主日礼拝式(三位一体後第十三主日) 2009.8.30
「神に用いられる人」 ルツ記4:1-17
Ⅰ導入部
おはようございます。8月の第五主日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。
先週は、杉田政志先生のメッセージをお聞きして元気をいただきました。「みんな違ってみんないい」本当に違いを認め合い、その違いを生かしていきたいと思わされました。私たちは、何か一つに、同じものにしようとする傾向がありますが、違いを嫌うのではなく、迷惑がるのでもなく、自分の違った考え方や見方が広がることを期待していきたいと思わされました。
土曜日からJF(Jesus Friend)の会、洗礼を受けた子どもたちの集まりがありました。以前、子育てセミナーのご奉仕をしていただいた瀬底ノリ子先生のお住まいである愛川の場所で、川遊びやバーベキューをして楽しみました。また、教会に帰り、聖書を通してクリスチャンとして必要な学びをし、交わりを致しました。これから、彼らがみ言葉にしっかりと立ち、成長していきますようにお祈り下さい。
さて、今日は、ルツ記の最後4章を通して、「神に用いられる人」と題してお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈愛するがゆえに
モアブの地からナオミについて来たルツは、ナオミのために一生懸命に働き、ナオミはルツのために落ち着きどころを考え、なんとかボアズとの結婚をと祈り計画しました。ルツはナオミの言う通りに行動し、女性の方から男性に求婚したのですが、ボアズはナオミのため、ルツの思いを受け止めて、買い戻しをと願うのですが、ボアズよりも近い親戚がいることをルツに知らせます。
ボアズはナオミの所有する畑地の買い戻しの権利を持つ人に、買い戻すかどうかを尋ねると、「その責任を果たす」と言います。この親戚は、ナオミからこの土地を買い、耕作して収穫を得ることができるのです。損にはならないし、最も近い親戚としての義務も果たすことができます。ナオミやルツが死んだら、その土地は自分のものになるので、ナオミの畑地の買い戻しを受ける気があると言います。けれども、ボアズが、モアブから来た嫁のルツも引き取らなければならない。そして、故人の名をその嗣業の土地を再興しなければならないと言うと、その親戚の人は、そこまで責任を負うことはできない。あなたがその責任を果たして下さいとボアズにその権利を譲ると言いました。畑地だけでなく、ルツも一緒に買うということは、お金を払って土地を買い、ルツを妻として子どもができたら、その子に亡き夫の名を継がせて、土地を帰してやり、おまけに年老いた姑のナオミの世話もしなければならないとなると御免こうむりたいということなのです。自分には何のメリットもないということなのです。損になることはしたくないというのが、この親戚の考えであり、多くの人々の考えでもあるのです。けれども、ボアズは違いました。自分のことよりも、ナオミのこと、ルツのことを第一に考え、自分がナオミの土地を買い戻し、ルツを妻とし、子どもができたら、その土地に亡き夫の名を継がせることも良しとするボアズの愛を感じます。
7節、8節を共に読みましょう。「かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行(りこう)や譲渡(じょうと)にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。」
ナオミの最も近い親戚、ナオミの畑地を買い戻す権利のある人は、ルツを妻とすること、子どもが出来たらその土地を継がせることができないということで、ボアズに権利を譲りました。
9節、10節を共に読みましょう。「ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人となったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」」
ボアズは損得に関係なく、いやむしろナオミのため、ルツのためには、損をしてでも自分の妻にルツを迎えたかったのだと思います。愛は自分のことよりも相手のことを考えます。たとえ自分が損をしても、失っても愛する者のために受け入れることができるのです。イエス様は、私たちのために、進んで十字架について下さいました。私たちのために、損となって下さったのです。
⒉神のみ業
