主日礼拝式(三位一体後第一主日) 2010.5.30
「食べ物の恨みは怖い」 使徒言行録6:1-7
Ⅰ導入部
おはようございます。5月の第五主日を迎えました。今日は賛美礼拝となっております。先週はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。聖霊に満たされた弟子たちが、イエス様の約束の通りに力を受けてイエス様を証しして教会が誕生しました。聖霊によってなされた教会は、使徒の教え(聖書の教え)、相互の交わり、聖餐式、祈りに熱心でした。そこに、魅力的なクリスチャンとして生きた彼らは、周りの人々に好意を持たれ、尊敬されていたのです。私たちも、聖霊とみ言葉によって魅力的なクリスチャンとされていることを自覚し、意識して歩ませていただきたいと思います。
「食べ物の恨みは恐ろしい」とよく言われます。自分の大好きなものを誰かに横取りされたり、あとで食べようと思っていた大好物のスイカやメロンを冷蔵庫で冷やしていたら、いいものがあると家族の誰かに食べられてしまったとか、回転寿司で大好物のネタを先に取られたとか、大したことでもないけれども、誰かとの関係がギクシャクしてしまうということがよくあります。絶縁状態になってしまうこともあるのです。聖霊によって誕生した教会でも、食べ物のことで問題が起こりました。
今日は、使徒言行録6章1節から7節を通して、「食べ物の恨みは怖い」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈問題は内側にあり
使徒言行録6章1節を共に読みましょう。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」 弟子の数が増えてきてとあります。ペンテコステにペトロの説教によって、イエス様を信じて洗礼を受けた者が3千人ありました。また、3章での生まれながらの足の不自由な人の癒しを通して、ペトロとヨハネの語った言葉によって、救われた男の人の数は5千人になっていたのです(使徒言行録4:4)。女性を加えるともうすでに1万人以上の人々がイエス様を信じて、初代教会の群れに加わっていたことになります。
120名から1万人以上と言う急成長の教会の姿がありました。弟子の数、つまりクリスチャンの数がどんどん増えていったのです。初代教会に加わった人々の中には多くの貧しい人々がいました。やもめの女性たちも多くいました。ですから、聖霊によって形成された教会には、持ち物を共有していました。緊急の必要に迫られた人々や毎日の必要のためにお互いに分け合った麗しい姿がそこにはありました。けれども、聖書が記しているように、「弟子の数が増えてきて」、クリスチャンが増えてきて、問題が起こったのでした。
数が増えたから問題が起こったのでしょうか。数が増えても、数が少なくても、問題の起こるところは起こるのかも知れません。数が少なくても、増えても、問題は起こらないところもあると思うのです。問題が起こるということは、それなりの原因があったはずです。勿論、数が増えたことだけでも問題があると思いますが、数が増えただけの問題ではなかったように思うのです。
聖書には、「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。」とあります。ここには2種類のユダヤ人が登場します。先祖伝来のヘブライ語を話すユダヤ人がいました。彼らは、自分たちの生活には異教のものは何一つ入れないことを誇りにしていた人々でした。また、異邦の国々から来ていたユダヤ人がいました。彼らは祭りのためにエルサレムに来ていた人々でした。彼らの多くは、何代もパレスチナの土地から離れていた人々でした。ですから、ヘブライ語を忘れてギリシア語を話していたのです。彼らは、ペンテコステの日、聖霊のみ業の素晴らしさを知り留まった人々でした。
当然のこととして、先祖伝来ヘブライ語を話すユダヤ人は、異邦の地、異邦の習慣に触れている外国育ちのユダヤ人を見下し軽蔑していたのだと思います。この見下した思い、軽蔑したままの思いが何も解決されないまま、このことが日々の配給の問題として形に現れてきたのだと思うのです。ですから、ギリシア語を話すユダヤ人から、日々の分配のことで、やもめたちが軽んじられているという苦情が出たのでした。
ヘブライ語を話すユダヤ人たちのギリシア語を話すユダヤ人に対する見下した思いや軽蔑の心が、日々の配給に対して、適当であったり、配慮がなかったり、数が不足したりということが起こったのではないかと思うのです。内側にある思いが外側に出てきたのです。
