江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

8月26日 礼拝メッセージ

2007-08-26 12:53:36 | Weblog
            主日礼拝(三位一体後第十三主日)    2007.8.26

          「神の前には何の問題もない」 出エジプト4:1-17

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。8月の第四週の主日礼拝を迎えました。猛暑が続いておりますが、皆さんはお元気でしょうか。今日も礼拝を守るために、暑さの中を来られたことだと思います。神様がその信仰に豊かに報いて下さることをお祈り致します。
 昨日から、教会学校のお泊り会が持たれました。夕食のバーベキューのおにぎり作りから始まり、教会学校の礼拝で終わります。プールやバーベキュー、そうめん流し、きもだめし、讃美とメッセージ、牧師との祈りと盛りだくさんのプログラムで楽しいお泊り会でした。皆さんのお祈りに感謝致します。
 8月は出エジプト記を通して、モーセについて学ばせていただいています。先週は、40年間、荒野での羊飼いの生活をしたモーセに、神様が始めて語られました。「エジプトに行け」と。 モーセは40年という長い期間のゆえに、自分がイスラエルの民を導くという思いが薄れ、また、かつての失敗から、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」と神様に語りました。すると、神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と、神様が共にいることの素晴らしさを語られたのでした。
 3章の後半では、モーセが私を遣わされたのは、誰かとイスラエルの人々が問うた時、何と答えるべきですかという問いには、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。また、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」と語るようにと神様はモーセに示されました。
 今日は、出エジプト記4章を通して、「神様の前には何の問題もない」ということを共に見させていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈三つのしるし
 モーセは3章での神様の言葉を受け入れました。しかし、まだまだモーセには不安があり、確信がありませんでした。4章1節には、「モーセは逆らって」とありますから、神様に対する不信があったのでしょう。これからエジプトへ行ってパロと戦う、イスラエルの人々を解放するという波乱万丈な生涯よりも安定した今の生活を壊したくないという守りの人生にはいっても仕方のない年齢でもあったでしょう。かつては熱心ではあったが、今は冷えているという信仰が私たちにはあるのかも知れません。もう40年も経っているわけですから、モーセ自身を知る者がどれほどいるのかも不安でした。
 ①ですから、モーセは1節で、自分の事など信用する人はいないし、私の言うことは聞かないと問うと、神様は答えました。2節の前半を共に読みましょう。「主は彼に「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。」 神様はモーセに戦うためのりっぱな剣や盾、槍などをくださいませんでした。今彼が手に持っている物、それは杖でした。40年間、羊を導くための杖、彼の商売道具、また、年を重ねて、足元を支える杖を神様は示されました。その杖を地面に投げよという命令に従って杖を投げると、杖がヘビになりました。モーセは飛びのいたのです。毒ヘビ、コブラだったでしょうか。神様は、ヘビの尾をつかめと言われたので、モーセが手を伸ばして尾をつかむと、手の中で杖に戻ったのです。ヘビは、サタンの代名詞であり、ここではエジプトを支配している悪を代表するものであるようです。その悪、ヘビを支配することができることは、モーセが神様の民の支配者としての召命を受けているというだけではなく、悪魔のような力を持つエジプトの力に打ち勝つ力を与えられていることを表すものです。 神様は、普段の仕事や生活で使っている何の変哲もない杖を示され、それを力あるものとされたのです。神様は私たちの働きや生活の中から、神様の働きの為に何かを用いて下さるのです。
 ②神様は続けて、モーセの手をふところに入れるように命じ、モーセがその通りにして、手を出すと、何と手は重い皮膚病になっていました。手をふところに戻すようにとの神様の命令に従い、手を出してみると元の肌に戻っていたのです。ここでは、モーセの手はイスラエルの民を表し、ふところはイスラエルの隠れ家、最初はエジプト、次はカナンの地のこと。重い皮膚病は、エジプトにおいて奴隷として苦しめられているイスラエルの民の状態を表しているようです。神様はモーセに、イスラエルの民を重い皮膚病の状態から癒す力を与えられた。このことは、神様がイスラエルの民をもう一度健全な民にすることができることを意味しているようです。重い皮膚病にしたり、癒したりできる力は神様以外にはないのです。
 ③前の二つのしるしを信じなければ、ナイル川の水を汲んできて乾いた地面にまけば水は地面で血に変わると神様はモーセに告げられました。ナイル川はエジプトにとっては、あらゆる良い物と繁栄の根源を示しています。エジプトの人々に命を与えるこの水を血に変えてしまうということは、パロ王とエジプトの神々を打ち滅ぼす力を持っていることを意味しているようです。神様はモーセにそのような力をも与えたのです。エジプトに行け、という神様の命令に不安を持つモーセに神様は三つのしるしを与えられたのです。

