主日礼拝(三位一体後第十三主日) 2007.8.26
「神の前には何の問題もない」 出エジプト4:1-17
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。8月の第四週の主日礼拝を迎えました。猛暑が続いておりますが、皆さんはお元気でしょうか。今日も礼拝を守るために、暑さの中を来られたことだと思います。神様がその信仰に豊かに報いて下さることをお祈り致します。
昨日から、教会学校のお泊り会が持たれました。夕食のバーベキューのおにぎり作りから始まり、教会学校の礼拝で終わります。プールやバーベキュー、そうめん流し、きもだめし、讃美とメッセージ、牧師との祈りと盛りだくさんのプログラムで楽しいお泊り会でした。皆さんのお祈りに感謝致します。
8月は出エジプト記を通して、モーセについて学ばせていただいています。先週は、40年間、荒野での羊飼いの生活をしたモーセに、神様が始めて語られました。「エジプトに行け」と。 モーセは40年という長い期間のゆえに、自分がイスラエルの民を導くという思いが薄れ、また、かつての失敗から、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」と神様に語りました。すると、神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と、神様が共にいることの素晴らしさを語られたのでした。
3章の後半では、モーセが私を遣わされたのは、誰かとイスラエルの人々が問うた時、何と答えるべきですかという問いには、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。また、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」と語るようにと神様はモーセに示されました。
今日は、出エジプト記4章を通して、「神様の前には何の問題もない」ということを共に見させていただきたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈三つのしるし
モーセは3章での神様の言葉を受け入れました。しかし、まだまだモーセには不安があり、確信がありませんでした。4章1節には、「モーセは逆らって」とありますから、神様に対する不信があったのでしょう。これからエジプトへ行ってパロと戦う、イスラエルの人々を解放するという波乱万丈な生涯よりも安定した今の生活を壊したくないという守りの人生にはいっても仕方のない年齢でもあったでしょう。かつては熱心ではあったが、今は冷えているという信仰が私たちにはあるのかも知れません。もう40年も経っているわけですから、モーセ自身を知る者がどれほどいるのかも不安でした。
①ですから、モーセは1節で、自分の事など信用する人はいないし、私の言うことは聞かないと問うと、神様は答えました。2節の前半を共に読みましょう。「主は彼に「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。」 神様はモーセに戦うためのりっぱな剣や盾、槍などをくださいませんでした。今彼が手に持っている物、それは杖でした。40年間、羊を導くための杖、彼の商売道具、また、年を重ねて、足元を支える杖を神様は示されました。その杖を地面に投げよという命令に従って杖を投げると、杖がヘビになりました。モーセは飛びのいたのです。毒ヘビ、コブラだったでしょうか。神様は、ヘビの尾をつかめと言われたので、モーセが手を伸ばして尾をつかむと、手の中で杖に戻ったのです。ヘビは、サタンの代名詞であり、ここではエジプトを支配している悪を代表するものであるようです。その悪、ヘビを支配することができることは、モーセが神様の民の支配者としての召命を受けているというだけではなく、悪魔のような力を持つエジプトの力に打ち勝つ力を与えられていることを表すものです。 神様は、普段の仕事や生活で使っている何の変哲もない杖を示され、それを力あるものとされたのです。神様は私たちの働きや生活の中から、神様の働きの為に何かを用いて下さるのです。
②神様は続けて、モーセの手をふところに入れるように命じ、モーセがその通りにして、手を出すと、何と手は重い皮膚病になっていました。手をふところに戻すようにとの神様の命令に従い、手を出してみると元の肌に戻っていたのです。ここでは、モーセの手はイスラエルの民を表し、ふところはイスラエルの隠れ家、最初はエジプト、次はカナンの地のこと。重い皮膚病は、エジプトにおいて奴隷として苦しめられているイスラエルの民の状態を表しているようです。神様はモーセに、イスラエルの民を重い皮膚病の状態から癒す力を与えられた。このことは、神様がイスラエルの民をもう一度健全な民にすることができることを意味しているようです。重い皮膚病にしたり、癒したりできる力は神様以外にはないのです。