多くの問題は、最初から表には出てきません。心の中に、心のうちにあることが出てくるのです。私たちも神様に対して、人に対して、心の内にあることが外側に出てくるのです。ですから、私たちは表面的なこと、外側にのみ一生懸命になるのではなくて、内側の面、霊的な面を大切していきたいと思うのです。心に軽蔑や疑い、批判があるままの思いや心を持ち続けているうちに、問題が外に現れてくるのです。ですから、日々、聖書の言葉に触れ、聖霊の導きを敏感に感じ、問題を問題のまま放置しないで解決していく習慣をつけたいと思うのです。
⒉神の言葉の優先順位
人生に問題はつきものです。クリスチャンになったからといって問題が何もなくなるのではありません。クリスチャンになって、問題が前よりも多くなったということもあるのです。問題のない人生などと気楽な人生はありません。だとしたら、問題が起きた時、問題が起こったときにどのように対処したらよいのでしょうか。聖霊に導かれて誕生した初代教会で、その中心であった12弟子たちの中にも問題があったようです。その問題とは何だったのでしょうか。
2節を共に読みましょう。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」
この問題を個人的なこと、小さいこととしないで教会全体で考えることにしたのです。誰かの権威や力で問題を解決しようとはしませんでした。問題があるのに、問題がないかのようにその問題を、課題をもみ消すということをしませんでした。キリストの教会だから、そのようなことがあってはならない、といってギリシア語を話すユダヤ人の代表者にお金や物で黙らせる。やめもの人々に多くのお金や物でつって、何も苦情がなかったかのように企てるということもしませんでした。この世の中では、そのようなことがまかり通ることがあります。多くの映画やドラマはそのような事がほとんどです。あの時に、すべきことをしていればよかった。正直に話せば良かったということがあるのです。
私たちも自分の人生において、「長いものには巻かれろ」ということで問題を感じるのに、問題がなかったかのようにしているということがあるように思うのです。
クリスチャンなのに、自分の事や家族の事に問題があることは不信仰だから、何もないかのように装う。いつも恵まれているかのように振舞うということはないでしょうか。それこそ問題だと思うのです。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンになっても失敗もあります。罪を犯すこともあります。人の心を悲しませることもあります。それなのに、自分は何も問題のない、霊的なクリスチャンですという生き方を続けることこそつらい信仰生活だと思います。それこそ、ファリサイ派の人々や律法学者たちの生き方そのものでした。イエス様はそのような生き方を厳しく指摘されたのでした。
問題があれば問題があります。お祈りくださいと言える関係でありたいと思います。今家庭で、夫婦で、親子でこのような痛みがあります。弱さがあります。お祈りくださいと祈り合える関係でありたいと思います。何でもかんでも言えることと言えないことも勿論あります。けれども、神様には秘密にしないで祈りたいと思います。そして、一人の痛みは全体の痛み、ひとりの喜びは全体の喜びとして教会で、みんなで取り組めたらと思います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と聖書は語ります。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と弟子たちは言いました。弟子たちは、聖霊に導かれてイエス様の教えを大切にしていたでしょう。けれども、「神の言葉をないがしろにして」とあるように、どこかにそのような事があったのでしょう。新改訳聖書は、「神のことばをあと回しにして」とあり、口語訳聖書では、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。」とあります。ですから、クリスチャンの数が増えて、目に見えるところが祝福されて、それで喜んだ。何も悪くはありません。すごい急成長に、数の増加に日々食べ物を必要とする人々が増えました。また、緊急に食べ物やお金を必要とする人々も増えました。そうした必要のために、弟子たちも借り出されたのでしょう。いや、そのような人々のためにと愛の故に、働いたでしょう。しかし、そのことが優先されて、本来弟子たちがすべきこと、神の言葉をないがしろに、神の言葉を後回しに、神の言葉をさしおいていたという現実があったようです。