 ⒉神の前には何の問題もない
 このように三つのしるしを与えられたモーセは、確信を持ってエジプト行きを引き受けたかというとそうではありませんでした。10節を共によみましょう。「それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」」
 リビングバイブルを見ますと、「神様、私はとても口べたです。うまく話しができたためしがありません。こうしてお話ししていても、思うように物が言えません。すぐどもってしまうのです。」とあります。 私も口べたで人の前に立つとなかなか思うように話せないのです。モーセに似ているのかも知れません。思うように話せないというのは何とも辛いものです。皆さんはいかがでしょうか。
 お祈りで、私はなかなか祈れませんという方々がおられます。特に、会衆にお前での祈りなんてできませんと言われる方もおられるでしょう。祈りとは人に聞かすものでしょうか。人に聞いてもらうことなのでしょうか。祈りは神様にささげるものです。ですから、私たちの祈りが、たどたどしくても、まとまらなくても、人が聞いてわからなくても、神様はその祈りを通して私たちの心を知っていて下さるのです。かっこいい祈りをする必要はありません。心の伴わない形だけの祈りも必要ないのです。だから、恐れず、心配しないでお祈りしていただきたいと思うのです。神様はどのような祈りをも受け入れて下さるのですから。
 弁が立つ方ではない、口が重く舌も重いというモーセに神様は語ります。11節のカッコを共に読みましょう。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。」 リビングバイブルを見ると、「人間の口を造るのは誰かね。神であるわたしではないか。人が話せたり話せなかったり、目が見えたり見えなかったり、耳が聞こえたり聞こえなかったりするのは、だれの力によることだ。」とあります。人の口も耳も目も支配しているのは神様であるということであれば、モーセが口が重く、舌も重いということは、神様の前には何の問題もないということなのです。また、12節で、「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と言われました。大丈夫だ。語るべきことは教えて下さるというのです。大丈夫なのです。しかし、神様がモーセの口と共にあると言っても、モーセがすぐに雄弁家になるわけではありません。むしろ、モーセは口が重いままであり、舌もおもいままなのです。けれども、神様はご自身の栄光の為に、口が重く舌も重いモーセを用い、その必要な時に彼を助けて下さると約束しておられるのです。そして、モーセへの約束は、私たち一人ひとりへの約束でもあるのです。 第一コリントの信徒への手紙1章27節から29節には、次のように記してあります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
 私たちは自分の弱さや足りなさを卑下する必要はないのです。あえてその弱さを通して神様は栄光を現して下さるのですから、神様に信頼していきたいと思うのです。

 ⒊助け手を与える
 モーセの口と共にあって神様が語るべきことを教えると言っておられるのにもかかわらず、モーセは言うのです。13節のカッコを共に読みましょう。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」 神様はモーセに約束としるしを与えられ、励まし続けてこられたのに、他の人をというモーセに神様は怒られ言われました。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。」口が重く舌も重い。だから他の人を遣わして下さい、と逃げ腰になっているモーセに神様は兄弟アロンがいること、そして彼が雄弁であること、その彼がモーセに会おうとして来ていることを告げるのです。あなた一人ではない。助け手があるということを示されました。ここからモーセとアロンの二人三脚の旅が始まるのです。15節、16節を共に読みましょう。「彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」
 アロンは、モーセと同じように敬虔な両親のもとで宗教教育を受けたでしょう。しっかりとした信仰があったと思います。けれども、モーセのように、最高の学問も学ばなかったし、人の上に立つという経験もなかったでしょう。荒野での40年の羊飼いの経験もなかったでしょう。イスラエルの人々をエジプトから導く指導者となるための十分な訓練も資格もなかったでしょう。けれども、アロンの雄弁という賜物をモーセのために用いられるのです。神様はモーセの口となるというだけではなく、アロンの口と共にあり、なすべきことを教えると約束されたのです。アロンもモーセと同じように、神様によって用いられる器となったのです。
 けれども、二人は同じ働き、同じ役目ではありませんでした。アロンはモーセの兄でありましたが、アロンの働き、役割というものは、あくまでもモーセに仕えることだったのです。神様はモーセに語られ、モーセは神様から語られた言葉をアロンに告げて、アロンが民に語るという順番でした。神様がモーセを飛び越えてアロンに語るということはなかったのです。ですから、アロンはモーセの口の代わりとなり、モーセは神様の代わりとなったのです。
 ヘブライの習慣では、普通、重んじられるのは長男です。長男であるかどうかは大切なことです。ですから、年上のアロンが弟のモーセに従う、仕えるということは大変なことだったと思います。しかし、神様が定めたこの順序というものは、アロンに謙遜を要求するものでした。アロンが謙遜である限り、二人の関係は問題なく進んだのです。私たちは、誰の助けになれるでしょうか。
 私たちは、人間の常識の関係で生きています。けれども、神様の示される関係はまた違うのです。兄が弟に仕える。上のものが下のものに従う。強い者が弱い者に従う。経験ある者が経験のない者に従うのです。私たちはどうでしょうか。そのためには謙遜が必要なのです。この謙遜の模範はイエス様です。神であるお方が僕に、奴隷になられたのです。十字架の上に罪人になられたのです。神であり、聖い、罪のないお方が罪ある者、汚れた者の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、私たちの罪の赦しがあるのです。これが、神様の導かれた順序、秩序だったのです。それにイエス様は十字架の死に至るまで従われたのです。