ベツレヘムの人々は、ボアズとルツとの結婚を祝福しました。そして、ボアズとルツとの間に男の子が与えられました。14節、15節を共に読みましょう。「女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」」
ボアズとルツの間に生まれた男の子は、ナオミにとってはそれは、それは大切な子となりました。ナオミが夫エリメレクと二人の息子と共に、モアブの地に行った時は、食料もあり将来に期待したのですが、そのモアブの地で夫エリメレクも、二人の息子マフロンとキルヨンも死んでしまいました。ですから、ナオミは二人の嫁に対しても、「主の御手がわたしに下された」と言い、ナオミがルツと共にベツレヘムに戻った時、ベツレヘムの女性たちには、「出ていくときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。・・・主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」と自分の人生を呪い、神様に対する希望さえ失っていたのです。 二人の嫁、オルパとルツに自分の国へ帰り、幸せな結婚をするようにと言い、自分についてくることを拒んだナオミでしたが、ルツの「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」という決意を見て、共にベツレヘムに帰ることにしたのです。
ベツレヘムでのルツは、姑のナオミに忠実に従い、ナオミのために一生懸命に働きました。自分の将来の幸せを考えるのではなく、ナオミと共に暮らせる喜び、幸せを感じていたのです。そのルツはボアズの畑で落ち穂を拾わせてもらい、ボアズの目に留まり、ボアズの熱い厚意を受けることになります。ベツレヘムに帰ってきた時のナオミには、希望がありませんでしたが、ルツとボアズの存在が、その関係がナオミに将来の希望を思わせたのです。そして、ルツを通して、ナオミの土地の買い戻しの実現や自分の夫や息子たちの名を残すという希望が見えてきたのです。
本来なら、モアブという名前だけでイスラエルの人々には忌み嫌われるわけですから、期待も希望も持てないのにも関わらず、ボアズという素晴らしい人物を神様に導かれたことにより、ナオミにもルツにも希望が与えられたのです。また、ボアズにとっても、ルツというステキな女性との結婚を夢見ることができたのです。ナオミもルツも、そしてボアズも、自分の事しか考えないというのでなく、いつも相手のために、相手を一番に考えていたからこそ、神様の導きがあったのだと思います。
16節、17節を共に読みましょう。「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」
神様の豊かな導きの中で、ルツとボアズは、救い主の家系という驚くべき恵みを受け、神様に豊かに用いられる人となったのです。
⒊あなたも用いられる
先週、日本伝道の幻を語る会の集会に参加させていただきました。そこに、奈良の大和キリスト教会の信徒である米田昭三郎兄から「希望」という本をいただきました。米田兄の家族、一族の信仰継承の証が記されてありました。その中で、亀水松太郎物語という内容がありました。
亀水松太郎は、讃岐の国、四国の香川県の有名な旧家で誕生しました。家の商売の手伝いをしていましたが、売り上げをごまかして、酒や高価な料理を食べ、売り上げのお金を人に貸したとか、落としたと母親を騙(だま)していました。その後、博打(ばくち)を覚え、家屋敷を担保に、また家の着物まで賭けにしたのでした。ある日、車(人力車)に乗り、車に包みがあるのを拾い、中に120円、今のお金では何百万円の大金を拾いました。大金を手にした松太郎は、大阪の遊郭(ゆうかく)で遊びほうけてお金を全て使い果たしてしまいました。放蕩息子そのものですね。けれど、一度経験したお酒の味や遊びは忘れることができず、「金がほしい」と人の家に押し入り、泥棒をし、盗んだものを金に換えて遊郭で遊んだのです。けれども、警察に捕まり、松山刑務所に入れられたのでした。松太郎22歳の頃です。脱獄を試みますが、捕らえられ、14年6ケ月の刑で北海道に送られました。網走刑務所です。
