江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

8月30日 礼拝説教

2009-08-30 13:04:04 | Weblog
        主日礼拝式(三位一体後第十三主日)  2009.8.30
       「神に用いられる人」 ルツ記4:1-17
 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第五主日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。
 先週は、杉田政志先生のメッセージをお聞きして元気をいただきました。「みんな違ってみんないい」本当に違いを認め合い、その違いを生かしていきたいと思わされました。私たちは、何か一つに、同じものにしようとする傾向がありますが、違いを嫌うのではなく、迷惑がるのでもなく、自分の違った考え方や見方が広がることを期待していきたいと思わされました。
 土曜日からJF(Jesus Friend)の会、洗礼を受けた子どもたちの集まりがありました。以前、子育てセミナーのご奉仕をしていただいた瀬底ノリ子先生のお住まいである愛川の場所で、川遊びやバーベキューをして楽しみました。また、教会に帰り、聖書を通してクリスチャンとして必要な学びをし、交わりを致しました。これから、彼らがみ言葉にしっかりと立ち、成長していきますようにお祈り下さい。
さて、今日は、ルツ記の最後4章を通して、「神に用いられる人」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈愛するがゆえに
 モアブの地からナオミについて来たルツは、ナオミのために一生懸命に働き、ナオミはルツのために落ち着きどころを考え、なんとかボアズとの結婚をと祈り計画しました。ルツはナオミの言う通りに行動し、女性の方から男性に求婚したのですが、ボアズはナオミのため、ルツの思いを受け止めて、買い戻しをと願うのですが、ボアズよりも近い親戚がいることをルツに知らせます。
 ボアズはナオミの所有する畑地の買い戻しの権利を持つ人に、買い戻すかどうかを尋ねると、「その責任を果たす」と言います。この親戚は、ナオミからこの土地を買い、耕作して収穫を得ることができるのです。損にはならないし、最も近い親戚としての義務も果たすことができます。ナオミやルツが死んだら、その土地は自分のものになるので、ナオミの畑地の買い戻しを受ける気があると言います。けれども、ボアズが、モアブから来た嫁のルツも引き取らなければならない。そして、故人の名をその嗣業の土地を再興しなければならないと言うと、その親戚の人は、そこまで責任を負うことはできない。あなたがその責任を果たして下さいとボアズにその権利を譲ると言いました。畑地だけでなく、ルツも一緒に買うということは、お金を払って土地を買い、ルツを妻として子どもができたら、その子に亡き夫の名を継がせて、土地を帰してやり、おまけに年老いた姑のナオミの世話もしなければならないとなると御免こうむりたいということなのです。自分には何のメリットもないということなのです。損になることはしたくないというのが、この親戚の考えであり、多くの人々の考えでもあるのです。けれども、ボアズは違いました。自分のことよりも、ナオミのこと、ルツのことを第一に考え、自分がナオミの土地を買い戻し、ルツを妻とし、子どもができたら、その土地に亡き夫の名を継がせることも良しとするボアズの愛を感じます。
 7節、8節を共に読みましょう。「かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行(りこう)や譲渡(じょうと)にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。」
 ナオミの最も近い親戚、ナオミの畑地を買い戻す権利のある人は、ルツを妻とすること、子どもが出来たらその土地を継がせることができないということで、ボアズに権利を譲りました。
 9節、10節を共に読みましょう。「ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人となったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」」
ボアズは損得に関係なく、いやむしろナオミのため、ルツのためには、損をしてでも自分の妻にルツを迎えたかったのだと思います。愛は自分のことよりも相手のことを考えます。たとえ自分が損をしても、失っても愛する者のために受け入れることができるのです。イエス様は、私たちのために、進んで十字架について下さいました。私たちのために、損となって下さったのです。

 ⒉神のみ業
 ベツレヘムの人々は、ボアズとルツとの結婚を祝福しました。そして、ボアズとルツとの間に男の子が与えられました。14節、15節を共に読みましょう。「女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」」
 ボアズとルツの間に生まれた男の子は、ナオミにとってはそれは、それは大切な子となりました。ナオミが夫エリメレクと二人の息子と共に、モアブの地に行った時は、食料もあり将来に期待したのですが、そのモアブの地で夫エリメレクも、二人の息子マフロンとキルヨンも死んでしまいました。ですから、ナオミは二人の嫁に対しても、「主の御手がわたしに下された」と言い、ナオミがルツと共にベツレヘムに戻った時、ベツレヘムの女性たちには、「出ていくときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。・・・主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」と自分の人生を呪い、神様に対する希望さえ失っていたのです。 二人の嫁、オルパとルツに自分の国へ帰り、幸せな結婚をするようにと言い、自分についてくることを拒んだナオミでしたが、ルツの「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」という決意を見て、共にベツレヘムに帰ることにしたのです。
 ベツレヘムでのルツは、姑のナオミに忠実に従い、ナオミのために一生懸命に働きました。自分の将来の幸せを考えるのではなく、ナオミと共に暮らせる喜び、幸せを感じていたのです。そのルツはボアズの畑で落ち穂を拾わせてもらい、ボアズの目に留まり、ボアズの熱い厚意を受けることになります。ベツレヘムに帰ってきた時のナオミには、希望がありませんでしたが、ルツとボアズの存在が、その関係がナオミに将来の希望を思わせたのです。そして、ルツを通して、ナオミの土地の買い戻しの実現や自分の夫や息子たちの名を残すという希望が見えてきたのです。
本来なら、モアブという名前だけでイスラエルの人々には忌み嫌われるわけですから、期待も希望も持てないのにも関わらず、ボアズという素晴らしい人物を神様に導かれたことにより、ナオミにもルツにも希望が与えられたのです。また、ボアズにとっても、ルツというステキな女性との結婚を夢見ることができたのです。ナオミもルツも、そしてボアズも、自分の事しか考えないというのでなく、いつも相手のために、相手を一番に考えていたからこそ、神様の導きがあったのだと思います。
 16節、17節を共に読みましょう。「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」
 神様の豊かな導きの中で、ルツとボアズは、救い主の家系という驚くべき恵みを受け、神様に豊かに用いられる人となったのです。

