても、問題は起こらないところもあると思うのです。問題が起こるということは、それなりの原因があったはずです。勿論、数が増えたことだけでも問題があると思いますが、数が増えただけの問題ではなかったように思うのです。
 聖書には、「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。」とあります。ここには2種類のユダヤ人が登場します。先祖伝来のヘブライ語を話すユダヤ人がいました。彼らは、自分たちの生活には異教のものは何一つ入れないことを誇りにしていた人々でした。また、異邦の国々から来ていたユダヤ人がいました。彼らは祭りのためにエルサレムに来ていた人々でした。彼らの多くは、何代もパレスチナの土地から離れていた人々でした。ですから、ヘブライ語を忘れてギリシア語を話していたのです。彼らは、ペンテコステの日、聖霊のみ業の素晴らしさを知り留まった人々でした。
 当然のこととして、先祖伝来ヘブライ語を話すユダヤ人は、異邦の地、異邦の習慣に触れている外国育ちのユダヤ人を見下し軽蔑していたのだと思います。この見下した思い、軽蔑したままの思いが何も解決されないまま、このことが日々の配給の問題として形に現れてきたのだと思うのです。ですから、ギリシア語を話すユダヤ人から、日々の分配のことで、やもめたちが軽んじられているという苦情が出たのでした。
 ヘブライ語を話すユダヤ人たちのギリシア語を話すユダヤ人に対する見下した思いや軽蔑の心が、日々の配給に対して、適当であったり、配慮がなかったり、数が不足したりということが起こったのではないかと思うのです。内側にある思いが外側に出てきたのです。
 多くの問題は、最初から表には出てきません。心の中に、心のうちにあることが出てくるのです。私たちも神様に対して、人に対して、心の内にあることが外側に出てくるのです。ですから、私たちは表面的なこと、外側にのみ一生懸命になるのではなくて、内側の面、霊的な面を大切していきたいと思うのです。心に軽蔑や疑い、批判があるままの思いや心を持ち続けているうちに、問題が外に現れてくるのです。ですから、日々、聖書の言葉に触れ、聖霊の導きを敏感に感じ、問題を問題のまま放置しないで解決していく習慣をつけたいと思うのです。

 ⒉神の言葉の優先順位
 人生に問題はつきものです。クリスチャンになったからといって問題が何もなくなるのではありません。クリスチャンになって、問題が前よりも多くなったということもあるのです。問題のない人生などと気楽な人生はありません。だとしたら、問題が起きた時、問題が起こったときにどのように対処したらよいのでしょうか。聖霊に導かれて誕生した初代教会で、その中心であった12弟子たちの中にも問題があったようです。その問題とは何だったのでしょうか。
 2節を共に読みましょう。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」
この問題を個人的なこと、小さいこととしないで教会全体で考えることにしたのです。誰かの権威や力で問題を解決しようとはしませんでした。問題があるのに、問題がないかのようにその問題を、課題をもみ消すということをしませんでした。キリストの教会だから、そのようなことがあってはならない、といってギリシア語を話すユダヤ人の代表者にお金や物で黙らせる。やめもの人々に多くのお金や物でつって、何も苦情がなかったかのように企てるということもしませんでした。この世の中では、そのようなことがまかり通ることがあります。多くの映画やドラマはそのような事がほとんどです。あの時に、すべきことをしていればよかった。正直に話せば良かったということがあるのです。
 私たちも自分の人生において、「長いものには巻かれろ」ということで問題を感じるのに、問題がなかったかのようにしているということがあるように思うのです。
クリスチャンなのに、自分の事や家族の事に問題があることは不信仰だから、何もないかのように装う。いつも恵まれているかのように振舞うということはないでしょうか。それこそ問題だと思うのです。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンになっても失敗もあります。罪を犯すこともあります。人の心を悲しませることもあります。それなのに、自分は何も問題のない、霊的なクリスチャンですという生き方を続けることこそつらい信仰生活だと思います。それこそ、ファリサイ派の人々や律法学者たちの生き方そのものでした。イエス様はそのような生き方を厳しく指摘されたのでした。
 問題があれば問題があります。お祈りくださいと言える関係でありたいと思います。今家庭で、夫婦で、親子でこのような痛みがあります。弱さがあります。お祈りくださいと祈り合える関係でありたいと思います。何でもかんでも言えることと言えないことも勿論あります。けれども、神様には秘密にしないで祈りたいと思います。そして、一人の痛みは全体の痛み、ひとりの喜びは全体の喜びとして教会で、みんなで取り組めたらと思います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と聖書は語ります。
 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と弟子たちは言いました。弟子たちは、聖霊に導かれてイエス様の教えを大切にしていたでしょう。けれども、「神の言葉をないがしろにして」とあるように、どこかにそのような事があったのでしょう。新改訳聖書は、「神のことばをあと回しにして」とあり、口語訳聖書では、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。」とあります。ですから、クリスチャンの数が増えて、目に見えるところが祝福されて、それで喜んだ。何も悪くはありません。すごい急成長に、数の増加に日々食べ物を必要とする人々が増えました。また、緊急に食べ物やお金を必要とする人々も増えました。そうした必要のために、弟子たちも借り出されたのでしょう。いや、そのような人々のためにと愛の故に、働いたでしょう。しかし、そのことが優先されて、本来弟子たちがすべきこと、神の言葉をないがしろに、神の言葉を後回しに、神の言葉をさしおいていたという現実があったようです。
 今、自分が本来すべきことをしていない。できていないところに問題が起こったのではないでしょうか。時代は変わり、環境は変わっても、私たちも同じだと思うのです。聖書の言葉をないがしろにし、聖書の言葉を後回しにし、聖書の言葉をさしおいた結果はわかっているのです。

 ⒊聖霊が武装する
 3節、4節を共に読みましょう。「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
 弟子たちは、神様の言葉をないがしろにすることのないように、日々の配給のために7人を選び出すことを提案しました。食事当番を決めたわけです。食事当番なので、「なりたい人」ではありませんでした。誰にでもできることだから適当にではありませんでした。誰にでもできることだから慎重であったのです。私たちは、簡単に出来ること、誰にでもできること、単純な仕事等を軽んじてしまうことがあります。初代教会の指導者たちは、日々の配給、食事の当番をとても重要視していました。だからこそ、弟子たち自身がこの働きにたずさわっていたのです。人数が増えて、仕事量が増えたこともそうですが、とても大切な働きであったので、教会の中心的な弟子たちがかかわっていたのです。
 そのような大切な働きだからこそ、誰でもいいというのではなく、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」であったのです。リビングバイブルには、「賢明で、聖霊様に満たされた人」となっています。そのような大切な働きを任せられるのは、経験がある人ではありませんでした。専門家でもありませんでした。仕事ができる人でもありませんでした。聖霊に満たされた人。聖霊を意識し、聖霊を認め、聖霊に導かれる人、聖霊と共に歩んでいる人でした。聖霊に満たされているので知恵に満たされるのです。だからこそ、評判の良い人となれるのです。ポイントは聖霊なのです。ペンテコステの日、聖霊の油注ぎにより誕生した教会、聖霊に満たされたペトロやヨハネ、弟子たちの語る言葉や業を通して、教会が建て上げられ、救われる方々が起こされたその源、聖霊に満たされている人が、日々の配給、食事当番に最もふさわしい人物であったのです。
 あの夢の国と言われている東京ディズニーランド、本当は千葉ディズニーランドですが、ディズニーランドで最も大事だとされている働きは、ショウをやったりパレードをする俳優のような人物でもなく、コンパニオン的な人でもなく、目立つ人でもなく、誰にでもできると言われている駐車場の係りや園内の掃除係りだという事を聞いたことがあります。その誰にでもできる駐車場の係りや掃除係りの人を徹底的に訓練するそうです。たかが掃除係り、されど掃除係りなのです。ディズニーランドで最初に出会うのは駐車場の係りです。最初の印象は大きいです。そして、園内で一番多くの人と接する掃除係り、これも大切です。彼らは自分のその働きにプライドを持っています。誰にでもできることでしょう。だからこそ、大切にし、掃除だけではなく、園内をきれいにするだけでなく、そこに集う人々、夢の国にいる人々に最高の経験をさせるのです。駐車場の係りだから、掃除係りだから誰でもいいのではないのです。
 初代教会の指導者たちは、日々の配給で苦情が出た時、その働きにつく人に最も大切な聖霊に満たされた人を立てました。5節に出てくる7人は、7人ともユダヤ名の人はいません。全部がギリシア名を持つ人々でした。そんなことをしたら、今度はヘブライ語を話すユダヤ人から苦情が出るのではないか、という問題が出てきそうですが、それは大丈夫でした。なぜなら、ヘブライ語を話す人から何人、ギリシア語話す人から何人と、人間的な考えや常識的な考えで、この世の価値観で選んだのではありませんでした。聖霊に満たされた人、神様の愛と恵みに満たされた人でしたので、人間的な工作で物事を考えるのではなく、何が神様の思いで、その人のためになるかをまず考えることのできる人々であったからです。ですから、弟子たちは、安心して「祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」とそのようにできたのです。この7人は、現在の教会役員の基となったのです。
弟子たちの御言葉の奉仕も、日々の配給の奉仕も同じ価値のある奉仕なのです。教会のさまざまな奉仕がありますが、優劣や順位はなく、どの奉仕も神様の前にも人の前にも等しく尊いのです。