ある日、松太郎が博打に負けて自分の独房に帰ると仲間が3人何やら眺めていました。のぞいてみると、むごたらしく十字架にかかって苦しんでいる人の絵でした。「いったい何者だ。よほど悪いヤツだろう。おれも悪党だが、無期の上に14年6ケ月だけ。こいつは磔(はりつけ)になっている。何をしたのか?」 仲間の藤次郎が言いました。「お前はとんでもないことを言うヤツだ。このお方はな、天地を造り、これを聖手に支えたもうただ一人の神の一人子、真の神様と同じかたちを持ち、この世に下られたお方で、少しの罪もないイエス・キリストというお方だ。」「そんな罪のないお方が、またどうしてはりつけにされたんだい。」「それはな、神に似せて造られた人間が、おれたちのように神を離れて罪を犯して滅んでいく有様を見るに忍びず、イエス様が人となって地上に生まれ、あらゆる苦難を忍び、最後には私たちのために十字架にまでかかって下さったのだ。だから、どんな大罪人でも、このイエスを信ずれば、今まで犯した罪はみな赦されて、天国という所に行くことができるのだ。」ペッタリと座り込んでしまった松太郎の目から涙があふれ出しました。松太郎の心に聖霊の働きが始まったのです。明治26年(1893年)の7月のことでした。
それから松太郎は変わりました。ある時松太郎の仲間が言いました。「お前は変わったなあ。お前は喧嘩口論ばかりして、おれたちは疫病神が来たと逃げたものだった。ところが、この頃のお前はまったく別人みたいじゃないか。」「私の心がこんなに変わったのは、自分ながら不思議に思うとるよ。これもみなイエスを信じて罪を赦してもらい、救ってもらったおかげじゃね。」 松太郎は、日々の労役を今の天職と信じて、一生懸命に一日の労を務めました。監房に戻れば聖書をひもとき、神のみ声を聞き、その教えを受け、自ら讃美があふれ、我知らず感謝の涙が流れるのでした。
炭鉱の中で何度か危険な目に遭っても、奇跡的に救われました。そんな時松太郎はひざまずいて、むせびながら祈りました。「お恵み深き神様。あなたはこの罪深き者をかくもしばしば死地(しち)よりお救い下さいましたのは、深いおぼしめしのあることと存じます。私は今無期刑の上に14年6ケ月の有期徒刑(とけい)を負っている身であります。到底あなたのみ業の証しを自由にすることはできません。汚れ多き身ではございますが、この身も魂もおささげ致します。どうぞご栄光のためにお用いください。アーメン。」 松太郎は、ますます祈りと聖書の研究に心を傾けたのです。
こうして松太郎は、刑務所で真面目に務めて模範囚になり、獄中伝道にも熱心に励みました。人々に愛され、信頼されるようになった松太郎は、明治42年(1909年)8月31日に放免されたのです。27年間の獄中生活の間に世界は変わっていました。それよりも変わった自分自身が、新しい時代をどう乗り切るか、全てを神様におゆだねしました。救世軍の出獄人保護所の労作館で昼は働き、夜は小隊で証しました。フリーメソジスト教会の河辺貞吉牧師の元で神学校で学び、やがて日本橋教会の副牧師に任命されました。昭和2年(1927年)に、大阪大道4丁目で開拓伝道を始め、その働きが祝福されて多くの人々を救いに導き、現在の大道教会が創立されたのです。昭和11年(1936年)1月16日76歳で召されたのです。 亀水松太郎は、人の道を外した者、放蕩息子、十字架の犯罪人のような者でしたが、イエス様に出会い、救われて神様に用いられた人となったのです。
この亀水松太郎牧師の宣教を通して、米田昭三郎兄のお父さんが救われ、一族60数名の救いが始まったというのです。
Ⅲ結論部
モアブ人ルツは、ナオミに出会わなければ、イスラエルの神に出会うことがありませんでした。ナオミの信仰を通して、神様に出会い、ナオミに仕え、神様に仕えた彼女は、ボアズに出会い、ボアズと結婚し、救い主の系図の中に入れられ、聖書に名を残すこととなりました。イスラエルから見れば、呪いのモアブ人、異邦人のルツが神様にとらえられ、用いられた人となったのです。
ルツのように、イスラエルの民でもない。救い主の系図に一番遠い存在の彼女が、神様に出会い、神様を信じ、ナオミに仕えることで救い主の系図の一役を与えられました。また、亀水松太郎牧師も、人の道をはずし、自分の欲望に生きていた者でしたが、刑務所の中でイエス様の十字架刑の絵を通して、イエス様を救い主と信じたのです。そして、神様に豊かに用いられたのです。ルツも亀水松太郎牧師も、二人とも神様を信じ、与えられた所で忠実に神様に仕えたのです。神様は、優秀な人、りっぱな人も用いられます。しかし、どんな罪の中にある者をも、どんなに人から見下されていても、イエス様を信じる者を、忠実に仕える者を神様の御用のために用いられるのです。
イエス様の十字架は、私たちを救い、全ての人を救い、罪から解放するのです。極悪非道な囚人さえも、造り変えて、神様の御用のために用いられるのです。私たちも神様の御用のために用いていただきたいと思うのです。そのためには、聖書のみ言葉に日々触れ、神様に祈り、与えられた場所で、与えられた責任を忠実に果たす者でありたいと思うのです。
