この交差点を右に曲がると東松島市に入る。
東松島市は2005年、「平成の大合併」で矢本町と鳴瀬町が合併して誕生した。
東名。
内部がすっかり破壊されたコンビニ。
この辺りの海岸を東名浜といい、潮干狩りの名所である。
わが家もかつて春に来て、アサリをバケツ一杯採ったことがある。
そのあと3日ほどアサリ料理が続いた。
震災直後の東名駅。
野蒜。
かつての住宅街はただの原っぱと化した。
野蒜小学校。
校舎の1階まで冠水した。
手前に仮設住宅が建つ。
左には凄惨な現場となった体育館がある。
仮設の隣りに郵便局の仮設もできた。
確かに近くに郵便がないと年賀状も出せないし、預金も下ろせない。
一帯には銀行、病院、スーパー、床屋、コンビニ・・・考えうるものすべてがない。
昇降口の校歌碑。
土台のコンクリートが新しいので、修復されたようだ。
震災直後の野蒜小学校体育館。
震災直後の体育館内部。
東松島市が避難場所に指定した野蒜小体育館には、地震の後、児童約60人を含め300人以上が避難していた。
体育館を津波が襲ったのは震災の発生から約1時間後の午後3時50分。
突然、がれきとともに黒い濁流がなだれ込んだ。
水位は一気に約3メートルまで上昇。2階観覧席のわずか10センチ下まで迫った。
児童らは全員2階に避難していたが、ピアノや跳び箱とともに住民が渦に巻き込まれる光景を見た。
2階にいた教師たちは、卒業式に備えて張っていた紅白幕を引きはがしてロープ代わりに投げ入れ、何人かを救出。
しかし10人ほどは浮いたまま動かなくなっていた。
2階は避難者ですし詰めだった。
ずぶぬれで救出された人の中には低体温症でそのまま息を引き取る人もいた。
窓の外はもの凄い吹雪だった。
ある主婦は荒波にもまれながらもステージのカーテンにしがみつき、一命を取り留めた。
「体育館を出るときは、床で亡くなっている人たちをまたいで逃げた。初めから(高い場所にある)校舎に逃げていれば…」と、言葉を詰まらせた。
主婦の言う通り、校舎の2階以上に避難していれば犠牲者は出なかった。
この小学校では、「津波の危険がある時はとにかく高い場所へ」という危機意識がなく、「避難所は体育館」という固定観念に支配されていた。
野蒜地区では、3月13日に200人以上の遺体が発見された。
そのうち50~60名はこの体育館で発見されたものだ。