③前の二つのしるしを信じなければ、ナイル川の水を汲んできて乾いた地面にまけば水は地面で血に変わると神様はモーセに告げられました。ナイル川はエジプトにとっては、あらゆる良い物と繁栄の根源を示しています。エジプトの人々に命を与えるこの水を血に変えてしまうということは、パロ王とエジプトの神々を打ち滅ぼす力を持っていることを意味しているようです。神様はモーセにそのような力をも与えたのです。エジプトに行け、という神様の命令に不安を持つモーセに神様は三つのしるしを与えられたのです。
⒉神の前には何の問題もない
このように三つのしるしを与えられたモーセは、確信を持ってエジプト行きを引き受けたかというとそうではありませんでした。10節を共によみましょう。「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」」
リビングバイブルを見ますと、「神様、私はとても口べたです。うまく話しができたためしがありません。こうしてお話ししていても、思うように物が言えません。すぐどもってしまうのです。」とあります。 私も口べたで人の前に立つとなかなか思うように話せないのです。モーセに似ているのかも知れません。思うように話せないというのは何とも辛いものです。皆さんはいかがでしょうか。
お祈りで、私はなかなか祈れませんという方々がおられます。特に、会衆にお前での祈りなんてできませんと言われる方もおられるでしょう。祈りとは人に聞かすものでしょうか。人に聞いてもらうことなのでしょうか。祈りは神様にささげるものです。ですから、私たちの祈りが、たどたどしくても、まとまらなくても、人が聞いてわからなくても、神様はその祈りを通して私たちの心を知っていて下さるのです。かっこいい祈りをする必要はありません。心の伴わない形だけの祈りも必要ないのです。だから、恐れず、心配しないでお祈りしていただきたいと思うのです。神様はどのような祈りをも受け入れて下さるのですから。
弁が立つ方ではない、口が重く舌も重いというモーセに神様は語ります。11節のカッコを共に読みましょう。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」 リビングバイブルを見ると、「人間の口を造るのは誰かね。神であるわたしではないか。人が話せたり話せなかったり、目が見えたり見えなかったり、耳が聞こえたり聞こえなかったりするのは、だれの力によることだ。」とあります。人の口も耳も目も支配しているのは神様であるということであれば、モーセが口が重く、舌も重いということは、神様の前には何の問題もないということなのです。また、12節で、「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と言われました。大丈夫だ。語るべきことは教えて下さるというのです。大丈夫なのです。しかし、神様がモーセの口と共にあると言っても、モーセがすぐに雄弁家になるわけではありません。むしろ、モーセは口が重いままであり、舌もおもいままなのです。けれども、神様はご自身の栄光の為に、口が重く舌も重いモーセを用い、その必要な時に彼を助けて下さると約束しておられるのです。そして、モーセへの約束は、私たち一人ひとりへの約束でもあるのです。 第一コリントの信徒への手紙1章27節から29節には、次のように記してあります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
私たちは自分の弱さや足りなさを卑下する必要はないのです。あえてその弱さを通して神様は栄光を現して下さるのですから、神様に信頼していきたいと思うのです。
⒊助け手を与える
モーセの口と共にあって神様が語るべきことを教えると言っておられるのにもかかわらず、モーセは言うのです。13節のカッコを共に読みましょう。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」 神様はモーセに約束としるしを与えられ、励まし続けてこられたのに、他の人をというモーセに神様は怒られ言われました。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。」口が重く舌も重い。だから他の人を遣わして下さい、と逃げ腰になっているモーセに神様は兄弟アロンがいること、そして彼が雄弁であること、その彼がモーセに会おうとして来ていることを告げるのです。あなた一人ではない。助け手があるということを示されました。ここからモーセとアロンの二人三脚の旅が始まるのです。15節、16節を共に読みましょう。「彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」