「神に用いられる人」 ルツ記4:1-17
Ⅰ導入部
おはようございます。8月の第五主日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。
先週は、杉田政志先生のメッセージをお聞きして元気をいただきました。「みんな違ってみんないい」本当に違いを認め合い、その違いを生かしていきたいと思わされました。私たちは、何か一つに、同じものにしようとする傾向がありますが、違いを嫌うのではなく、迷惑がるのでもなく、自分の違った考え方や見方が広がることを期待していきたいと思わされました。
土曜日からJF(Jesus Friend)の会、洗礼を受けた子どもたちの集まりがありました。以前、子育てセミナーのご奉仕をしていただいた瀬底ノリ子先生のお住まいである愛川の場所で、川遊びやバーベキューをして楽しみました。また、教会に帰り、聖書を通してクリスチャンとして必要な学びをし、交わりを致しました。これから、彼らがみ言葉にしっかりと立ち、成長していきますようにお祈り下さい。
さて、今日は、ルツ記の最後4章を通して、「神に用いられる人」と題してお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈愛するがゆえに
モアブの地からナオミについて来たルツは、ナオミのために一生懸命に働き、ナオミはルツのために落ち着きどころを考え、なんとかボアズとの結婚をと祈り計画しました。ルツはナオミの言う通りに行動し、女性の方から男性に求婚したのですが、ボアズはナオミのため、ルツの思いを受け止めて、買い戻しをと願うのですが、ボアズよりも近い親戚がいることをルツに知らせます。
ボアズはナオミの所有する畑地の買い戻しの権利を持つ人に、買い戻すかどうかを尋ねると、「その責任を果たす」と言います。この親戚は、ナオミからこの土地を買い、耕作して収穫を得ることができるのです。損にはならないし、最も近い親戚としての義務も果たすことができます。ナオミやルツが死んだら、その土地は自分のものになるので、ナオミの畑地の買い戻しを受ける気があると言います。けれども、ボアズが、モアブから来た嫁のルツも引き取らなければならない。そして、故人の名をその嗣業の土地を再興しなければならないと言うと、その親戚の人は、そこまで責任を負うことはできない。あなたがその責任を果たして下さいとボアズにその権利を譲ると言いました。畑地だけでなく、ルツも一緒に買うということは、お金を払って土地を買い、ルツを妻として子どもができたら、その子に亡き夫の名を継がせて、土地を帰してやり、おまけに年老いた姑のナオミの世話もしなければならないとなると御免こうむりたいということなのです。自分には何のメリットもないということなのです。損になることはしたくないというのが、この親戚の考えであり、多くの人々の考えでもあるのです。けれども、ボアズは違いました。自分のことよりも、ナオミのこと、ルツのことを第一に考え、自分がナオミの土地を買い戻し、ルツを妻とし、子どもができたら、その土地に亡き夫の名を継がせることも良しとするボアズの愛を感じます。
7節、8節を共に読みましょう。「かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行(りこう)や譲渡(じょうと)にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。」
ナオミの最も近い親戚、ナオミの畑地を買い戻す権利のある人は、ルツを妻とすること、子どもが出来たらその土地を継がせることができないということで、ボアズに権利を譲りました。
9節、10節を共に読みましょう。「ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人となったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」」
ボアズは損得に関係なく、いやむしろナオミのため、ルツのためには、損をしてでも自分の妻にルツを迎えたかったのだと思います。愛は自分のことよりも相手のことを考えます。たとえ自分が損をしても、失っても愛する者のために受け入れることができるのです。イエス様は、私たちのために、進んで十字架について下さいました。私たちのために、損となって下さったのです。
⒉神のみ業
