江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2014年9月28日)

2014-09-30 20:27:47 | Weblog

聖書箇所:詩篇23篇 

題「あなたに迫る恵み」         

 ―導入―

みなさん、おはようございます。よく夕方のNHK番組で流されている日本民謡唄があります。そのなかで「牧場の朝」という歌を皆さんご存知でしょうか。

少し古いのですが、歌詞を抜粋したのをお読み致します。

♪♪『ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海 霧に包まれ、あちこちに 

動く羊のいく群れの 鐘が鳴る鳴る リンリンと。
遠い野末に、牧童の 笛が鳴る鳴る ピイピイと。』♪♪

なんだか飛び跳ねたくなるような歌詞ですね。笛がぴいぴいとなり、鐘がリンリンとなる、羊にとっても人間にとっても愉快で、のどかな牧場。今日は詩編23篇から「あなたに迫る恵み」という題でメッセージをさせていただきます。

 ―本論―

Ⅰ.羊と羊飼い

今日の詩篇23編は「詩篇の中の詩篇」といわれ、聖書の中でも暗唱されている方もたくさんおられ小さい頃から親しまれている箇所です。それぐらい心に届きやすく、人間と神さまを表す縦との関係を示しています。たった6節の歌に「牧場」「死の陰の谷」「敵の前の食事」から場所が発展し、「羊飼いと羊」「ガードと旅人」「主人と客」ととても古代のイメージがつきやすく、コンパクトになっています。また大伝道者スポルジョンは、「詩篇の中の真珠だ!」と言っていますが、本当にこの歌は主へ溢れ出てくる詩人の告白が美しく、心に響いてきます。

 1-2節「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」と告白しています。

詩篇23編を歌っているダビデは、以前羊飼いでした。皆さんの中で羊を飼ったことがある人はおられますか?羊の特徴について意外と知られていないのですが、羊について少し紹介したいと思います。

羊は本当にすっかりと安心しないと伏さないそうです。周りに獣がいる、獣の匂い、鳴き声、気配がすると一切伏しません。羊を伏させることはなかなか難しいそうです。また仲間同士の争いのために伏さないのです。誰が一番強いか、突き合うと伏しません。ハエや虫が体にストレスを与えてしまっても伏しません。また私たちみたいに空腹が満たされないと伏しません。良き羊飼いは、羊が安息すること(ゆっくりと心を落ち着かせる)、羊がいつも元気でいてもらうために、これらすべて羊の要求に応え、羊の憩いの邪魔ものを取り除きます。また面白いのは、一度ひっくり返るとなかなか自分で起き上がれません。起き上がれないままでいるとパニックを起こし、体が弱ってしまい、死に至る場合もあるのです。ですから羊飼いは、1日に何回も羊のところへ行き、チェックをします。

倒れていた羊が起き上がらせても、すぐに歩くとは限らないのです。羊は転び癖がつくので、羊飼いが声をかけて徐々にきちんと歩けるようサポーをするのです。

このような無力、無知な羊たちは一切を羊飼いに任せ、自分では何もできません。そんな羊と羊飼いとの関係を詩人ダビデはよく知り尽くしていました。聖書では人が「羊」で、主が「羊飼い」だ!とダビデは主との関係を告白しています。なんだか、ダビデが羊飼いである主の横で「メェー」と泣きながら、主と共に過ごしている、その光景が見えてきそうです。 

 まさに詩人の信仰がそのような状態であったことでしょう。ニュージーランドや日本の牧場をインターネットで見ますと、空は青空で広がり、広い緑いっぱいの牧場の中で、羊たちは野獣から守られ、羊やヤギが自由に走り回ることができ、子羊が飛び跳ねている姿が見えますが、他方でイスラエルなど過酷な風土や野獣の出没などの地では、牧場といった所定の場所や緑の草などありません。いつ襲われるかわからない弱い羊のために、羊飼たちは野獣や敵から目を光らせ、緊張感が走らせているのです。そのような状況で主へ一切を任せている関係が出来ている時、それは『過酷な風土や野獣の出没などの地』でも、そこは『主の牧場』であり、主の牧場にしかない柔らかい緑の草が生え、私たちは身を横たえて安心して休むことができ、過ごせるのです。私たちも、どこへ導かれるのも羊が羊飼いに一切を任すように主に一切を任せ、従うとき、日々の歩みの先頭には主がおられ、あらゆる敵や誘惑から御言葉をもって助けて下さるのです。

 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」

クリスチャンになり信仰生活の中において「死の陰の谷」を通らされることもありますね。詩人ダビデは王や敵によく命を狙われ、何度も死の陰の谷を通せられました。けれども、ダビデは人間よりもはるかに力ある主の側にいたので、災いを恐れなかったです。羊飼いである主と共に歩む道は、「おいしそうな緑の牧草」とは限りません。むしろ、その人のために過酷な風土や野獣の出没などの地を通ることもあるでしょう。悪と誘惑に満ちたこの世は、まさに荒野です。だからこそ、道を知っているからと羊飼いである主から少し離れたりせず、主の側にいて、しっかりと関係を持ち続けるなら、詩人ダビデのように災いすら恐れる必要がないのです。