アロンは、モーセと同じように敬虔な両親のもとで宗教教育を受けたでしょう。しっかりとした信仰があったと思います。けれども、モーセのように、最高の学問も学ばなかったし、人の上に立つという経験もなかったでしょう。荒野での40年の羊飼いの経験もなかったでしょう。イスラエルの人々をエジプトから導く指導者となるための十分な訓練も資格もなかったでしょう。けれども、アロンの雄弁という賜物をモーセのために用いられるのです。神様はモーセの口となるというだけではなく、アロンの口と共にあり、なすべきことを教えると約束されたのです。アロンもモーセと同じように、神様によって用いられる器となったのです。
けれども、二人は同じ働き、同じ役目ではありませんでした。アロンはモーセの兄でありましたが、アロンの働き、役割というものは、あくまでもモーセに仕えることだったのです。神様はモーセに語られ、モーセは神様から語られた言葉をアロンに告げて、アロンが民に語るという順番でした。神様がモーセを飛び越えてアロンに語るということはなかったのです。ですから、アロンはモーセの口の代わりとなり、モーセは神様の代わりとなったのです。
ヘブライの習慣では、普通、重んじられるのは長男です。長男であるかどうかは大切なことです。ですから、年上のアロンが弟のモーセに従う、仕えるということは大変なことだったと思います。しかし、神様が定めたこの順序というものは、アロンに謙遜を要求するものでした。アロンが謙遜である限り、二人の関係は問題なく進んだのです。私たちは、誰の助けになれるでしょうか。
私たちは、人間の常識の関係で生きています。けれども、神様の示される関係はまた違うのです。兄が弟に仕える。上のものが下のものに従う。強い者が弱い者に従う。経験ある者が経験のない者に従うのです。私たちはどうでしょうか。そのためには謙遜が必要なのです。この謙遜の模範はイエス様です。神であるお方が僕に、奴隷になられたのです。十字架の上に罪人になられたのです。神であり、聖い、罪のないお方が罪ある者、汚れた者の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、私たちの罪の赦しがあるのです。これが、神様の導かれた順序、秩序だったのです。それにイエス様は十字架の死に至るまで従われたのです。
Ⅲ結論部
17節を共に読みましょう。「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」 神様は、モーセがいつも使用していた杖を示されました。何か特別なものではありません。誰が見てもただの杖です。キラキラ輝く剣や槍ではないのです。神様は、モーセが40年間羊飼いとして働いてきたその杖を通して用いられるのです。神様は、私たちが与えられたその働きやなすべきことを忠実に、あるいは平凡にしていたことを主の働きの為に用いられます。ですから、私たちは今与えられている所で、与えられていることを精一杯したいと思うのです。会社員は会社員として、主婦は主婦として、学生は学生として、何もできないという状況ならば、何もできないという状況の中で、父として母として、夫として、妻として、親として、子として、置かれた状況で立場で精一杯のことをしていきたいと思うのです。そして、神様が声をかけられたら、口下手であろうが、何ができなくても、神様の約束に立ち、神様に信頼して歩ませていただきたいと思うのです。
また、モーセは自分はイスラエルの人々には信用がないかも知れないと言いましたが、神様はモーセを信用して下さいました。神様は私たち一人ひとりを信頼し、信用して神の国のみ業のために私たちを用いて下さるのです。私たちは自分を見ていては何もできません。自分にはできないからこそ、神様に、イエス様に信頼を置くのです。
今、新しい何かを踏み出そうとしておられる方々がおられるかも知れません。恐れがあるでしょう。不安もあるでしょう。今のままのほうが安心でしょう。安定した生活を壊したくない。環境を変えることの不安があるでしょう。しかし、神様に信頼し、神様に聞いて従う時には、神様の大きな恵みを体験するのだと思うのです。
自分にはできない。荷が重過ぎる。誰か他の人をと私たちは思います。しかし、神様はあなたにその働きをと願っておられるのです。何も心配はいりません。神様の前には、神様と共にある人生には、何の問題もないのです。そして、あなたに最もふさわしい助け手を与えて下さるのです。
神様はあなたに語られます。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたをささえる。」(イザヤ41:10) 「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:19)
「わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と」(イザヤ49:23)
「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」(イザヤ51:6)
「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
