☆Voli alla gloria☆

路が見えぬなら飛んでしまえ。日々の思考と感覚の記録を綴ってゆきたい、とあるバンカーのブログ。

九州旅行、此処に始まれり。

2005年09月09日 | 2004年 九州旅行記
去年の今日、九州へ向かって、僕らは旅立った。
あれから一年。短かったかなぁ。長かったかなぁ。どちらとも取れるような気がするな。

ちょうど今ころは東京駅に着いて、六時の寝台列車まで時間を潰していたころであった。
こんなにも懐かしく感じるのは、なんだか過去に縋っているようで情けなくも思うけれども。あの旅行をもう一度してみたい。もう一度あの旅行をやらせてくれ。

本当に九州まで行くまでがひとつの「旅」であったことが、僕にそう思わせているのだろう。今日の朝に発って、東京駅に昼過ぎに着いて…それから東京18時発の寝台列車で九州に向かう。目的地長崎に着くのは次の日の昼過ぎ。とんでもない長丁場。この「移動」が本来の「旅」であるはずだ。
今日では新幹線、航空機など、瞬間的に目的地に着いてしまうような移動手段がありふれているが、そういう時代だからこそ、こんなスローな旅行をするということが、ものすごく新鮮であると思えてくるのだ。そして、これが本来の「旅」なのではないかと。

今一度、あの旅を、この胸に…

2004年 九州旅行記 終章

2005年08月27日 | 2004年 九州旅行記
以上が旅の全行程である。旅から帰ってきてから、ずいぶん時間が経ってしまったので、詳細な部分は早くも色褪せてしまっていて、思い出すことすら出来ないところもあったかもしれないが、大方「旅行記」として残すことは出来たのではないかと自負している。今回の旅行では多くのことを、僕自身、得、また学んだ。それは、親友俊宏とのより強い絆であったり、また、様々な人との出会い、一期一会であったり。何より、僕の中では「経験」というこの一言に尽きる。様々な初「経験」、初体験をしたのがこの旅行であった。寝台特急での長旅。連日、浴びるように飲んだビール。レンタカーでの北九州縦断。どれをとっても、学生時代、今、この時だからこそ経験できたことばかりである気がする。寝台に乗る機会など、今後あるかどうかもわからない。振り返ってみても、旅の中で起こったこと、一つ一つが、「今しか出来ない」あるいは、「今だからこそ出来た」ことである気がする。ある意味、「学生にしか出来ない」旅行、いや、「学生しかやらない」旅行だったかもしれないが、僕の人生の中で、とてつもなく大きな、それは大きな、思い出、青春の1ページを、とても深く刻んだイベントだった。最後に、この旅に同行してくれた、俊宏、ヒロ、また、道中に出会った人たちに、改めて、深くお礼を申し上げたい。本当にありがとう。また、残りの大学生活での長期休業でもどこか遠くへ行きたい。「今」だから、感じられること、「今」だからこそ出来ること、その「何か」を求めて僕らは旅をするべきだと思う。「日常」を抜け出して、「非日常」への旅。きっと、いや、必ずや新しい「何か」を発見できるはずだ。新しい自分、新しい絆、新しい体験。そんなものが旅先には溢れている。最後はなんだか「旅のススメ」みたいになってしまったが、同世代の仲間たちには本当に旅をすることを勧めたい。そして、また、新しくなって帰ってきた仲間たちと、共に語り合い、共に刺激しあって、互いに己の道を歩んでゆけたらと、僕は願ってやまない。


2004年10月7日


編集後記(蛇足とも言う)