今、自分が本来すべきことをしていない。できていないところに問題が起こったのではないでしょうか。時代は変わり、環境は変わっても、私たちも同じだと思うのです。聖書の言葉をないがしろにし、聖書の言葉を後回しにし、聖書の言葉をさしおいた結果はわかっているのです。
⒊聖霊が武装する
3節、4節を共に読みましょう。「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
弟子たちは、神様の言葉をないがしろにすることのないように、日々の配給のために7人を選び出すことを提案しました。食事当番を決めたわけです。食事当番なので、「なりたい人」ではありませんでした。誰にでもできることだから適当にではありませんでした。誰にでもできることだから慎重であったのです。私たちは、簡単に出来ること、誰にでもできること、単純な仕事等を軽んじてしまうことがあります。初代教会の指導者たちは、日々の配給、食事の当番をとても重要視していました。だからこそ、弟子たち自身がこの働きにたずさわっていたのです。人数が増えて、仕事量が増えたこともそうですが、とても大切な働きであったので、教会の中心的な弟子たちがかかわっていたのです。
そのような大切な働きだからこそ、誰でもいいというのではなく、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」であったのです。リビングバイブルには、「賢明で、聖霊様に満たされた人」となっています。そのような大切な働きを任せられるのは、経験がある人ではありませんでした。専門家でもありませんでした。仕事ができる人でもありませんでした。聖霊に満たされた人。聖霊を意識し、聖霊を認め、聖霊に導かれる人、聖霊と共に歩んでいる人でした。聖霊に満たされているので知恵に満たされるのです。だからこそ、評判の良い人となれるのです。ポイントは聖霊なのです。ペンテコステの日、聖霊の油注ぎにより誕生した教会、聖霊に満たされたペトロやヨハネ、弟子たちの語る言葉や業を通して、教会が建て上げられ、救われる方々が起こされたその源、聖霊に満たされている人が、日々の配給、食事当番に最もふさわしい人物であったのです。
あの夢の国と言われている東京ディズニーランド、本当は千葉ディズニーランドですが、ディズニーランドで最も大事だとされている働きは、ショウをやったりパレードをする俳優のような人物でもなく、コンパニオン的な人でもなく、目立つ人でもなく、誰にでもできると言われている駐車場の係りや園内の掃除係りだという事を聞いたことがあります。その誰にでもできる駐車場の係りや掃除係りの人を徹底的に訓練するそうです。たかが掃除係り、されど掃除係りなのです。ディズニーランドで最初に出会うのは駐車場の係りです。最初の印象は大きいです。そして、園内で一番多くの人と接する掃除係り、これも大切です。彼らは自分のその働きにプライドを持っています。誰にでもできることでしょう。だからこそ、大切にし、掃除だけではなく、園内をきれいにするだけでなく、そこに集う人々、夢の国にいる人々に最高の経験をさせるのです。駐車場の係りだから、掃除係りだから誰でもいいのではないのです。
初代教会の指導者たちは、日々の配給で苦情が出た時、その働きにつく人に最も大切な聖霊に満たされた人を立てました。5節に出てくる7人は、7人ともユダヤ名の人はいません。全部がギリシア名を持つ人々でした。そんなことをしたら、今度はヘブライ語を話すユダヤ人から苦情が出るのではないか、という問題が出てきそうですが、それは大丈夫でした。なぜなら、ヘブライ語を話す人から何人、ギリシア語話す人から何人と、人間的な考えや常識的な考えで、この世の価値観で選んだのではありませんでした。聖霊に満たされた人、神様の愛と恵みに満たされた人でしたので、人間的な工作で物事を考えるのではなく、何が神様の思いで、その人のためになるかをまず考えることのできる人々であったからです。ですから、弟子たちは、安心して「祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」とそのようにできたのです。この7人は、現在の教会役員の基となったのです。
弟子たちの御言葉の奉仕も、日々の配給の奉仕も同じ価値のある奉仕なのです。教会のさまざまな奉仕がありますが、優劣や順位はなく、どの奉仕も神様の前にも人の前にも等しく尊いのです。