 Ⅲ結論部
 「食べ物の恨みは恐ろしい」と言われるように、人間関係がくずれることがよくあります。聖霊に導かれた初代の教会も、ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に、自分たちの仲間であるやもめがないがしろにされている、軽んじられているという苦情がありましたが、弟子たちは聖霊に満たされた7名を日々の配給の勤めに任じました。いままで軽んじられていたやもめの方々はどうだったのでしょうか。自分たちが日々の配給で軽んじられている、差別されていると感じていたでしょう。けれども、教会がこの問題を全体の問題として考え、この問題をなかったかのようにするのでもなく、人間的な考えで行動することもなく、弟子たちがみ祈りとみ言葉の奉仕に専念できるように、聖霊に満たされた7名を選びました。選ばれたギリシア語名を持つ7名は、ヘブライ語を話すユダヤ人、ギリシア語を話すユダヤ人と区別したり、差別することなく、同じようにイエス様を信じる者として、平等に、愛を持って仕えたので、この問題も解決しました。
 私たちの罪を赦すために、十字架にかかって死んで下さったイエス様を信じる者のうちに、偏見や自己中心的な考え、傲慢な思いは聖霊で整えられて、皆が愛し合う、助け合う群れとして相手を自分よりもすぐれた者と思う、と聖書にあるとうりに、人や常識、この世の声や考えに従うのではなくて、聖書を通して、聖霊の導きを受けて、神様のみ心、神様のお心を聞いて従う群れを神様は祝福して下さったのです。
 7節を共に読みましょう。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」 初代教会は、問題が起こった時、無視したり、簡単にしないで、教会全体の問題として捉え、みんなに意見を求め、みんなに提案しました。そして、聖霊の導きに従うことにより、各自がふさわしく、なすべきことをなすようになったのです。私たちも、忙しい毎日ではありますが、神の言葉を、祈りを後回しにするのではなく、み言葉と祈りを先ず優先し、大切にして、この週も歩ませていただきたいと思うのです。聖霊は、問題を祝福と恵みに変えて下さるのです。この変化をこの週も経験させていただきたいと思うのです。
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(ペンテコステ礼拝 2010年5月23日)

2010-05-23 17:11:08 | Weblog
ペンテコステ礼拝式(復活後第七主日)      2010.5.23
       
 「あなたのようになりたい」 使徒言行録2:37-47

 Ⅰ導入部
おはようございます。5月の第四主日を迎えました。今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。全世界のキリスト教会では、ペンテコステの記念の礼拝が持たれています。2000年前に、イエス様の約束の言葉を信じて祈り待ち望んだ120名の人々に聖霊が注がれました。私たちもイエス様のみ言葉に立ち、信仰に立ち、豊かな聖霊の油注ぎをいただきたいと思います。
先週の月曜日には、キリスト教協議会(NCC)の教育部主催のキリスト教教育研修会がありました。私たちのナザレン教団は、NCCには加盟しておりませんが、NCCの教育部には参加しているので、ナザレン教団の教会教育委員会のメンバーが参加することになっておりますので、加盟してまいりました。テーマは、「格差社会の中のキリスト教教育」ということで東大教授の高橋哲哉氏のお話で、「愛国心教育のゆくえ・・・共生社会の実現に向けての教育の課題」という題での講演でした。
講演の中で高橋氏は、「教育勅語は、国のための役立つ人作りであり、教育勅語に徹すれば靖国で祭られる。教育勅語の行き着くところは靖国神社である。愛国心は、国家、天皇のために命を捨てて尽くすこと。靖国の論理は自己犠牲。教育勅語に忠実に生きた、つまり死んだ者は、血の犠牲の模範として教え込むことにある。靖国の自己犠牲とキリスト教の自己犠牲は違うもの。 現代の愛国心教育は、教育基本法の改選の中で、愛国心教育は強められている。若者の根性を叩き込まなければならないという軍国主義教育をすればよいと言う考え方がある。また、現代格差社会の中で、痛みを強いられ、生きる希望を失っている人々が、愛国心に頼って生きようとする人々がこれから出て来るのではないか。
ある方のことを紹介していました。格差社会の中で、将来に希望のない社会の中で、現代日本は若者を見殺しにする国であるからこそ、自分を戦争に向かわせる。国と社会全体がひっくり返るような事が必要。それが戦争。格差社会の中で、全ての人が命、財産が保証されないことが戦争。戦争が起これば、日本のために戦って死ねば、今のまま経済的な弱者としての死ぬよりは、お国のためと靖国に祭られる、というようなかつての靖国が国民の感情に訴えるものと似ている。そのような若者が増加してくる恐れがある。」というような内容のお話しでした。
また、午後からは在日外国人の方々の問題、桜美林中学・高校の校長の本田氏のお話、現代の学校の保健室から、といろいろな課題が話されました。日本においては、これからますます多くの問題や課題がありますが、私たちは神様を信じるクリスチャンとして、無視することもなく、神様に祈り求めながら、そのような事柄があることをまず知り、私たちのできることをさせていただきたいと思います。
当時のクリスチャンも弱小でした。何の権威も力もありませんでした。しかし、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」というのが、イエス様のお約束でした。その約束を信じて、祈り待ち望む群れに聖霊が与えられました。聖霊降臨はイエス様のお約束です。
さて、今日はペンテコステ礼拝で「あなたのようになりたい」という題でお話したいと思います。ペンテコステでなされた現象というよりも、聖霊を受けた人々はどのような生活、生き方であったのかということを共にみさせていただきたいと思います。