皆さん、これまでこの「2004年九州旅行記」を最後まで読んでもらい、ありがとうございました。
九州旅行記は、これにて完結です。この旅行記は去年、9月9日に出発し、帰ってきてからその後約一ヶ月、記憶が薄れてしまう前に、と思い、密かに執筆していたものでありました。書き上げてみればA4の用紙20ページ分という、とてつもない大作となってしまいました。この旅行記は僕自身の目指すところの「栄光」における、一つの「布石」であり、またいつまでも色あせることのないように残しておきたい「宝物」なのです。今でも自分自身この記を読み返すと旅行中の光景が目の前によみがえってきます。僕は、今振り返っても、このような旅行をすることが出来たことを幸せに思います。旅行、そしてその行程を「記す」。次の旅行も、全てはここから始まっていると言っても過言ではないかもしれません…。

2004年 九州旅行記 その27

2005年08月20日 | 2004年 九州旅行記
郡山を出るとあとは、流れるように福島に着いてしまったような気がする。ボーっとしているだけで、すぐに着いてしまったような感覚。何故なのだろう、旅の帰路というのは。こんなにもあっけなく終わってしまうものなのか。「日常」へと戻されてゆく自分が、静かに胸の中で、その流れに抗っているような感じ。そして、肌に感じる、秋の訪れ。こんなにも寂しい夏の終わりを経験したことはあっただろうか。
福島に着いたのは何時頃だったろうか。20時か21時、そんなところだったろう。風が強く、福島の夏は、終わっていた。とても、とても寒い夜だった。僕は旅に出るときに俊宏の部屋に眼鏡を忘れてしまったので、そのまま二人、俊宏の部屋へと向かった。少し懐かしく感じられた俊宏の部屋だった。旅は、終わってしまった。僕も、自宅へ帰ろう。最後に、俊宏と熱い握手を交わした。俊宏、ありがとう。そう僕は目頭が熱くなるのを感じながら、言った。旅の始まる前夜、俊宏の部屋へと向かって歩いた全く同じ道を、帰っていった。
21時45分福島駅発の飯坂線の電車へと曾根田駅から乗り込み、もう、すっかり気分は「日常」。ただ、ただ、このまま無事帰宅できることを願いながら、自宅へと向かった。風はとても冷たかった。自宅、ほっとするような、寂しいような、複雑な気持ちだった。ただいま。

続く…

2004年 九州旅行記 その26

2005年08月09日 | 2004年 九州旅行記
店を出ると、菅野君に別れを告げ、僕らは宇都宮行きの電車の出る上野駅へと向かうため、山手線に乗った。そのころになると疲れもじわじわと体に見え始めていたような気がする。宇都宮行きの電車に乗り込むと、疲れている体には応えたが、座席は満員だった。確か宇都宮に着くまでずっと立っていた気がする。二人の間にはほとんど会話はなかった。疲れていたから、というわけではなかったが、会話はなかった。不思議だが、今思い出そうとしても、帰路だからだろうか、この時のことはあまり記憶には残っていない。恐らく何事もなく宇都宮に着き、黒磯行きの列車に乗り換えしたのだろう。黒磯でもまた何事もなく乗換えを済ませたと思う。会話もなく、ただ、ひたすら帰路。そんな感じだった。黒磯から郡山へと向かうにつれて、周りの乗客たちの会話に徐々に東北訛りが混ざっていくのを聞き、僕らは互いに「日常」に戻ってきたのだという気持ちを持たざるを得なかった。堪らなく寂しい気持ちになった。郡山に着き、電車が出るまでに少し時間があり、ちょうど夕飯の時間を過ぎる頃だったので、ホームにある立ち食いそば屋でそばを食べた。外は肌寒く、秋を迎えたような気温が益々「日常」という言葉を僕の頭の中に鮮明に映し出した。そばは、そんな気持ちに呼応してしまったのか、とても、とても、不味かった。