ベツレヘムの人々は、ボアズとルツとの結婚を祝福しました。そして、ボアズとルツとの間に男の子が与えられました。14節、15節を共に読みましょう。「女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」」
ボアズとルツの間に生まれた男の子は、ナオミにとってはそれは、それは大切な子となりました。ナオミが夫エリメレクと二人の息子と共に、モアブの地に行った時は、食料もあり将来に期待したのですが、そのモアブの地で夫エリメレクも、二人の息子マフロンとキルヨンも死んでしまいました。ですから、ナオミは二人の嫁に対しても、「主の御手がわたしに下された」と言い、ナオミがルツと共にベツレヘムに戻った時、ベツレヘムの女性たちには、「出ていくときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。・・・主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」と自分の人生を呪い、神様に対する希望さえ失っていたのです。 二人の嫁、オルパとルツに自分の国へ帰り、幸せな結婚をするようにと言い、自分についてくることを拒んだナオミでしたが、ルツの「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」という決意を見て、共にベツレヘムに帰ることにしたのです。
ベツレヘムでのルツは、姑のナオミに忠実に従い、ナオミのために一生懸命に働きました。自分の将来の幸せを考えるのではなく、ナオミと共に暮らせる喜び、幸せを感じていたのです。そのルツはボアズの畑で落ち穂を拾わせてもらい、ボアズの目に留まり、ボアズの熱い厚意を受けることになります。ベツレヘムに帰ってきた時のナオミには、希望がありませんでしたが、ルツとボアズの存在が、その関係がナオミに将来の希望を思わせたのです。そして、ルツを通して、ナオミの土地の買い戻しの実現や自分の夫や息子たちの名を残すという希望が見えてきたのです。
本来なら、モアブという名前だけでイスラエルの人々には忌み嫌われるわけですから、期待も希望も持てないのにも関わらず、ボアズという素晴らしい人物を神様に導かれたことにより、ナオミにもルツにも希望が与えられたのです。また、ボアズにとっても、ルツというステキな女性との結婚を夢見ることができたのです。ナオミもルツも、そしてボアズも、自分の事しか考えないというのでなく、いつも相手のために、相手を一番に考えていたからこそ、神様の導きがあったのだと思います。
16節、17節を共に読みましょう。「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」
神様の豊かな導きの中で、ルツとボアズは、救い主の家系という驚くべき恵みを受け、神様に豊かに用いられる人となったのです。
⒊あなたも用いられる
先週、日本伝道の幻を語る会の集会に参加させていただきました。そこに、奈良の大和キリスト教会の信徒である米田昭三郎兄から「希望」という本をいただきました。米田兄の家族、一族の信仰継承の証が記されてありました。その中で、亀水松太郎物語という内容がありました。
亀水松太郎は、讃岐の国、四国の香川県の有名な旧家で誕生しました。家の商売の手伝いをしていましたが、売り上げをごまかして、酒や高価な料理を食べ、売り上げのお金を人に貸したとか、落としたと母親を騙(だま)していました。その後、博打(ばくち)を覚え、家屋敷を担保に、また家の着物まで賭けにしたのでした。ある日、車(人力車)に乗り、車に包みがあるのを拾い、中に120円、今のお金では何百万円の大金を拾いました。大金を手にした松太郎は、大阪の遊郭(ゆうかく)で遊びほうけてお金を全て使い果たしてしまいました。放蕩息子そのものですね。けれど、一度経験したお酒の味や遊びは忘れることができず、「金がほしい」と人の家に押し入り、泥棒をし、盗んだものを金に換えて遊郭で遊んだのです。けれども、警察に捕まり、松山刑務所に入れられたのでした。松太郎22歳の頃です。脱獄を試みますが、捕らえられ、14年6ケ月の刑で北海道に送られました。網走刑務所です。