 ⒊あなたも用いられる
 先週、日本伝道の幻を語る会の集会に参加させていただきました。そこに、奈良の大和キリスト教会の信徒である米田昭三郎兄から「希望」という本をいただきました。米田兄の家族、一族の信仰継承の証が記されてありました。その中で、亀水松太郎物語という内容がありました。
 亀水松太郎は、讃岐の国、四国の香川県の有名な旧家で誕生しました。家の商売の手伝いをしていましたが、売り上げをごまかして、酒や高価な料理を食べ、売り上げのお金を人に貸したとか、落としたと母親を騙(だま)していました。その後、博打(ばくち)を覚え、家屋敷を担保に、また家の着物まで賭けにしたのでした。ある日、車(人力車)に乗り、車に包みがあるのを拾い、中に120円、今のお金では何百万円の大金を拾いました。大金を手にした松太郎は、大阪の遊郭(ゆうかく)で遊びほうけてお金を全て使い果たしてしまいました。放蕩息子そのものですね。けれど、一度経験したお酒の味や遊びは忘れることができず、「金がほしい」と人の家に押し入り、泥棒をし、盗んだものを金に換えて遊郭で遊んだのです。けれども、警察に捕まり、松山刑務所に入れられたのでした。松太郎22歳の頃です。脱獄を試みますが、捕らえられ、14年6ケ月の刑で北海道に送られました。網走刑務所です。
 ある日、松太郎が博打に負けて自分の独房に帰ると仲間が3人何やら眺めていました。のぞいてみると、むごたらしく十字架にかかって苦しんでいる人の絵でした。「いったい何者だ。よほど悪いヤツだろう。おれも悪党だが、無期の上に14年6ケ月だけ。こいつは磔(はりつけ)になっている。何をしたのか?」 仲間の藤次郎が言いました。「お前はとんでもないことを言うヤツだ。このお方はな、天地を造り、これを聖手に支えたもうただ一人の神の一人子、真の神様と同じかたちを持ち、この世に下られたお方で、少しの罪もないイエス・キリストというお方だ。」「そんな罪のないお方が、またどうしてはりつけにされたんだい。」「それはな、神に似せて造られた人間が、おれたちのように神を離れて罪を犯して滅んでいく有様を見るに忍びず、イエス様が人となって地上に生まれ、あらゆる苦難を忍び、最後には私たちのために十字架にまでかかって下さったのだ。だから、どんな大罪人でも、このイエスを信ずれば、今まで犯した罪はみな赦されて、天国という所に行くことができるのだ。」ペッタリと座り込んでしまった松太郎の目から涙があふれ出しました。松太郎の心に聖霊の働きが始まったのです。明治26年(1893年)の7月のことでした。
 それから松太郎は変わりました。ある時松太郎の仲間が言いました。「お前は変わったなあ。お前は喧嘩口論ばかりして、おれたちは疫病神が来たと逃げたものだった。ところが、この頃のお前はまったく別人みたいじゃないか。」「私の心がこんなに変わったのは、自分ながら不思議に思うとるよ。これもみなイエスを信じて罪を赦してもらい、救ってもらったおかげじゃね。」 松太郎は、日々の労役を今の天職と信じて、一生懸命に一日の労を務めました。監房に戻れば聖書をひもとき、神のみ声を聞き、その教えを受け、自ら讃美があふれ、我知らず感謝の涙が流れるのでした。
 炭鉱の中で何度か危険な目に遭っても、奇跡的に救われました。そんな時松太郎はひざまずいて、むせびながら祈りました。「お恵み深き神様。あなたはこの罪深き者をかくもしばしば死地(しち)よりお救い下さいましたのは、深いおぼしめしのあることと存じます。私は今無期刑の上に14年6ケ月の有期徒刑(とけい)を負っている身であります。到底あなたのみ業の証しを自由にすることはできません。汚れ多き身ではございますが、この身も魂もおささげ致します。どうぞご栄光のためにお用いください。アーメン。」 松太郎は、ますます祈りと聖書の研究に心を傾けたのです。
 こうして松太郎は、刑務所で真面目に務めて模範囚になり、獄中伝道にも熱心に励みました。人々に愛され、信頼されるようになった松太郎は、明治42年(1909年)8月31日に放免されたのです。27年間の獄中生活の間に世界は変わっていました。それよりも変わった自分自身が、新しい時代をどう乗り切るか、全てを神様におゆだねしました。救世軍の出獄人保護所の労作館で昼は働き、夜は小隊で証しました。フリーメソジスト教会の河辺貞吉牧師の元で神学校で学び、やがて日本橋教会の副牧師に任命されました。昭和2年(1927年)に、大阪大道4丁目で開拓伝道を始め、その働きが祝福されて多くの人々を救いに導き、現在の大道教会が創立されたのです。昭和11年(1936年)1月16日76歳で召されたのです。 亀水松太郎は、人の道を外した者、放蕩息子、十字架の犯罪人のような者でしたが、イエス様に出会い、救われて神様に用いられた人となったのです。
この亀水松太郎牧師の宣教を通して、米田昭三郎兄のお父さんが救われ、一族60数名の救いが始まったというのです。

 Ⅲ結論部
 モアブ人ルツは、ナオミに出会わなければ、イスラエルの神に出会うことがありませんでした。ナオミの信仰を通して、神様に出会い、ナオミに仕え、神様に仕えた彼女は、ボアズに出会い、ボアズと結婚し、救い主の系図の中に入れられ、聖書に名を残すこととなりました。イスラエルから見れば、呪いのモアブ人、異邦人のルツが神様にとらえられ、用いられた人となったのです。
 ルツのように、イスラエルの民でもない。救い主の系図に一番遠い存在の彼女が、神様に出会い、神様を信じ、ナオミに仕えることで救い主の系図の一役を与えられました。また、亀水松太郎牧師も、人の道をはずし、自分の欲望に生きていた者でしたが、刑務所の中でイエス様の十字架刑の絵を通して、イエス様を救い主と信じたのです。そして、神様に豊かに用いられたのです。ルツも亀水松太郎牧師も、二人とも神様を信じ、与えられた所で忠実に神様に仕えたのです。神様は、優秀な人、りっぱな人も用いられます。しかし、どんな罪の中にある者をも、どんなに人から見下されていても、イエス様を信じる者を、忠実に仕える者を神様の御用のために用いられるのです。
 イエス様の十字架は、私たちを救い、全ての人を救い、罪から解放するのです。極悪非道な囚人さえも、造り変えて、神様の御用のために用いられるのです。私たちも神様の御用のために用いていただきたいと思うのです。そのためには、聖書のみ言葉に日々触れ、神様に祈り、与えられた場所で、与えられた責任を忠実に果たす者でありたいと思うのです。

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8月23日 杉田政志師(ダブリン日本語教会)の説教のためありません

2009-08-23 20:36:33 | Weblog
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8月16日 礼拝説教

2009-08-16 15:54:49 | Weblog
       主日礼拝式(三位一体後第十一主日)  2009.8.16
    「落ち穂拾いの信仰ではなく」 ルツ記3:1-18

 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第三主日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。先週お話ししました松原湖のキャンプから4名が無事帰ってまいりました。第二ベースのキャンプに行けなかった4名と合わせて8名の子どもたちが、今回の思わぬ出来事を通して、神様に目を留め、神様の存在をますます信じていくことができますようにとお祈りいただきたいと思います。
 13日㈭~15日㈯まで、神奈川県の藤野芸術の家においてナザレン関東地区ティーンズキャンプが行われました。講師はKGK(キリスト者学生会)という大学生伝道の主事であります大嶋重徳先生を迎えました。とてもユニークでわかりやすい、心に響くメッセージをして下さり生徒たちも多くの恵みをいただき、神様からのチャレンジをいただき、神様のみ言葉に応答していました。今年のキャンプのテーマは、RE神様からのラブレターということで、神様のラブレター、聖書の言葉、神様の言葉に応答しようということで、一人ひとりが神様のお言葉に応答できたのだと思います。皆さんのお祈りに感謝致します。
 さて、今日は第一礼拝は中高生の皆さんも礼拝に出席しておられます。今回のキャンプには生徒一人しか参加できませんでしたので、次回のキャンプには多く参加できますようにとお祈りいたします。
 今日はルツ記の3章を通して、「落ち穂拾いの信仰ではなく」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈相手の幸せを願う
 先週、ルツ記の2章の後半を見ることができませんでしたので、3章に入る前に少し見たいと思います。2章20節を共に読みましょう。「ナオミは嫁に言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」」 ルツが一日落ち穂を拾って帰ると、それは驚くほどの多くの落ち穂を拾うことができたので、誰のところで働かせてもらったのかというナオミの問いに、ルツが「ボアズ」という名前を口にした時、ボアズという名前を聞いた時のナオミの反応が今読みました20節の言葉です。
 ナオミはエルサレムが飢饉となり、夫のエリメレクと二人の息子を連れて、多くの財産を持ちモアブの地に行きましたが、そのモアブの地で夫エリメレクと二人の息子は死に、持っていた財産も失い、二人の嫁と自分だけが残されたのでした。ですから、ナオミとルツがエルサレムに帰って来た時、ユダヤの女性たちが驚きの目で迎えた状況の中で、ナオミは、「出ていくときには、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。・・・主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」と言いました。苦しみや悲しみを経験したことが、神様に不幸に落とされたと言ったのです。不幸は神様のせいだと。そのナオミが、ルツがボアズの畑で働いたということ、多くの収穫を得たということで、ナオミは神様の恵みを感じることができたのです。神様は不幸に落とされるのではない。希望を与えて下さると。生きている自分たち、ナオミやルツ、そして死んだ人、夫エリメレクや二人の息子にも慈しみを惜しまれない方、辛い悲しい経験をした。しかし、神様は慈しみを恵みを垂れていて下さった。何よりも家を絶やさない、縁続きの人ということで、ナオミには自分にとって、子孫が異邦人である嫁のルツを通して与えられる、親戚のボアズを通して導かれるという光が差し込んできたのです。ナオミは当分の間、ルツが誰かの畑でいじめられることもなく、また落ち穂を拾えるかどうかという心配もなく、ボアズの畑で落ち穂を拾える、手厚い厚意を得られることを喜んだに違いないのです。
 3章1節を共に読みましょう。「しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。」」 ルツは、ナオミのために一生懸命に働きました。ナオミは、一生懸命に働くルツの姿を見ていて、ルツの幸せのために、ルツの結婚相手のために祈り、良き相手を探してきたのです。ナオミもルツも、自分の幸せのためではなく、相手の幸せを一番に考えていたのです。勿論、自分の幸せを考えることも大切なことですが、誰かの幸せを第一に考えることができるということは素晴らしいことだと思います。 ナオミは、ルツの相手を探してきたのですが、探してきたというよりも、ボアズの畑でルツが落ち穂拾いをしたと聞いてから、おそらく、ボアズとルツの結婚について祈り、考えてきたのだと思うのです。ボアズとルツの結婚のためには、どうしたらいいか。どうすれば二人は結婚できるのかと考えてきたのでしょう。
 2節から4節まで共に読みましょう。「あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズは、わたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾(すそ)で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」 かなり大胆な計画でした。しかし、ナオミも、自分の子孫のためには精一杯の思いで考えたことなのです。そして、それは何よりもルツの幸せを願ってのことでした。

