教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

シューティングと物量と戦争

2010-05-29 00:05:50 | シューティング
シューティングとは。
すなわち一騎当千である。

千倍する敵を前にして戦わなければならない。
しかも自機はたった1発の被弾で撃墜してしまう。

しかし!

与えられた機体は、性能をフルに発揮しさえすれば、敵軍の巨大戦艦と戦えるだけの実力を持つ極めて高性能なものである。

なぜ最初から敵と同じように千倍の味方をあつめて戦おうとしないのか?

大概の場合、そういうことができない事情になっているからだ。

なぜそうなっているのか?

物語の背景で決まっているものだ。

宇宙人に侵略された地球において、たった1機だけ残された高性能な開発試作機。
世界で唯一残された秘宝を組み込んだ、世界で唯一実用化した戦闘機。
脱走した兵器開発主任が自分の過ちを正すために創りあげた1品モノの最高傑作。

だいたいそういう具合にできているものだ。

つまるところ、それは何を意味するか?

量で圧倒する敵を、質で勝ることで解決を図るという意味だ。

これと同じものをどこかで見たことはないだろうか?

大日本帝国軍と同じではなかろうか。
たとえばゼロ戦だ。

ゼロ戦はなぜ強かったのか?

米軍の戦闘機は量産性を重要視していた。
だから無闇に品種を増やさなかったし、物量で敵を圧倒するために生産に手間がかかる構造は採用しなかった。

ゼロ戦は違う。
生産にはえらく手間がかかってしまう曲面を多用した。
しかし空気抵抗を最小にできた。
エンジン出力がかなり劣るにもかかわらず互角以上に渡り合うことができた。

米軍の戦闘機はパイロットの安全性にも配慮していた。
たかが1発被弾したくらいで墜落しないように設計が配慮していた。

ゼロ戦は違う。
パイロットの安全性はパイロットの腕前でカバーするものだった。
たかが1発被弾したくらいで墜落してしまう事もあった。
しかし安全性を犠牲にしたため極限まで旋回性能を上げることができた。
腕前のあるパイロットが操るゼロ戦は被弾しなかったのだ。

このやり方は正しかったのだろうか?

わたしにはわからない。
アメリカは物量で圧倒することを最も得意としている。
日本は物量で圧倒することが最も苦手だったし、熟練工を確保できたため、僅かに性能を上げるだけでも手間をかけることが許された。
それで良かったのかどうかはわからないが、自分たちの最も得意とする方法で挑んだという意味においては間違いはない。

これは大日本帝国軍だけの話ではない。
ドイツ第三帝国もそうだった。
ジオン公国もそうだった。
物量に劣る国はどこもそうなのだ。

この彼我の差を見てどうだろう。
先のシューティングにおける敵軍と自陣営の差にソックリだと思わないだろうか。

国民性というかなんというか、日本人はそういうモノが元来大好きなのだ。
単なる安いだけの量産品は好きではないのだ。

シューティングにおいてはこうだ。
千倍する敵を前にして一騎当千の機体を操り、1発の被弾で撃墜してしまう恐怖と隣り合わせで戦うのだ。

シューティングをするとある種の共感を感じる。
物量に劣る国が戦争せざるを得なくなったときは恐らくそういうモノを感じながら突入していったのではかろうかと。