 Ⅲ結論部
 17節を共に読みましょう。「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」 神様は、モーセがいつも使用していた杖を示されました。何か特別なものではありません。誰が見てもただの杖です。キラキラ輝く剣や槍ではないのです。神様は、モーセが40年間羊飼いとして働いてきたその杖を通して用いられるのです。神様は、私たちが与えられたその働きやなすべきことを忠実に、あるいは平凡にしていたことを主の働きの為に用いられます。ですから、私たちは今与えられている所で、与えられていることを精一杯したいと思うのです。会社員は会社員として、主婦は主婦として、学生は学生として、何もできないという状況ならば、何もできないという状況の中で、父として母として、夫として、妻として、親として、子として、置かれた状況で立場で精一杯のことをしていきたいと思うのです。そして、神様が声をかけられたら、口下手であろうが、何ができなくても、神様の約束に立ち、神様に信頼して歩ませていただきたいと思うのです。
 また、モーセは自分はイスラエルの人々には信用がないかも知れないと言いましたが、神様はモーセを信用して下さいました。神様は私たち一人ひとりを信頼し、信用して神の国のみ業のために私たちを用いて下さるのです。私たちは自分を見ていては何もできません。自分にはできないからこそ、神様に、イエス様に信頼を置くのです。
 今、新しい何かを踏み出そうとしておられる方々がおられるかも知れません。恐れがあるでしょう。不安もあるでしょう。今のままのほうが安心でしょう。安定した生活を壊したくない。環境を変えることの不安があるでしょう。しかし、神様に信頼し、神様に聞いて従う時には、神様の大きな恵みを体験するのだと思うのです。
 自分にはできない。荷が重過ぎる。誰か他の人をと私たちは思います。しかし、神様はあなたにその働きをと願っておられるのです。何も心配はいりません。神様の前には、神様と共にある人生には、何の問題もないのです。そして、あなたに最もふさわしい助け手を与えて下さるのです。
 神様はあなたに語られます。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたをささえる。」(イザヤ41:10)  「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:19)
「わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と」(イザヤ49:23)
「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」(イザヤ51:6)
「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
この週も、聖書のみ言葉に信頼して歩んでまいりましょう。
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8月19日礼拝メッセージ

2007-08-19 15:18:57 | Weblog
           主日礼拝(三位一体後第十二主日)    2007.8.19
             「わたしは何者と問うな」 出エジプト3:1-12


