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続・経済という幻想

2008年12月12日 15時22分16秒 | 経済関連
昨日の続きです。

資本主義経済というものは、元から幻想によって成り立っているシステムであり、幻想であるが故に誤って膨張してしまう部分がある。常に「新たな仕事」を供給し続けることができない限り失業を生み出すことになってしまうので、社会の摩擦が大きくなってゆくだろう。摩擦力の大きなものは、金銭的不満が募ってゆくことによる犯罪増加・暴動・排外主義や平等(全体?)主義的傾向・嫉妬や怨嗟・貧困援助コストの増大、等々であろうか。多くの先進国において、仕事の供給が追いつかないことによる高い失業率というものが見られてきたのではないかと思う。それは社会を不安定化させる重大な要因ではないか。


日本においても、これまで存在していた幻想のような部分は、悉く打ち砕かれてきてしまったのではないかと思う。人間って、ある程度バカである必要があり、全て答えや正解をとことん追究した結果、かえって良くない結果を招いてしまうかもしれない。日本人の場合には、かつてエコノミック・アニマルと揶揄されただけあって、かなり合理的に行動している人たちの割合が高いのではないだろうか、と思ったりする。よく知らないんだけど、海外メディアで日本人みたいな「主婦の節約術」とか「超家計術」といったようなものが人気を博したりするものなのだろうか?日本って、細かいことに対してでも、やたらと努力しようとするんだろうな、と思う。



資本主義経済というのは、ある程度「無駄な出費」みたいなことをやらないと、回っていかないんだろうと思う。みんなが最善を尽くしてしまうと、大勢が余るようにできているのだ。アリやハチの世界と似ているかもしれない。非効率部分があることによって、うまく社会が保たれていることだってあるんだろうなと思う。逆に言うと、余ることによって、音楽、芸術、学問、スポーツといった文化を育てることになるかもな、と。

よく勉強について、「これを学んだって、無駄じゃん。何の役に立つの?」という根本的な問いに答えることが難しいのにちょっと似ているかもしれない。何故それを学ぶとよいのかは正確には判らないけど、きっと何かの役に立ったり、今役に立っているようには見えないけれどいずれどこかで役立つかもしれない、みたいなもんかな。「秋祭りの奉納で米とか野菜とかお酒とかを供えたって、神様が食べた様子はないし、そんなことしても無駄じゃん」というようなものだ。どうせ無駄になるだけなんだから、自分で食べた方が得じゃん、というような、表面的思考がそこにはあるのだろう。仕事や給料にしても同じ。「あいつらなんて、何の役にも立ってないんだから、無駄じゃん」といって、多くを切り捨ててきたら、回りまわって自分にも跳ね返ってくる、みたいなものなのだ。


人々の気を惹けるような「何か」が、資本主義経済には必ず必要なのだろう。それが広告であったりするわけだ。人々に何かの幻想を抱かせないと、余る人たちに仕事を供給できなくなるからだ。幻想から醒めてしまって、「~は無駄じゃん」ということにハタと気づいてしまうと、非効率だからということで捨てられることになってしまう。すると、仕事からあぶれてしまう人々が多くなってしまうのだ。


以前には会社の上司が部下たちを飲み会に誘ったりして、色々と話を聞いたり相談に乗ったり、といった「無形のカウンセリング」っぽいこととか、会社内のコミュニケーション促進とか、様々な効用があったろうと思うのだけれども、そういうのも無くなった。会社の上司は、部下を誘える程度には「給料に上乗せ」されていたであろう。別に、目に見える仕事の成果だけが上司の役割ではなかったからだろう。だから部下達は上司のおごりで心置きなく飲めた(笑、かどうかは知らないけど)。愚痴を言ったりしながらも、明日からの仕事を頑張ろうかという意欲を引き出したかもしれない。
今は、そういうことはとても少なくなったのではないかな。

上司は以前のようには余裕がなくなった。課長といっても名ばかりで、給料は成果に応じてしかもらえない。部下の愚痴さえ聞く余裕なんかないのだ。部下は部下で、若い連中は誘っても「飲み会なんて無駄じゃん」「プライベートまで干渉しないでくれ」と、誰もついてこなくなった。その代わり、自分1人で問題を抱えたまま、誰にも相談したり話したりすることもなく「独りで」辞めていったりうつ病になったりするようになった。

無駄に思えた会社帰りの飲み会が減って、ビール消費が減った。飲食店は潰れるところが多数出た。そういう人たちの収入が減るから経済活動にはマイナスに作用し、すると他の部門の消費も抑制し…と互いに経済成長を阻害してゆくことになるのだ。
そうやって、社会の一部が壊れていくことに、知らず知らずのうちに加担していくようなものなのかもしれないな、と。結局、社会全体で「~は無駄じゃん」というものが増えて、これらを切り捨てていけばいくほど、日本経済を追い込み冷え込ませていく結果をもたらしたのではないかな。


