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ピラミッドを作ったのは誰か?・・オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(4)

2011-06-22 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチン著「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」の中の、オルメカ文明に関する部分の紹介をさせていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


「神々の故郷」と「自分たちの故郷」をめぐり、まるで過去と現在がしりとり遊びをしているように、ぐるぐるとまわっていますが、


著者ゼカリア・シッチンは、古代中米には他地域の人物がやってきていた痕跡が認められると考えています。


オルメカ人の残した巨大な石像の顔は、アフリカ人の顔であると考えており、

アフリカからやってきたオルメカ人が、特殊な知恵を用いて、古代中米文明を築いたと考えています。


また、いくつも見出されている“ひげをはやした西洋人風の人物”は、フェニキアからきた人々ではないかと考えています。

著者は、古代中米には、聖書以前のメソポタミア・エジプトの文明との類似点が多く存在すると考えています。

それは西洋中心の視点であるとも言えるのですが、著者の力点は、世界に同時期に類似した文明が発生していたという仮説から、文明の原点をもう一つ遡って、その頃地球にやってきていた宇宙人による文明の存在を想定することにあります。

しかし、著者はあくまでもていねいに歴史を追って話をすすめています。



 
                   *****


               (引用ここから)


アステカ王国の首都テノチティトランがその栄華を誇っていたとき、トルテカ族の首都トゥーラはすでに伝説の都市「トラン」として、思い出の中へ消えていた。

そしてトルテカ族がその都市を建設していた時には、「テオティワカン」はすでに神話の中の思い出となっていた。

「テオティワカン」には「神々の場所」という意味があった。


「テオティワカン」は、どのくらいの過去まで、さかのぼれるのか?

当初考古学者たちは、「テオティワカン」はキリスト紀元の1世紀ごろまでに建設されたものと推定していたが、その年代はもっと昔にさかのぼり続けている。

現場の発掘作業で、この都市の祭礼センターは紀元前200年にはすでに4,5平方マイルの広さであったことが確認された。

現在では、紀元前1400年頃だったことが定説になっている。


その頃には、実際に「テオティワカン」の巨大建造物を建立した古代インディオのオルメカ人たちは、メキシコの別の場所に大きな「祭祀センター」を作っていた。

私たちが推測するところでは、一連の構造物、地下の部屋やトンネル、流れを変えた川、方水路のある半地下のしきり、などから推定して、すべてのものが、鉱物を分離し、生成し、純化するための化学的に工夫された設備のために作られたものだと思われる。

紀元前1000年紀、むしろ紀元前2000年紀の中頃に、ピラミッドの建設の隠された技術に詳しい者たちが、この渓谷にやってきたに違いない。

そして彼らはまた物理学に関する知識を持っていて、この地域で手に入る物質から高度に進んだ加工処理設備を作ったのだ。


そしてもし、それが人類でなかったとすれば、このテオティワカンにまつわる伝説と、その名のいわれが、いみじくも初めから示していたように、それは“人間の神々”だったのか?


“神々”の他に、誰が「テオティワカン(神々の場所)」に住んだのか?

誰が最初のピラミッドを建てるために、石やモルタルを運んだのか?

誰が水路をつけて、方水路の操作をしていたのか?


こういう疑問に対して、「テオティワカン」の時代が紀元前数世紀より古くはないと考えている人たちの答えは、すこぶる簡単だ。

それはトルテカ族だという。


しかしもっとずっと昔の時代からあったという見方に傾いている人々は、それはオルメカ人だったと主張している。

オルメカ人は、紀元前2世紀の半ばに忽然と中央アメリカに現れた謎に包まれた人たちである。


そして、このオルメカ人自体が多くの疑問を投げかけている。

なぜならば、彼らはアフリカの黒人だったように思われ、アメリカ大陸には数千年前に太平洋を渡ってきた人々がいるとする説を受け容れようとしない人たちにとっては受け容れがたいことに変わりは無いからだ。


「テオティワカン」にいた人たちと、その都市を建設した人たちが神秘のベールに包まれているとしても、

紀元前にトルテカ族の人たちがこの地に辿りつき始めたことは、ほぼ確実である。

そして紀元前200年ごろには、帝都に君臨した何者かは、荷物をまとめてさっさと立ち去っていった。

そしてこの場所がトルテカ族の都市になったのだ。


数世紀の間、この都市はその用具や武器抗議品でその名をとどろかせていた。

それから彼らがここに辿り着いてから1000年後に、トルテカ族たちも自分たちの荷物をまとめてさっさと出て行ったのだ。

誰にもその理由は分かっていない。

ただ彼らは全員で出発し、「テオティワカン」は見る影もなく荒廃した場所になって、黄金に輝いた過去の思い出の中にだけ生き続けることになった。



ある人たちは、この出来事は紀元700年ごろにトルテカ族たちの新しい首都「トラン」の建設と時を同じくしていると信じている。

トゥーラ川の川岸にある長年人間が住んでいた場所に、「トラン」がトルテカ族の手で「ミニ・テオティワカン」として建設されたのだ。

古写本や言い伝えでは、「トラン」は伝説の都市として語り継がれている。


             (引用ここまで)


                     *****


千年も間があれば、さっさと出て行った、という表現はどうかとも思いますが、著者は部族の心の動きから、そのような表現を用いたのであろうと思います。

どうしても戻りたい場所があり、何千年かけてもそこをめざす、という部族の心があるのではないかと思います。


伝説の都市「トラン(トゥラン)」があった頃は、アステカ族の石のカレンダーにある5つの年代区分においては「4番目の太陽の時代」であったとされるようです。


       
                   *****


             (引用ここから)


神ケツァルコアトルがメキシコに現れたのは、「第四の時代」のことだった。

彼は背が高く、容貌も優れ、ひげを生やして、長い二枚の布でつくったチュニカを着ていた。
その杖には宝石が埋め込まれ、6つの星のしるしで飾られていた。

トルテカ族の首都トランが建設されたのも、この時代だった。

知恵と知識の師ケツァルコアトルは、学問や技能や法律、そして52年サイクルによる時間の割り出し方の手ほどきをした。


「4番目の太陽の時代」の終わりごろ、神々の間の戦争が始まった。

ケツァルコアトルは東へ向かって旅立って、彼がやって来た元の場所に戻っていった。

神々の戦争は国土を荒廃させ、野生の動物の数が人間の数を圧倒するようになった。

そして首都トランも見放された。

それから5年後に、アステカ族がこの地にやってきて、「5番目の太陽の時代」、アステカ族の時代が始まったのだ。


            (引用ここまで)


            *****


こういった、ぐるぐると円を描くような時間の感覚と歴史の感覚は、一種独特のめまいを伴うように感じます。

この独特の時間感覚自体が、催眠術のような暗示効果を持っているようにも思われますが、この催眠術にかかるとすると、いったいどのような世界が開けてくるのでしょうか?



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