Ⅰコリント10:13(口語訳)にはこのような御言葉があります。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」試練とのがれる道も備えて下さっているとは、なんという恵みなのでしょうか。

Ⅱところで、みなさんにとって「恵み」と感じることはなんでしょうか。ある人にとっては、恵みとは生かされていること、また苦しみや数々の試練・痛みから解放されること、あるいは守られてきたこと、助けられてきたこと、今があることが恵みと感じているのかもしれません。主からの『恵み』。

私にとっての恵みとは、新しく生きていくことだと思います。アモス書に「わたしを求めよ。そして生きよ。」と書かれてあり、エフェソの信徒への手紙2:4-5「憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」とあります。神様から人間への最大の恵みはなんですか。イエスキリストを送って下さったことです。神の愛によって、罪に死んでいた私たちが救われ、新しくされたのは、神の恵みによってなのです。感謝なことに、神様の恵みは、いろんな形で注がれています。すでに注がれている恵みに応答し救われている方は、身近にいるその恵みにまだ応答されてない方がたのことを覚えて祈っていきたいと思います。

 皆さん、恵みに応答した人物と背を向けて決して応答しなかった人物を紹介したいと思います。神を信じた最善の家系ジョナサン・エドワード家と決して信仰を持たなかった最悪の家系ジュークス家です。

最善の家系ジョナサン・エドワーズですが、子孫6代で1394名と広がりました。彼は18世紀にイギリスからアメリカへメイフラワー号で移民した人物です。神学者であるジョナサン・エドワーズは神を信じていましたので、信仰生活を教育に最重要したそうです。祈りを重んじ、神を愛し、従う信仰を持ち続けたジョナサン・エドワーズは子孫に至るまで恵みを受け続けたのです。なんと信仰を持ち続けたジョナサン・エドワーズの子孫からは、①牧師100名、②副大統領1名、③上院議員3名、④大学総長14名、⑤大学教授100名、⑥弁護士30名⑦裁判官30名、⑧医者60名、⑨有名な作家60名、⑩陸海軍将校、⑪大会社の社長15名、⑫役人83名もなったのです。こんなにも恵みを受けたのです。

一方で、最悪の家系ジュークス家ですが、子孫6代で2027名に増えました。彼は無信仰で放任主義であったため、子孫全員が神を信じず、信仰を持たなかったのです。ジュークスの子孫からは①ホームレス310名、②性病患者440名、③常習窃盗60名、④刑務所暮らし60名、⑤わいせつ常習者55名、⑥娼婦600名、⑦刑務所に入らなかった者10名となったのです。主を信じ、主について行く時、私たちは神様からの注がれている恵みを受け続けるのです。「雨は悪人にも善人にも注がれる」という言葉あるようにすでに私たちには恵みが注がれています。その恵みに応答するとは神を信じ、従っていくことであります。
ぜひこの素晴らしい恵みをあなただけでとどめず、子どもたち、孫たちへ、また周りの人へ熱い祈りを持って伝えていきましょう。

 Ⅲ.いつくしみと恵みが迫ってくる

6節「いのちのある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」今日明日だけでなく、命のある限り、御国に行く時まで主からの恵み、祝福が押し寄せるかのように追いかけてくるのです。なんという大きな祝福なのでしょうか。ぜひ、祈りつつこの恵みを喜んで受け続け、主と共に今週も歩みたいと思います。お祈りします。

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日曜礼拝(2014年9月21日)

2014-09-23 18:55:36 | Weblog

青葉台教会礼拝  後藤献一 21Sep2014

☆『ジャーナルのすゝめ』

☆出エジプト記33:7-11

 

世界で有名なスキットを観ていただこうと思います。

Statue(スタチュー・像) Drama <川上君&モニカ神学生>

 

先ほどのドラマの中に、突っ立っている人がいましたが、命のない像が出てきました。

いろんなことをトライして命を与えようとしましたが、動きませんでした。

でも、最後どうしたら動きましたか?