Ⅲ結論部
「食べ物の恨みは恐ろしい」と言われるように、人間関係がくずれることがよくあります。聖霊に導かれた初代の教会も、ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に、自分たちの仲間であるやもめがないがしろにされている、軽んじられているという苦情がありましたが、弟子たちは聖霊に満たされた7名を日々の配給の勤めに任じました。いままで軽んじられていたやもめの方々はどうだったのでしょうか。自分たちが日々の配給で軽んじられている、差別されていると感じていたでしょう。けれども、教会がこの問題を全体の問題として考え、この問題をなかったかのようにするのでもなく、人間的な考えで行動することもなく、弟子たちがみ祈りとみ言葉の奉仕に専念できるように、聖霊に満たされた7名を選びました。選ばれたギリシア語名を持つ7名は、ヘブライ語を話すユダヤ人、ギリシア語を話すユダヤ人と区別したり、差別することなく、同じようにイエス様を信じる者として、平等に、愛を持って仕えたので、この問題も解決しました。
私たちの罪を赦すために、十字架にかかって死んで下さったイエス様を信じる者のうちに、偏見や自己中心的な考え、傲慢な思いは聖霊で整えられて、皆が愛し合う、助け合う群れとして相手を自分よりもすぐれた者と思う、と聖書にあるとうりに、人や常識、この世の声や考えに従うのではなくて、聖書を通して、聖霊の導きを受けて、神様のみ心、神様のお心を聞いて従う群れを神様は祝福して下さったのです。
7節を共に読みましょう。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」 初代教会は、問題が起こった時、無視したり、簡単にしないで、教会全体の問題として捉え、みんなに意見を求め、みんなに提案しました。そして、聖霊の導きに従うことにより、各自がふさわしく、なすべきことをなすようになったのです。私たちも、忙しい毎日ではありますが、神の言葉を、祈りを後回しにするのではなく、み言葉と祈りを先ず優先し、大切にして、この週も歩ませていただきたいと思うのです。聖霊は、問題を祝福と恵みに変えて下さるのです。この変化をこの週も経験させていただきたいと思うのです。
「食べ物の恨みは怖い」 使徒言行録6:1-7
Ⅰ導入部
おはようございます。5月の第五主日を迎えました。今日は賛美礼拝となっております。先週はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。聖霊に満たされた弟子たちが、イエス様の約束の通りに力を受けてイエス様を証しして教会が誕生しました。聖霊によってなされた教会は、使徒の教え(聖書の教え)、相互の交わり、聖餐式、祈りに熱心でした。そこに、魅力的なクリスチャンとして生きた彼らは、周りの人々に好意を持たれ、尊敬されていたのです。私たちも、聖霊とみ言葉によって魅力的なクリスチャンとされていることを自覚し、意識して歩ませていただきたいと思います。
「食べ物の恨みは恐ろしい」とよく言われます。自分の大好きなものを誰かに横取りされたり、あとで食べようと思っていた大好物のスイカやメロンを冷蔵庫で冷やしていたら、いいものがあると家族の誰かに食べられてしまったとか、回転寿司で大好物のネタを先に取られたとか、大したことでもないけれども、誰かとの関係がギクシャクしてしまうということがよくあります。絶縁状態になってしまうこともあるのです。聖霊によって誕生した教会でも、食べ物のことで問題が起こりました。
今日は、使徒言行録6章1節から7節を通して、「食べ物の恨みは怖い」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈問題は内側にあり
使徒言行録6章1節を共に読みましょう。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」 弟子の数が増えてきてとあります。ペンテコステにペトロの説教によって、イエス様を信じて洗礼を受けた者が3千人ありました。また、3章での生まれながらの足の不自由な人の癒しを通して、ペトロとヨハネの語った言葉によって、救われた男の人の数は5千人になっていたのです(使徒言行録4:4)。女性を加えるともうすでに1万人以上の人々がイエス様を信じて、初代教会の群れに加わっていたことになります。