ある日、松太郎が博打に負けて自分の独房に帰ると仲間が3人何やら眺めていました。のぞいてみると、むごたらしく十字架にかかって苦しんでいる人の絵でした。「いったい何者だ。よほど悪いヤツだろう。おれも悪党だが、無期の上に14年6ケ月だけ。こいつは磔(はりつけ)になっている。何をしたのか?」 仲間の藤次郎が言いました。「お前はとんでもないことを言うヤツだ。このお方はな、天地を造り、これを聖手に支えたもうただ一人の神の一人子、真の神様と同じかたちを持ち、この世に下られたお方で、少しの罪もないイエス・キリストというお方だ。」「そんな罪のないお方が、またどうしてはりつけにされたんだい。」「それはな、神に似せて造られた人間が、おれたちのように神を離れて罪を犯して滅んでいく有様を見るに忍びず、イエス様が人となって地上に生まれ、あらゆる苦難を忍び、最後には私たちのために十字架にまでかかって下さったのだ。だから、どんな大罪人でも、このイエスを信ずれば、今まで犯した罪はみな赦されて、天国という所に行くことができるのだ。」ペッタリと座り込んでしまった松太郎の目から涙があふれ出しました。松太郎の心に聖霊の働きが始まったのです。明治26年(1893年)の7月のことでした。
それから松太郎は変わりました。ある時松太郎の仲間が言いました。「お前は変わったなあ。お前は喧嘩口論ばかりして、おれたちは疫病神が来たと逃げたものだった。ところが、この頃のお前はまったく別人みたいじゃないか。」「私の心がこんなに変わったのは、自分ながら不思議に思うとるよ。これもみなイエスを信じて罪を赦してもらい、救ってもらったおかげじゃね。」 松太郎は、日々の労役を今の天職と信じて、一生懸命に一日の労を務めました。監房に戻れば聖書をひもとき、神のみ声を聞き、その教えを受け、自ら讃美があふれ、我知らず感謝の涙が流れるのでした。
炭鉱の中で何度か危険な目に遭っても、奇跡的に救われました。そんな時松太郎はひざまずいて、むせびながら祈りました。「お恵み深き神様。あなたはこの罪深き者をかくもしばしば死地(しち)よりお救い下さいましたのは、深いおぼしめしのあることと存じます。私は今無期刑の上に14年6ケ月の有期徒刑(とけい)を負っている身であります。到底あなたのみ業の証しを自由にすることはできません。汚れ多き身ではございますが、この身も魂もおささげ致します。どうぞご栄光のためにお用いください。アーメン。」 松太郎は、ますます祈りと聖書の研究に心を傾けたのです。
こうして松太郎は、刑務所で真面目に務めて模範囚になり、獄中伝道にも熱心に励みました。人々に愛され、信頼されるようになった松太郎は、明治42年(1909年)8月31日に放免されたのです。27年間の獄中生活の間に世界は変わっていました。それよりも変わった自分自身が、新しい時代をどう乗り切るか、全てを神様におゆだねしました。救世軍の出獄人保護所の労作館で昼は働き、夜は小隊で証しました。フリーメソジスト教会の河辺貞吉牧師の元で神学校で学び、やがて日本橋教会の副牧師に任命されました。昭和2年(1927年)に、大阪大道4丁目で開拓伝道を始め、その働きが祝福されて多くの人々を救いに導き、現在の大道教会が創立されたのです。昭和11年(1936年)1月16日76歳で召されたのです。 亀水松太郎は、人の道を外した者、放蕩息子、十字架の犯罪人のような者でしたが、イエス様に出会い、救われて神様に用いられた人となったのです。
この亀水松太郎牧師の宣教を通して、米田昭三郎兄のお父さんが救われ、一族60数名の救いが始まったというのです。
Ⅲ結論部
モアブ人ルツは、ナオミに出会わなければ、イスラエルの神に出会うことがありませんでした。ナオミの信仰を通して、神様に出会い、ナオミに仕え、神様に仕えた彼女は、ボアズに出会い、ボアズと結婚し、救い主の系図の中に入れられ、聖書に名を残すこととなりました。イスラエルから見れば、呪いのモアブ人、異邦人のルツが神様にとらえられ、用いられた人となったのです。
ルツのように、イスラエルの民でもない。救い主の系図に一番遠い存在の彼女が、神様に出会い、神様を信じ、ナオミに仕えることで救い主の系図の一役を与えられました。また、亀水松太郎牧師も、人の道をはずし、自分の欲望に生きていた者でしたが、刑務所の中でイエス様の十字架刑の絵を通して、イエス様を救い主と信じたのです。そして、神様に豊かに用いられたのです。ルツも亀水松太郎牧師も、二人とも神様を信じ、与えられた所で忠実に神様に仕えたのです。神様は、優秀な人、りっぱな人も用いられます。しかし、どんな罪の中にある者をも、どんなに人から見下されていても、イエス様を信じる者を、忠実に仕える者を神様の御用のために用いられるのです。
イエス様の十字架は、私たちを救い、全ての人を救い、罪から解放するのです。極悪非道な囚人さえも、造り変えて、神様の御用のために用いられるのです。私たちも神様の御用のために用いていただきたいと思うのです。そのためには、聖書のみ言葉に日々触れ、神様に祈り、与えられた場所で、与えられた責任を忠実に果たす者でありたいと思うのです。