聖書を読んだら、神の言葉を読んだら、動き始めました。

神の言葉の中に、命があるんです。

人は聖書を読む時に、そこに神に出会い、人生の目的や意味、喜びを見つけ出します。

「真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」という聖書の言葉がありますが、

この人は今までの罪や痛みのあらゆる捕われの中に生きていましたが、神の言葉がこの人に命を与え、人として動き始めました。

この短いドラマには3つの大切なメッセージがあります。

1、人にはモノではなく、神の言葉によって生きる。

2、祈りは聴かれる。

3、誰か彼に、神の言葉を伝える人が必要。宣教ですね。

 

これは子どもでも観たらすぐに意味が理解できるということで、言葉の通じない場所でも、世界宣教で用いられるドラマです。

 

今日のメッセージタイトル、「ジャーナルのすゝめ」。

このタイトル、明らかに明治時代、サムライの時代から、明治維新・新政府になって、今までは身分や階級・出身に縛られていたけれども、これからは民衆に学問が必要であるといって、当時 大流行した福沢諭吉の「学問のすゝめ」を意識しています。:D

「ジャーナルのすゝめ」。皆さん、「ジャーナリスト」という言葉をよく聴くと思いますが、現地に行って取材して、声を聴き取り、ニュースを書く人ですよね。

「ジャーナル」とは、「書き留める」という意味があります。名詞では「ジャーナリング」(霊的日記・スピリチュアル・ジャーニー)。

神の言葉・聖書を、毎日読み、あなたの心にノートに書き留めることが、あなたにとって、神と共に歩む新時代を切り開く鍵になるということをお伝えしたいと思っています。

新時代とは何でしょうか。

それは今まで神の言葉なしの人生を過ごしていた。

大事な決定(恋愛・結婚・就職など)する時に、自分の知識と思いだけで判断していた。

神様に聴くよりは、世間の常識と周りの目を優先して来たという生き方から、

>聖書に記されている人たちのように、神と共に歩んだ人生に変えられていく、かけがえのないやり直しのきかない、誰にも真似できない、あなたしか生きることの出来ない人生を、豊かに歩むための人生のスタートに立つということです。

聖書にたくさんの登場人物が出てきます。そのすべてで共通していることは、神様の言葉を聴いて歩むかどうかというところが出来事となっています。

 

神の言葉が人生に入ってくるならば、個人の歴史に、イスラエルの民族に大変化をもたらしたんです。

 

Ex. たとえば、一つ私の家に、あるモノが来て、大変革が起こった出来事をご紹介致しましょう。

みなさん、私はここだけの話し、12人兄弟の長男です。

この平均家族に1.2人の時代に、約10倍近くの子どもがいました。

この後藤家だけにあるルールがありました。

まず第一に、家に入ったら、靴を並べて、すぐに手を洗う。うちは一人が水疱瘡やはしか、風疹になると、続いて全員がなったんです。感染症防止の意味がありました。ただ子どもには面倒くさかったんですね。終いには、父は玄関に洗面所を作ってしまいました。

第二に、トイレットペーパーの長さは、一人1キュビトまで。子どもたち、放っておいたら、どれだけでも、ぐるぐるとトイレットペーパーを使って、すぐ失くなってしまうんです。

小さな子ほど、トイレットペーパーを使いました。だから父が、一人1キュビトまでって、手の指先からひじまで、これはノアの方舟を造る時に使われた単位です。

第三に、家族の人数が多いので、仕事が決ってました。私は朝の新聞取りです。弟は井戸水のタンクに水を満たし、次亜塩素酸ソーダーを適量入れることです。土曜日の教会掃除、庭掃除など、女の子はカレー作り、部屋そうじなど、いろいろありました。

一番きつかったのが、洗い物です。長女は朝食の食器洗い、次女は昼食、夜は私。意味わかりますか?朝は平日学校があるので、すぐ学校行ってしまうんです。昼家みんなが揃うのは土曜日くらい。日曜日は教会のカレーがあります。夜だけ確実に毎日やってきました。

私は、前びしょ濡れになりながら、6年生最後まではやりました。一人2・3個あったら、軽く30枚くらいあったんです。

それで海外へ行って帰って来て、すぐしたことがあったんです。西欧では、全自動食器洗い機当たり前。食べ終わったらみんなそこに置いておくだけ。ピッとボタン押したら全部きれいにしてくれたんです。

なんで今までこの機械が日本になかったんやー。これさえあったら、毎日もめなくても、平穏な小学校生活が送れたのにと思いました。

なので、帰って、すぐに母にプレゼントしました。もうその頃、献三以外ほとんど家を出ていましたが。

でもその全自動食器洗い機がショックなことに、革命的でした。人が洗うよりも、きれい。殺菌効果。水の節約になる。経済的。時間の節約になる。

後藤家に、食器洗い機が入ったのは、革命的で、生活を変えてしまったんです。

 

何が言いたいか。

神の言葉が皆さんの生活に入ると、革命が起こってしまうんです。

日常生活の中に、家族の間に、あなたの心の中に、神の言葉がひとたび入ると、

今まで、自分だけの力で頑張って来たかもしれない、争いがあったかもしれない、すぐに限界が見えていたかもしれない、

しかし、今まで自分の考えしか、アイデアしかなかったところに、信仰の世界が見えるようになり、神の知恵が流れ込むのです。

今まで、太平洋を手こぎボートで渡っていたのが、急にジェット機で行くようなものです。

イザヤ 55:9「天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも 高い。」

 

