江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2014年3月23日)

2014-03-23 13:29:24 | Weblog

日曜礼拝(受難節第三)      2014.3.23

歴史に残る愛の行為」 マルコ14:3~9

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。3月第4日曜日になりました。3月の第二日曜日は渡辺神学生がメッセージして下さり、第三日曜日は後藤神学生がメッセージして下さいました。久しぶりのメッセージです。

 今日、皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。

 青葉台教会創立45周年トルコ旅行のために、お祈りを感謝致します。10名無事に、多くの恵みをいただいて帰ってまいりました。3月9日は、トルコで、午前3時45分から私も共にユーストリームを通して、青葉台教会の礼拝にあずかることができました。世界のどこにいても、青葉台教会の礼拝を共に守ることができるということは本当に幸いなことです。

 3月6日の木曜日から13日の木曜日まで、8日間の旅でありました。山田兄の西遊旅行会社を通しての旅行で、山田兄がいろいろとご配慮下さり、気を配って下さいました。普通のツアーでは絶対に体験できない有意義な旅行でした。

 今回は、ヨハネの黙示録に見る7つの教会を見るツアーでした。ヨハネの黙示録に7つの教会が出てきます。エフェソにある教会、スミルナにある教会、ペルガモンにある教会、ティアティラにある教会、サルディスにある教会、フィラデルフィアにある教会、ラオディキアにある教会の7つの教会です。

 それぞれに教会の跡や神殿の跡等があり、そこに歴史を感じました。7つの教会の中で、ティアテラの教会の跡は、ただの山と言うか特別な神殿跡や教会跡などが何も残っておりませんでしたが、何もないということが、私にはまた、歴史を感じさせられました。確かにかつては、大きな神殿や教会があり、そこで神様を礼拝した。礼拝してきた事実がある。しかし、神を礼拝するとは建物ではないということを実感させられた次第です。

 エフェソでは、アルテミス神殿があり、豊穣の神として祭られ、使徒言行録でもパウロが、エフェソに行き、アルテミス信仰の故に、暴動に巻き込まれるという記事があり、当時のアルテミス信仰の繁栄や大きさを、その遺跡等で垣間見ることができました。

 パウロは、エフェソに伝道の基点を置いて伝道しました。また、ヨハネもエフエソで晩年を過ごしたようです。十字架の上からイエス様に母マリアを母としてよろしくと言われ、ヨハネはマリアを母親として仕え、エフェソでマリアの面倒を見たようです。このエフエソには、聖ヨハネの教会、そして、聖マリアの教会がありました。また、聖マリアの家は、山の上にあり、ひっそりと晩年を暮らしたようです。ヨセフとイエス様、マリアの家族はイスラエルのナザレの町で生活をしましたが、エフエソにあるマリアの家も、ナザレの町と同じように、山の上にありました。マリアの家に行く上り道を登りながら、「ああ、マリアアはナザレ町と同じ、山の上を選んだのかなあ」とも感じました。マリアの家にも多くの人々が訪れていました。

 ヨハネの黙示録にある7つの教会を巡り、最後はローマのバチカンに行きました。山田兄に、どうしてもバチカンに行きたいので、ローマもお願いしますと無理を言って計画していただきました。レオナルド・ダビンチ空港に降り立ち、バスでローマの市内へ。町全体が芸術で飾られているような町、美術館にあるような絵画が、家の壁に描かれていたり、いろいろな彫刻があちらこちらにあり、ローマの町に魅せられてしまいました。

 また、バチカンは本当にローマカトリックの総本山、ミケランジェロが絵描いたシスティーナ礼拝堂の壁画等やサンピエトロ(聖ペトロ)大聖堂は、キリスト今日の歴史を強く感じさせられました。絵画や彫刻に描かれたイエス様や母マリア、弟子たちの姿が信仰を示し、エルサレムへと思いが募りました。大聖堂の中で、何度か十字を切り、カトリック信者になってしまいしそうな、そんな感じがするほどの体験でした。

 半日のローマでも感激の連続でしたので、今度はローマだけの旅行があってもいいかなあ、と感じました。

 また、イースターの愛餐会の時、トルコ旅行の証の時を持たせていただきたいと思っています。また、月報に参加された方々の感想文も記載されると思いますので、ご覧いただければと思います。また、旅行のお話しは、少しずつさせていただきたいと思います。皆さんのお祈りに心から感謝致します。

 さて、受難節第三日曜日に備えられた聖書の個所は、マルコによる福音書14章3節から9節です。「歴史に残る愛の行為」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、あなたの所にもイエス様は来る