Ⅱ本論部
⒈聖霊の導きに応答する
使徒言行録2章1節から4節には、五旬際の日に突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、120名のいた場所に響き、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまり、聖霊に満たされ、霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話し出した、ことが記されています。イエス様のお約束の通りに、イエス様が死から復活した時から50日目に聖霊が与えられました。ペンテコステは50を表わす意味があります。五旬節とは、過ぎ越しの祭りから50日目にあたるイスラエル民族がホレブ山で律法を授かった記念日です。その記念日に聖霊が与えられました。石に刻んで読ませる律法の時代が終わり、クリスチャン一人ひとりに聖霊が下り、神のみ業が行われる時代が来たのです。
120名一人ひとりの上に聖霊が下りました。優劣はなく、格差もなく、イエス様の約束の言葉を頼りに、期待して祈り待ち望んだ全ての人々に聖霊が与えられました。若い者にも、年を重ねた者にも、病があってもなくても、裕福な者も貧しい者も、心を一つにして祈る群れに聖霊は確実に与えられたのです。そして、いろいろな国の言葉で福音を語ったのです。ですから、いろいろな国から祭りに集まっていた人々が、自分たちの母国語で福音を聞いたので驚いたのです。
聖霊を受けた者の一人であるペトロが語りました。聖霊に満たされているのは旧約聖書のヨエル書の預言の成就であること、人々がイエス様を十字架につけて殺したこと、イエス様がよみがえられたこと、そのイエス様のよみがえりの証人がペトロたちであること、神が十字架について殺されたイエス様を主とし、メシアとされたことを力強く大胆に語ったのです。
37節を共に読みましょう。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。」 聖霊に満たされたペトロの言葉は、それを聞いた人々の心を打ちました。聖霊が下って120名の者たちが、自分たちの国の言葉で福音を語るのを聞いて、「あの人たちは、新しいぶどう酒によっている」とあざける者もいたのですが、ペトロの言葉に心を打たれました。ペトロが語ったイエス様の十字架と復活の福音の言葉は人々に感動を与えました。求道する心を与えたのです。 口語訳聖書や新改訳聖書では、「心を打たれ」と訳された言葉は、「(強く)心を刺され」となっています。詳訳聖書には、「心を裂かれ」とも訳されています。ペトロを通して、今のままではいけないと感じた人々は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うたのです。
神様は、私たちが聖書の言葉を読む時、聖霊はその神の言葉を通して私たちに語りかけられるのです。私たちに御心を示されるのです。私たちに命令されることもあります。避けるべき行動を示されることもあります。罪をストレートに示され、悔い改めに導くこともあります。多くの約束を通して慰め、励まして下さるのです。その時、私たちは、示されただけで終わってしまうことはないでしょうか。語られた言葉に応答することなしに終わっている歩みではないでしょうか。
ペトロの話を聞いた人々は応答したのです。ペンテコステは聖霊降臨日ですが、違う言い方をすれば、教会の誕生を記念する日でもあります。初代の教会は、このペトロの説教に正しく応答した人々によって建てられたのです。福音が語られる所では、どこでも必ず、福音を聞いた人々の反応があるのです。クリスチャンになった方々は、どこかでイエス様の十字架と復活の福音を聞いて応答されたので、イエス様を信じ、洗礼を受け、クリスチャンとしての歩みを今なされているのだと思うのです。
イエス様の十字架と復活に対して、まだ応答していない、反応していない方々はぜひ応答していただきたいと思うのです。

⒉悔い改めて、洗礼を受ける
38節を共に読みましょう。「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」リビングバイブルには、「ペテロは答えました。「一人一人が、罪の生活から足を洗って神様に立ち返りなさい。そして、罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、聖霊様という贈り物をいただけます。」」とあります。罪の赦しは、私の罪の身代わりにイエス様が十字架で死んで下さったことを信じる時に救いが与えられます。洗礼を受けて初めて救われるのではありません。「洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」とあるので、洗礼が罪の赦しの根拠であるかのように感じますが、イエス様の十字架を信じる信仰が罪を赦し、洗礼はその罪赦された者が神の子として神様を共に生きることを神様と人の前で誓う儀式です。この形が人を救うのではないのです。
現代訳聖書は、その点についてわかりやすく訳しているように思います。「ペテロは答えて言った。「自分の罪を捨てて、神様に立ち帰りなさい。そして、自分の罪を赦していただくために、イエス・キリスト様を信じなさい。そうすれば、聖霊を賜物として頂くことができます。同時に、イエス・キリスト様のお名前によって、バプテスマを受けることです。」」とあります。罪の赦しはイエス様を信じること、そして、イエス様を信じるという信仰を見える形に表わしたのが洗礼式なのです。ですから、信じていれば洗礼は受けなくてよいという考え方は通らないのだと思うのです。
ペトロは、悔い改めることと洗礼を受けることを勧めました。36節で、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」というペトロの言葉は、聞いていた人々に罪の自覚を与えました。ですから、「悔い改めなさい。」とまず勧めました。ヨハネによる福音書16章8節では、「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とイエス様は語られました。聖霊に満たされて語ったペトロの説教は、深い罪の自覚を与えたので「悔い改めなさい」とペトロは勧めたのです。私たちは、説教や聖書の言葉に触れる時、罪の自覚が示されることがあります。その時、イエス様の十字架を見上げて、罪の自覚で終わるのではなくて、悔い改めで終わるのではなく、十字架を通して赦しを体験したいと思うのです。このように自分にも罪があると認めない限り、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という求道の思いは沸いてこないのです。罪があるとわからない限り、「ごめんなさい」は言えないのです。
悔い改めるとは、その心において、内面において、自分にも罪があることを認め、その罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さったということを知識的に知り、死んでよみがえられたイエス様を私の救い主であると信じる、認めること。そして、生活面、外面的においては、自己中心的な生活、心の王座が自分中心からイエス様に明け渡し、イエス様中心、神様第一の生き方に変わると言う変化なのです。そして、イエス様の十字架の死を自分の罪のためであると信じる信仰の告白を公にし、形にすることなのです。
 39節を読みましょう。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」」 この救いは全ての人々に開かれている、招かれているものなのです。
 41節を読みましょう。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」というペトロの言葉を受け入れた人々、三千人が洗礼を受けたのです。洗礼を受けることは何にも難しいこともありません。手続きもありません。自分にも罪があることを認め、イエス様の十字架が自分の罪のためであることを信じることでいいのです。あなたにもできることなのです。

⒊み言葉と祈りに生きる
42節を共に読みましょう。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」 聖霊に満たされた群れ、そして、聖霊に満たされたペトロの説教でイエス様を信じて、洗礼を受けた群れは、4つのことに熱心であったのです。
第一に、使徒の教えに熱心でした。リビングバイブルには、「使徒たちの教えをよく守り」とあります。使徒たちを通して伝えられたイエス様の教えのことでした。つまり、それが新約聖書を指しています。聖書の言葉をよく読み、よく学び、守った、従ったのです。使徒時代も今もこの原則は何も変わっていないのです。 
第二に、相互の交わりに熱心でした。「交わり」とは、「共有」という意味があるようです。お互いが神様から与えられているあらゆる祝福、恵みを共有したのです。物質的なことだけではなく、聖書の言葉を介して、深い霊的な交わりをしていたのだと思うのです。 
第三に、パンを裂くことに熱心でした。それは聖餐式を大切に守ったということです。今日は、ペンテコステを記念して、聖餐式が持たれます。私たちは、この聖餐の式、イエス様の流された血潮、裂かれた肉が私たちの救いの根拠であることを深く受け止め、神様の恵みと憐れみに感謝したいと思うのです。
第四に、祈りに熱心でした。リビングバイブルでは、「祈り会に毎回きちんと出席していました。」とあります。教会の祝福は祈りに熱心であることです。祈り会に参加する方々が多く起こされることです。最近、祈り会に出席する方々が多くなっていることを本当に感謝致します。祈り会の場所に参加できなくても、時を合わせ、心を合わせて祈っていて下さる多くの方々がおられることを思います。本当に感謝なことです。しかし、やはり祈り会のその場に出席していただきたいと思います。出席するためには、体調を整えるという普段の生き方、あり方が問われます。
朝もそうですが、特に夜の祈り会は一日の仕事、業を終えて出席するわけですから、疲れておられると思います。休みたいと思うのも当然です。誰かが行くだろうと思っても仕方がないと思います。けれども、どんなに疲れていても祈り会に参加される方々がおられることに、私は大きな慰めと励ましをいただきます。勿論、朝の祈り会でも同じです。本当に感謝します。皆さんの姿勢に教えられ、励まされています。祈り会に出席するためには、時間と財をささげるという犠牲が伴います。その犠牲が、祈りを通して祝福につながるのだと思うのです。祈り会は自分に関係がないと決め付けないで、ぜひ時間ができたら、いや時間を作って出席していただけたらと思います。1年に1度でも、クリスチャン生涯で1度でも祈り会に出席していただけたらと思います。教会の霊的祝福は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあるので、ここに6月の地区女性会の研修会の結論があります。
44節から46節は、41節の具体的なものを記しているのだと思います。47節を共に読みましょう。「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」 聖霊に満たされた人々を通して、形成された初代教会は、この群れに加わらない人々の目にも、好意を寄せられていたのです。使徒言行録5章13節には、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを賞賛していた。」とあります。詳訳聖書や現代訳聖書、リビングバイブルでは「尊敬していた」とあります。クリスチャンたちが、周りの人々から好意を寄せられ、尊敬されていたのです。言い方を変えれば、魅力的なクリスチャンとしての生き方をしていたということでしょうか。関心をもたれていたとも言えます。
現代のキリスト教会はどうでしょうか。この世の人々から関心を持たれているでしょうか。教会は、クリスチャンは、好意を持たれ、尊敬されるような魅力的な存在でしょうか。そうだと思います。イエス様を信じている者、聖書を通してイエス様と交わり、同じ信仰を持つ仲間との交わりには魅力があるのです。まず、私たちは、イエス様を信じる信仰を持つ私たちには、魅力があることを認めることです。意識することです。中学生になると男の子も女の子も異性を気にします。そうすると、服装にも髪型にも気を使います。自信がないので外面に気を使います。私たちクリスチャンは、外面で勝負するのではなくて、内面で勝負するのです。内面を大切にするので、外側にも現れてくるのです。
 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ということは、聖霊による導き、み言葉を大切にした。み言葉に従った結果なのですから、内面を大切にしたということなのです。そこに、神様は、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とある通りなのです。聖霊の導きに従うとは、この事だと思うのです。