120名から1万人以上と言う急成長の教会の姿がありました。弟子の数、つまりクリスチャンの数がどんどん増えていったのです。初代教会に加わった人々の中には多くの貧しい人々がいました。やもめの女性たちも多くいました。ですから、聖霊によって形成された教会には、持ち物を共有していました。緊急の必要に迫られた人々や毎日の必要のためにお互いに分け合った麗しい姿がそこにはありました。けれども、聖書が記しているように、「弟子の数が増えてきて」、クリスチャンが増えてきて、問題が起こったのでした。
数が増えたから問題が起こったのでしょうか。数が増えても、数が少なくても、問題の起こるところは起こるのかも知れません。数が少なくても、増えても、問題は起こらないところもあると思うのです。問題が起こるということは、それなりの原因があったはずです。勿論、数が増えたことだけでも問題があると思いますが、数が増えただけの問題ではなかったように思うのです。
聖書には、「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。」とあります。ここには2種類のユダヤ人が登場します。先祖伝来のヘブライ語を話すユダヤ人がいました。彼らは、自分たちの生活には異教のものは何一つ入れないことを誇りにしていた人々でした。また、異邦の国々から来ていたユダヤ人がいました。彼らは祭りのためにエルサレムに来ていた人々でした。彼らの多くは、何代もパレスチナの土地から離れていた人々でした。ですから、ヘブライ語を忘れてギリシア語を話していたのです。彼らは、ペンテコステの日、聖霊のみ業の素晴らしさを知り留まった人々でした。
当然のこととして、先祖伝来ヘブライ語を話すユダヤ人は、異邦の地、異邦の習慣に触れている外国育ちのユダヤ人を見下し軽蔑していたのだと思います。この見下した思い、軽蔑したままの思いが何も解決されないまま、このことが日々の配給の問題として形に現れてきたのだと思うのです。ですから、ギリシア語を話すユダヤ人から、日々の分配のことで、やもめたちが軽んじられているという苦情が出たのでした。
ヘブライ語を話すユダヤ人たちのギリシア語を話すユダヤ人に対する見下した思いや軽蔑の心が、日々の配給に対して、適当であったり、配慮がなかったり、数が不足したりということが起こったのではないかと思うのです。内側にある思いが外側に出てきたのです。
多くの問題は、最初から表には出てきません。心の中に、心のうちにあることが出てくるのです。私たちも神様に対して、人に対して、心の内にあることが外側に出てくるのです。ですから、私たちは表面的なこと、外側にのみ一生懸命になるのではなくて、内側の面、霊的な面を大切していきたいと思うのです。心に軽蔑や疑い、批判があるままの思いや心を持ち続けているうちに、問題が外に現れてくるのです。ですから、日々、聖書の言葉に触れ、聖霊の導きを敏感に感じ、問題を問題のまま放置しないで解決していく習慣をつけたいと思うのです。
⒉神の言葉の優先順位
人生に問題はつきものです。クリスチャンになったからといって問題が何もなくなるのではありません。クリスチャンになって、問題が前よりも多くなったということもあるのです。問題のない人生などと気楽な人生はありません。だとしたら、問題が起きた時、問題が起こったときにどのように対処したらよいのでしょうか。聖霊に導かれて誕生した初代教会で、その中心であった12弟子たちの中にも問題があったようです。その問題とは何だったのでしょうか。
2節を共に読みましょう。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」
この問題を個人的なこと、小さいこととしないで教会全体で考えることにしたのです。誰かの権威や力で問題を解決しようとはしませんでした。問題があるのに、問題がないかのようにその問題を、課題をもみ消すということをしませんでした。キリストの教会だから、そのようなことがあってはならない、といってギリシア語を話すユダヤ人の代表者にお金や物で黙らせる。やめもの人々に多くのお金や物でつって、何も苦情がなかったかのように企てるということもしませんでした。この世の中では、そのようなことがまかり通ることがあります。多くの映画やドラマはそのような事がほとんどです。あの時に、すべきことをしていればよかった。正直に話せば良かったということがあるのです。
私たちも自分の人生において、「長いものには巻かれろ」ということで問題を感じるのに、問題がなかったかのようにしているということがあるように思うのです。