 ⒉時には愛のために大胆に
 大麦をふるいにかけるという作業は、大切な作業なのでその畑の持ち主が行いました。ナオミは、ユダヤ人ですから、どのようなことをするのか知っていました。また、何度もボアズの畑に生き、農夫たちや召使たちからの情報を集めたことでしょう。ボアズは、自分の家族の買い戻しの権利、ボアッズが自分の夫エリメレクの土地を買い戻してくれる権利を持っていたのです。このまま、ルツが結婚しないでいると、ナオミの夫エリメレクの家系は途絶えてしまうのです。エリメレクの土地は他人のものになってしまうのです。ですから、ルツがボアズと結婚して生まれた子どもに、夫エリメレクや息子のマフロンと名をつけ、その家系を起こさなければならない、その義務がナオミにもルツにもあるのです。ルツは、ナオミが自分の夫エリメレクの家系を絶やさないように考えていること、そして自分の幸せを考えていることをよく知っていました。ですから、夜ボアズのところへ行って、「衣の裾で身を覆い横になる」という大胆な行動について、ルツは答えるのです。
 5節、6節を共に読みましょう。「ルツは、「言われるとおりにします」と言い、麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられたとおりにした。」 「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾(すそ)で身を覆って横になりなさい。」 女性の方から迫るという感じです。「はしたない」と言われるような行為かも知れません。女性の方から迫るなんて! 「裾で身を覆う」とは、結婚の申し込みを意味するようです。 女性の方から結婚を申し込むのです。 現代では、男性が勇気がなく、結婚に踏み切ることがなかなかできないので、女性の方から「私と結婚しなさい」と申し込んで、男性が「はい」と答えるとか、聞いたことがあります。けれども、このルツの時代は、ずっと昔です。男性の地位が絶対、女性の数は数えられないという時代の中で、女性から男性に結婚を申し込むなんて、すごいことだったでしょう。この計画を考えたナオミもナオミですが、その計画に素直に、「はい」と答えたルツもすごいです。恥ずかしいという思いは当然あったでしょう。いやだなあとも思ったのかも知れません。しかし、自分の事を一番に考えていてくれることがわかっているルツも、自分の結婚がナオミの幸せに通じると信じていたので、驚くような、女性として恥ずかしいようなナオミの指示にも、忠実に実行することを決心したのです。
 ルツは、ナオミの指示通りに忠実に行いました。恐れや不安はあったでしょう。神様の導きを祈りながら、また、ナオミが自分のために祈っていることを感じながら行動を起こしたのです。私たちは、恥ずかしいと思うこと、いやだなあと思う事でも、愛する者のためにしなければならないことがあります。男性が仕事をするということは、家族を養うということです。仕事において、いやなことが多くあります。辛いこともあります。仕事を辞めたいと思うこと、あの人と一緒に仕事をするのがいやだと思っても、家族のために働くのです。いやなことを経験しながらも仕事を続けるのです。それは愛でしょう。また、女性が炊事や洗濯、食事の用意をしますが、愛する家族のためにします。時には、疲れたり、嫌になったり、誰も自分の働きを認めてくれないと辛くなったりなることもあるでしょう。しかし、家族のために力を振り絞り、毎日せっせと働いておられることでしょう。それも愛です。愛する者のために、私たちが行動できるということは素晴らしいことであり、幸せなことだと思うのです。
 
 ⒊愛するとは待つこと
 ルツは、ナオミの指示に忠実に従い行動しました。8節、9節を共に読みましょう。「夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを探した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた。「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」」 ルツは精一杯の思いを込めて、結婚してほしいと願います。 ボアズはどう思ったことでしょう。なんだ、この女はふしだらな!と思うような状況なのです。しかし、ルツであると知ってボアズは言います。
 10節から13節まで共に読みましょう。「ボアズは言った。「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず、追いかけるというようなことはしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。わたしの娘よ。心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」」 
 ルツの今までの真心とは、ルツが夫の死後、ナオミに仕えてきたことや自分の国モアブや親よりもナオミを優先してついてきたことだと思います。今示した真心とは、若くて魅力的であったルツに思いを寄せる男性が多くいたのに、若い男の後を追わなかったこと、そして、自分の幸せを一番に考えるのではなく、ナオミの願いのように、自分の亡き父、エリメレクや夫マフロンの名を相続地に残すために、かなり年上のボアズを夫として選び、今求婚していることを指していると思います。 ボアズはルツの行ったことを非難することもできたかも知れません。しあkし、非難するのではなく、ルツの思い、しいてはナオミの思いを汲んで、ルツの真実な思いをとして受け取り、そのナオミの願い、ルツの願いや思いに答えたいと願うのです。けれども、自分よりも権利のある人がいることを伝え、その人が責任を果たさないなら自分が果たすことを誓います。ボアズもまた、ナオミの幸せ、ルツの幸せを第一に考える人でした。ボアズも男ですから、結婚して下さいと夜自分のそばで寝ているルツと関係を持っても誰も文句を言わないでしょう。自分ではなく、相手から来たのだからと言い訳もできるでしょう。けれども、ボアズは自分の肉を満たすことはしませんでした。
 ティーンズキャンプの中で大嶋タイムというのがありました。講師の大嶋先生が性についてのお話をして下さいました。最初に、「好きと愛するの違いは」という質問をされました。当てられた者が好きと愛するということの答えを言いました。先生は、愛とは待つことだ!と言われました。コントロールできることだ!と言われたのです。結婚前にセックスできる環境と言うか、そういう時があっても結婚まで待つことが愛。どうしても相手を自分のものにしたい。相手のものになりたいという性欲をコントロールできること、それが愛だと教えて下さいました。今の時代、この世の中は、若い人々が読む雑誌にも、初体験の年齢とか何とか。結婚までにセックスを経験しないことを何か悪いものであるかのように、セックスを経験することが一人前になることのように書いてありますがあれは嘘です。騙されてはならないのです。愛する人のために結婚まで、男性も女性も自分の身を守ることは聖書が示していること、神様の思いです。ボアズは、待つことのできた人でした。それが愛だからです。真実の愛は、待つこと、待てること、コントロールできること、することなのです。
 私たちは、聖書がどう言っているのか。聖書に示された声に従うべきです。この世の声に流されてはならないのです。

 Ⅲ結論部
 ボアズは、夜自分のところにルツが来たということを誰にも知られないように、それは自分のメンツのためではなく、ルツのためでしたが、ルツを暗いうちに帰します。ここにもボアズの愛が見えます。そして大麦を与えます。ナオミはルツからボアズとのことを聞いて、神様に期待するのです。
 ナオミはルツのことを一番に考えました。だから大胆ではありますが、この方法しかないとルツにボアズのところへ行き、結婚の申し込みをさせました。 ルツはボアズの畑で落ち穂を拾っている限りにおいて、いじめられることもなく、ボアズの配慮で多くの収穫を得、食べることにも困りませんでした。しかし、落ち穂拾いはいつかは終わるのです。ボアズの畑には収穫の終りが来るのです。そうすれば、ナオミとルツは再び貧しい生活に戻らなければならないのです。落ち穂拾いは所詮、落ち穂拾いなのです。 落ち穂拾いとは、その場限り、その時はいいけれども長続きはしないということでしょう。私たちの信仰は、落ち穂拾いの信仰ではないでしょうか。その場限りの信仰。今はよくても、何かがあれば崩れる。晴れの時は良くても、雨が降り、風が吹いて嵐になると洪水が押し寄せると倒れるような信仰ではないでしょうか。信仰とはアクセサリーではありません。信仰を持つ、何かしおらしいというか。キリスト教というと、日本の中で少ない。貴重な存在で、信仰を持つことがアクセサリーのようなことはないでしょうか。
 イエス様は、私たちの生活のアクセサリーのために十字架にかかられたのではありません。私たちの罪を赦すために、御自分の命を与えて下さいました。私たちの命となられたのです。厳しい現実の中で、勝利者として生きる力を注いで下さるのです。待つことのできる者、コントロールできる者とさせて下さるのです。このイエス・キリスト様を信じる信仰を持ちながら、現実の世界において、日々の生活の中で、このキリスト様の命に生かされていないというならば、イエス様との関係が薄いからかも知れません。落ち穂拾いの信仰だからではないでしょうか。自分の生活の、生涯のもともとがイエス様のもとにあるのではなく、自分であり、時々イエス様のところに行って恵みをいただくだけの信仰、落ち穂拾いの信仰ということはないでしょうか。私たちは、日々イエス様のもとにある信仰、祈りとみ言葉の信仰、ディボーションの生活を実践したいと思うのです。そして、イエス様の十字架から流れる愛に触れて、愛をいただいて、自分の幸せを一番に考えるのではなくて、愛する者、そばにいる者、大切な人の幸せを一番に考え、行動したいと思うのです。そこに神様があがめられることが起こるのだと思うのです。
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8月9日 礼拝説教

