瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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読書メモ(宮崎哲弥)

2024-03-03 08:05:49 | 随想
宮崎哲弥「仏教教理問答」(サンガ 2012年)

5人の僧侶との対論。その内2人を読んだところです。
難しかったり、その教理に興味がなかったりして内容を汲み取れてるのは僅か。

「仏」の語源がよくわからないってのをはじめて知りました。
フトキ(仏教者を表す浮屠家の訛化)かもしれないし、ホトキ(死者に食物を供える器)かもしれない。あるいは大きな命の流れがあって、自分の人生はひとつの結び目で、死ぬとその結び目がほどけて大きな命に還る、その「ほどけ」が「仏」だという説もあります、とのこと。

あたくしがしっくりくるのは大きな命に還る「ほどけ」ですね。個々人は全体の一部、というか全体という多面体の一面なので、生きている間はその一面を表現し死ねば表現を終え全体へ溶け込む。そんなふうに思います。
全体は内に在るものを表現したくて私たちというものを形づくった。人生は結び目って言い方をしてますが、あたくし流にいえば表出ですかね。内に在るものを表に出すべく凝り固まったもの。全体が表現者で私たちはその作品っていう言い方でもいい。

結び目で思い出しましたけど、少し前に読んだ小松左京の「ゴルディアスの結び目」。その中にこんなことが書いてありました。

宇宙間のすべてのエントロピーが最大になり、すべての“むすぼれ”がとけるか死ぬかして、均等に拡散してしまう(中略)すべてはいずれ、“空”にかえる……。生命も善悪も、喜怒哀楽も、すべて“空”のむすぼれの連鎖にすぎない……。実体であり本質である“空”を見ず、その“むすぼれ”の方を実在と見あやまるから、そこに死ぬ事に対する苦悩や、現世に生きる事のさまざまな煩悩が生まれる……。

あたくしのいう全体が空のことなのかどうかわかりませんけど、私たちが結び目であるって感じはするわけです。そして死ねば結び目はほどける。というか結び目がほどけるから死ぬといったほうがいいかしら。

だから死ぬっていうのは何もかも無くなるってことじゃなく、結び目がほどけただけだから存在そのものへ還るってことなんじゃないかな、と思います。

存在という円環の中に私たちは在るんじゃないかしら。


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