続く…

2004年 九州旅行記 その25

2005年08月02日 | 2004年 九州旅行記
彼が駅に着くまで、丸の内口の改札を出て皇居外苑を散策することに。丸の内口から駅を出るとオフィス街なので、大きなビルが立ち並びサラリーマンの姿がよく目に付くが、少し歩くと松の木(だったと思うが)が両側にたくさん並ぶ「行幸通り」があり、その向こう側に皇居外苑、公園のようなところではあるが、東京にもこんな緑があったのかと、思わず眺めてしまうような光景を目の当たりにした。外苑では、ちょうどお昼時だったからか、スーツを着た人たちが、ベンチでお弁当を開けていたり、読書をしている人がいたりした。そのまま歩いて(この外苑、思いのほか広かった)南のほうへ向かうと、楠正成像があった。
この正成像は、上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像、と並び称され、「東京三大銅像」のひとつであるそうだ。銅像の高さは約4メートルあり、台座部分までが約8メートル。実際に見てみるとそれほど大きくは見えなかったが、馬に跨った正成像はなかなか迫力のある銅像だった。この銅像の制作には、あの彫刻家として著名な、高村光雲も携わっていたそうである。その後、桜田門まで行こうかと始めは思っていたのだが、日差しが強くあまりにも歩くには遠すぎたので、銅像近くにある、楠公(なんこう)レストハウス、なるところで休憩しつつ菅野君を待つことに。そこでもすかさずビールを注文。瓶でお願いして、二人真っ昼間からグラスで飲んだ。外が暑かっただけに、なかなか美味いビールだった。菅野君から電話が入り、着いたとのことだったので、「丸ビル」で待ち合わせることに。しかし、この「丸ビル」がなかなか曲者で、丸の内にあるビルのことを「丸ビル」と称しているわけだから、「丸ビル」は「丸ビル」でもたくさんあるから仕方がない。一回では会えず、少々時間がかかったが、何とか落ち合うことが出来た。久しぶりの再会だった。元気そうだった。
彼について行くと、その日オープンしたという、新しい「丸ビル」とでも言ったらいいのだろうか、「OAZO(オアゾ)」と名づけられたビルに向かった。国内最大の丸善を抱えた、丸の内と大手町を跨ぐショッピングビルだった。丸の内の「O(まる)」と大手町の「O(オー)」の間に「A to Z」、というわけで付けられたのがこの名前で、因みに「OAZO」というのはエスペラント語で「オアシス」の意味らしい。何とも素晴らしいネーミング。昼だったので、レストランかどこかに入ろうということで、レストランのフロアーに向かったが、さすがは丸の内、格が違った。僕ら学生が入るような店はなかったのであきらめてビルを出ることに。東京駅に向かって、帰りの電車の時刻を確認して、三人で軽食店みたいなところに入ってうどんやらラーメンやらをそれぞれ食べた。


続く…

2004年 九州旅行記 その24

2005年07月15日 | 2004年 九州旅行記
14日。何時頃目覚めただろうか?記憶にある限りでは、列車は神奈川県、横浜の沿岸部を走っていた。天気は良かった。晴れ渡る空を抱いた太平洋を望むことができた。しばらくして、東京駅に無事到着。時刻はお昼前くらいではなかっただろうか。ちょうど腹も空いていたので、荷物をすぐコインロッカーに預け、駅構内の「ラーメン激戦区」と称された場所の一つに北海道の旭川のラーメン屋があったので入った(ほかのラーメン屋は人が多く、並んでいるところもあったので入れなかった)。またラーメンか、とも思ったのだが、この際仕方ないと思い俊宏の後に続いたのだった。特に感想はないのだが、そこそこ美味い味噌ラーメンといった感じではなかっただろうか。店を出て、せっかく東京に来たのだからということで、東京の大学へと今年晴れて入学した浪人時代の同志である、K君に会うことになった。彼は忙しい中、何とか都合をつけて僕らに合流してくれた。東京駅で待ち合わせることになった。