2009-08-09 13:50:49 | Weblog
          平和主日礼拝式(三位一体後第十主日)  2009.8.9
         「心に触れる言葉」 ルツ記2:1-20

 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第二主日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。
 今日は平和主日の礼拝と言うことで私たちは礼拝を守っています。 8月私たち日本人には平和を思う月です。8月6日には広島に、9日には長崎に原爆が落とされた日であり、15日は敗戦の記念日です。この月になると、戦争のドラマや映画が盛んになりますが、戦争の悲惨さを覚え、二度と戦争を起こしてはならないという教訓だと思うのです。戦争を経験された方々もおられます。日本のために命をかけて戦地に赴いた方々もおられることでしょう。また、戦争に御主人を送り家族を守り抜いた方々もおられることでしょう。戦争が終わって、多くの人々に日本に痛みと苦しみを残しました。私たちは、その苦しみを、辛さを忘れたてはならないのだと思います。二度と戦争を起こすことなく、真の平和が訪れるようにと祈り、戦争の傷跡を忘れることなく、平和のために労する者でありたいと思います。毎年、教会学校では戦争を体験された方々からお話を聞くことになっています。戦争を知らない子どもたちにとって、その時代の状況や食べ物は興味あることであり、戦争を身近に感じる時だと思うのです。
 さて、私たちは先週からルツ記を開いています。今日はルツ記2章を通して、「心に触れる言葉」と題してお話したいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈神様は生活のただ中にある私に関心がある
 ナオミとルツは、ベツレヘムが神様の祝福により食べ物が与えられていると伝え聞き帰ってきました。町中の人々がナオミの帰りに驚きました。ナオミ、快いと呼ぶ町の人々に、ナオミは自分の名前の意味である快いではなく、全能の神様が自分を不幸に落とされたのだから、ナオミではなく、マラ、苦いと呼んでくれるように言ったのでした。ナオミとルツは、ベツレヘムに帰り生活を始めたのですが、二人ともやもめであったのでそれはとても貧しい生活でありました。 
 聖書には、「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。」(申命記24:19)とあります。新改訳聖書や口語訳聖書では、寡婦をやもめ、リビングバイブルでは未亡人と訳しています。このような律法があることをルツは姑のナオミから聞いたのでしょう。二人の生活のために、ルツは落ち穂拾いに行くことを願うのです。2節を共に読みましょう。「モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。誰か厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。」 
ユダヤ人の掟にやもめに対して寛容なものがあることを聞き、厚意を示してくれる人がいること期待して、ルツは落ち穂拾いに出かける決意をし、ナオミもそのことを勧めるのです。
 3節を共に読みましょう。「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」 ルツが落ち穂を拾わせてもらった場所は、ナオミの夫であったエリメレクの一族のボアズの土地であったというのです。新共同訳聖書や口語訳聖書では、「たまたま」とありますが、新改訳聖書では、「はからずも」とあります。 広辞苑を見ると、「たまたまとは、偶然、まれであるが時折り」とあります。「はからずもとは、思いがけず。不意に」とあります。 2章を最初読むと1節が引っ掛かります。1節を共に読みましょう。「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。」 ルツが落ち穂拾いに行く前に、ナオミの夫エリメレクの一族の中にボアズがいると先に示して、ルツが落ち穂を拾い集めた所が、ボアズの所有する所であったとは、偶然とか思いがけずというよりも、もうすでに神様のご計画の中にあったことだと思うのです。神様は全てを支配しておられるお方です。この天地万物を創造し、保持し、守っておられるのも神様ですが、私たちの具体的な、こまごまとした生活においても支配しておられるのです。食べるとか寝るとか、仕事をするとか勉強するという具体的な事柄の中に、神様のご計画、導きが確かにあるのです。 ルツは落ち穂拾いに行き、自分が異邦人、モアブ人であることを強く自覚していたでしょうから、誰の所有する畑で落ち穂を拾うかということは大きな問題でした。律法に「寄留者や孤児、やもめ」に対しての規定があったとしても、みんながみんな親切にしてくれるのではないでしょう。どちらかというと、迷惑がられ、仕事の邪魔になるといやがられたはずです。そのように誰の畑で落ち穂を拾わせてもらうか、ルツは神様の最善を期待して祈りながら赴(おもむ)いたことでしょう。ナオミはナオミで、自分の親族の所に導かれるように祈ったのかも知れません。神様は一番良い所に、一番ふさわしい人が所有する場所に導かれたのです。 
 私たちは、信仰と生活が別々になっていることがないでしょうか。日曜日の礼拝とその他6日間の生活が別々、礼拝での私と仕事場や学校、家庭、この世の場所における私は別人というようなことはないでしょうか。信仰とはそのような二面性があるのではないのです。具体的な仕事場でのいろいろな状況の中に、家庭のごたごたとした問題や課題の中に、学校でのいろいろな人間関係の中でこその信仰なのです。神様を信じる私たちは、具体的な生活の中に働いて下さる神様を見上げ、神様を信頼し、期待して、神様のみ業を拝させていただきたいと思うのです。神様はルツを最善の場所に導かれたように、私たちの歩みにも最善をなされるのです。

 ⒉仕えて生きる生き方が与える影響
 ボアズの畑で落ち穂を拾っている所に、所有者のボアズが来ます。4節を見ると、ボアズと農夫たちの関係がとても良い関係であることがわかります。「主が共におられ、主が祝福しておられる」とお互いに言い合える関係は素晴らしいですね。私たちもお互いを祝福し合える関係を持ちたいと思います。 一生懸命働いているルツを見てボアズが誰の娘かと聞きます。ボアズの目に留まるほどにルツの働きぶりは目立つものだったのでしょう。 
 6節、7節を共に読みましょう。「召し使いは答えた。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。「刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください」と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」」
 召し使いでさえも、良く働いていると認めたのです。ルツは姑ナオミのために一生懸命働きました。少しでも多く集めたいと願い、休む暇も惜しんで働いたのでしょう。けれども、落ち穂を拾うのですから、そんなに簡単に集められないのです。何時間かけてもわずかな分でしょう。けれども、ユダヤ人の召し使いが感心するほど、ルツは働いたのです。ユダヤ人はモアブ人を忌み嫌いますが、感心するほどであったのです。この仕える生き方こそ、ルツの生き方でした。 この仕える生き方は、イエス様の生き方です。神であるお方が人間の姿を取り、この地上に来て下さいました。そして、十字架の死にいたるまで従順に仕えられたのです。だからこそ、神様はイエス様に最高の権威を与えられたのです。ルツはナオミに仕え、エリメレクに仕え、夫に仕えてきた。エリメレクと夫が死んでからは、ナオミに忠実に仕えてきた。そして、今もナオミのために一生懸命に落ち穂を拾う姿は、それを見る人々に感心と感動さえ与えたのではないでしょうか。勿論、ボアズの目にもそう見えたに違いないのです。 
 8節、9節を共に読みましょう。
 「ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」」 ボアズの優しさがにじみ出ています。ボアズという人が、農夫や召し使いから慕われている訳がわかるように思います。ボアズはルツに、他の畑ではなく自分の畑ではたくように勧めると同時に、若い者に邪魔をしないように命じると言うのです。普通は反対です。私の畑で働く若者たちの邪魔にならないように、と言うはずです。ルツの邪魔をしないようになのです。新改訳聖書やリビングバイブルでは、若い者に邪魔をしないように命じておいた、とすでにそう命令したとあります。モアブから来たルツという名前を聞いて、若者に邪魔をしないようにではなく、誰か知らないけれども、すでに若者たちに邪魔をしないように命じておいたのです。ボアズの憎いほどの優しさ、配慮があります。こんな男性がいたら、と全ての女性が思うことでしょう。そのような優しい言葉をかけられ、配慮していただいたルツは言います。
 10節を共に読みましょう。 「ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」」 ルツは、モアブ人である自分、よそ者の自分のような者に、こんなに親切にしてくださる理由を尋ねます。
 世の中、そんな甘いものではないと私たちは知っています。親切というその中には、何か裏があるのでは?と私たちは考えるかも知れません。この世ではそうでしょう。何か下心があるから、親切にし てくれる。優しい。そう考えます。 ルツもそうだったのでしょうか。そうではないと思います。彼女は、「畑に行ってみます。誰か厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます。」とナオミにそう言って出かけたのですから、神様の導きを感じていたはずです。彼女の願った通り、信じた通りに神様が導かれたのです。 神様は信頼する者に答えて下さるのです。私たちも神様に信頼することを忘れてはならないのです。現実がどうあろうとも、どのようにマイナスに見えても、イエス・キリスト様にあって希望を持ち続けたいと思うのです。