 Ⅲ結論部
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という約束は本当でした。120名の者たちは、約束の聖霊をいただいて、力を受け、大きな証をしました。聖書の言葉を大切にし、祈りを大切にし、イエス様に愛されたように、お互いに愛し合い、共有し、聖餐式を大切にする群れを周りの人々は好意を持ちました。尊敬していたのです。つまり、初代教会のクリスチャンを見て、「あなたのようになりたい」と周りの人々がおもったのではないでしょうか。私たちも、家族から、友人から、会社の仲間や、学校の仲間から、あるいはクリスチャン仲間から「あなたのようになりたい」と思われるような、クリスチャンライフをしたいと思うのです。その秘訣は、やはり聖霊に満たされて、聖書の言葉にしっかりと立ち、み言葉に忠実に従う歩み、聖餐式を重んじ、何よりも祈り、祈り会を大切にして、共に助け合い、愛し合い、共有し合う歩みをすれば、聖書の言葉のように、周りから好意を持たれ、尊敬される人に神様がして下さると思うのです。
 「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあるように、人々を教会に導いて下さり、救って下さるのは主の働きです。そして、教会に仲間を加えて下さるのも神様のみ業なのです。神様のみ業を信じて、この週もみ言葉に立ち、聖霊の導きに従いましょう。
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主日礼拝(2010年5月16日)

2010-05-16 13:00:23 | Weblog
主日礼拝式(復活後第六主日)      2010.5.16
        
「元気の素を極める」 使徒言行録1:3-8

 Ⅰ導入部
おはようございます。5月の第三主日を迎えました。復活後第六主日です。来週は、ペンテコステ、聖霊降臨日となります。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
昨日、学園教会の竣工式感謝会がありました。学園教会の会堂建築のためにお祈りをしていただいておりましたが、無事建築も終わり、昨日は業者の方々から教会への引渡しの式でありました。教会に着いた瞬間、「大きいなあ!」というのが第一印象でした。会堂は、200席が整えられ、うらやましい限りです。小集会室もあり教会学校やいろいろな集会で用いられるようです。中庭があり、短大にあったというマグダラのマリア像が中心にありました。食堂も広く、とてもステキな会堂でした。
長い間、学園教会の方々は会堂を望んでおられました。学校の会堂や一教室を間借りしての礼拝、最近では礼拝の場所の確保の大変な中で礼拝を守って来られましたので、どんなにか会堂建築完成を喜んでおられることでしょう。今日が新会堂での最初の礼拝式です。これから地域に開かれた教会、福音を大胆に語り、救われる方々が起こされ、愛の交わりがなされますようにとお祈り下さい。
皆さんは、健康のためには何かをしておられるという方もおられるでしょう。散歩やスポーツ、食事に気をつけるとか、サプリメントを飲んでいるとか、自分自身の健康管理は気をつけておられるでしょう。だからこそ、健康でいられる。元気でおれるのだと思います。それとはまた違って、皆さんが元気になる秘訣、元気になるもの、あるいは出来事は何でしょうか。さっきまで、寝ていたのに、好きな韓国ドラマが始まると起きて元気になるとか、ゲームを始めると疲れを知らないとか、好きな歌手やスターが出てくると元気になるとか、おいしい物が目の前にあると元気になるとか、眠ると元気になるとか、いろいろとあるでしょう。皆さんの元気の素は何でしょうか。やっぱり食べることでしょうね。疲れたらスタミナ定食ではないでしょうか。休息も元気の素、礼拝はやはり元気の素です。
今日は、使徒言行録1章3節から8節を通して、「元気の素を極める」という題でお話ししたいと思います。

Ⅱ本論部
⒈イエス様の復活は事実
1章3節を共に読みましょう。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」 イエス様は、十字架刑について死なれました。墓の中に葬られましたが、3日目に復活されたのです。イエス様が復活された出来事をこれまで見て来ました。イエス様は何度も弟子たちに語ってこられたように、復活されました。弟子たちに何度か現れましたが、疑う弟子たちもいました。人が死んでよみがえる、復活するということは、人間の理性では、頭では常識では信じられない出来事だったからです。
マタイによる福音書27章62節~64節には次のように記されています。「明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、「自分は三日後に復活する」と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは死者の中から復活した」などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」 
弟子たちよりも、むしろ祭司長やファリサイ派の人々のほうが、イエス様が三日目に復活するという言葉を真剣に捉えていたようです。 イエス様が復活した後、マタイによる福音書28章11節~15節には次のように記されています。「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」
イエス様は生きている時、三日目に復活すると言っていたという言葉を祭司長たちは真剣に受け取り備えましたが、イエス様は死を打ち破り復活されたのです。彼らはその復活の事実を隠そうとしました。弟子たちが死体を盗んだと兵士たちにお金で言わせたのです。このようなことがあったので、イエス様は、ご自分が確かに復活したことを40日にわたって示されたのです。口語訳聖書には、「自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて」とあるように、1度や2度ではなく、何度もご自分が復活されたことを証明されたのです。弟子たちは、この時にはイエス様の復活を疑うと言うようなことはなかったのだと思うのです。
4節を共に読みましょう。「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」
イエス様は弟子たちに、ただ語られたのではありません。こう命じられた、とあるように命令されたのです。エルサレムから離れても、離れなくてもいいですよ。父の約束されたものを待っても、待たなくてもいいですよ、ではないのです。エルサレムから離れるな!父の約束されたものを待て!と力強く命じられたのです。イエス様に従うと言うことは、自分の考えや感覚、自分の都合で従うことではありません。離れずと言われたら離れないのです。待てと言われたら待つことなのです。私たちは、日ごとに聖書の言葉を読みますが、ただ読むのではなく、その語られた言葉に忠実に従う者としてみ言葉に触れ続けたいと思うのです。

⒉大切なものを見る
5節を共に読みましょう。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」 救い主イエス様の道備えとして登場したバプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けました。水で洗礼を授けました。イエス様の十字架と復活を信じた全ての人は、洗礼を受けます。それがイエス様のご命令だからです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)とありますが、「弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。・・・守るように教えなさい。」なのです。
イースターに洗礼を受けられた冨山姉に、洗礼を受けられた後、学びの中で「洗礼を受けてどうですか?」とお聞きしましたら、「洗礼を受けたら、もっと何か世界が一変するような、大きな変化があるのかと思いましたら、別に洗礼を受ける前と後では実感がありません。」と答えられました。その通りだと思います。特別な何かはありませんが、確かに罪赦され、イエス様と共に歩む新しい人生が始まっているのです。学びを共に続けておりました私から見たら、大きな変化があるように思うのです。
バプテスマのヨハネは水で洗礼を授ける。しかし、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる、という約束を与えられたのです。聖霊によるバプテスマこそが、力の源、元気の素だと思います。
6節を共に読みましょう。「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」 弟子たちの思いは、いつも下から上でした。イエス様を頭にイスラエルの復興、ローマの支配からの解放でした。イエス様が十字架につけられる前に、何度も話題にした「誰が1番偉いのか」という考えは、イエス様が復活された後であっても、未だに生きていたのです。いや、死んで復活されたという前代未聞の出来事があったからこそ、イエス様が死に打ち勝たれた勝利者であればこそ、弟子たちのイスラエル復興の思いは強くなっていたのかも知れません。
リビングバイブルには、「そこで、またイエスが姿を現された時、使徒たちはわくわくしながら、「主よ、今こそ、イスラエルを解放し、独立国として再興なさるのですか」と尋ねました。」とあります。そのように、イスラエルの復興を願い、はやる思いにある弟子たちにイエス様は語りました。 7節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」 全て神様のお心の中にあると言われました。
私たちは何でも知りたがります。知らなくていいことでも知りたがります。そして、知ることによって、落ち込んだり、がっかりして、「知らなければよかった」と勝手な事を言います。私たちは全ての事を知る必要はないのです。大切なことを知ることです。知るべきことを知らずして、多くのことを知っていても何の意味もありません。イエス様は言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:36) 大切なものを知らずして、真理を得ずして他の何物を得ても意味がないのです。私たちは、イエス様を通して最も大切な罪からの救いと永遠の命の恵みが与えられていることを心から感謝したいと思います。