クリスチャンなのに、自分の事や家族の事に問題があることは不信仰だから、何もないかのように装う。いつも恵まれているかのように振舞うということはないでしょうか。それこそ問題だと思うのです。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンになっても失敗もあります。罪を犯すこともあります。人の心を悲しませることもあります。それなのに、自分は何も問題のない、霊的なクリスチャンですという生き方を続けることこそつらい信仰生活だと思います。それこそ、ファリサイ派の人々や律法学者たちの生き方そのものでした。イエス様はそのような生き方を厳しく指摘されたのでした。
問題があれば問題があります。お祈りくださいと言える関係でありたいと思います。今家庭で、夫婦で、親子でこのような痛みがあります。弱さがあります。お祈りくださいと祈り合える関係でありたいと思います。何でもかんでも言えることと言えないことも勿論あります。けれども、神様には秘密にしないで祈りたいと思います。そして、一人の痛みは全体の痛み、ひとりの喜びは全体の喜びとして教会で、みんなで取り組めたらと思います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と聖書は語ります。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と弟子たちは言いました。弟子たちは、聖霊に導かれてイエス様の教えを大切にしていたでしょう。けれども、「神の言葉をないがしろにして」とあるように、どこかにそのような事があったのでしょう。新改訳聖書は、「神のことばをあと回しにして」とあり、口語訳聖書では、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。」とあります。ですから、クリスチャンの数が増えて、目に見えるところが祝福されて、それで喜んだ。何も悪くはありません。すごい急成長に、数の増加に日々食べ物を必要とする人々が増えました。また、緊急に食べ物やお金を必要とする人々も増えました。そうした必要のために、弟子たちも借り出されたのでしょう。いや、そのような人々のためにと愛の故に、働いたでしょう。しかし、そのことが優先されて、本来弟子たちがすべきこと、神の言葉をないがしろに、神の言葉を後回しに、神の言葉をさしおいていたという現実があったようです。
今、自分が本来すべきことをしていない。できていないところに問題が起こったのではないでしょうか。時代は変わり、環境は変わっても、私たちも同じだと思うのです。聖書の言葉をないがしろにし、聖書の言葉を後回しにし、聖書の言葉をさしおいた結果はわかっているのです。
⒊聖霊が武装する
3節、4節を共に読みましょう。「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
弟子たちは、神様の言葉をないがしろにすることのないように、日々の配給のために7人を選び出すことを提案しました。食事当番を決めたわけです。食事当番なので、「なりたい人」ではありませんでした。誰にでもできることだから適当にではありませんでした。誰にでもできることだから慎重であったのです。私たちは、簡単に出来ること、誰にでもできること、単純な仕事等を軽んじてしまうことがあります。初代教会の指導者たちは、日々の配給、食事の当番をとても重要視していました。だからこそ、弟子たち自身がこの働きにたずさわっていたのです。人数が増えて、仕事量が増えたこともそうですが、とても大切な働きであったので、教会の中心的な弟子たちがかかわっていたのです。
そのような大切な働きだからこそ、誰でもいいというのではなく、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」であったのです。リビングバイブルには、「賢明で、聖霊様に満たされた人」となっています。そのような大切な働きを任せられるのは、経験がある人ではありませんでした。専門家でもありませんでした。仕事ができる人でもありませんでした。聖霊に満たされた人。聖霊を意識し、聖霊を認め、聖霊に導かれる人、聖霊と共に歩んでいる人でした。聖霊に満たされているので知恵に満たされるのです。だからこそ、評判の良い人となれるのです。ポイントは聖霊なのです。ペンテコステの日、聖霊の油注ぎにより誕生した教会、聖霊に満たされたペトロやヨハネ、弟子たちの語る言葉や業を通して、教会が建て上げられ、救われる方々が起こされたその源、聖霊に満たされている人が、日々の配給、食事当番に最もふさわしい人物であったのです。