 3節には、イエス様がベタニアの重い皮膚病の人シモンの家にいた、と記されています。

重い皮膚病とは伝染病であり、普通の人々とは共に生活できない人々でした。ですから、シモンの家には、おそらく同じように思い皮膚病をわずらう人々やそれに似た症状の方々がおられたのではないかと思うのです。

 普通なら、常識人なら、そのような場所には絶対に行かない場所です。その場所にイエス様は行かれるということです。その場所が、一般の人、常識人、普通の人が行かないと思われる場所、困難や痛みや悲しみのある場所、そこにイエス様は来て下さるのです。

 私たちは、自分と違うものを持つ人々とはあまりかかわらないような気がします。特に、クリスチャンの人々は、相手がクリスチャンであると安心し、そうでないと警戒すると言った感じです。クリスチャンの医者や看護士、クリスチャンの弁護士や会計士等、クリスチャンの介護士なら心許せるというようなものがあるように思います。しかし、それはこの日本では少ないです。そして、クリスチャンでなくても、いい人はたくさんいますし、クリスチャンより良い人はたくさんいるのです。

 日本ではクリスチャンは少ないですから、どこかでクリスチャンに出会うと安心感があるのは間違いないですが、クリスチャンでないからとがっかりすることはありません。私たちは、クリスチャンである私を通してイエス様を証したいと思います。

 竹内みゑ子姉は、お体の都合で礼拝に来ることはできません。礼拝の説教の原稿は読んでおられます。竹内姉のところには、介護の方が2名来られるようです。その方々に、姉妹は、「教会はいいですよ。聖書はいいですよ」と、証しておられる。また、いろいろな読み物を紹介したり読んでいただいたりしていて、その介護の方々が、キリスト教の文章に感動したり、教会に行って見たいという思いになられているとお聞きしました。素晴しいですね。自分の生きる生活の場で、本当にイエス様を信じてよかったと輝いて、語る姉妹の言葉に力があるのだと思うのです。イエス様がそこにも共におられることを信じます。

 私たちの生活の場、そこにはいろいろな困難があるかも知れない。罪や弱さがあるかも知れない。しかし、そこにもイエス様はおいでになるのです。共におられるのです。

 

 二、人の評価とイエス様の評価

 シモンの家にいたイエス様に、ある女性が純粋で高価なナルドの香油の入った石膏の壺を壊し、香油を全部イエス様の頭に注ぎかけたのです。

 当時は、客人が家に到着した時や食事の席についた時、数滴香油をかける習慣があったようです。ナルドの香油は、特にインドから来た珍しい植物から作られる非常に高価な香油であったようです。

 当時の習慣の中には、死んだ人の体は水浴させ、それから油を塗り、香油のはいっていた壺が割られ、墓の中に死体と共にその壺の破片が残されたということがあったようです。

 この女性が、香油の壺を割ったということは、そのような事柄を意識しての事だったのかも知れません。

 普段は、数滴しか使用しない香油を、特に高価なナルドの香油を惜しげもなく、壺を割り、全部をイエス様の頭に注ぎかけたということは、彼女の大きな愛の行為でした。

 その愛の行為に、いちゃもん、文句をつけた人々がいたのです。

 4節、5節を共に読みましょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。」

 彼女の大判振る舞いに、あまりの贅沢さというか、後先を考えない香油注ぎにあきれてものが言えなかったのでしょう。なんともったいないことをするのかという彼女を責める気持ちでいっぱいになったのでした。憤慨したのです。怒り心頭なのです。

 イエス様の頭に香油を全部注いだことに、無駄使いと言いました。リビングバイブルには、「なんてもったいないことをする女だ。」とあります。なぜ、もったいないかと言うと、この香油は300デナリオン以上の価値があったからです。1デナリオンが1日の賃金と言われていますから、1日1万円をとして300万円以上の価値があったというのです。

1年分の給料分ということです。

 トルコ旅行をして、参加された方々もいろいろなおみあげを買われたと思います。そんな時も、やはり手持ちのお金と相談しながらの買い物になると思います。いいなあと思ったトルコ石も、その値段の故にあきらめるということが私には多くありました。

 300万円もした香油なら、最低1年間は使わないと、と計算して、ちびちび使うというのが私たちではないでしょうか。ですから、この憤慨した人々と同感という感じではないでしょうか。