 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。8月の第一主日の礼拝では、クーラーが故障して大変な暑さの中での礼拝でした。12日には末吉貞雄先生が御用をして下さる予定でしたので、クーラーの事がとても気になりました。けれども、神様の導きの中で、クーラーの故障もなおり、先週はクーラーが無事動いたとお聞きして胸をなでおろしました。末吉先生のメッセージも10ヶ月間のブランクを感じさせないメッセージであったとお聞きして、うれしく思いました。本当に、痛みと苦しみを経験された末吉先生ならではの、深い深い霊的なメッセージでした。続けて末吉先生ご夫妻のために祈っていきたいと思います。
 私は、先週は九州地区のバイブルスクールでの奉仕、母教会での教会学校と礼拝でのお話しをさせていただきました。また、昨日まで関東地区ティーンズキャンプがあり、恵みのうちに終えることができました。皆さんのお祈りに感謝致します。また、夏のお休みをいただいて、子どもたちは海にプールにと真っ黒になりました。私もかなりいい色になっていると思います。
九州のバイブルスクールは、熊本県の山奥深い、かつて小学校であった場所がキャンプ場になっている所でありました。最近は、中高生はほとんど携帯電話を持っていると思いますが、その場所では電波がなかなかつながらない所でした。私は、auという携帯電話なのですが、一番電波がいいようです。けれども、やはり電波がある所ではつながり、そこから離なれるとつながらないという状況でした。私たちと神様との関係も同じだなあと思いました。神様は電波ではありませんが、いつも恵みを注いでおられます。その恵みを自分のものとするためには、神様とつながるためには、神様とのチャンネルが合っていないとその恵みを受けることが出来ない。神様と直接つながらないのです。
 今日、皆さんは神様とのチャンネルが合っていますか。神様の電波、恵みが届く状態にありますか。私たちは、神様にチャンネルを合わせて礼拝をささげたいと思うのです。
 関東ティーンズキャンプの講師は、世田谷にある玉川聖学院の学院長であるバーナード・バートン先生でした。先生はメッセージの中で、私たちクリスチャンは神様を信じるというだけではなく、神様を仰ぐ、神様を認める。神様に従うことが大切だ、と語られました。なぜなら、悪霊でもイエス様を神様と信じているから。悪霊もイエス様を神様と認めているのです。私たちは、信じることだけではなく、神様を仰ぎ、神様に期待し、神様に従う者でありたいと思います。
 今日、私たちの教会に与えられました聖書の箇所は、出エジプト記3章1節から13節までです。今日は、「わたしは何者と問うな」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈逃げ出したモーセ
 8月の第一主日礼拝では、モーセの誕生についてお話ししました。モーセは大変な時に誕生しました。男の子ならナイル川に放り込めという状況で生まれたのです。両親の信仰と姉の知恵と勇気、何よりも神様の絶妙なタイミング、モーセが籠に入れられたその場所に王女が水浴びに来て、そこでモーセが見つけられ、何とモーセは実の親に育てられながら、母親が手当てをいただけるという神様の驚くべき導きでした。モーセは幼い時に、両親の元で育てられ、イスラエルの神様について、信仰について徹底的に教えられたのです。そして、王女の子どもとなり、エジプトで最高の学問を学ぶことになるのです。神様の大きな計画、やがてイスラエルの人々を導く者として、エジプトで最高の学びが出来るように神様を王女を用いられたのでした。
 モーセは成人(40歳)しました。自分はエジプトの王子でありながら、ヘブライ人であることを知っていたでしょう。ですから、同胞のヘブライ人がエジプト人に打たれているのを見て、そのエジプト人を殺して埋めたのです。次の日、今度はヘブライ人同士が争っている所へモーセが仲裁に入ると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか。」と言われて、モーセは恐れてミディアンの地に逃げたのです。 
 モーセの両親は、男の子なら殺せという命令に従わず、三ヶ月の間隠していました。それは、生まれたばかりのモーセが「神の目にかなった子どもであったので」と聖書にあるとおりです。やがて、この困難からヘブライ人を救うために、モーセは選ばれた者だと両親が確信したからです。ですから、幼いモーセにこのことをよく話して聞かせたでしょう。「おまえはやがて神様のために働くために生まれたんだよ!」と。ですから、モーセ自身もそのことを自覚していたでしょう。だから、エジプト人に打たれているヘブライ人を助けるために、エジプト人を殺したのです。モーセは感謝されると思っていました。自分をリーダーだと認めてくれるものだと思っていたでしょう。けれども、「お前は何様だ!」と否定され、誰にも分からないように殺したつもりがバレていたのです。
 神様は勿論、モーセを選ばれたでしょう。けれども、モーセは自分で勝手に思い込んで、神様の導きよりも自分の考えで、判断で行動してしまいました。人を殺すということは神様のお喜びになることではありません。おそらく、突発的な、衝動的なことだったでしょう。けれども、自分は神様に選ばれているのだから、何をしてもいいというものではありません。短気や怒りによる処置や、性急な方法は人にも神様にも受け入れられないものだと思います。私たちは神様に聞くことなしに、従うことなしに、導きなしに、神様の業をすることは絶対にできないのです。
 モーセは信仰的にも、人間的にも、学問的にも素晴らしいものをもっていたでしょう。整えられていたでしょう。けれども、まだまだ学ばなければならないこともあったのです。まだ、神の時ではありませんでした。どんなに環境が整ったと思えても。学びが十分出来たと感じても。全てが整ったかに見えても、神様のGOサインが出なければ何もできないのです。
 彼はミディアンの地で結婚し、家庭を持ち、羊飼いとして長い間(40年間)暮らすのです。この経験が必要でした。エジプトの最高の学問と実際のミディアンの地での生活、生活の知恵、経験が必要でした。
 2章23節、から25節を共に読みましょう。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」
 神様は時を支配され、全ての状況を知っておられるのです。神様が御心に留められたのです。神様の時が来たのです。私たちも、環境や状況によって、自分勝手に進むのではなくて、神様の導きに従いたいと思うのです。