この週も、聖書のみ言葉に信頼して歩んでまいりましょう。
「神の前には何の問題もない」 出エジプト4:1-17
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。8月の第四週の主日礼拝を迎えました。猛暑が続いておりますが、皆さんはお元気でしょうか。今日も礼拝を守るために、暑さの中を来られたことだと思います。神様がその信仰に豊かに報いて下さることをお祈り致します。
昨日から、教会学校のお泊り会が持たれました。夕食のバーベキューのおにぎり作りから始まり、教会学校の礼拝で終わります。プールやバーベキュー、そうめん流し、きもだめし、讃美とメッセージ、牧師との祈りと盛りだくさんのプログラムで楽しいお泊り会でした。皆さんのお祈りに感謝致します。
8月は出エジプト記を通して、モーセについて学ばせていただいています。先週は、40年間、荒野での羊飼いの生活をしたモーセに、神様が始めて語られました。「エジプトに行け」と。 モーセは40年という長い期間のゆえに、自分がイスラエルの民を導くという思いが薄れ、また、かつての失敗から、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」と神様に語りました。すると、神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と、神様が共にいることの素晴らしさを語られたのでした。
3章の後半では、モーセが私を遣わされたのは、誰かとイスラエルの人々が問うた時、何と答えるべきですかという問いには、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。また、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」と語るようにと神様はモーセに示されました。
今日は、出エジプト記4章を通して、「神様の前には何の問題もない」ということを共に見させていただきたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈三つのしるし
モーセは3章での神様の言葉を受け入れました。しかし、まだまだモーセには不安があり、確信がありませんでした。4章1節には、「モーセは逆らって」とありますから、神様に対する不信があったのでしょう。これからエジプトへ行ってパロと戦う、イスラエルの人々を解放するという波乱万丈な生涯よりも安定した今の生活を壊したくないという守りの人生にはいっても仕方のない年齢でもあったでしょう。かつては熱心ではあったが、今は冷えているという信仰が私たちにはあるのかも知れません。もう40年も経っているわけですから、モーセ自身を知る者がどれほどいるのかも不安でした。
①ですから、モーセは1節で、自分の事など信用する人はいないし、私の言うことは聞かないと問うと、神様は答えました。2節の前半を共に読みましょう。「主は彼に「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。」 神様はモーセに戦うためのりっぱな剣や盾、槍などをくださいませんでした。今彼が手に持っている物、それは杖でした。40年間、羊を導くための杖、彼の商売道具、また、年を重ねて、足元を支える杖を神様は示されました。その杖を地面に投げよという命令に従って杖を投げると、杖がヘビになりました。モーセは飛びのいたのです。毒ヘビ、コブラだったでしょうか。神様は、ヘビの尾をつかめと言われたので、モーセが手を伸ばして尾をつかむと、手の中で杖に戻ったのです。ヘビは、サタンの代名詞であり、ここではエジプトを支配している悪を代表するものであるようです。その悪、ヘビを支配することができることは、モーセが神様の民の支配者としての召命を受けているというだけではなく、悪魔のような力を持つエジプトの力に打ち勝つ力を与えられていることを表すものです。 神様は、普段の仕事や生活で使っている何の変哲もない杖を示され、それを力あるものとされたのです。神様は私たちの働きや生活の中から、神様の働きの為に何かを用いて下さるのです。
②神様は続けて、モーセの手をふところに入れるように命じ、モーセがその通りにして、手を出すと、何と手は重い皮膚病になっていました。手をふところに戻すようにとの神様の命令に従い、手を出してみると元の肌に戻っていたのです。ここでは、モーセの手はイスラエルの民を表し、ふところはイスラエルの隠れ家、最初はエジプト、次はカナンの地のこと。重い皮膚病は、エジプトにおいて奴隷として苦しめられているイスラエルの民の状態を表しているようです。神様はモーセに、イスラエルの民を重い皮膚病の状態から癒す力を与えられた。このことは、神様がイスラエルの民をもう一度健全な民にすることができることを意味しているようです。重い皮膚病にしたり、癒したりできる力は神様以外にはないのです。