⒊聖霊を受ける
8節を共に読みましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 ローマの支配の中で苦しんでいる民のために、イスラエルの復興は大切な事でしょう。独立国となることはみんなの願いでしょう。しかし、そのような事についてあまり詮索するな。大切なことはこれだとイエス様は言われたのです。
先ほど、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」とイエス様は、弟子たちに命じられたことをお話ししました。弟子たちが、この聖霊を受けるためにはエルサレムから離れないことと待つことだと言われました。エルサレムとは、祭司長やファリサイ派の人々、イエス様を十字架につけた人々がいる場所です。つまり、弟子たちにとっても敵です。そのような人々のいる中心地に留まるようにとイエス様は命じられました。弟子たちは、イエス様がこのあと天に帰って行かれるので、自分たちの故郷であるガリラヤに、少しでも早く帰りたかったのかも知れません。危険な場所からできるだけ遠くへ行きたいと思うものです。また、イエス様が十字架刑にされた呪いの場所でもあります。けれども、そのような場所、エルサレムから離れるな、とイエス様は命じられました。そして、父なる神様からの約束のもの、助け主、聖霊が与えられることを待つようにと命じられました。このことなくして、これからの弟子たちの前進はないのです。聖霊を受けずして行動することは愚かなことなのです。うまくいくものもうまくいかないのです。ガソリンを入れずして、車が動かないように、電源無くして、電気製品が動かないように、聖霊を受けずして、宣教、伝道の働きはできないのです。
弟子たちの上に聖霊が下ると、証人になると言います。証人とは、見たこと、聞いたこと、経験したことをその見たとおり、聞いたとおり、経験したことをそのまま語る人のことです。イエス様と交わり、イエス様がなさったこと、語られたこと、イエス様の十字架の死と復活、その事実をそのまま語る者、伝える者となると言うのです。そして、イエス様の証人としての働きはエルサレムから始まるのです。できるだけ早く出て行きたいと願う場所、エルサレムからイエス様の証人としての働きが始まるのです。そして、その働きはエルサレムにとどまらず、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果て、全世界に広がるのです。イエス・キリスト様の十字架と復活、福音は全世界に宣べ伝えられていくのです。その始まりは、エルサレムから、そして弟子たちから始まるのです。イエス様が、12弟子たちを3年と少し訓練されたのは、この時のためであった のです。イエス様の語られたことを少しも理解できない弟子たちでした。イエス様の霊的なお話しを肉的な、この世的な話しとして聞いていた弟子たちでした。何度語ってもすぐ忘れ、勘違いし、理解できない弟子たちでしたが、聖霊が下る時、彼らは変えられるのです。
イエス様はかつて言われました。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)また、「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)とも言われました。
弟子たちは、聖霊が下る時に完全に変えられるのです。弟子たちの力の源、元気の素は聖霊を受けることなのです。聖霊と共に歩む人生こそ、最強の道です。私たちの本当の元気の素は、神様の言葉と聖霊なのです。私たちが元気の素を極めたいならば、聖書に触れ、聖霊をいただき、聖霊の導きに従うことなのです。

Ⅲ結論部
私たちは、クリスチャン生活を力強く歩みたいと思います。そのために元気の素を極めたいと思います。新約聖書1日1章(榎本保郎師)に、「聖霊を受けるという、目に見えないものを大切にしていくことはなかなかむずかしい。信仰は見えない神を相手にした生活で、見えない部分で時間や犠牲などがどれだけささげられているかが非常に大事なことだと言った人もある。私たちは見える世界に終始しやすいが、隠れた神の前にどれだけ信仰に励んでいるであろうか。 聖霊が下らなければ力を得ることはできない。力を得ないと証人となることはできない。キリスト教の解説者になることなら誰でもできる。あるいは、キリスト教信仰を持っているふりをすることもできる。しかし証人となるのはむずかしい。証人となるとは、イエスがその人の生活の原動力となり、いっさいの決定権を持っているということである。」とありました。 
イエス様が私の主人であり、私はイエス様のしもべであるということでしょう。イエス様の言葉、イエス様の命令に忠実に従う者のことでしょう。証人とは、元気の素を極めた人だと思うのです。
私たちは、自分の健康のためにあれこれと気を使うことも大いに結構です。大切なことです。自分の精神衛生のために、ストレス解消のために時間もお金も使うことは大切なことです。しかし、それ以上に元気の素を極めること、イエス様の証人となるために時間も財も使う者でありたいと思うのです。
テモテへの手紙第一の4章8節には次のような言葉があります。「体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」 リビングバイブルでは、「体の訓練も大いにけっこうですが、霊の訓練はさらに大切であり、あらゆる行動の原動力になるのです。ですから、あなたは霊の訓練に励み、もっとすぐれたクリスチャンを目指しなさい。」とあります。私たちは、聖書の言葉に立ち、聖霊と共に歩み、霊の訓練を受けて、クリスチャンとして充実した歩みをさせていただきたいと思います。そのためには、この週も日々聖書の言葉を読み、黙想し、主が語られる言葉に忠実に従い、実践する者として、聖霊を認め、聖霊を意識し、聖霊様に導かれた週を過ごしたいと思うのです。来週は、ペンテコステ、聖霊降臨日です。圧倒的聖霊の導き、主のみ業をこの週も体験させていただきましょう。
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主日礼拝(2010年5月9日)