 ⒉見ておられる神
 前置きが長くなりましたが、3章です。モーセはしゅうとのエテロの羊の群れを飼い、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来ました。そこで不思議な光景を見ました。2節の後半で、「彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」とあります。出てきましたね。
「見よ」が。2章6節で、口語訳聖書でしたが、「見よ、幼な子は泣いていた。」とありました。
 3章3節をご一緒に読みましょう。「モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きおないのだろう。」」 普通なら、常識なら燃え尽きてしまう柴がなくならない。どうしてか知りたい。見たいとモーセは思いました。神様は道をそれて見に来るモーセを見られました。そして、声をかけられたのです。神様が初めてモーセに声をかけられました。モーセはもう40年も前の事、自分がイスラエルのために神様に選ばれた者だということをもうすっかり忘れてしまったでしょう。長い羊飼いの生活、このままおそらく羊飼いとしてミディアンの地で最後を迎えるだろうと思っていたかも知れません。そのような状況の中で神様はモーセに語りかけるのです。モーセには、ミディアンの地での40年が必要でした。モーセはミディアンで、霊的な指導力、忍耐、円熟、神様のみ心に従っていく意志力を培ったのだと思うのです。
 ティーンズキャンプで講師のバートン先生が、メッセージの中で何度も何度も言われた言葉がありました。それは、「神様の祝福、約束は私たち人間の何かではない。良い行いや環境や状況ではない。」このような内容の言葉を何度も語っておられたことを記憶しています。モーセが神様の選びを放棄したような状況、何の変わりもない日常生活を送っていたモーセに神様は語るのです。
 5節をご一緒に読みましょう。「神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」」
柴が燃えているのに燃え尽きないという不思議な光景を見たい、その理由を知りたいというモーセの好奇心を神様は用いられました。しかし、その場所は、神様がおられる聖なる場所でした。足から履物を脱げというのは、しもべであることを受け入れる、自覚することを意味しているようです。しもべ、奴隷は履物を履いていないからです。また、聖なる場所では履物を脱ぐという習慣がありました。神様を聖なるお方と認め、そのお方のしもべとして自分を認めることを神様がモーセに求められたのだと思うのです。私たちも、この礼拝の場所は神様が臨在される聖なる場所であることを認め、一人ひとりが神様のしもべであるという自覚を新たにしたいと思うのです。
 9節をご一緒に読みましょう。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。」 神様はイスラエルの苦しみを見ておられました。
彼らの痛みを知っておられました。エジプト人がどんな悲惨な事をしたか見ておられました。
 私たちも神様を信じていても、苦しみや悲しみ、痛みを経験します。神様は私の苦しみを知っておられるのだろうか、私の悲しみを痛みを見ておられるのだろうか、と問いたくなることがあります。知っていたら、見ていたら、状況を変えて欲しいと誰もが思います。けれども、何も起こらない。何の変化もない。イスラエルの人々もそうだったでしょう。しかし、神様はイスラエルの叫び声を聞いておられたように、私たちの叫びも聞いておられます。その叫び声が神様のもとに届く時があるのです。私の苦しい有様を見ていて下さるのです。
 九州、関東のキャンプで何度も歌いました。「父の涙」という歌があります。その2番の歌詞は、「父が静かに 見つめていたのは 愛するひとり子の傷ついた姿 ひとの罪をその身に背負い 「父よ 彼らをゆるしてほしいと」」  十字架につけられたイエス様の叫び声を父なる神様は聞いておられました。その苦しみを痛みを見ておられたのです。あなたの苦しみも神様は知っていて下さるのです。そのことを忘れないでいたいと思うのです。

 ⒊必ず共にいる
 10節を共に読みましょう。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 40年前のエジプトでの光景がよみがえったモーセだったでしょう。エジプトでは、イスラエルの人々が苦しんでいる。かつて、その苦しんでいるヘブライ人を助けたこともあった。しかし、理解してもらえなかった。神様は、イスラエルの苦しみを忘れてはおられない。イスラエルの人々の叫びが神様に届いた。神様はエジプト人の圧迫の有様を見られた。だから、今行けとモーセに語られました。今がその時だと言われるのです。神様がエジプト王ファラオのもとにモーセを遣わすというのです。ある意味では何の準備もない状態でした。イスラエルの人々をエジプトから導き出すための準備は何もしてはいない。そのつもりで、その予定でこの40年間を生きてはいない。過去の失敗もあった。だから、モーセは神様に答えるのです。11節のカッコを共に読みましょう。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 リビングバイブルには、「そんな大それた仕事など、とても私には。」とあります。 「わたしは何者でしょう。」という表現は、自分にはそんなことはできない、という否定的な思いの現れだと思います。神様を見ないで自分自身を見ているのです。自分の弱さや足りなさ、否定的な面を見ているのです。これは、自分が取るになりない者であることを自覚し、自分の弱さを認め、自分には力がないことを認めて神様に信頼するということとは違うことです。モーセはかつての失敗を恐れていたのでしょう。エジプトの王子として、学問を納め、品格においても、人物、信仰、何をとっても文句のつけどころのないかつての自分には自信があったでしょう。しかし、神様はそんなモーセを用いることはなさらなかったのです。何の地位もない、名もない、誰も知らない場所で、ただ、羊の群れを飼うという仕事を忠実に40年間続けてきた普通の労働者に神様は声をかけました。今のモーセには何の力もない。自信もない。気力もない。「今さら、そんな大それたことなどできっこない。」これが、モーセの正直な答えでした。 
 私たちはどうでしょうか。どっぷりとこの世につかり、会社人間、主婦の生活、老後の人生、神様のためには何も出来ない。力もない。時間もない。能力もない。自信もない。そんな自分に何ができるのでしょうか。しかし、神様の計画はまた違うのです。環境は関係ないのです。状況も関係ないのです。神様はモーセに語られたように、あなたに語っておられるのです。
 神様は言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。」  自分の事しか見えない、自分の弱さ、失敗にしか目が行かないモーセに、モーセと共にいることを語られたのです。人間の無力さや失敗の経験は、神様の前には何の妨げにもならないのです。大切なことは、神様が遣わされ、神様が共におられるかどうかなのです。神様が共におられることこそ、最高の祝福なのです。パウロは自分の病気が癒されるように祈りました。その時の神様の答えはこうです。リビングバイブルの訳ですが、「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(Ⅱコリント12:9)
 モーセと共におられた神様は、私たちとも共におられるのです。そして、助け導いて下さるのです。だから、「私は何者でしょう」と問う必要はないのです。「私は何者でしょう」と言っている間は、自分に固執しているのです。自分を見ている限り、神様のみ業を見ることは困難だと思うのです。