③前の二つのしるしを信じなければ、ナイル川の水を汲んできて乾いた地面にまけば水は地面で血に変わると神様はモーセに告げられました。ナイル川はエジプトにとっては、あらゆる良い物と繁栄の根源を示しています。エジプトの人々に命を与えるこの水を血に変えてしまうということは、パロ王とエジプトの神々を打ち滅ぼす力を持っていることを意味しているようです。神様はモーセにそのような力をも与えたのです。エジプトに行け、という神様の命令に不安を持つモーセに神様は三つのしるしを与えられたのです。
⒉神の前には何の問題もない
このように三つのしるしを与えられたモーセは、確信を持ってエジプト行きを引き受けたかというとそうではありませんでした。10節を共によみましょう。「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」」
リビングバイブルを見ますと、「神様、私はとても口べたです。うまく話しができたためしがありません。こうしてお話ししていても、思うように物が言えません。すぐどもってしまうのです。」とあります。 私も口べたで人の前に立つとなかなか思うように話せないのです。モーセに似ているのかも知れません。思うように話せないというのは何とも辛いものです。皆さんはいかがでしょうか。
お祈りで、私はなかなか祈れませんという方々がおられます。特に、会衆にお前での祈りなんてできませんと言われる方もおられるでしょう。祈りとは人に聞かすものでしょうか。人に聞いてもらうことなのでしょうか。祈りは神様にささげるものです。ですから、私たちの祈りが、たどたどしくても、まとまらなくても、人が聞いてわからなくても、神様はその祈りを通して私たちの心を知っていて下さるのです。かっこいい祈りをする必要はありません。心の伴わない形だけの祈りも必要ないのです。だから、恐れず、心配しないでお祈りしていただきたいと思うのです。神様はどのような祈りをも受け入れて下さるのですから。
弁が立つ方ではない、口が重く舌も重いというモーセに神様は語ります。11節のカッコを共に読みましょう。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」 リビングバイブルを見ると、「人間の口を造るのは誰かね。神であるわたしではないか。人が話せたり話せなかったり、目が見えたり見えなかったり、耳が聞こえたり聞こえなかったりするのは、だれの力によることだ。」とあります。人の口も耳も目も支配しているのは神様であるということであれば、モーセが口が重く、舌も重いということは、神様の前には何の問題もないということなのです。また、12節で、「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と言われました。大丈夫だ。語るべきことは教えて下さるというのです。大丈夫なのです。しかし、神様がモーセの口と共にあると言っても、モーセがすぐに雄弁家になるわけではありません。むしろ、モーセは口が重いままであり、舌もおもいままなのです。けれども、神様はご自身の栄光の為に、口が重く舌も重いモーセを用い、その必要な時に彼を助けて下さると約束しておられるのです。そして、モーセへの約束は、私たち一人ひとりへの約束でもあるのです。 第一コリントの信徒への手紙1章27節から29節には、次のように記してあります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
私たちは自分の弱さや足りなさを卑下する必要はないのです。あえてその弱さを通して神様は栄光を現して下さるのですから、神様に信頼していきたいと思うのです。
⒊助け手を与える
モーセの口と共にあって神様が語るべきことを教えると言っておられるのにもかかわらず、モーセは言うのです。13節のカッコを共に読みましょう。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」 神様はモーセに約束としるしを与えられ、励まし続けてこられたのに、他の人をというモーセに神様は怒られ言われました。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。」口が重く舌も重い。だから他の人を遣わして下さい、と逃げ腰になっているモーセに神様は兄弟アロンがいること、そして彼が雄弁であること、その彼がモーセに会おうとして来ていることを告げるのです。あなた一人ではない。助け手があるということを示されました。ここからモーセとアロンの二人三脚の旅が始まるのです。15節、16節を共に読みましょう。「彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」