私が小さい時、父が何度も教えてくれたことがありました。

聖書を読むと、4000年の知恵が詰まっている。それをあなたの人生にプラスして歩んでいることと同じだと。

 

人生は一回しかなく、自分で体験できることは限られており、学習した頃には歳を取ってしまいます。

しかし聖書は、神があなたの人生を導こうと、祝福しようと、父なる神が自分の最愛の子ども・あなたに向けて贈られた愛の書・遺言書なのです。

 

なので、時代を超えても、国やバックグラウンドや、身分や立場が違っても、どの人にも、希望と喜びと生きる意味を与えるベストセラーなんです。

どれくらい読まれているか、どうぞこの表を観て下さい。

2011年には3億6000万冊

2012年には4億3763万冊

今までで推定3880億冊。図>

 

また日本ではクリスチャンの数少ないかもしれませんが、

世界人口の33%の23億人はクリスチャンで、旧・新約 聖書を読んでいるんです。

そしてユダヤ教・イスラム教を入れると、

世界70億の半数の人は、旧約聖書を読んでいるのです。図>

 

>皆さんは、芸能界のあのスターと、スポーツ選手とお友達だったらいいなと思ったことはありますか。香川選手とか、メッシ選手とかね。

それも素晴らしいですよ。

もし、天皇陛下やアメリカ大統領がお友達だったら、どうですか。

普通は会うチャンスもない。その方と会えるとしたら、皆さん他のスケジュールを全部キャンセルして会いに招待を受けるでしょう。

そして、会える自分のことも特別と思うでしょう。

 

でも今日読んでくださった箇所に、もっとすごい、特別なことがあるんです。

神の友だちです。

この天地万物を創造され、あなたを造られ、歴史を宇宙すべてを支配しておられる神の友だちです。

その天皇も、大統領も、私たちも同様に造られた、すべての上に立ち、はじめから生きておられ、終わることのない永遠に生きておられる方です。

 

モーセは、この神と、友だちとして話したと、驚くべきことが書いてあるのが今日の聖書箇所です。

出エジプト記33:11「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

聖書には、神の心の友として、3人の人が知られています。

アブラハム、ダビデ、このモーセです。

また新約の時代に入っては、イエスキリストは弟子たちを、しもべとしてではなく、友としてお呼びになりました。

街中から嫌われていたザアカイの家にも、友人として、イエス様は彼の家にお訪ねになったのでした。

 

モーセはどのようにしてこの神と語る機会を得たでしょう。

余興を観ながら、みんなと雑談していたら、ダンスしていたら、神様が直接語ってくださったと書いてあるでしょうか。

いいえ、

出33:7「モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。」

モーセとイスラエルの民は、約束の地を目指して砂漠を旅していました。モーセが創造主から導きを聴く時は、みんなの移動式のテントが集まるガヤガヤした集落から、少しではないですよ、遠く離れた所に、神様と会うための会見のテントを作り、幕屋と名付けました。

私たちも日常生活の中で、雑踏から離れて、神様と会うための時と空間を作りたいですね。

 

この33章前後を見ていくと、32章・34章では、モーセは創造主からイスラエルの法律をもらうために、シナイ山に40日間ずつ2回登っています。

しかし日常生活の中では、モーセは毎日シナイ山に登ったのではなく、別のテントへ、この会見の幕屋に、神様に会いに行ったのです。

 

33:9「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。

11 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

 

なんと羨ましいことでしょうか。モーセがその場所に行くと、神様も降りて来て、その場所で、モーセに語ってくださった。しかも、友だちのように、楽しく、親しく、リラックスして、

本音で神はモーセに語られたというんです。

 

皆さん、私たちの人生に、モーセがあって、私たちがないものとすれば、このことではないでしょうか。

スマートフォンはあるかもしれない、車はあるかもしれない、現代・三種の神器はあるかもしれない、快適な家はあるかもしれない。仕事も、多忙なスケジュールもあるかもしれない。

しかし「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

 

もし私たちがないとするならば、この神様との顔と顔を合わせた、神様と友だちの時間、神と対面する機会ではないでしょうか。

モーセがした奇跡、紅海を2つに分ける、ファラオの前で10の奇跡の方がすごいし真似たいと思うかもしれませんが、その前に、モーセとイスラエルの民の力の源が、この神様と会うことだったんです。本陣はここです。

聖書の中で、神との語り合いなくして、何か達成した人は出てこないんです。

隠れていますが、みなに共通しているのが、「神との時間」が命の源でした。

 

もしクリスチャン生活で力がない、もう毎日のスケジュールでいっぱいだ、喜びがない、誘惑に流される、自分のことしか考えられない・・・信仰も教会も忘れがちだ・・・。

 

私たちはモーセがしたように、日常の喧噪から離れて、神様と会う聖なる空間と時を作りたいと思うんです。

あの離れた幕屋こそが、イスラエル民族がイスラエルであるための秘密であり、モーセと神様が語らう場所でした。

 