 ⒊相手を思いやる心
 11節、12節を共に読みましょう。「ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分報いてくださるように。」」 ルツが経験した辛いこと、主人を亡くしたということ、ナオミに仕え尽くしてきたこと、モアブの地を捨てて、両親よりもナオミを選んだこと、それは一大決心だったと思います。そこには、心痛む決心でもありましたが、ナオミの信じるイスラエルの神を選び取った選択をしたのです。また、ベツレヘムに来て、ナオミに仕えたことなど、苦労を重ねてきた全てをボアズは知り、それらのことのゆえに、神様がルツの今までの苦労や経験に対して豊かに報いてくださるように、イスラエルの神を選び、信じたルツを祝福してくださるようにとボアズは言うのです。今までのルツの苦労が報われた思いです。
 私たちも、人生の中で、信仰生活の中で辛い経験や悲しい出来事に出会います。神様が居られるのにどうして?と思うこともあります。けれども、神様はそれらの苦しい経験や辛い経験を覚え、必ず祝福に変えて下さるのです。また、神様だけではなく、ボアズがルツの経験を聞いて祝福を祈るように、私たちの苦しい経験や辛い出来事を経験しながらも信仰を持ち続ける私たちを見て、その事を知って、祈って下さる方々、励まして下さる方々が確かにいるのです。
 13節を共に読みましょう。「ルツは言った。「わたしの主よ。どうかこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」」 重ねてボアズの口から出る優しさと配慮に、ルツは大きな慰めを受けます。 現代訳聖書では、「ほんとうにもったいないおことば、ありがとうございます。」とあります。使用人でもない者にも、優しく愛の言葉をかけてくれるボアズの配慮にルツは胸打たれたのです。 
 私たちは、人間関係の中でどのような言葉を相手にかけているでしょうか。愛の言葉、優しい言葉、配慮ある言葉を語っているでしょうか。親密であればあるほど、大切だと思います。案外他人には、優しくできても家族には厳しいというのが現実です。私たちは、最も近い存在、夫や妻、親や子ども、孫やお爺ちゃん、お婆ちゃん、牧師や信徒同士に心からの優しい言葉を愛の言葉をかけるものでありたいと思います。 私たちはいつでも、愛のない厳しい言葉か愛のある優しい言葉のどちらでも語ることができるのです。
 一言の愛の言葉が、相手を思いやるやさしい言葉が、相手を励まし、立ち直らせることができます。幸せにすることができるのです。また、一言の相手を思いやらない、自己中心の言葉が、相手を落ち込ませ、悲しませることになるのです。 「心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」とルツは自分の立場を深く知りながら、ボアズの口から出る言葉に、慰められ、ナオミの神様を信じてよかった。ベツレヘムまでついてきてよかったと感じたに違いないのです。
このように、神様は一人の神を信じる者の言葉を通して、他者を励ますことができるのです。私も、皆さんも、励まし手にもなれますし、励ましを受けることもできるのです。そのようなクリスチャン、神様を信じる者になりたいと思います。
 ボアズは15節の後半から16節で、「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけではなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならない。」 これでもか、これでもかとボアズの愛、優しさは続きます。でも、このことはルツ知りません。 まるで、神様の配慮のようです。私たちにはわからなくても、神様は十分な配慮も持ち、恵み、祝福して下さるのです。

 Ⅲ結論部
 先週の火曜日、松原湖の小学生のベースキャンプに8名の子どもたちと出かけました。松原湖に着くと、前の高校生のキャンプでインフルエンザが出たので、子どもたちの体温をはかり、37度以上なら特別の検査があり、熱が高ければ帰っていただくということでした。全員熱をはかり、二人が36度9分でセーフで、受付を終え私は帰途につきました。相模湖あたりで松原湖の責任者から電話があり、天地君が37度5分あり、さらに熱が上がりそうで、インフルエンザかも知れない。他の青葉台のメンバーも隔離されているということで、全員連れて帰らなければならないということで、すぐにユータウンして松原湖に到着したのが夜の10時前でした。7人は隔離されて一つの部屋にいました。
 「今日帰る」と言うとがっかりするかなあ、と心配しておりました。部屋について、「今から帰るよ」と言うと、一瞬みんな顔に緊張が走りました。「イヤダー!何だよー!帰りたくない!」という声が予想されましたが、みんな一斉に「天地は大丈夫?天地の熱は?」と天地の事ばかり。「これから天地を病院に連れていくのでしょ!」みんながどれほど、天地君のことを心配していたのかが手に取るようにわかりました。 天地君は別の部屋で寝ていました。涙がこぼれていました。自分の熱のせいで、と責任を感じているのではないか?と思い、「責任を感じなくていいよ!」と神様にはこのことも意味があることだとお祈りしました。車に乗り天地君が来ると、みんな「天地大丈夫か。熱は?」と声を掛け合い、子どもたちの信仰と言うか、姿勢に心打たれました。まさしく、ルツが言ったように、「心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」とあるように、お互いが慰め合い、誰も天地君を責める者もおりませんでしたし、天地君も帰りの車の中で元気にしていました。
 帰りの車の中も和気あいあいで、帰りにお土産を買うと話し合い、サービスエリヤでは、3泊4日のキャンプが終わって帰り道のように、お土産を楽しく買い、晩御飯は食べたのですが、お腹がすいたとみんなそれぞれに牛丼やうどんやチャーハンを食べました。長瀬尚哉君は、半チャーハンを頼んだ後、足らないので半ライスを頼み、醤油をかけて食べていましたし、熱があった天地君は天ざるそばを食べました。さすがに、天ぷらは食べませんでしたが、天地が一番高いもの食べている!と元気になった天地君をみて笑いました。12時前に教会に到着してお祈りして別れました。
 金曜日から4名は第二のキャンプに参加することができました。4名はいろいろな予定があり参加できなかったのですが、神様には何か理由が、導きがあったと信じています。 松原湖のキャンプに8名が参加して、みんなが恵まれて帰ってくるというのが、私たちの計画ですが、神様の導きは違いました。キャンプをその日で帰ってきたというこの出来事が、子どもたちの、そして私たちの信仰生活にとって意味があったのだ、と神様は思わせて下さる時がくることを信じます。子どもたちは、誰も責めず、優しい言葉をかけ、相手を思いやる態度を見せてくれました。私は青葉台教会にこのような子どもたちがいることをうれしく思いました。そして、教会学校の先生方の指導や導きご両親の普段の何気ない態度が、子どもたちの信仰を導いているのだと感じました。何よりもイエス様が私たちの罪を赦すために、十字架にかかって下さったという神様の愛が、恵みが、赦しが教会の中に、私たち、そして子どもたち一人ひとりの中に流れていることを強く感じたのです。
 問題が起こった時、困った時、どのような言葉が口をついて出てくるのか。真価が問われます。そして、それは日々のディボーションで神様の言葉に触れ、神様の声を聞いているのかどうかにかかっているようにも思うのです。私たちは、この週も、聖書の言葉、神様の言葉に触れて、イエス・キリスト様の十字架を見上げ、そこから流れて来る愛をいただいて、私たちも身近にいる方々に愛の言葉、優しい言葉を具体的にかけていきたいと思うのです。 平和というのは、そのように相手を思う言葉から始もるのではないでしょうか。
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8月2日 礼拝メッセージ

2009-08-02 18:35:27 | Weblog
            主日礼拝式(三位一体後第九主日)  2009.8.2
         「あなたが信じる神」 ルツ記1:1-22