2010-05-09 13:09:11 | Weblog
             主日礼拝式(復活後第五主日)         2010.5.9
        
               「無力であることの喜び」 コリント第二12:1-10

 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月の第二主日を迎えました。先週はゴールデンウィークのお休みでしたが、皆さんは、家族との良き交わりが与えられたことだと思います。どこへも行かなかった。一人であったという方々もおられるかも知れません。それでも、良き時を与えられたことだと思います。
 先週の礼拝のメッセージの中で、「今年は何の予定もないので、いい話、おいしい話がありましたら、ご連絡ください。」とお話ししましたら、声をかけて下さり、とても有意義なおいしいときを持つことができました。皆さんのためにお祈りをしましたが、また私のためにもお祈りを感謝いたします。
 5月9日、今日は母の日です。教会学校でも子どもたちが、何週も前からお母さんへのプレゼント作りをしていました。私たちは、せめて今日だけでもお母さんに心からの感謝を表わしたいと思います。勿論、今日だけではなく、毎日お母さんに対して感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。
 最近、ツイッター(つぶやき)というのを始めさせられて(出雲南教会の木坂先生に)、情報を交換しておりますが、牧師仲間のある先生が、ご自分のブログだと思いますが、「牧師さんのちょっといい話」という内容で、「母の日がつらい女性のために」という内容で書いておられましたので紹介します。
「毎年、この時期になると、何人かの方々から「母の日がつらい」と打ち明けられます。ほんの少しですが、その気持ち、理解できます。 「本当はこんなはずじゃなかったのに」 人によって、それぞれ理由は違います。 たとえば、・・・ 子どもを事故で、あるいは病気で亡くした。 自分の子どもの行方がわからなくなってしまっている。 子どもを望んでいたのに、与えられなかった。 自分の子どもは、いま違う親に育てられている。 子育てがうまくできなかった、と後悔している。 子どもを裏切ってしまった。  心の思いは単純ではないし、簡単にかたづけられないことです。 それでもひとつだけお伝えしたい、と思います。 あなたは、まだ誰かのこれからの人生に よい影響を与えるチャンスが残されています。 わたしは、小学生のときに、自信を与えてくれたお母さんのような先生をよく覚えています。 中学生のとき、反抗心むきだしのわたしをあたたかく見守ってくれたお姉さんのような存在を良く覚えています。 大学生のわたしに、人生の価値を教えてくれたのは、腰の曲がったおばあさんでした。 ほんの少しのことで、誰かのこれからの人生に良い影響を与えることができる、そのことを忘れないでください。 あなたが、わたしの人生によい影響を与えてくれていること、心から感謝しています。」
 お母さんである全ての女性に、心からありがとうございます、と感謝を表わしたいと思います。
 さて、今日は、コリントの信徒への手紙第二の12章1節から10節を通して、「無力であることの喜び」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈私の立つべきところ
 「強くありたい。勝ちたい。成長したい。成功したい。一番になりたい。」とは、私たち人間の願望でしょう。イエス様の弟子たちの一番の話題は、「誰が一番か」ということでした。それは私たちも同じだと思うのです。会社で、学校で、教会で、横浜で、日本で、世界で1番になりたい。そのような願望が、人間には、私たちにはあるように思うのです。
 今日の箇所に出てくる、サウロ、後にパウロと名前が変わりますが、彼は、家柄もよく、優秀で、力に溢れていた人物だったようです。彼が聖書の中で最初に登場するのは、ステファノの殉教の場面です。ステファノに石を投げつけた人々は、「都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」(使徒言行録7:58)と記されています。主のしもべの殉教の場所にサウロはいたのです。聖書は、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」(使徒言行録8:1)とありますので、クリスチャンに対する迫害の思いが、他の誰よりも強いものがあったように思います。 もっと多くのクリスチャンを捕まえて、殺して、根絶やしにしてやろうという意気込みでダマスコ途上で、復活のイエス様に出会い、アナニアの導きでイエス様を信じて洗礼を受けたのです。神様は、サウロを異邦人に福音を歌えるために選ばれていたのです。
イエス様を信じたサウロでしたが、今までが今までだけに、誰もサウロを信用しませんでした。クリスチャンの迫害者サウロは、どこまでも迫害者の名がつきまとっていました。サウロは、バルナバのとりなしで、イエス様の弟子たちやクリスチャンにも受け入れられ、彼は力強く福音を伝える者とされたのです。しかし、今までクリスチャンを迫害していたユダヤ人、律法学者や祭司たちはおもしろくありません。強い味方が敵になったのですから。ユダヤ人はサウロの命を狙うようになります。サウロは今まで、クリスチャンの命を狙う者から、自分がクリスチャンになり、命を狙われる者となったのです。
 彼は言います。「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント11:22-27)
 パウロは、自分自身がクリスチャンとなり、福音を宣べ伝えることによって、自分自身が迫害を受ける立場となりました。彼は多くの痛みと苦しみを経験しましたが、大胆にイエス・キリスト様の十字架と復活を語り、多くの人々を救いに導き、教会を建てあげていったのです。そして、さらに多くの人々への伝道を考えて3回の伝道旅行もしました。福音を宣べ伝えることが、サウロ、パウロの最も大切な働きだったと思うのです。
 パウロはこう言っています。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」
(Ⅰコリント1:17) また、こうも言いました。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(Ⅰコリント2:1-2) 多くの人々に、大胆に福音を宣べ伝え、多くの教会を建てあげたパウロは、ひとつの大きな経験から、弱さ、無力であることの強さ、喜びを知ることになるのです。私たちは、自分が今どこになっているのか、冷静に見ることができればと思うのです。

 ⒉私ではなく神様が偉大なのです
 12章1節を共に読みましょう。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。」 パウロ自身が経験したことを語るのです。2節では、自分の事では在りますが、ある人を知っていますと言います。14年も前の話です。第三の天にまで引き上げられた。4節では、「楽園」とあります。口語訳聖書や新改訳聖書では、「パラダイス」となっています。パウロはびっくりするような経験をしたのです。素晴らしい経験です。誰もがうらやむような経験をしたのです。人があまり経験しないような内容でした。ですから、パウロは14年間も話さなかったのでしょう。話せなかったのでしょうか。誰も聞いても信じないというような驚くべき内容でした。
 私たちも人生の中で、驚くような経験をします。昨年イスラエル旅行に行ったということも大きな恵みです。「いいなあ、うらやましいなあ。」と思われるような経験です。人があまり行けないような所へ行けること、人があまり獲得できないようなものを獲得できること、人が達成できないような領域に行けることなど、その人の経験を多くの人々はうらやみ、絶賛するでしょう。先日、ゴルファーの石川遼君が、58(世界最小スコア)で回って逆転優勝したというスポーツ記事がありました。それは、めったに出せないスコアのようです。人は遼君すごいと絶賛します。本人にとっては、誇りとなるスコアなのでしょう。アメリカ大リーグのマリナーズのイチロー選手も、毎年200安打という誰もが達成できない成績を残しています。ある人々は、イチローは鉄人、天才、野球の神様とも言うでしょう。かつて、野球の神様と言われてきた人々が何人かいます。これ以上の表現はないという賛辞です。
 パウロはそのようなレベルではない、第三の天、パラダイスに行ったのです。そのような経験をしたということは誇れることです。すごいことです。素晴らしい経験です。けれども、パウロは5節で、「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」と言いました。 リビングバイブルは次のように訳しています。「こんな経験こそ、自慢するに値します。しかし、自慢しようとは思いません。私が誇ろうとしているのは、自分の弱さと、そして、こんなに弱い私を、ご自分の栄光のために使ってくださる、神様の偉大さだけです。」私はパウロの原点はここにあったように思うのです。「こんなに弱い私を、ご自分の栄光のために使ってくださる、神様の偉大さだけです。」 パウロは、かつての自分がどのような者であったのかをよくわきまえていました。イエス様に敵対し、クリスチャンを迫害し回っていた人物です。本来ならば、神様に裁かれて当然の人間です。神様の罰を受けて死んでも仕方のない人間です。そんな者を受け入れ、救いに導いて下さり、イエス様を伝える器として選び、神様の御用のために用いて下さる神様の偉大さ、愛、恵みをひしひしと感じていたはずです。福音が自分のような者を通して、多くの人々に伝えられれば伝えられるほどに、一人ひとりと救われ、洗礼を受ける人が起こされれば起こされるほどに、教会が一つひとつと建て上げられるたびに、パウロはかつてクリスチャンの迫害者であった自分のような者を用いて下さる神様の愛を感じないではおれなかったのです。
 私たちも、かつてはどんな人間だったでしょうか。神様の前にも、人の前にも、人には言えないような生き方をしてきたのかも知れません。自分の事しか考えないような生き方だったでしょう。しかし、そんな自己中心的な者のために、その罪を赦すために、罪の全くないイエス様が、罪を知らないお方が、私の身代わりに十字架にかかり、私の変わりに神様から罰を受けて下さったのです。私を通しての全ての祝福は、神様の恵み以外にはないのです。だから、パウロは、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(Ⅰコリント15:9-10)
このイエス・キリスト様の恵みが、私たち一人ひとりに与えられていることを感謝したいと思うのです。
 ⒊弱さこそ神様の力の源
 パウロは人に誇れるような、自慢できるような経験をしました。しかし、彼は語ります。6節、7節を共に読みましょう。「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」
 素晴らしい経験をしてそのままだと、パウロが思い上がってしまうので、彼の体にとげが与えられたのです。リビングバイブルでは、6節を「この経験があまりにもすばらしかったので、神様は、私が高ぶってはいけないと心を配られました。それで、肉体に一つのとげを与えられたのです。それは高慢にならないように、苦痛を与え、悩ますための、サタンの使いです。」と訳しています。とげが与えられたことは、パウロが高ぶってはならないと神様が心を配られたことだと言うのです。
 肉体に痛みがあることはつらいことです。痛いのはいやです。誰もがそうでしょう。痛くないにこしたことはありません。パウロも肉体にとげが与えられて苦しみました。ですから、その苦しみから解放されるように、痛みが癒されるように熱心に祈りました。私たちも、祈り会では、病の中にある方々の癒しを祈ります。勿論、個人の祈りでも祈ります。癒しを期待して祈るのです。パウロもそうでした。そのパウロの祈りに対する答えは9節です。9節を共に読みましょう。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
神様の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。」ということでした。何が十分なのでしょうか。私たちの十分とは、病気が癒されることです。痛みが取り除かれることです。元気になることです。でも神様は、パウロに痛みがあるままで、病気が癒されないままで、元気にならないままで、
「わたしの恵みはあなたに十分である。」というのです。私たちの十分と神様の十分には、違いがあるように思われます。リビングバイブルでは、9節の前半を「そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」」 病気が治らなくても、癒されなくても、痛みが残されても十分だ。それはイエス様が共にいて下さることが十分だと言うのです。そんなことは百も承知です、と私たちは言います。では、本当にイエス様が共にいて下さることを信じているなら、感じているなら、癒されなくても、治らなくても、痛みがあっても、感謝して、喜んで、前向きに歩んでいるのだろうか、ということなのです。全能なる神様、死からよみがえられたお方、私たちの罪を赦すために十字架にかかられた愛のお方が共におられると言うことは本当に素晴らしいことなのです。十分なことなのです。
 9節の後半は、恵みが十分であることのもう一つの理由を語ります。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というのです。新改訳聖書では、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」とあります。口語訳聖書でも同じように完全に現れると訳しています。神様の力は、イエス様の力は、私たちの弱さの中にこそ、痛みの中にこそ、どうにもならない所にこそ、お手上げの場所にこそ、がんばれない所にこそ、完全に力を現して下さると約束しておられるのです。だからこそ、弱さを、無力を感謝できるのです。弱いことを、力のないことを喜ぶことができるのです。パウロは、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と信仰を表しました。私たちも弱さを誇れる者になりたいと思うのです。
 10節を共に読みましょう。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
 リビングバイブルで、10節の後半には、「無力であればあるほど、それだけしっかりと、キリスト様にすがるようになるからです。」とあります。無力だからこそ、弱いからこそ、そこに働くイエス様の完全な力にたよるようになるのです。私たちも弱さが弱さで終わるのではなく、イエス様の力が完全に現されるところとなることを信じて感謝したいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 私たちは、苦しみのない人生をと願います。しかし、苦しみのない人生などどこにもありません。私たちは、イエス様を信じて信仰を持っても、苦しみに遭わない人生を意味するのではありません。信仰を持つということは、苦しみを経験しない人生ではなく、苦しいことはある。痛いこともある。つらいこともたくさんある。しかし、その苦しみに、痛みに、つらさに押しつぶされてしまうのではなく、その苦しみの中に、痛みの中にこそ、つらいことの真っ只中に、イエス様の完全な力が現されて、人生に勝利することができる。苦しみや痛み、弱さや無力さを経験して、信仰が成長し、そこに働かれるイエス様の力を体験することができるのです。聖書は、苦しみ、痛みのない人生を約束しているわけではありません。自分の最も弱いところ、マイナスの部分、隠したいと思う場所、どうにもならない所が神様の栄光の現れる場所、神様の力が最も発揮される場所となると約束しておられるので、私たちは自分の弱さも無力も感謝することができるのではないでしょうか。この週も、弱さの中に働く神様の力、無力である私に現されるイエス様の完全な力を期待して、聖書の言葉に触れ、神様の言葉に立ち続けたいと思うのです。
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主日礼拝(2010年5月2日)

