behonestasmyselfさんからコメントをいただきました。コメントへの返信なのでコメント欄に書こうかと思いましたが長くなりそうなので記事として書きます。
behonestasmyselfさんへの返信ではありますが記事として書くので、どなたでも考えるところがあれば遠慮なさらずこの記事にコメントしてくださって結構です。
まずは前項のbehonestasmyselfさんのコメントを読んでくださいね。
では、はじめます。
観察者ってのは「生きる」じゃなきゃ何だ? と問われて困りました。なんなんでしょう。
で、現に存在している観察者を考えてみます。観察者なんていくらでもいますから。一般に観察者と言わず研究者っていいますけど。
チンパンジーを研究(観察)している人。この人はチンパンジーを観察しているのであってチンパンジーを生きているわけじゃない。
ということをふまえて前項を言い換えるなら当事者は人間を生きているし観察者は……そうですねえ、ぼくに言わせれば人間を生きていない。人間を生きないで人間を観察している。人間ではない何者かを生きているとはいえるかもしれません。チンパンジーの研究者はチンパンジーを生きないで人間を生きているわけですから。
ほかのことを考えてみます。
サッカーを観戦する。観戦するのは楽しむためなので、ここでは観戦ではなく観察するといいましょう。
で、サッカーをしている人と観察者。サッカーをしている人は当事者で、サッカーをするそのことが生きていることとここでは置き換えられます。観察者はサッカーをしない。つまり生きていない。じゃ何してるんだってことになりますが、観察してるとしか言いようがない。
観察者ってのは部外者っていうか埒外に居る人。関わりを持たない人。傍観者。
生きるってのは当事者でしかありえない。生きるのに部外者なんていない。なので、観察者という立ち位置をとるならそれは人間を生きているんじゃなくて別次元の存在を生きている。ぼくは「生きる」を人間に適用しているので別次元の存在を生きていることを「生きる」とは表現しない。観察者の在り方は人間の生きるという在り方とは異質なものだと考えるわけです。
例えば地球外の知的生命体が地球人を観察する。この知的生命体にも人生ってのはあるでしょう。ですが地球人の人生とは異質に違いない。知的レベルが違い過ぎれば地球外の知的生命体の「生きる」は地球人の「生きる」とは意味が異なるでしょう。
あるいは神様。俯瞰する観察者というなら神様以上の存在はないでしょう。神様を人間と同列に「生きる」とは言わない。人間にしてみれば神様は「生きている」んじゃなくて存在しているとしか言いようがない。別次元の存在は人間の「生きる」で意味するところのものとは別物です。
behonestasmyselfさん、これで返答になっているでしょうか。
書いていて思いましたが、結局のところ「生きる」の定義というか捉え方の問題ですかねえ。ぼくは「生きる」を狭く限定している。当事者限定。観察者と立ち位置を変えてしまったら「生きる」部外者と見なす。観察者という別次元の存在は当事者である人間の「生きる」の定義に当てはめない。
といったところですか。
最後になりましたがbehonestasmyselfさん、コメントありがとうございました。
最初にも書きましたけど、どなたでも考えるところがあれば遠慮なさらずコメントを寄せてください。考えるヒントになるので有り難いです。
瓢箪舟様にとっての「生きる」とは「当事者として人間を生きる」ということかと理解を致しました。
狭く限定、という表現がございました。
誰しも自分の見解に基づいて出来事を解釈している、という見解を私は持っております。そんな私にとって、誰しも人生について定義や概念を構築していて、その構築にあたってはなんらか限定をしないことには見解は成り立たないように思います。数十年のなかで「生きる」ことを把握しようとするわけですから。
それで、その数十年を「せいぜい」と捉えたり、瓢箪舟様のようにご自分の限定を「狭い」と捉えることも、やはり見解に基づくもの、見解に基づく比較によるものであろうと思います。
この意見も、私自身の見解に基づいたものなのですが、いずれにせよ、色々と学びをいただくとともに、様々な感想を抱きました。
私の見解に照らしたときに不思議に思えたことは、観察者として俯瞰して、人間を生きることでない生き方をすることには、なにか瓢箪舟様にとって、どういった問題があるのだろうか、と
この記事において、瓢箪舟様はご自分の言葉や考えについて俯瞰して観察をされているのとは違うのだろうか、と
生きるにあたっての「当事者」とはなんであろうか、と
楽であろうと思えることがあり、それがなにか問題を孕むのでなければ、それをすることが良いように私には思えるものですから、そんな思いが生起した次第です。
私なりに簡潔にしようとしたのですがどうしても長いコメントになってしまいました。おまけに要領を得ない文章に感じていて、申し訳なく思います。
深く考察されたご回答、本当にありがとうございました。
お久しぶりです。この記事のきっかけとなるコメントをしたbehonestasmyselfです。私のアカウントは閉じてしまったのですが、最近この記事に関係しそうな新たな見解を知ったので、ご参考までに書いてみます。
それは、二項対立を離れるという見解です。好き・嫌い、きれい・汚い、善い・悪い、有る・無い。そのどちらでもない、という見解で、そういう認識になっている人間の感覚は、そうでない人間に、言葉で伝えることは可能なのだろうかと思いますが、そういう境地があるようです。
それで、そこにおいては、「観察する・観察される」も超える、離れるようです。
私もそういうのがあるらしいと知っただけで、いまひとつ理解はできておりません。でも、そんなものあるわけないだろうと否定するこころの働きはなく、あるのだろうと思えております。その信頼によって、認識についての見解も変わるとは感じられております。
当事者・観察者を超えた状態とも言えるかな、と思って、コメントしてみました。以上です。