 Ⅲ結論部
 「わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れる」と神様は語られました。モーセは失敗を経験し、最も弱い人間として歩んでいたでしょう。そのモーセに神様は現れて下さいました。私たちの信じるイエス様こそ、最大の苦しみ、全人類の罪の為に十字架で身代わりに死んで下さいました。その弱さの中にこそ、神様の力が現れました。十字架の死の中に復活があったのです。
 私たちは、「私は何者でしょう。」と問うのではなく、自信もない、力もない、知恵もない、能力もないことを認めて、だからこそ助け主であるイエス様に信頼するのです。神様の祝福は私たちの環境や状況に関係ないのです。私たちは、イエス様が共におられることを最大の喜びとして、今週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。
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8月5日礼拝メッセージ

2007-08-05 16:44:47 | Weblog
         主日礼拝(三位一体後第十主日)       2007.8.5

          「あなたを守る神」 出エジプト2:1-10

 Ⅰ導入部
 おはようございます。8月の第一主日を迎えました。7月も神様の守りのうちに過ごすことができました。8月に入り暑い日が続いておりますが、8月の月も神様に支えられて夏の歩みをしっかりとさせていただきたいと思います。
 8月は旧約聖書の出エジプト記からモーセについてともに見させていただきたいと思います。今日は、出エジプト記2章1節から10節を通して「あなたを守る神」と題してお話しさせていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈モーセの誕生
 モーセは、レビ家のアムラムとヨケベドによって誕生しました。子どもの誕生は、その両親にとって、家族にとっては大きな喜びです。私自身も家内のおかげで5回も、その喜びを経験させていただきました。旧姓田代道子姉、青木道子姉夫妻に8月1日、女児が与えられました。出産時にはいろいろ大変で帝王切開でお産みになりました。子どもを産むというその大事業を終えられました。大変だったことでしょうけれども、お二人にとっては、その喜びもひとしおでしょう。やがて、実家に帰ってこられると思いますので、赤ちゃんに対面できることだと思います。
 しかし、モーセの誕生した時は大変な時代でした。イスラエルの民が、エジプトで増加し、その強さにエジプト王ファラオは、妊婦が子どもを産んだとき、男の子ならナイル川に放り込み、女の子は生かしておくように、という命令を出したのでした。アムラムとヨケベドは、誕生した赤ちゃんを見て、かわいかったので、三ヶ月の間隠していたのです。両親にとって、自分の子どもは誰もがかわいく写ります。自分の子どもと誰かの子どもが並んでいると自分の子どもがかわいいはずです。それが親です。モーセの両親もその子のかわいさのゆえに、ナイル川に放り込むことなんてできませんでした。放り込まなければ、両親さえも、家族さえも命が危ないというような命令であったでしょうけれども隠していたのです。かわいいとは、どの親も同じですが、アムラムとヨケベドはまた違うものをもっていたと思います。現代訳聖書には、「神の目にかなった子どもであったので」とあります。
 神様を信じるイスラエルの民、ヨセフの時代には守られたけれども、ヨセフの知らない王が出現してイスラエル民族は奴隷として苦しんだ。また、厳しい命令の故に多くの両親が嘆きながら生まれたばかりの男の子をナイル川に投げ込んだでしょう。そのような困難な時、アムラムとヨケベドは、生まれたわが子が、かわいいという以上に、この子が神様の目にかなった子として、やがてイスラエルを救う神様の器として見ることができたのだと思うのです。だからこそ、命をかけて三ヶ月の間隠していたのだと思うのです。
 生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声は、小さくても段々と大きくなります。赤ちゃんの仕事は、泣くことですから、昼も夜もありませんから、現代のように紙おむつや哺乳瓶もありません。おしっこをしたら泣き、おなかがすいたら泣きと隠しきれるものではなかったのでしょう。両親は、神様の守りがあることを祈りつつ、わが子をパピルスの籠に防水処置をして、ナイル川河畔の葦の茂みの間においたのです。誰かが拾ってくれるように祈りながら置いたのです。そして、姉のミリアムをお目付け役として様子をうかがわせていたのです。わずか、三ヶ月のわが子を手放す両親の痛みはどれほどだったでしょうか。
 親はいつかは、子どもを自分の手から離さなければなりません。手元におきたいという願いはわかりますが、それがかえって問題となっていることがあるかも知れません。子どもにとって親である者は、自分が一人で育てるのではなく、神様の守りと助けの中で子どもたちを育てることができるのだと思うのです。子育ての鍵は神様への信頼だと思うのです。また、与えられた子どもたちを神様の目にかなった子としてとらえ、育てることが大切なのだと思うのです。