実業団スポーツも切った、文化活動も切った、…そうやって「仕事の数」をどんどん切り詰めていったのが、過去の失われた期間だったのだ。資本主義経済に必須であるはずの、幻想部分を破壊したのだ。公務員の給料にしてもそうかもしれない。賃金引下げを唯一阻止できるのが公務員しかいなかったのに、「あいつらの給料が高すぎるから下げろ」ということをやってしまうことで、「名目賃金は上がってゆくものだ」という社会全体の規範を壊してしまった。そうなると、下に落ちてゆくのが止め処も無くなってしまったようなものだ。誰かの給料を「無駄じゃん、だから下げろ」という風に、互いが互いに引っ張り合っていっただけなんじゃないのかな。それは、社会全体を回りまわって、自分の給料にも跳ね返ってきてしまったということだ。米国なんて、こんだけ危機的とかいわれ、あっちもこっちも倒産の憂き目にあっていて、日本の比ではないダメージなのに、それでも名目賃金は下がっている様子はない。物価上昇率がプラスである限り、賃金は上がらねばならない(仮に実質賃金上昇率が僅かにマイナスとなっても)、と信じているからだろう。


日本では、夜通し眠らないでトラックを運転して、家には月のうち数日しか帰れないのに、安月給しかもらえない。昔はもっと高かったのに、「物流コストが高すぎる、運送業界の生産性が低すぎるんだ」と外国から文句を言われたから、大企業の連中がこぞって「お前らの賃金が高すぎるのはオカシイ」と言って、コストカットという大義名分で運送費を切り下げた。「大学も出てない元暴走族が、ただ運転してるだけじゃん」という評価をして、「無駄なコスト」として切った。バスの運転手も「ただバスを運転してるだけなのに、こんなにもらってるのはおかしい」ということで、安月給で深夜バスを運転させられる。


どうしてこんな有様となってしまったか。
かつては、人の苦労を知る人たちが政治家や役人たちにも多かったのではないかと思うが、段々坊ちゃん・嬢ちゃんたちばかりになって、頭でかっちの世間知らずが多くなったのかな。日常生活の中で人々の仕事に思い致すことはできそうなのに、世間知らずを矯正する為なのか何なのかは知らないが、「民間企業に研修」として出向したりするなんて、馬鹿げた話ではある。働く前に、経験を積んどけや、と思わないでもない(笑、これこそ無駄じゃん、ってやつか)。

頭でっかちバカが増殖した上に、やつらの理屈に反論できる人たちが存在していなかったことも、大きな不幸だった。
「~は勉強したって無駄じゃん」の理屈に対抗することが難しいのと同じく、「~は無駄じゃん」という短絡的かつ表面的な屁理屈に対して、誰も有効な反論をしなかったのだ。一見役に立ちそうにない無駄と思えることの裏側にある、「何かの意味」について、誰も考えなくなってしまったということだ。そうやって幻想から急激に目覚めさせると、今回の経済危機の如くに経済は収縮するのだ。


だから、資本主義経済を維持していこうとする限り、新たな「魅力あるもの」や「気を惹くもの」を無理矢理にでも作り出し、仕事を創造していかないと、仕事を奪われ追い立てられていく人々を生むだろう。魅力だの気を惹くだのというのは、単なる幻想みたいなものに過ぎず、「クラシック音楽は何の役に立つのか?」「映画鑑賞で仕事ができるようになるのか?」みたいに言い出すと、仕事はどんどん減ってゆくだろう。

世界全体を考えると、地球温暖化やエネルギー問題なんかは、必ず新たな仕事を生み出す原動力となるので、だからそれを主導した人たちがもしいたとすると(陰謀論は割りと好きですからw私)、判る部分もあったりするかな、と思うこともある。一時的には苦しみもあるのだけれども、世界中の人々に仕事を分け与え食べさせ続けねばならない、という、地球規模の経営という視点で考えると、たとえそれが幻想に過ぎないとしても、その「無駄とも思えること」の裏側には、それなりの意味があるのかもしれない、と思えたりする。勿論、一部には新たなgreedっぽい人たちも生み出してしまうとは思うのですけれどもね。

新たな仕事を生むやり方というのは、一部の金儲け勝者を生むけれど「人々に信じ込ませて」資金や需要を作り出す米国的手法か、地味で落ちついてるけど他人へのお節介を焼く非効率分野(=多くは公的分野)を充実させる欧州的手法というのが、過去に試みられてきたのであろう。たとえ幻想ではあるとしても、そうやって仕事を作るしかないのである。




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