2010-05-02 13:01:35 | Weblog
             主日礼拝式(復活後第四主日)         2010.5.2
        
            「いつもあなたと一緒に」 マタイ28:16-20

 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月を迎えました。ようやく暖かくなってまいりました。ゴールデンウィークの休みは良い時を持つことができると思います。家族や友人の方々との良きお交わりがなされますようにとお祈りいたします。ゴールデンウイークの中日(なかび)ですが、私たちはこうして礼拝を守り、礼拝を大切にすることができるということは幸いなことだと思います。
 この5月も神様に期待して歩んでまいりましょう。
 今日は、マタイによる福音書28章16節から20節を通して、「いつもあなたと一緒に」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈疑う者がいた
 マタイによる福音書28章10節には、復活された主が婦人たちに言われた言葉があります。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」ガリラヤとは、弟子たちにとっては故郷です。故郷ならば、「ガリラヤへ帰れ」となるはずが、「ガリラヤへ行け」と言われたのです。榎本保郎先生は、新約聖書一日一章で、「そこには、福音を携えた者の姿がある」と言っておられます。復活の主に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく、「行く」世界だけである。それが自分の家であろうと、自分の家に行くのである、とも言っておられます。
 この「ガリラヤへ行くように」というイエス様の言葉のゆえに、弟子たちは彼らの故郷、ガリラヤに行ったのです。
 16節を共に読みましょう。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」 イエス様のご命令の通りにガリラヤに行き、イエス様の指示通りの山に登りましたが、その山はどこの山かは明確ではありません。とにかく山に登ったのでしょう。加藤常昭先生は、この山は、イエス様が山上の説教をされた山、マタイによる福音書5章から7章までに書かれている教えをされた山で、弟子たちに、あの教えを思い起こさせながら、あの教えを伝えるように、教えるようにと言われたと解説されています。そこで、その山でイエス様は11弟子たちと出会ったのです。
 17節を共に読みましょう。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」 聖書は何も隠しません。「疑う者がいた。」なんて書かないほうがいいでしょう。弟子たちの中にイエス様の復活を疑うものがいた。目の前にいるイエス様を見ながらも、イエス様の前にひれ伏しながらも、復活されたイエス様の事を疑った者がいた、とはっきり書いているのです。弟子たちの中に疑った者がいたかも知れないとか、疑う者があるいはいたようだというような曖昧(あいまい)なことではなく、聖書は、「疑う者もいた。」とはっきり記しているのです。
 この箇所で使われている「疑う」という言葉は、特別な「疑う」という言葉が使われているようです。新約聖書の中では、マタイによる福音書にのみ使われている言葉のようです。もう一箇所、マタイによる福音書14章31節で、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。」の「疑ったのか」の「疑う」と言う言葉が、特別な、疑うという言葉のようです。この2箇所の「疑う」という言葉の意味は、心が二つに分かれる、心が二つの方向に分かれてしまう、そのような所から生まれてくる疑いだそうです。
 マタイによる福音書14章で、湖の上を歩いてこられたイエス様を見て、ペトロは自分も水の上を歩いて行かせて欲しいと願い、イエス様が来なさいと言うので、水の上を歩いた。最初はイエス様を見つめているときは歩けたのですが、風や波を見て恐ろしくなり、心が二つに分かれたのです。そして、イエス様を疑ったのです。イエス様に対する信頼を失ったのです。この疑いは、知的な疑いではなく、人を信頼しないことなのです。信頼すべき人の力を頼りきることができないことなのです。この人を信頼しても大丈夫なのか。他の人に信頼したほうが懸命ではないか、という疑いなのです。ペトロや他の弟子たちは、復活されたイエス様に直接出会いながら、目の前でイエス様を見ながらも、イエス様に信頼しきる心がなかったのです。だからこそ、疑ったのです。私たちにも、この疑いの心はありませんか。どこか、イエス様に信頼しても大丈夫なのか、という思いはないでしょうか。そのような疑いの目を持つ者にも、イエス様は近づいて下さるのです。