アロンは、モーセと同じように敬虔な両親のもとで宗教教育を受けたでしょう。しっかりとした信仰があったと思います。けれども、モーセのように、最高の学問も学ばなかったし、人の上に立つという経験もなかったでしょう。荒野での40年の羊飼いの経験もなかったでしょう。イスラエルの人々をエジプトから導く指導者となるための十分な訓練も資格もなかったでしょう。けれども、アロンの雄弁という賜物をモーセのために用いられるのです。神様はモーセの口となるというだけではなく、アロンの口と共にあり、なすべきことを教えると約束されたのです。アロンもモーセと同じように、神様によって用いられる器となったのです。
けれども、二人は同じ働き、同じ役目ではありませんでした。アロンはモーセの兄でありましたが、アロンの働き、役割というものは、あくまでもモーセに仕えることだったのです。神様はモーセに語られ、モーセは神様から語られた言葉をアロンに告げて、アロンが民に語るという順番でした。神様がモーセを飛び越えてアロンに語るということはなかったのです。ですから、アロンはモーセの口の代わりとなり、モーセは神様の代わりとなったのです。
ヘブライの習慣では、普通、重んじられるのは長男です。長男であるかどうかは大切なことです。ですから、年上のアロンが弟のモーセに従う、仕えるということは大変なことだったと思います。しかし、神様が定めたこの順序というものは、アロンに謙遜を要求するものでした。アロンが謙遜である限り、二人の関係は問題なく進んだのです。私たちは、誰の助けになれるでしょうか。
私たちは、人間の常識の関係で生きています。けれども、神様の示される関係はまた違うのです。兄が弟に仕える。上のものが下のものに従う。強い者が弱い者に従う。経験ある者が経験のない者に従うのです。私たちはどうでしょうか。そのためには謙遜が必要なのです。この謙遜の模範はイエス様です。神であるお方が僕に、奴隷になられたのです。十字架の上に罪人になられたのです。神であり、聖い、罪のないお方が罪ある者、汚れた者の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、私たちの罪の赦しがあるのです。これが、神様の導かれた順序、秩序だったのです。それにイエス様は十字架の死に至るまで従われたのです。
Ⅲ結論部
17節を共に読みましょう。「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」 神様は、モーセがいつも使用していた杖を示されました。何か特別なものではありません。誰が見てもただの杖です。キラキラ輝く剣や槍ではないのです。神様は、モーセが40年間羊飼いとして働いてきたその杖を通して用いられるのです。神様は、私たちが与えられたその働きやなすべきことを忠実に、あるいは平凡にしていたことを主の働きの為に用いられます。ですから、私たちは今与えられている所で、与えられていることを精一杯したいと思うのです。会社員は会社員として、主婦は主婦として、学生は学生として、何もできないという状況ならば、何もできないという状況の中で、父として母として、夫として、妻として、親として、子として、置かれた状況で立場で精一杯のことをしていきたいと思うのです。そして、神様が声をかけられたら、口下手であろうが、何ができなくても、神様の約束に立ち、神様に信頼して歩ませていただきたいと思うのです。
また、モーセは自分はイスラエルの人々には信用がないかも知れないと言いましたが、神様はモーセを信用して下さいました。神様は私たち一人ひとりを信頼し、信用して神の国のみ業のために私たちを用いて下さるのです。私たちは自分を見ていては何もできません。自分にはできないからこそ、神様に、イエス様に信頼を置くのです。
今、新しい何かを踏み出そうとしておられる方々がおられるかも知れません。恐れがあるでしょう。不安もあるでしょう。今のままのほうが安心でしょう。安定した生活を壊したくない。環境を変えることの不安があるでしょう。しかし、神様に信頼し、神様に聞いて従う時には、神様の大きな恵みを体験するのだと思うのです。
自分にはできない。荷が重過ぎる。誰か他の人をと私たちは思います。しかし、神様はあなたにその働きをと願っておられるのです。何も心配はいりません。神様の前には、神様と共にある人生には、何の問題もないのです。そして、あなたに最もふさわしい助け手を与えて下さるのです。
神様はあなたに語られます。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたをささえる。」(イザヤ41:10) 「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:19)
「わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と」(イザヤ49:23)
「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」(イザヤ51:6)
「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
この週も、聖書のみ言葉に信頼して歩んでまいりましょう。