しかし、イエス様の評価はまったく違うものでした。

三、無駄こそ最大の愛

 6節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

 こんな無駄使い、もったいないという人々に対して、イエス様は私に良いことをしてくれた、と言われたのです。良いこととは、8節のことです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

 今日の箇所である平行箇所にヨハネによる福音書12章1節から8節には、この香油を注いだのは、マルタの姉妹のマリアであることが記されています。マリアであるとするならば、マリアはいつもイエス様のおそば近くで、イエス様のお話しを熱心に聴いていた人物です。ですから、マリアは何が大切なことであるかはよくわかっていたでしょう。

 だから、300デナリオンの価値も当然分かって上で、そのような貴重な香油をそのように全部使ってしまうのが非常識とは承知の上で、あえて、彼女は全てをイエス様に注ぎかけたのでした。

 その表面の香油の高価さや金額を人々は見ていました。平行箇所のマタイによる福音書には、憤慨したのは、弟子たちとあり、ヨハネの福音書には、イエスを裏切るイスカリオテのユダとなっています。「貧しい人々に施すことができた」とありますが、弟子たちもユダも貧しい人々のことなんか、これっぽっちも考えていない。ただ、そんな高価なものを一度に使用してもったいない。そんなことするぐらいなら、私がもらってあげる的な、自己中心的な思いがそこにはあったのだと思うのです。

 私たちも表面的な言葉や行動だけを見て、その心や真実を見ないで自己中心的な考えで物事を判断してしまうことがあるのかも知れません。

 イエス様は、彼女の行いを出来る限りのことをしたと言われました。その精一杯の思いや心を理解して下さるのです。また、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた、とも言われました。

 イエス様が苦しめられることや十字架の話をしても、一向に理解しない弟子たち、イエス様の十字架を前にしての苦しみよりも、自分がいかにイエス様の側近になれるかどうかしか考えない弟子たちと違い、イエス様の十字架の話しをマリアも聞いていたでしょう。それがいつかは分からないけれども、その事を覚え、自分のできる時に、自分の精一杯のことをしたのでした。それが、結果的にイエス様の葬りの準備となったのです。そして、彼女の香油の注ぎかけは、世界中で記念として語り伝えられると約束されたのです。そして、それが実現しているのです。

 愛とは無駄であると言えます。神様は私たちを愛するが故に、イエス様をこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかけて、私たちの身代わりのあがないとされました。私たち罪深い人間のために、聖なるお方、罪のないお方、そのお方が犠牲になられたのです。こんな無駄なことはありません。私のような者のためにイエス様が苦しまれる。尊い血を流される。命をささげて下さった。それは最大の無駄であると思います。しかし、それがまさに愛なのです。愛ゆえの無駄であったのです。

 彼女のした事は、無駄に見えました。もったいないことだと責められました。しかし、その行為こそが、彼女の精一杯の行為であり、愛から出たことなのです。だからこそ、イエス様は、その行為を受け入れ、喜び、賞賛されたのだと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 トルコ旅行を通して、かつて栄えた時代の跡を見ました。繁栄し多くの建物や絵画や石造が作られた。しかし、それはやがて衰退し、時代の流れで変化していきました。その遺跡や残されたものが、その時代を見せてくれました。

 イエス様が、十字架にかかる前、弟子の誰もがそんな事は気に求めず、ユダにおいては、裏切りを計画し、弟子としての責任を果たせなかった時、一人の女性の精一杯の愛の行為が、イエス様の死を前にしてタイムリーな出来事となったのです。

 弟子たちの中に誰もイエス様の心を理解しない中で、ベタニアで、一人の女性、マリアが愛の行為、高価な香油をささげた。まさにイエス様の葬りの備えとなったのです。

 いつでもできること、今しか出来ないことがあります。そのことをマリアは知っていたのでしょう。私たちも、イエス様にお聞きしながら、聖霊様に導かれて、いつでもできることと今しかできない事を知り、愛を持って実行していきたいと思うのです。

 私たちは、自分のしていること、してきたことが無駄に思えることがあるかも知れません。でも、イエス様はその無駄の中にも、無駄に見える事柄の中にこそ、大切なものがあることを示しておられるのだと思います。

 私たちは愛する者のために、最大の無駄となられたイエス様の十字架を思い、死で終わることなく復活されたイエス様の恵みに立って、この週も歩ませていただきたいと思います。大丈夫。私はあなたと共にいる。私はあなたを愛している。私の愛で押し出されて、愛の行為を実践しなさい、と言われる主のことばに従い、今しかできない愛の行為をさせていただきたいと思うのです。

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