 ⒉イエス様の権威
 18節を共に読みましょう。「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」 疑う者もいたとあるように、弟子たちの中でさえ不信仰な者がいても、それでもイエス様は弟子たちに近寄り語られるのです。 先ほどの、風を見て波を見て恐れイエス様を信頼できなかったペトロに対しても、信仰の薄いものよと手を差し伸べて下さいました。また、自分の手をイエス様の十字架の手の傷とわき腹の傷に触れてみないと信じないと断言したトマスに近寄り、「信じる者になりなさい。」と語られました。また、三度イエス様を知らないと言ったペトロには、「私を愛するか」と近づいて語りかけて下さいました。そのように、イエス様を信じきることのできない弟子たちに近寄り語られたのです。 
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」 リビングバイブルには、「わたしは天と地のすべての権威が与えられています。」とあります。 権威と言うと、力で人々を押さえつける、屈服させるというようなイメージがあります。この世の権威はそうでしょう。お金で、力で、肩書きで物を言わせることが多くあるのです。権威で人を恐れさせるのです。死を思わせるのです。権威に従わないものは死あるのみというように、恐れさせるのです。けれども、イエス様が言われた、「権能を授かっている」の権威と言うものは、命をもたらす、命に根ざしている権威なのです。死をも打ち破られた天と地のいっさいを支配する力、権能、権威なのです。それを授かっていると言われたのです。イエス様を見ながらも、ひれ伏しながらも、礼拝しながらも、疑ってしまう者、信頼の心を持てない者、不信仰な弟子たちにも近寄って下さる権能、権威なのです。
 何度言ったらわかるのかと叱りつけるような権威ではなく、そんなに信じられないなら、もう信じなくてよいと切り捨てるような権威でもなく、信じられない、疑わざるを得ない弟子たちにさえも近寄り、その信じられない心、疑いの心を信じる心、信頼する心に変える力、権能、権威なのです。再び信頼を呼び起こす力なのです。イエス様の愛の力、愛の支配です。疑ってしまう弟子たちに、これからイエス様のために、自分の命までささげることのできる愛を再び思い起こさせて下さるのです。
 19節を共に読みましょう。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、」 イエス様は弟子たちに使命を与えられるのです。
 マルコによる福音書16章15節には、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と弟子たちに命令されました。 福音を伝えなければ、魂の救いは与えられません。どんなに素晴らしい賛美も音楽も、賛美や音楽で人は救われないのです。親切や配慮で救われないのです。人を救うのは福音、イエス・キリスト様の十字架と復活なのです。
イエス様は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われました。イエス様を信じる者は、イエス様の弟子です。そして、イエス様の弟子となるためには、洗礼を受けることが必要なのです。
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、」とは、イエス様のご命令なのです。イエス様を信じた人々は、ある意味で自動的に洗礼を受けるのです。イエス様を信じていて、洗礼を受けないということはあり得ないのです。イエス様を純粋に信じている子どもたち、イエス様の十字架を自分の罪のためであると信じる子どもたちには、早く洗礼を授けるべきだと信じます。
 洗礼を受けるためには、福音が伝えられなければならないのです。福音の内容が語られなければなりません。私たちは、青葉台教会を通して、あらゆる集会や行事を通して福音を伝えるのです。最終的に、福音を伝えない集会や行事は、神様の喜びとするものではないと思います。福音が語られてこそ、神様が、聖霊様が働かれる場所となるのです。先に福音を知った私たちには、語る責任、福音を紹介する責任があるのだと思うのです。イエス様を信じる者たちが、イエス様の弟子なのです。

 ⒊聖書で養われる
 20節を共に読みましょう。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 イエス様が、弟子たちに語られた教えが、弟子たちを通して、他の人々、イエス様の十字架と復活を信じて洗礼の恵みに与った人々に正しく教えられ、それが生活の中で生かされるようにということだと思います。つまり、聖書の教えがしっかりとなされるようにということなのです。
 イエス様を知るためには、伝道によって福音が語られ、福音が伝えられ、救いのみ業がなされて魂が救われるだけでは、教会の成熟はありません。イエス様を信じて終わりではないのです。救われた人々が、神の言葉、聖書、イエス様の教えがしっかりと伝えられ、教えられてこそ、クリスチャンとしての成長があるのだと思います。
 青葉台教会のビジョンの中に信徒の方々の成長のために教育についての話し合いがなされています。どのようにして具体的に聖書を学んでいくべきなのか検討され、実施されていくことだと思いますので、皆さんぜひご参加下さい。私たちは、聖書の言葉に触れ、聖書の言葉に立ち、聖書の言葉によって信仰が確立され、信仰が成長していくのです。聖書の学びはクリスチャンだけのものではありませんが、聖書は信仰書ですから、イエス様を救い主と信じ、神の子とされた者が学ぶと時に信仰が成長していくのです。自分の罪を認め、イエス様が自分の罪の身代わりに十字架にかかって下さったことを信じて救いを持った人々が、聖書の言葉で養われるのです。それがただの励ましや支えに留まらず、神様に対する信仰が大いに成長するのです。日々のディボーションも私たちが成長するために大切なものです。洗礼を受けた子どもたちは、先月からディボーションを始めました。み言葉が彼らの信仰を豊かに成長させることを祈りながら、私たちも聖書の言葉に触れて、ディボーションで成長していきたいと思います。
 私は、今イエス様を受け入れた方々に聖書の学びをさせていただいていますが、これからますますイエス様を受け入れる方々が増えてくると思います。ですから、私一人では間に合わなくなりますので、皆さんの中から聖書の言葉を共に学び導くことのできる方々が起こされてくることを願います。テモテの手紙第二2章15節には、「あなたは適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」という言葉があります。リビングバイブルには、「あなたは、神様から「よくやった」と、おほめのことばがいただけるように、熱心に励みなさい。神様に仕事ぶりを評価される時、胸を張っていられるような、りっぱな働き人になりなさい。そのために、聖書が教えていること、意味することを学びなさい。」とあります。
 私たちは、教える者も、教えられる者も、共に聖書の言葉で養われるのです。聖書の言葉、神の言葉が私たち全てのクリスチャン、神を信じる者の信仰の成長のために必要なことなのです。イエス様は、弟子たちにイエス様の命じておいた事を全て守るように教えよと言われ、その重大な使命を果たすために、言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。
 イエス様の語られたことを守るように教えるということは、弟子たちの力だけではできないのです。イエス様の導きがないと助けがないとできないのです。だからこそ、弟子たちは、エルサレムに留まり、イエス様の約束された聖霊を受けなければならないのです。聖霊が与えられる時、彼らは力を受けるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)とイエス様は弟子たちに約束されたのです。
 そして、ここでは「いつもあなたがたと共にいる」と力強い約束をされました。弟子たちにとっては、どんなに大きな慰め、励ましだったことでしょうか。マタイによる福音書1章は、イエス様の誕生の事が記されています。1章23節には、「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」とあります。インマヌエルの神、神は我らと共におられる、まさしく弟子たちにインマヌエルの神として、共にいることを約束されたのです。マタイによる福音書は、インマヌエルの神で始まり、インマヌエルの神で終わるのです。
 イエス様は、世の終わりまでいつも共にいると約束されました。それは、イエス様がやがて来る日、再臨の時まで、いつも一緒におられることを約束されたのです。

 Ⅲ結論部
 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とイエス様は弟子たちを励ますお言葉を下さいました。私たちは、一番大切にしている教えは何かと子どもたちに聞かれたら何と答えるでしょうか。人生の中で、学ぶべき、守るべき、最も大切なものは何かと問われたら、どのように答えるでしょうか。
 イエス様は律法の専門家が戒めの中でどれが一番大切ですかと問われた時、どのように答えたでしょうか。「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」(マタイ22:37-40)
神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することの大切さを教えられました。
 私たちは、イエスを信じてクリスチャンになっても、痛みや苦しみを経験します。パウロのように、満たされるときも貧しいときも経験します。喜びも悲しみも共に経験します。神様は本当におられるのだろうかと疑いたくなる時があります。あの弟子たちのように、イエス様を見ながらも、礼拝しながらも疑ったように、私たちも礼拝や祈り会、いろいろな集会に出席しながらも、聖書を読み、お祈りしながらも、困難や苦しみ、痛みや悲しみの故にイエス様の存在や働きを疑ってしまうことがあるかも知れません。聖書はそのようなことがあるとはっきりと書いてあるのです。神を信じる者は疑わないではなく、疑ってしまう時もあるのです。けれども、私たちを愛しておられる神様、イエス様はそんな不信仰な、イエス様を信じ切れない、頼りきれない私たちに近寄り、語り、励まし、強めて下さるのです。そして、私たちにも弟子たちに語られたように語って下さるのです。
 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 だから、私たちは、イエス様がいつも私と一緒にいて下さるお方、インマヌエルの神であることを信じ、感謝して、全てを守るように教えよ、とあるように、私自身が聖書の言葉に触れ、養われ、成長する同時に、教えることのできる者とならせていただきたいと思うのです。そのためには、イエス様の約束された聖霊の力が必要なのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」との約束を信じて、聖霊の導きの中で、今週も聖書の言葉に触れ続けましょう。
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