>先ほどジャーナルというものをお伝え致しました。

神の言葉を聴いて、霊的に日誌を付けていく、あなたと神様との会見の幕屋での記録ですね。

当時は、まだモーセが十戒をもらう時でしたから、聖書もなく、民も直接、神から聴くことはありませんでした。

しかし今、感謝なことに、私たちには自由があり、製本された聖書66巻があり、イエスキリストによって、神様の言葉を自由にいただけるという、恵みの中にあります。

荒野の中でモーセが神を聴いたように、人生の荒野で、旅の途中こそ、神の言葉を聴く必要があるので。

 

34:29bには、モーセはジャーナルが終った後、神のエネルギーで、喜びで満ちていたとありますよ。「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。」神との面会の後、モーセは超美白であった。(献一訳ですが、笑)

30 イスラエルの民は (あまりにも美白すぎて)、恐れて近づけなかった。

35 モーセの顔の肌は光を放っていた。

とあるほど、これはシャカイナ・グローリー、神様の栄光ですよ。

主の臨在と時間を過ごして出て来たモーセは輝いていた。

あまりにも眩しくて、顔を隠さなければならないほどだったんですよ。

 

神様の声を聴いて個人的に励ましをもらったら、あなたも同じように元気になることでしょう。

 

さあ、ここで、あなたも実践出来る、ジャーナルの具体的なやり方をお伝えしたいと思います。

日々の生活の中で、神様とのクオリティータイムを作るのです。

毎日聖書を読んでる方もすでに多いと思いますが、今日私は、聖書を単に読むだけではなく、ジャーナルする・心とノートに書き留めるということをおすゝめしたいんです。

 

なぜ書き留めることが重要か。

人は72時間後、平均95%聴いたことを忘れるそうです。

つまり今から3日後の水曜日の今頃、今日の私のメッセージを書き起こして下さいと言ったら、95%忘れているんです。

聖霊様が語ってくださったことも書き留めないと、忘れてしまうんですね。

なので毎週の礼拝メッセージも書き留めた方がいいんです。

 

ジャーナルには、いろんな書き方がありますが、今日ご紹介するのが、一つの分かりやくて長続きするやり方です。

用意するものは、3つです。

1, 聖書と先ほどお配りした通読表

2, ジャーナル用の専用ノート を1冊作ってください。

3, 3色ほどのペンです。語られた所、アンダーラインを引きましょう。

またノートをカラフルにしましょう。全部、黒で書くと後で読みにくいからです。

 

聖書ない人は、後でプレゼントしますので、ぜひ声をかけてくださいね。

 

モーセも神の言葉をもらうために、ジャーナルノートを持って来なさいと、

出34:1のところで言われたんですね。

「主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あながた砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。』」

ここに神様は十戒を書いてくださるんですよ。

当時は石の板ですが、その後の時代では、聖書の著者たちは、神様の言葉を受けて、羊の羊皮紙、パピルスに書き留めました。神の言葉を受けとめるにはノートが必須ですね。

皆さんはちょっと素敵なノートを用意して下さいね。iPadでも大丈夫です。

 

☆ジャーナルのやり方☆

1、日付と今日の箇所を書く

2、短く祈る

  • サムエルのように「しもべは聞きます。主よ、語ってください。」Iサムエル3:9
  • 私の父はクリスチャンになる前、「貝になりたい」という言葉が好きでしたが、そのように心を閉ざすと、なかなか入りにくいですね。
  • 諺のように「人の心はパラシュートと似ている。開いてなければ意味がない。」

3、目標の場所まで(1章でも3章でも) or 教えられるまで読んで、

      その中で最も教えられた一節を書く

4、観察 or 出来事 or 感想を書く

   Good News(福音・約束), 神様のキャラクター(性質)を発見出来るはずです!

5、「タイトル」をつける

6、「今日、何をするか」を書く   (私はしばしば「ひざで祈る. #5(回目)」書きます)

      Or ・Start 今日から何を始めるべきか

   ・Stop  今日から何をやめるべきか

  ・Keep   何を続けてすべきか.      

Or  [今日の優先順位]を書いてもいいです: → → → 

7、「祈りの課題」を書いて、祈る (Prayer of 3)

 

☆いつやったらいいでしょうか?☆

一日の自分がベストの時間

週1回2時間よりも、1日15分毎日の方がはるかに良い!!

→そのうち、週に出来る回数が増えてくる!

お奨めは朝! 寝る前だと、今日何をするか?の質問が、寝るしかかけなくなる(笑)

 

アブラハム、ヤコブ、モーセ、ハンナ、ヨブ、ヒゼキヤ、ダビデ、ダニエル、イエス様も朝さました。

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ 出て行き、そこで祈っておられた。」 (マルコ1:35)

☆どれくらい読んだらいいでしょうか?☆

>3、目標の場所まで or 教えられるまで読む

一日20分、あるいは 3.3章が 理想♪

旧約 39巻 929章  

新約 27巻 260章

合計 66巻 1189章 ÷ 365日= 3.3章、週に23章

毎日、旧約2章・新約1章 (土日のみ旧約は3章)

これで、一年に一度読み切れる!