あの夢の国と言われている東京ディズニーランド、本当は千葉ディズニーランドですが、ディズニーランドで最も大事だとされている働きは、ショウをやったりパレードをする俳優のような人物でもなく、コンパニオン的な人でもなく、目立つ人でもなく、誰にでもできると言われている駐車場の係りや園内の掃除係りだという事を聞いたことがあります。その誰にでもできる駐車場の係りや掃除係りの人を徹底的に訓練するそうです。たかが掃除係り、されど掃除係りなのです。ディズニーランドで最初に出会うのは駐車場の係りです。最初の印象は大きいです。そして、園内で一番多くの人と接する掃除係り、これも大切です。彼らは自分のその働きにプライドを持っています。誰にでもできることでしょう。だからこそ、大切にし、掃除だけではなく、園内をきれいにするだけでなく、そこに集う人々、夢の国にいる人々に最高の経験をさせるのです。駐車場の係りだから、掃除係りだから誰でもいいのではないのです。
初代教会の指導者たちは、日々の配給で苦情が出た時、その働きにつく人に最も大切な聖霊に満たされた人を立てました。5節に出てくる7人は、7人ともユダヤ名の人はいません。全部がギリシア名を持つ人々でした。そんなことをしたら、今度はヘブライ語を話すユダヤ人から苦情が出るのではないか、という問題が出てきそうですが、それは大丈夫でした。なぜなら、ヘブライ語を話す人から何人、ギリシア語話す人から何人と、人間的な考えや常識的な考えで、この世の価値観で選んだのではありませんでした。聖霊に満たされた人、神様の愛と恵みに満たされた人でしたので、人間的な工作で物事を考えるのではなく、何が神様の思いで、その人のためになるかをまず考えることのできる人々であったからです。ですから、弟子たちは、安心して「祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」とそのようにできたのです。この7人は、現在の教会役員の基となったのです。
弟子たちの御言葉の奉仕も、日々の配給の奉仕も同じ価値のある奉仕なのです。教会のさまざまな奉仕がありますが、優劣や順位はなく、どの奉仕も神様の前にも人の前にも等しく尊いのです。
Ⅲ結論部
「食べ物の恨みは恐ろしい」と言われるように、人間関係がくずれることがよくあります。聖霊に導かれた初代の教会も、ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に、自分たちの仲間であるやもめがないがしろにされている、軽んじられているという苦情がありましたが、弟子たちは聖霊に満たされた7名を日々の配給の勤めに任じました。いままで軽んじられていたやもめの方々はどうだったのでしょうか。自分たちが日々の配給で軽んじられている、差別されていると感じていたでしょう。けれども、教会がこの問題を全体の問題として考え、この問題をなかったかのようにするのでもなく、人間的な考えで行動することもなく、弟子たちがみ祈りとみ言葉の奉仕に専念できるように、聖霊に満たされた7名を選びました。選ばれたギリシア語名を持つ7名は、ヘブライ語を話すユダヤ人、ギリシア語を話すユダヤ人と区別したり、差別することなく、同じようにイエス様を信じる者として、平等に、愛を持って仕えたので、この問題も解決しました。
私たちの罪を赦すために、十字架にかかって死んで下さったイエス様を信じる者のうちに、偏見や自己中心的な考え、傲慢な思いは聖霊で整えられて、皆が愛し合う、助け合う群れとして相手を自分よりもすぐれた者と思う、と聖書にあるとうりに、人や常識、この世の声や考えに従うのではなくて、聖書を通して、聖霊の導きを受けて、神様のみ心、神様のお心を聞いて従う群れを神様は祝福して下さったのです。
7節を共に読みましょう。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」 初代教会は、問題が起こった時、無視したり、簡単にしないで、教会全体の問題として捉え、みんなに意見を求め、みんなに提案しました。そして、聖霊の導きに従うことにより、各自がふさわしく、なすべきことをなすようになったのです。私たちも、忙しい毎日ではありますが、神の言葉を、祈りを後回しにするのではなく、み言葉と祈りを先ず優先し、大切にして、この週も歩ませていただきたいと思うのです。聖霊は、問題を祝福と恵みに変えて下さるのです。この変化をこの週も経験させていただきたいと思うのです。