 ⒉その問題が問題でない
 さて、ナイル川湖畔の葦の茂みの間に置かれた赤ちゃんはどうなったかというと、なんとその置かれた場所の近くに、ファラオ王の娘、王女が水浴びに来たのです。そして、王女が葦の茂みの間にある籠を見つけました。その籠を取ってこさせて開けてみると、赤ちゃんが泣いていたのです。6節には、「開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。」とあります。両親のもと、特にお母さんから引き話されて心細く、泣き続けていたでしょう。その泣き声が聞こえていたのでしょう。
 姉のミリアムはじっと状況を見守っていました。王女の父ファラオ王はヘブライ人の男の子はナイル川に放り込め、つまり殺せという命令を出したひどい人物です。その娘ですから、父と同じように残酷な王女かも知れません。子どもが嫌いな人かも知れません。自分の弟が王女にみつかって、固唾(かたず)を呑んで見ていたでしょう。聖書は、王女の心を「ふびんに思い」と記しています。現代訳聖書では、「かわいそう」、新改訳聖書では、「あわれに」という表現をしています。ギャーギャーと泣いている男の子を見て、ふびんに思ったのです。なんとかしてやりたいと思ったのでしょう。母性本能をくすぐられたのかも知れません。その王女の様子を察したミリアムは、王女の下へ急ぎ、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」と声をかけたのです。何とかしてあげたいと思っている時に、そのように言われて、「そうしておくれ」と王女は頼んだのです。神様の憐れみ、恵みでした。いや、両親の、家族の祈りの結果だったと思います。また、姉ミリアムの勇気と信仰が用いられたのだと思うのです。
 アムラムとヨケベドは、わが子の大きな泣き声のゆえにナイル川湖畔に置きました。手放さざるを得なったのです。辛い選択でした。しかし、ファラオの娘、王女に拾われたわが子の大きな泣き声のゆえに、王女に「ふびんな思い」、何とかしてあげたいという思いを与えたのです。両親が困ったと思った泣き声が、その泣き声のゆえに、わが子を助けたのです。問題がかえって助けとなったのです。それはまさに神様の業なのです。口語訳聖書は、6節を「見よ、幼な子は泣いていた。」とあります。神様は、泣いている赤ちゃんを見ておられたのです。守っておられたのです。泣き声のゆえに、捨てなければならなかった赤ちゃんを泣き声のゆえに助けられたのです。
 どうでしょうか。神様は問題を問題で終わらせるお方ではありません。どうしようもない問題が一つや二つはあるでしょう。けれども、その問題の故に、神様は驚くべきみ業を行われるのです。それが神様なのです。いや、もっと素晴らしいことをなさるのです。
 姉ミリアムは乳母を呼んできます。乳母とは誰ですか。当然、この子のお母さんヨケベドです。9節を御一緒に読みましょう。「王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ」 お母さんがわが子を育てるのに手当てをもらえるようになりました。勿論、男の子であっても王女のお墨付きがあるので、正々堂々と育てることができたのです。自分の子どもを育てるのに、手当てをもらえる母親がいますか。日本のどこにもそのような制度はありません。けれども、神様はそのような制度を作られました。アムラムとヨケベド、家族は手を取り合って喜んだことでしょう。神様は何と素晴らしいお方だと讃美したことでしょう。祈りを聞いて下さる神様をさらに信じる信仰が与えられたでしょう。今までよりもさらに信仰が増した両親は、この子に神様のこと、神様の素晴らしさ、神様を信じることの大切さを教えたはずです。この子は、しっかりと宗教教育を受けてから、王女のもとへ連れて行かれて、王子としての学びをするようになるのです。 この幼い時に受けた宗教教育、神様を信じることがやがて、神様の器となるモーセの原点なのです。私たちも、子どもたちにイエス様の十字架と復活、神様を信じることの素晴らしさを語り伝えたいと思います。そのためには、まず、私たちがその経験をしていなければなりません。