一日10章だと、年に3回通読できる!

    何歳ですか? 歳の数だけ読めるといいね☆

一日1章でもいい。5分でもいい。続けることが大事!

 

私の祖父は、クリスチャンになってから、「一書の人」になったんです。

晩年は、白内障と糖尿病を患ってたんですが、大きな聖書を虫眼鏡の上に虫眼鏡を重ねて一生懸命、祖母と聖書を読んでいました。

 

ジャーナリングが人生を変える!
20/20の法則 (20分聖書朗読・20分ジャーナリング)
神様との15分
忙しい日でも5分は作れる

 

>習慣化する

新しい仕事や作業に慣れるのに3週間

習慣となり、快適だと感じるまで3週間

計6週間続けることが、一つの壁。 (リック・ウオレン牧師)

   壁を乗り越えよう!

 

そして皆さん、祈祷会やスモールグループで、神様から語られたことを、ぜひシェアしてください。ランチの時間でも、同じテーブルで近くの人とシェアしてください。

「今週、神様何を語ってくださった?」と。

神様が語られて、それを実行した。そしてこんな結果が来た、ぜひお聴きしたいじゃないですか。

ヤコブ1:22「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」

その時、注意することは、7日ジャーナルをしても、その中でもハイライトとなる1日分だけを友だちにシェアしてください。

そして一人3分以上、話さないようにトレーニングしてください。

3分間ドリルやったことありますか。人は3分以上、集中力を保つのが難しいんです。

これからもあなたの話しを聴きたくなるために、短めにシャープに話してください。

 

最後にイエス様があなたにしてくださったこと、そのイラストレーションをお見せして終りたいと思います。What Jesus did for us.

Ex. ここに7つのコップがあります。(きれいな水が入っている)

あなたの友だち、兄弟、親、牧師先生、首相(大統領)、あなた、イエスキリスト

あなたの友だちは、罪を犯しますか? 

(1つずつ聞きながら、インクを入れる。黒に染まっていく)

ここにもう一つ、小さなコップがあります。

宗教です。この世の教育、仕事、慈善活動と言ってもいい(その水を5つのコップに入れていく)

一生懸命やったら、きれいになりますか。(7つのコップは何も変化しない)

ではこれはどうですか。(キリストのコップの水を他6つに注いでいく)

(すると6つの黒に染まった水が、全部 透明に変えられていく)

 

私たちには一人ひとり罪がある。

でもキリストがしたかったことは、あなたの中から、この暗闇を取り去りたかった。

ご自身(コップの中)を空っぽにして、十字架の上で、このように神の聖さを届けたかったんです。

 

Iヨハネ1:7「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに 交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 

イエス様にあったら、消せない罪は、赦されない罪はないんですね。

マタイ11:28 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

イエスキリストは罪人を裁くために来たのではなくて、救うために来られました。

あなたを救うために、命を与えるために、希望を与えるために、生きるために、

私たちにはこのキリストが必要です。

 

今日、まだ私というコップの中に、ああ今まで手をふさいで覆っていた、

神様の言葉が、聖さが、充分に私の日常の中に訪れていなかった、

主よ、どうぞ私を聖めてください、人生の中に入って来て下さいと願う方は、

ぜひ後で私に話しに来て下さい。

神の言葉を人生の中に入れる、神の聖さを私の毎日に注ぐ、

受け取ろうじゃないですか、主はあなたの友となるために、あたなと食事をするために、心の戸をノックしておられます。

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日曜礼拝(2014年9月14日)

2014-09-15 21:01:35 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第13主日)     2014.9.14

天国良いとこ一度はおいで 」 ヨハネ3:16

 

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第二日曜日を迎えました。今日も愛するみなさんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。先週は、平原宣教師ご夫妻をお迎えし、メッセージと証し、宣教報告をしていただきました。タイの宣教のため、エイズに苦しんでいる方々に寄り添い、福音を伝えておられる先生ご夫妻のお働きのために祈り続けたいと思います。

 私の9月の礼拝の御用の担当は今日だけです。来週21日は熊本ナザレン教会の特別伝道集会、28日は大阪桃谷ナザレン教会の特別伝道集会でのメッセージのためお祈り下さい。青葉台教会では、後藤献一先生、後藤モニカ神学生がみ言葉を語って下さいますので、お祈りで支えていただきたいと思います。

 今日は、礼拝後に高齢者祝福会とナザレンフェスティバルが行われます。9月15日は敬老の日です。敬老の日は、もともと「としよりの日」という名前で昭和29年に制定され、昭和39年に「敬老の日」と改められました。昭和41年に「国民の祝日法」が改正され、「老人を敬愛し、長寿を祝う」として、国民の祝日となりました。