 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第一主日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。
 今年の夏は早々とお休みをいただいて先週神戸に行ってまいりました。去年は日本海で浮輪が流され追いかけて、心臓がおかしくなり溺(おぼ)れそうになり死ぬところでした、とお話しました。今年は滋賀県の琵琶湖に行きましたが、また浮輪が流されてしまいました。娘の天夢が追いかけましたが、流れが速くどうにもなりませんでした。私はと言うと、微動だに動きませんでした。浮輪が流されるのをただ見つめるだけでした。近くに土地の方々がおられて「追いかけたらだめだ!溺れてしまう」とお話しされ、船を出して浮輪を拾って下さいました。無事車の形をした浮輪は生還したのでした。
 これから夏の休みをとられる方々が多くおられる事だ思いますが、神様の守りがあり、休みを十分に楽しむことができますようにとお祈りしております。今週からいろいろなキャンプ等が始まってまいります。キャンプが祝福されると同時に、いろいろな災いから守られますようにとお祈りをいただきたいと思います。
 8月の月を迎えました。1年で一番暑い月だと思います。8月は旧約聖書のルツ記(4章ありますが、)を共にみさせていただきたいと思います。9年前に私が青葉台教会に来ました年に、メッセージさせていただきました。今日は、1章を通して「あなたが信じる神」と題して、ナオミの信仰、そしてルツの信仰を共に見させていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈生活か神か                              
 ルツ記1章1節の最初には、「士師が世を治めていたころ」と時代の背景を説明しています。士師記の最後、21章25節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」とあります。ですから、ルツ記のこの時代も、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた時代であることがわかります。その代表として、ある人とエリメレクとその家族の物語が始まるのです。エリメレクとは、「わたしの神は王である」という意味があるようです。彼の妻がナオミ(楽しみ、快いの意味)です。彼らには二人の息子マフロン(病める者の意味)とキルヨン(消え失せるの意味)が与えられました。彼らは二人の息子に病める者、消え失せるの意味を持つ名前をつけたのは、飢饉が国を襲ったとあるように、エリメレクが自分の住んでいる国の悲惨な状態を見てそのような名前をつけたのではないかと考えられます。どう見ても、そのよう名前をつける親はいないでしょう。 エリメレクはベツレヘム出身でありました。ベツレヘムとは、イエス様が誕生した場所でありました。やがて、新約の時代になり救い主が誕生する場所、それがエリメレク出身の場所であり、この家族が暮らしていたところでありました。けれども、ベツレヘムには飢饉があったので、大黒柱のエリメレクは、家族を連れてベツレヘムからモアブの地に移り住んだのです。
 家族の長、大黒柱として父であるエリメレクは、飢饉で生活が困難なベツレヘムに居続けることよりも、モアブの地の方がよりよい生活ができると判断したのだと思います。けれども、この判断が神様の導きのもとでの判断なのか、自分の判断なのかで大きな違いが出てくると思います。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」と士師記の終わりの言葉のように、エリメレクの人間的な、目に見えるところの判断であったというように考えられるようにも思います。1章の終りにあるように、ナオミ自身が「主の御手がわたしに下されたのですから。」(1:13)とか、「出ていくときには、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。・・・主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(1:21)と言っているように、自分たちのモアブ移住を神様の審きと考えているように思うのです。
 どの家庭においても、父親、あるいは母親は家族の生活のことを考えます。子どもたちに少しでも良い生活をさせてあげたいと考えます。それが親です。子どもたちにひもじい思いをさせたくない、とかつては言われました。現代はひもじいというよりも、物があふれて栄養がいきすぎてちょっと肥満の子どもたちが多いのかも知れません。全ての親が子どもたちのため、家族のために、良い働きを求め、住みやすい場所を求めるのです。それが親の愛でしょう。
 聖書には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)とありますが、この生き方はクリスチャンの私たちの生き方でもあります。私たちも生活と信仰、どちらが大事という岐路に立たされる時があります。信仰を選べば、生活が苦しくなる。入るものも入らなくなる。生活を取れば神様を第一にできないという状況の中で私たちはどちらかを選択してきたはずです。その結果はどうだったでしょうか。自分だけで判断して来たのなら多くの問題や課題があったでしょう。けれども、聖書のみ言葉に従いながら、神様に聞いて判断する生き方、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と、み言葉に従って来られたのなら、苦しみも痛みもあったことでしょうが、み言葉の通りに「みな加えて与えられる」という経験をされてきたのだと思います。信仰と生活、それは別々なものではなく、毎日の苦労あり、悲しみあり、問題の中にある生活のただ中に信仰があるのです。どこまでも神様に信頼する者でありたいと思います。

 ⒉この世の幸せか信仰か
 ナオミはモアブの地で、愛する夫と息子二人を失います。ですから、自分は信仰的な判断ではなく、人間的な判断で、生活を優先したために神様の審きを受けたと感じても仕方のないような経験をしたのです。残されたのは、息子たちと結婚したモアブの女性、オルパ(髪の豊かな女性、雌鹿の意味)とルツ(友情の意味)だけでした。ナオミはやもめとなり、オルパとルツも10年ほどの結婚生活ののち二人ともやもめとなりました。3人のやもめが残されました。しかも、嫁と姑、ユダヤ人とモアブ人という関係の3人でした。ナオミは自分の人生を恨んだことでしょう。そのことを許された神様を恨んだことでしょう。「主の御手がわたしに下されたのですから。」(1:13)とか、「出ていくときには、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。・・・主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(1:21)と彼女が言っているのですから。ベツレヘムを出るんじゃなかった。モアブに来るんじゃなかったと後悔したかも知れません。
 私たちも、何か悪いことがあったり、マイナスの事があると、自分の行ってきたこと、過去の出来事に対して否定的になることが多くあります。ナオミのように。ベツレヘムに居続けたら、夫も息子たちも死なずに死んだかも知れない、と思ったでしょう。だから、モアブに来たことが悪い判断で、自分の今までの歩みには意味がない。問題だと考えるのです。そうすると、この何年間の自分の歩みを否定するということは、自分を否定することであり、そのことの背後におられる神様を否定することになるように思います。ですから、先週学んだヨブのように、「主が与え、主は奪う。主の御名はもめたたえられよ。」とどこまでも、自分ではなく神様を見ることが大事だと思うのです。けれども、ナオミには神様を恵みの神様ではなく、罰を与える神様としか見ることができませんでした。
 ナオミは、主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを聞いたので、ベツレヘムに帰る決心をし、二人の嫁たちもついて行ったのです。
けれども、ナオミは二人の嫁オルパとルツの幸せを考えます。このまま自分について来てベツレヘムに戻っても彼女たちと幸せはないと考えました。
 8節、9節を共に読みましょう。「ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈(いつく)しみを垂(た)れて下さいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁(とつ)ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」」 二人の嫁の労に感謝すると同時に主の祝福を祈ります。彼女たちの幸せをまず考えたのです。けれども、二人ともに一緒にベツレヘム帰ると言いますが、ナオミは自分に子どもが与えられる可能性がないこと。彼女たちの夫となる人が自分から出ることのないことを語ります。ユダヤでは、兄に子どもがない時、その弟が兄の嫁と結婚するという決まりがありましたので、ナオミの息子たちの弟が自分から生まれる可能性が限りなく小さいと言います。それと、神様の厳しい御手が下されたと付け加えるのです。
 オルパは姑ナオミのその心、自分の幸せを考えてくれる心を察して自分の国モアブに帰って行ったのです。けれども、ルツはすがりついて離れなかったのです。
二人の嫁オルパとルツは違う選択をします。どちらが正しいというのではなく、オルパは姑の自分を思いやるその心を大切にしました。このことはとても大切なことだと思います。麗しい嫁と姑の関係がここにはあります。 またルツの選択は、姑ナオミのある意味でのこの世的な幸福に関するものに答えるというのではなく、ルツはナオミとの人格の関係を大事にし、この地上での幸せを超えた信仰的な決断をしたのだと思うのです。ここにも、嫁と姑の麗しい関係を見ることができます。