2004年 九州旅行記 その23

2005年06月29日 | 2004年 九州旅行記
改札で、いよいよヒロと別れることになった。賞味約4日間の九州滞在。長いようで、一瞬にして駆け抜けてしまった時間と共に、その地とも別れのときが来た。ヒロは泣いていた。僕らも別れは凄く辛かった。ヒロが居なかったら、こんなに素晴らしい旅行は出来なかったのだから。またすぐ会える、と僕らはそんな意味の言葉を残し、改札を抜け、ヒロに手を振った。帰りの旅路もまた「さくら号」。最後まで、よろしく頼むよ、「さくら号」。
二回目の寝台列車となった。今度もまた他の乗客はほとんどおらず、がらがらだった。帰りはやはり、二人の間に少し寂しさが漂う。言葉にしなくても、二人の間の空気が往路とは全く違っていた。ビールを買っては来たが、がぶ飲みする気にはならなかった。しみじみと、ゆっくり飲んでいたような気がする。帰りの寝台の中での記憶は、今改めて思い出してみようとすると、なんだか朧だ。はっきり言ってしまえば、何をしていたのか、あまり覚えていないのだ。旅行での最後の夜を楽しもうと、車窓から見える景色、とは言っても夜だったので街の微かな明かりしか見ることは出来なかったが、僕は、外の景色をしきりに覗いていた。あとの時間は俊宏といつもの話をしていたのだか、旅行を振り返って話をしていたのか、あまり覚えてはいないが、それほど多くの酒は飲まなかった気がする。午前0時頃、広島駅に着いたのは覚えている。その後どうなったのか、本当に不思議なくらい覚えていない。確か1時か2時ころには眠ったのだろうが。なかなか寝付けなかった記憶はある。これで旅行も終わりか、と。隣では俊宏が既に寝ていて、一人、車窓から見える寂しげな明かりを見つめながら深い感傷に耽っていた。本当に、一瞬にして終わった感覚。気がついたら、帰路の列車の中。さぁ、もう眠ろうか。明朝目覚めたら、どの辺りをこの「さくら号」は走っているのだろうか。絶えず続く列車の揺れを体に感じながらも、この旅行は終わりへと確実に近づいているのを憂いつつ、眠り落ちた。夜は更けてゆく…

続く…


編集後記(ここへきていきなり編集後記なんて言い出してますがw振り返っての感想ですw)…この頃のことは本当に映像としては車窓から覗く仄かな明かりくらいしか自分の記憶にはありません。工場が広がっていたり、そんな感じだったでしょうか。さすがに、連日はちゃめちゃな、何も予定を立てていかなかった癖に、相当な過密スケジュール、過酷なことをやらされたので、疲れも出ていたのかもしれませんね…


2004年 九州旅行記 その22

2005年06月24日 | 2004年 九州旅行記
博多駅に着いたのが、17時半か18時くらいだったと思う。手持ちの残金が底を尽きたので、俊宏に貸す分も合わせて銀行から預金を下ろした。残高はなんと出発前の十分の一ほどに…。ホテルで預けていた荷物を受け取ると、博多駅で東京までの切符を買い、腹が減ったので駅構内で食事することに。適当に和食屋へ入った。俊宏がネギトロ丼定食にしたので、3人ともそれに。確か1000円くらいで値は張ったけど、とても美味いネギトロだった。これもまた、それまでの人生で一番美味いネギトロとなったのではないだろうか。店を出て、出発の時間まで、お土産を物色。僕は特にもうお土産は考えてなかったので、とりあえず自分に何か買っていきたいと思い、芋焼酎を探した。酒屋に行き、ヒロが薦めてくれた「さつま島美人」を購入。安くて、美味しいと地元でも評判の芋焼酎らしかった。それだけ買うと、コンビニで次の朝の分の食糧と、今夜の酒、つまみなどを調達。そんなことをしていると、あっという間に出発の時間になってしまった。