 敬老の日の由来は、聖徳太子が大阪に四天王寺建立の折、この地に四天王の名にちなんで、悲田院(ひでんいん)という今でいう老人ホームに似たものを開いたのが9月15日であったいう説と、元正(げんせい)天皇、後の天武天皇が717年に元号を「養老」と改めたことにちなんで9月15日を敬老の日に定めたという説があるようです。

 聖書は、長寿を神様の祝福ととらえ、高齢者を敬い、大切にする事を教えています。

今日は、聖書の中心といわれるヨハネによる福音書3章16節を通して、「天国良いとこ一度はおいで」という題でお話ししたいと思います。この説教題を見て、ピンときた人は4以上の方々でしょうか。「帰ってきたヨッパライ」という題で、1967年12月25日に、ザ・フォーク・クルセイダースというグループがシングルデビューしました。飲酒運転で事故死したオラ(自分)が天国へ行くのですが、天国でも酒と女に浮かれ、神様からお仕置きを受けるというような内容です。天国をこの世の観点で見た内容です。私たちは、敬老の日を前に、高齢者のお祝いをしますが、高齢者に最も身近な天国の恵みについて聖書から見たいと思うのです。

 

 Ⅱ本論部

一、イエス様を信じ永遠の命を持つ

 私たち日本人は、温泉に入ると口から出る言葉は、極楽、極楽です。天国、天国と言う人はあまりいません。極楽とは、サンスクリット語の漢訳で、原義は「幸ある所」。阿弥陀仏の浄土。案楽で何の心配もない場所とあります。

 皆さんと共にヨハネ3章16節を共に読みましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためでる。」 聖書の富士山と言われるほどに大変有名な聖書の言葉です。

 聖書は、分厚い本で旧約の創世記から新約の黙示録まで全部読むのには苦労します。

1日、3.3章読むと1年で読み終わるとよく言われます。長く読むようにとは聖書は語りませんが、一度は創世記から黙示録まで読んでおきたいねですね。その聖書、66巻の中で、ヨハネ3章16節は、1番と言ってよいほどの聖書の言葉です。ここには神の愛が示されています。

 神様は私たち一人ひとりを愛して下さいました。世を愛されたとは、世に住む私たち一人ひとりを愛されたのです。どのように愛したのかというと、独り子を与えるほどに愛したのです。独り子を与えるとは、独り子であるイエス様が、神の子であるお方、神であるお方が人間としてこの世界に誕生し、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さった。私たちは罪ある者、罪があるために滅びるべき存在であったのに、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを救うために、身代わりにイエス様の命を十字架の上でとられたのです。罪を持つ私たちが、罪を持たないイエス様の死のゆえに、滅びないで生かされたのです。

 神様が世を愛された、世に住む私たちを愛された理由の2番目は、独り子、イエス様を信じる者、イエス様を信じるとは、イエス様の何を信じるのかというと、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったということを感謝する。ありがたいと思う。これが信じるということなのです。イエス様の十字架を信じる者、感謝する者、ありがたいと思う者には、永遠の命、天国の命を与えて下さると神様は約束しておられるのです。

 同じヨハネによる福音書20章31節には、聖書が書かれた目的が記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 莫大な量の聖書が書かれた目的は簡単に言うと2つ。イエス様が神の子メシアであると信じることと、信じて永遠の命を受けるためなのです。あなたは、この2つの目的をクリアーしておられるでしょうか。クリアーするためには、努力もがんばりも勉強も必要ありません。ただ、聖書を通して語られている神様の言葉を、素直になって心を開き、感謝して受け入れるだけなのです。神様は全ての人に罪の赦しと魂の救いを与えるために、十字架にかかられ、永遠の命を与えるために死から復活されたのです

 

 二、心配しないでいい

 午後からは高齢者祝会があります。私たちの教会には75歳以上の方々が 名おられます。高齢者祝会は75歳以上でないと受けられません。以前は70歳以上が資格でしたが、人数が多くなられて、75歳以上になったのですが、80歳に年齢を引き上げる必要がありますねと誰かが言っておられました。

 長寿の心得というものがあります。人の世は山坂多い旅の道 年齢の六十にお迎えが来たら 還暦60歳 とんでもないと追い返せ  古希70歳 まだまだ早いと突っ放せ

喜寿77歳 せくな老薬これからよ  傘寿80歳 なんのまだまだ役に立つ

米寿88歳 もう少しお米を食べてから  卒寿90歳 年齢に卒業はないはずよ

白寿99歳 百歳のお祝いが済むまでは  茶寿108歳 まだまだお茶が飲み足らん

皇寿111歳 そろそろ譲ろうか日本一

 念ずれば花咲く 気を長く 心は丸く 腹立てず 口つつしめば 命ながかれん

クリスチャンである私たちは、年がいくつであろうと神が召される時、全てを神様にお委ねしていくものでありたいと思います。

 75歳を越える方々は、神様に守られて今日まで歩んでこられたのだと思います。戦争の体験もされ、困難な時代の中にも守られ、支えられてきたのでしょう。そして、神様に出会いクリスチャンとして歩んでこられました。ただ、長寿というのではなく、生きてきたというのではなく、神様に生かされてきた。神様の守りと導きの中を歩んでこられたのです。そして、今日の聖書箇所のように、神様に愛されていることを経験し、イエス様の十字架と復活を信じて救いを体験し、永遠の命の恵みをご自分のものとなさったのです。