 ⒊必ず助けて下さる
 10節をご一緒に読みましょう。「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げたのですから。」」 神様はモーセを守られました。生まれたばかりの赤ちゃん、自分からは何もできない弱い赤ちゃん。守ってもらわなければどうしようもない最も弱い、小さな赤ちゃんは、両親に守られ、姉に守られ、ファラオ王の娘、王女に守られました。神様は、人を守るために、人を助けるためには、また人を用いられます。その人々の背後には、勿論神様の守りと導きがあるのです。その人々の心を知っておられ、心の思いすら用いられるのです。
 モーセの両親の信仰を用いられました。普段から、神様に祈り、神様に信頼している両親は、困難を経験しても神様を頼りました。状況がどんなに悪くても投げ出したりはしませんでした。神様は二人に、「神の目にかなった子どもであったので」という思い、信仰を与えられました。三ヶ月の間、両親は努力しました。しかし、人間の努力には限界があります。けれども、神様は助け手を与えます。それは、苦しみの根源、ファラオ王の娘、王女でした。敵とさえ見える王女を用いられました。その心に、「ふびんに思い」という思いを与えられました。子どもができなかったのかも知れません。理由はわかりませんが、その赤ちゃんが泣いているのを見て、何とかしてあげたいと思ったのです。それ以上に、絶妙のタイミングです。モーセが置かれた場所のすぐ近くに王女を導かれました。おそらく、王女の水浴びは、習慣的なものではなかったと思います。いつ水浴びするかは誰もわからない。神様はその時を知っておられたのです。
 姉ミリアムも弟のためにがんばりました。両親がかわいいと思った以上に、姉ミリアムもモーセを見てかわいいと思い、これから両親の手から、家族の手から離される赤ちゃんを助けたいと思ったことでしょう。ヘブライ人がエジプトの王女の前に出ることはとても勇気のいることでした。でも、ミリアムは、王女に「そうしておくれ」と言わせるほど、真実に、一生懸命に頑張ったのです。神様はモーセを助けるために、また、モーセをイスラエルの指導者とするために、人を用いたのです。この出来事は、聖書の中だけのことではありません。21世紀を生きる私たちにも起こるのです。
 私たちは神様を信じていても苦しみがあります。人間の決めた制度の故に苦しむこともあります。自分の問題で苦しむこともあります。家族の問題もあるでしょう。信仰の問題があるかも知れません。神様を信じたら、苦しみは何もないと聖書には書いてありません。しかし、神様は私たちを守って下さるのです。その問題に解決を与え、助けて下さるのです。今の、その問題が問題で終わらないのです。かえって、ダメだと思うことすら用いて、祝福に変えて下さるのです。また、神様は様々な人を用いて助けて下さいます。たとえ、敵だと思える人さえ用いるのです。神様に出来ないことはないのです。
 神様は、私たちの罪の問題に解決を与えて下さいました。私たちの努力やがんばりで、自分の罪をなくすことはできません。神様が私たちを愛して下さり、イエス・キリスト様をこの地上に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったことにより、私たちの罪を赦して下さったのです。罪赦されて神様と共に人生を歩くことが出来るようにして下さったのです。この神様は私たちを愛するが故に、私たちを守って下さるお方なのです。

 Ⅲ結論部
 モーセは危機的な状況の中でこの世に生を受けました。生まれた後、すぐに死ぬべき運命を背負って生まれてきました。けれども、その両親の信仰はすばらしいものでした。人を恐れないで神様を畏れました。神様を見上げてわが子を三ヶ月育てました。そして、神様に全てを委ねました。そして、ファラオ王のとんでもない命令を王の娘を通して救われたのです。神様は人間の悪意さえもはるかに超越して、ご自身のみ業をすすめられるのです。ファラオ王にとっては皮肉な結果でした。彼はヘブライ人の男の子を殺して勢力を弱めようと企てましたが、自分の娘とイスラエルの指導者となるモーセを引き合わせることになったのです。そして、自分の娘がモーセを育てることになったのです。しかも、自分の足元のエジプトの宮廷の中で、モーセはやがての時のためにしっかりと学ぶことになるのです。
 今困難がありますか。神様はあなたを守られます。苦しみがありますか。神様は必ず助けて下さいます。独り子イエス様を十字架で釘付けするほどに、私たちを愛しておられるのです。その神様はあなたを必ず守って下さるのです。この神様を疑わないで今週も信じていきたいと思うのです。だからこそ、この週も、み言葉に触れて、神様に祈るという基本的な信仰の歩みをさせていただきたいと思うのです。
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