 ⒊生活の中での証し
 15節を共に読みましょう。「ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」」 にナオミはあくまでも、この世的な幸せをルツに与えようとします。それもナオミの愛からでした。けれども、ルツは言うのです。
 16節と17節を共に読みましょう。「ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強(し)いないでください。わたしはあなたの行かれる所に行きお泊りになる所に泊ります。あなたの民はわたしの民あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをすたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」」 ルツは自分の結婚のこと、自分の幸せを考えるのではなく、ナオミと共にいることを願います。これまでと同じように、夫がいなくなった今も、姑のナオミと共に暮らしていきたい。共に居りたい。別れるなんてとんでもない。私の幸せはお母さんと共にいることであり、死ぬ以外に離れることがあるなら、主が自分を罰して下さい、という一大決心を見ることができます。ナオミはルツの将来について、結婚して、幸せになってほしい。自分と共にベツレヘムに来たなら、ユダヤ人はモアブ人を嫌っている。律法にも、モアブ人は主の会衆に加わってはならないとあり、ユダヤ人からいじめられる可能性がある。幸せどころか不幸が待っているので、モアブでの幸せをナオミは願うのですが、ルツの決心は堅いものがありました。生活の安定よりも、自分の幸せよりもナオミと共に生きること、そして、ナオミの信じている神様を信じて生きることと選び取ったのです。
 「あなたの民はわたしの民あなたの神はわたしの神。」とルツは言いました。ナオミの信じている神様は私の神様だと告白したのです。ルツはナオミの信じている神様をそばで感じ、10年以上も共に暮らし、ユダヤ人として神様を信じるナオミの姿に接してきました。けれども、ナオミの言うように、神様が御手を下された。出て行く時は満たされても、うつろにして帰された。不幸に落とした神様の存在を100パーセント理解し、信じたわけではなかったことでしょう。けれども、そのような苦しみやつらい経験をしながらも、なお神様に信頼し、神様の期待する姿、ベツレヘムを回復されたと聞いて神様に期待する姿に接し、ルツはナオミの信じている神様を自分の神としたのです。これはとても大切なことだと思います。日本において、イエス様を自分の神とするということが困難な方々もあるでしょう。聖書の内容をわからないと感じる人もいるでしょう。けれども、あなたの信じる神様を私も信じたいと願うことは、イエス様を信じるということだと思うのです。聖書の神様がどのような方かは、あまり知らないけれどもあなたの信じる神、夫、妻、親、子ども、姑、友人の信じる神様を信じたい。これは日本の宣教にとってとても大切なことだと思うのです。
 だからこそ、普段のかかわり、交わりがとても大切なのです。普段の何気ない生活の中で、私がいかに、どのように神様を信じているのか。信頼しているのか。問題があればあるほど、困難があればある程、神様をより信じていく。私の罪のために十字架にかかり死んで下さったイエス様をどこまでも第一にして、信じていきたいと思うのです。その姿勢が一番近くにいる人に影響を与えるのだと思うのです。時間がかかります。何十年とかかる時もあるでしょう。けれども、あなたがイエス様を信じているという事実、信じ続けているということがとても大切なことなのです。

 Ⅲ結論部
 私たちは、イエス様を信じています。信じ続けています。けれども、なかなか周りの人が救われない。何の進展もないと思っていることはないですか。クリスチャンの私が、夫や妻、親や子ども、友人を救わせるようにするのではないのです。救うのはあくまでもイエス様です。イエス様の十字架です。私たちは、相手が信じるように、信仰しているのではありません。わたしの祈りや聖書を読むこと、礼拝を守ること、そのことが相手を救うのではありません。私たちの信仰はあくまでも、私自身の救いと成長のためです。けれども、私が信じ続ける神様、イエス様は、信仰生活を続ける私たちを見せて下さるのです。その信仰の姿勢を用いて下さるのです。信じる者の魅力とその力を相手に知らせて下さるのです。そして、ルツがナオミの神を信じたいと願ったようなことを私たちの周りにも実現させて下さるのです。私たちは、ただイエス様の救いを喜び、感謝し、どのような時もイエス様を第一にして、具体的な生活、こまごまとした生活の中に、神様を見、神様を信じる者でありたいと思うのです。そうした中に、私を通して、あなたを通して救いのみ業が、神の業が行われるのです。私ではなくて、私の行いではなくて、神様に信頼して歩んでまいりましょう。苦しい時も、「全能者がわたしを不幸に落とされた」と思うような出来事を経験しても、イエス様を十字架に釘付けるほどに、私たちを愛された神様の愛、神様の真実に信頼してこの週も歩んでまいりましょう。そのためにも、聖書の言葉に毎日触れて、自分の考えで判断して行動するのではなくて、神様に聞いて、神様に従って、この週も歩んでまいりましょう。
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7月26日 礼拝メッセー

2009-08-01 12:03:29 | Weblog
      主日礼拝(三位一体第八主日)     2009.7.26
            「主は与え主は奪う」 ヨブ1:21-22

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。7月の第四主日を迎えました。今日は、子どもたちが夏休みを迎えて、御実家に帰っておられる方々もおられることだと思います。長い夏休みが始まりましたが、神様の守りの中で夏休みを送ることができますようにとお祈りいただきたいと思います。
 先週は、礼拝後に教会のキャンプが行われました。今年は宿泊施設が予約できなかったために、教会でのキャンプとなりましたが、そのおかげで多くの方々が参加して下さいました。開会礼拝での讃美から始まり、教会の5年後、10年後という皆さんの教会に対するビジョンについてグループに分かれての話し合いが持たれました。教会学校の子どもたちも話し合ってくれました。本当に、どの
グループも熱心に教会の将来について話し合っておられました。その日はそれで終わりでしたが、30代、40代のお父さん方は夜にいろいろな話をして、楽しい時を持つことができました。
 次の日は、前の日に話し合ったグループごとのまとめを発表しました。どのグループも良くまとめられていました。話し合われて示されたビジョンが、一つでも二つでも実現するようにと心から願います。お昼はピザとサンドイッチパーティーでした。特製サラダは30代、40代のお父さんたちが、前日に1時間半かけて作って下さったものでした。たくさんの方々とワイワイガヤガヤと楽しい時を持たせていただきました。午後からは教会でのビデオ鑑賞、そして、子どもたちはプールへと分かれて楽しい時を持ちました。今回は、教会でのキャンプであったので多くの方々が参加して下さいました。また、祈りを持って支えて下さいましたことを感謝致します。
 さて今日は、ヨブ記1章を通して、「主は与え主は奪う」と題して、共に苦しみについて、神様の御心について、信仰について共に考えたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈ご利益信仰ではない
 ヨブ記を読んだ方々は多くおられることだと思います。神様に祝福されたヨブに、次から次へと苦しいことや悲しい出来事が起こります。ヨブの最も近くにいてヨブの苦しみを見ていた彼の妻は、「どこまでも無垢(むく)でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」(2:10)と言いました。大変な苦しみを経験したヨブは、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と神様を讃美しました。神様のなされることを信仰的に受け止めました。その姿をヨブの妻は、近くで見ていたでしょう。そして、ヨブ自身の全身にできものができて苦しむヨブの姿に妻は、我慢ならなかったのでしょう。何も助けてくれない神様に腹が立ったのでしょう。「こんな苦しみを与え、この苦しみから助けてくれないような神なら呪って死ぬ方がましだ!」と言ったのです。
 私たちも人生の中で、信仰生活の中で、神様を信じている私たちも、大変な苦しみや悲しみ、痛みを経験することがあります。神様を信じる者を神様は助け、祝福して下さいます。けれども、大変な苦しみを与え、その苦しみからすぐには助け出して下さらないこともあります。苦しみから助けて下さらないような神様は力がないのでしょうか。苦しみや悲しみから守り、助けて下さらないような神は神様ではないのでしょうか。 私たちが、自分の力や人間の力、思いや考えではどうにもならないような苦しみを経験する時、神様に対する信仰がぐらつくことがあります。神様を信じきれない時があります。私たちは、ヨブ記を通して、ヨブの姿や言葉、信仰を通して、もう一度神様を信じる者の姿を見させていただきたいと思うのです。
 ヨブ記1章1節を共に読みましょう。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」 ヨブを無垢で正しい人、神を畏れる人、悪を避けて生きていた人として紹介しています。このようなヨブには、7人の息子と3人の娘、合計10人の子どもたちが与えられていました。子沢山ですね。聖書は子どもは神様の祝福ととらえています。そして、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産がありました。使用人も多くいました。ですから、聖書はヨブについて、東の国一番の富豪であったと紹介しています。リビングバイブルでは、「億万長者、その地方きっての大牧場主」と紹介しています。 ヨブは信仰も素晴らしい。家族も祝福され、財産もあり、人生最高の幸せな日々を送っていたのです。
そんなヨブでしたが、神様とサタンとの会話の中でこれからヨブに大変な出来事が起こるのです。
 8節を共に読みましょう。「主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」」 神様が、ヨブの信仰をおほめになるのです。その事に対してサタンが言うのです。 9節から11節を共に読みましょう。「サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」」 このサタンの挑戦に、神様はヨブの信仰を信じてヨブの持てるもの全てをサタンの手にゆだねるのです。それは神様がヨブを信じたからです。サタンが、ヨブに対して、神様を信じるのは神様がヨブを祝福しておられるので、利益があるから神を信じているのであり、利益がなくなれば、祝福がなくなれば神を信じることをやめる、とサタンは確信していたのです。ですから、まさにヨブの信仰に対するサタンの挑戦でした。神はヨブの信仰、ただで信じる信仰、ただで神を畏れるものであることを知っておられたのです。
 