続く…

2004年 九州旅行記 その21

2005年06月19日 | 2004年 九州旅行記
その後は今度こそ本当にすることがなくなった。というより、街の中を歩けば面白い店などがたくさんあったのだろうが、連日の疲れがあり、まして炎天下の中を歩く気力は残っておらず、どこにも行く気がしなかったというのが本当かもしれなかった。ホークスタウンにあるカラオケ時遊館で残りの時間を潰すことにした。14時過ぎに入った。時間は3時間。大いに歌った。そして、飲んだ。樽生ピッチャーをまず1つ注文し、一人あたりジョッキ1.5杯くらいだったろうか。ほろ酔いになると喉の調子も出てくる。結局僕と俊宏は、また追加で中ジョッキを2杯飲んだ。その間、日々、俊宏と練習に練習を重ねていた、ゆずの「栄光の架橋」を熱唱。ヒロを唸らせた。あれほどハモリが完璧に決まったことはない。空前絶後的にハマった唄だった。また、いつもの僕らの十八番、ケミストリーの「My gift to you」も季節外れながら綺麗に決まった。これもまた、あんなに巧く決まったことはなかったように思う。ヒロはカラオケにはあまり行かないらしいが、かなりのツワモノだった。特に一青窈の「ハナミズキ」は感動的だった。一番印象的だった。そんな風にして、とても楽しいひと時はあっという間に過ぎ去り、時計は17時を回ったので、部屋を退出。ほろ酔い気分でふらふらと会計を済ませ、ヒロがこの時なぜかキャーキャー騒いでいたのが印象的だ。その後がまずかった。夕暮れだというのに、いっこうに納まることのない日差しのなか、顔の火照りを感じながら、バスに乗り、博多駅へと向かった。…が。途中バスのなかで、カラオケルームに我が旅の友、デジカメを忘れてきてしまったことに気づいたのだった。前にも後にも、この旅行での最後にして最大の失態だった。バスの中、僕一人すっかり酔いが醒め、どうしようかと焦っていた。とりあえず駅に着いてバスを降り、電話で確認を取ってみた。ありますように…!…と、祈りながら、店員さんの声を待つ。果たして見つかった。さて、またホークスタウンまで戻るとなると、寝台列車の出発時刻に間に合うかどうか心配だったし、バタバタしたくはなかったので、仕方なく、着払いで自宅へ送ってもらうことに。やっと安心して、あとは無事自宅に届いてくれるのを祈るのみだったが、一抹の不安だけ残り、後を引き、僕は自宅に届くまで不安だった。

続く…

2004年 九州旅行記 その20

2005年06月14日 | 2004年 九州旅行記
13時ぎりぎりに集合場所の8番ゲートへ向かった。ドームの中はとても蒸し暑く、入場の際には団扇が配られた。まず、三塁側の観客席へ。ドームの中に入ったのは初めてだったが、グラウンドに人が居なかったせいか、意外と小さく思えた。移動して、選手たちが使う食堂や、ロッカールーム、監督室、ブルペンなど、色々見て回った。最後に実際に選手たちが使っている一塁側のベンチへ。グラウンドの芝は人工芝だったが、非常に柔らかかった。前回りをしても多分痛くなかっただろう。記念撮影をしてツアーは終了。14時前にはドームを出た。入場料、大人一人1000円。