ですから、さらに長く生かされることを願いますが、先程の長寿の秘訣にあるように、お迎えが来たら跳ね返すというのではなく、神様の導きに全てを委ねて、召される日を証しの時として、家族への宣教の時として豊かに用いられることを祈ります。永遠の命の約束をいただいているのですから、いつ死んでも大丈夫です。ですから、ご安心くださいね。

 

 三、死んでも生きても私たちは主のもの

 詩篇90編10節には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても」とあるように、高齢者祝会の対象者の方々は神様に生かされ、守られておられることを感じます。また、レビ記19章32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」とあります。リビングバイブルには、「神を恐れなさい。老人には一目をおき、尊敬をはらいなさい。わたしは神だ。」とあります。私たちは、長寿が与えられている方々を尊敬し大切に、親切にすることが神おご命令であることを知らなければなりません。

 私たちは、高齢者祝会の対象者の方々のように、75歳、80歳と生かされることを願いますが、若くして召されることもあります。長寿は祝福で短命は災いだと聖書は言いません。

 私の神戸の神学校の先生のメッセージで語られていたことを紹介したいと思います。

皆さんは、レディーボーデンというアイスクリームをご存知でしょうか。食べた事があるでしょうか。ちょっと高価なアイスクリームだと思いますが、このアイスクリームで財をなした方の息子さんのお話です。ウィリアム・ボーデンさんは、エール大学という優秀な大学で学びましたが、イスラム圏伝道に導かれました。当時は、なかなか救われる方々が起こされないで、一人も救われないで宣教師としての働きを終わる方々も多くいたようです。

ですから、ウィリアム・ボーデンの家族や友人、周りにいる人々はみんな反対しました。せっかく優秀な大学で勉強して、君の才能をもっと他で生かせると反対しましたが、彼はイスラム圏伝道のために行ったわけです。しかし、彼はそこへ行ってすぐに病気でなくなってしまいました。宣教の活動を何もできずに亡くなってしまったのです。彼の人生は無駄だったのでしょうか。意味がなかったのでしょうか。

 ウィリアム・ボーデンの死を聞いた人々の中で、300人の若者が立ち上がりました。ウィリアム・ボーデンの死を通して、宣教のために立ちあがった300人がありました。彼の死が意味のないものではなくて、神の前に尊い歩みであったことが示されたことだと思います。

 長寿が与えられて生かされていることも感謝。短い生涯に幕を下ろす事も、その背後には神様の最善の導きがあり、その死を通して神様のみ業が起こされるのです。私たちはパウロが語ったように、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

(ローマ14:8)のように、私たちはどのような所を通されても主のものなのです。

そして、いつ召されるとしても私たちは、イエス様の十字架と復活を通して、魂の救いと罪の赦し、永遠の命が与えられていることを覚えて感謝したいと思います。

 

 Ⅲ結論部

最初に紹介しました、「帰ってきたヨッパライ」は、繰り返しの歌詞が「天国良いとこ一度はおいで、酒はうまいし、姉ちゃんはきれいだ」と浮かれているので、神様から「なーおまえ、天国ちゅうとこはそんな甘いもんやおまへんのや、もつとまじめにやれ」と叱られます。しかし、毎日酒を飲み続け、神様の事を忘れてしまい、最後には、神様から「なーおまえ、まだそんな事ばかりやってんのでっか、ほなら出ていけ」と天国を追い出され、また階段を下りて、生き返るという結末です。

 天国は良い所です。だから一度はおいでと遊園地やお店ではありません。本当に神様が与えて下さる素晴らしい場所です。

 黙示録には、神様と人が共に住む場所として描かれています。そして、そこでは、わたしたちの目から涙をぬぐって下さり、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない、

と記されています。

 私たち全ての者が天国に行く事が神様のお心です。そのために、イエス様が私たちのために十字架にかかり命をささげて下さり、死んでよみがえって下さったのです。私たちは、この恵みが与えられていることを感謝しつつ、今与えられたころで、主に仕えるように、家族に、隣人に、人々に仕え、愛を示したいと思うのです。

 今、与えられている所では、苦しみや悲しみが確かにあります。涙も流すでしょう。けれども、大丈夫。イエス様があなたと共におられます。イエス様があなたと共におられて、あなたを支え守って下さいます。この週も、イエス様が共におられることを信じて、感じて歩ませていただきましょう。

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