 ⒉困難の背後にある神の支配と権威
 12節を共に読みましょう。「主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。」 サタンは、ヨブに与えられた祝福、7人の息子と3人の娘、合計10人の子どもたち、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産を全て失わせたのです。残されたものは、ヨブと妻だけでした。
失うということはつらいことです。財産を失うこと、神様の守りと祝福はあったことでしょうが、ヨブの努力、管理、運営、いろいろな才能により財産が祝福されてきた。その全てが1日のうちに、失われたのです。そして、何よりも愛する息子、娘全てを失いました。父親としてのヨブは、どんなにつらいことだったことでしょう。
 20節、21節を共に読みましょう。「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」」 リビングバイブルでは次のようにあります。「この時ヨブは立ち上がり、悲しみのあまり上着を引き裂き、地にひれ伏して、神様に言いました。「生まれた時、私は裸でした。死ぬ時も、何一つ持って行けません。私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。」」 ヨブは悲しみのただ中にありました。どんなにいつらく悲しいことだったでしょう。尽きぬ涙が流れ、自分の悲しみと痛みを表現しました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」という言葉は、ヨブの強がりではありません。神を信じる者らしく装ったのでもありません。神を信じる者であるけれども、その苦しみと悲しみを痛みました。けれども、「私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。」と神様を見上げたのです。勿論、つらいのですが、ヨブは自分の失ったものに心を奪われませんでした。失われたものの回復を祈るのではなく、一切の良きものを神様が与えて下さるということだけではなく、今ヨブを激しく襲っている災い、悲しみ、苦しみさえも主から来ていることを認めているのです。これは神様がその災いを与えているというのではなく、その災いの背後に神様がおられるということを認めたのだと思うのです。
 12節にあったように、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは神様のお許しのもとにあってのみ行動を起こすことができるのです。この時には、ヨブの肉体には手を出すことができないのです。この神様のお言葉のように、ヨブは全ての事の背後に神様の支配と権威を認めたのです。 私たちは良いこと、祝福とか、成功とか、恵まれるという点においては神様を支配と権威は認めますが、困難や苦しみ、痛みにおいてはなかなか神様の支配と権威を認めることは困難です。けれども、私たちの経験する全ての背後には、神様の御支配、神様の守りがあることを忘れてはならないのです。

 ⒊どこまでも神を信頼する
 22節を共に読みましょう。「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかた。」 リビングバイブルでは、「このような事態になっても、ヨブは罪を犯したり、神様を悪(あ)しざまに言ったりしませんでした。」とあります。
 サタンは神様に言いました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」  リビングバイブルでは次のように訳しています。「当たり前ですよ。あなたが特別ひいきにしているんだから。あなたはいつも、彼とその家庭、持ち物を守っているじゃないですか。それに、彼のすることは何でも栄えるように目をかけている。これじゃあ、金がうなるほどあっても不思議はない。あなたを拝むふりをして当然ですよ。試しに、やっこさんの財産を取り上げてみるんですな。きっとあなたをのろいますぜ。」 
 ヨブの信仰は、ヨブが神様を畏れるのは、ヨブが悪を避けて生きているのは、神様が祝福しているから。特別に何でも栄えるように目をかけているから。そんなに恵み、祝福したら誰でも信じるふり、神様を拝むふりをするから、財産を全て取り上げたら正体がバレルというのがサタンの考えなのです。この世の考えと言ってもいいでしょう。けれども、ヨブは神様を非難することなく、罪を犯すこともなく、神様の御支配を信じました。ヨブは祝福でもなく、成功でもなく、悲しみと苦しみ、痛みを経験しても神様を神様として信じ、敬い、神様を畏れ、悪を避けたのです。神様をただで信じたのです。
 2章になるとサタンは、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆(そそのか)して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」と言われた神様の言葉に対して、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」とまた挑戦してきたのです。 神様は命だけは奪うことを赦さず、サタンにヨブをゆだねます。そして、ヨブは全身皮膚病にかかったのです。その夫ヨブのひどい姿を見て、「どこまでも無垢(むく)でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」と言ったのです。リビングバイブルでは、「こんなひどい仕打ちに会っても、まだ神様をたいせつにするの。いっそ、神様をのろって死んだらどう?・・・」
 ヨブの妻の言葉は無理のない、正直な言葉だったかも知れません。神様がいるのなら、どうしてこんなひどいことが起こるのか。苦しいことを経験するのか。いっそ、神様を呪い、その苦しみや悲しみを神様にぶつけて死んだ方がましだ、と思うほどの痛みと苦しみをヨブと妻は経験したのです。けれども、ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と神様を呪うことも、罪を犯すこともなかったのです。サタンは今回もヨブの信仰、神様の対する信頼、姿勢に負けたのです。ヨブの信仰が御利益宗教ではないこと、ただで、利益がなくても神様を信じること、神様を拝むふりをしているのではなく、本当に信じていることを知ったのです。サタンの誘惑、攻撃は現代もかわりなく、神を信じるクリスチャンの私たちを襲います。神様から引き離そうとします。神様の言葉を疑わせようとします。神様の存在を否定するのです。私たちは、神様の愛のあらわれである、救いの根拠である十字架に目をとめて、十字架から目を離すことなく、サタンに勝利していきたいのです。

  Ⅲ結論部
 私たちの信仰はどのような信仰でしょうか。サタンが言うように、利益がなければ神様を信仰する意味がないのでしょうか。神様を信じるのは何かいいことがあるからですか。信じないと損をするからでしょうか。そうではありません。私たちを救うために、イエス様が御自分の命をかけ、十字架で私たち罪人の身代わりに神からの裁きを受け、死なれた。神であるお方が、罪の身代わりに十字架で裁かれ、死ぬということはあってはならないことです。しかし、その事のみが唯一の救いの道なのです。神様は私たちの救いを願い、この十字架の道を示されたのです。けれども、サタンは、この十字架の道、救いの道、神様の愛を疑わせようとします。神様から放させようとして、誘惑し、苦しみを与え、神様を呪わせようとするのです。
 今日、洗礼を受けられる飯野恵子姉は、鹿児島県に生まれ、早くから神様との接点がありましたが、神様を信じるにいたりませんでした。結婚され、いろいろな苦しみと痛みを経験されました。しかし、その中でこそ、神様に目を留められたのです。神様がいろいろな人を通して導かれ、神様の存在を示されました。そして、痛みと苦しみの中にあって、神様、イエス様の十字架に目をとめて救いをいただいたのです。サタンはこの世の矛盾や理解できない出来事を通して、神様の存在を疑わせ、救いを先延ばしにさせようとしました。姉妹は、8月には鹿児島に帰られるのですが、鹿児島に帰られる前に、洗礼を受けることを導かれ今日に至りました。まだ、痛みや問題はあるでしょう。けれども、ヨブのように、「「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」」とイエス様の十字架を見つめつつ、その救いを確信し、今日の洗礼式を迎えられました。これからの姉妹の鹿児島でのお働きと生活のために、鹿児島ナザレン教会での信仰生活のためにお祈りいただきたいと思います。
 「信仰とは神の言葉によって現実を貫くことである。こちらには言い分もある。注文もある。だが、神の前に沈黙することである。」とは榎本保郎先生の言葉です。ヨブは大変な苦しみを経験した時、神様の前に沈黙しました。ただ悲しいから、辛いから沈黙したというのではなく、神様の言葉に信頼するが故に、神様を認めるが故に、神様の御支配の故に、全てを信じて沈黙したのです。
 私たちもこの週、いろいろな出来事を経験するでしょう。辛いこともいやなことも、大変なことも。けれども、全ての事柄に神様の御支配と権威を認め、イエス様の十字架を見上げて、神様の愛を確認したいと思うのです。そのためにも、聖書の言葉に触れ、神様に信頼してまいりましょう。
 
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