写真はドーム内です。あまり写りはよくありませんが…

続く…

2004年 九州旅行記 その19

2005年06月06日 | 2004年 九州旅行記
13日。朝、ヒロが再び来てくれることになり、二日目の福岡を満喫できそうだ。チェックアウトを済ませ、ヒロを待っていたのだが、丁度ヒロが住んでいる寮の近くの「箱崎」というところで、お祭りをやっている期間だったので、バスが大幅に遅れているとのことで、ヒロから、遅れる、と連絡が入った。僕らは昨日の夜残ってしまった、もう一本の発泡酒を飲みつつ待つことにした。朝方から飲む酒はさすがに体に応えた。俊宏も、珍しく酔っ払っていた。時間は11時くらいになっていて、腹も減ったということで、ヒロが来る間で食べてしまおうと、またまた、「一蘭」へ行くことに。やっぱり、美味かった。朝一の食事だというのに、「濃い味」、「超こってり」で注文した僕のラーメンは恐ろしいほど味が濃く、しかし美味かった。濃すぎて少し体に悪いような気もしたけれど…。
店を出ると、ヒロが来てくれていたので、合流。どこに行こうかという話になったが、福岡ドームに向かうことになった。博多駅に隣接するバスセンターから、ドーム行きのバスに乗って出発した。バスに揺られること20分弱。また高速道路経由のバスだった。ドームに着いて、周りを散策。ドームを訪れた著名人の手の型がずらりと並んでいた。ヒロが居なくなったと思ったら、ドームの中を見学できる「バックステージツアー」なるものの予約を済ませてきてくれたらしかった。13時の入園時間まで少し時間があったので、ビールが欲しくなった僕らは食事が出来るような店を求めて歩き出した。シーホークホテルのレストランあたりに入ろうとういうことで、ホテルに入った。良さそうな店が見つからず、上の階にある中華料理店へ行くことにした。そこで生ビールを三つ注文。その日は天気も良く、窓際の席に着いたので、海、ドームの屋根、福岡の街並みが一望できた。ビールがきて、乾杯。何の乾杯だか解らなくなっていたけれど。そしてここで飲んだビールがとても美味かった。あの泡の柔らかな感触といったらもう…味わったことのない最高のビールだった。銘柄は「麒麟一番搾り」だったと思うが、感動的な美味さだった。それを今でも忘れることが出来ないのは、あの好天候の景観を楽しみながら味わったからなのだろうか。

写真は、あの懐かしの「シーホークホテル」。そしてまた空を見てください、天気いいですよねぇ、暑いんですよホントに。もう9月も中旬だってぇのに。でも、ビールはその分美味しいんですよね。

続く…

2004年 九州旅行記 その18

2005年06月01日 | 2004年 九州旅行記
しばらく歩き続けた。本当にあてもなく、ただ、ホテルの方向を向いてはいたが、歩き続けた。1~2時間ほど歩き続けたのではないだろうか。なんとなく、このまま博多の夜を終わらせたくないという気持ちがあったのだろうか、もう一軒ラーメン屋に行きたいと思った僕は、ガイドブック参照役の俊宏にその旨を告げると、俊宏もすばやく検索してくれて、ホテルの近くでまだ営業している店を探してくれ、そこへ向かうことになった。もうすでに日が改まっていた。午前1時ころだっただろうか、目的のラーメン屋に着いた。「龍龍軒」という名前の店だった。普通のとんこつラーメンを食べた。ここもまた美味しかった。そこで僕は、それほど腹が減っていたわけではなかったのだが、ここぞというわけのわからない根性が腹に湧き起こり、替え玉を注文したのだった。あの大食漢の俊宏をも唸らせた、この僕の行動は、後々まで、僕と俊宏の間での語り種となっている。そこから、歩いてすぐ、ホテルへと戻った。1時半ころだったか、無事戻った。一階のロビーの自販機で、お決まりの発泡酒を500缶2本ずつ買い、俊宏の部屋へ。しかし、もはやあの腹にビールの入る域はなかった。二人とも、気持ちは同じだった。飲んでもさっぱり酔わない、まずい、腹が重い…そして、さすがにもう眠い…。そんなテンションだったので、ビールは一本すら全部は空けられず、僕は自分の部屋へと戻った。午前2時前くらいではなかっただろうか。それから、疲れてはいたけれど、シャワーだけは浴びて、就寝。12日は終わった。明日はいよいよ、九州を発つ…光陰、矢のごとし。

続く…

この間に撮影した写真はありませんでした。夜の街並みも撮りたかったのですが、三脚でも立てないと綺麗にとれないと解っていたので、しっかり自分の目に焼き付けてきました。

2004年 九州旅行記 その17

2005年05月27日 | 2004年 九州旅行記
タワーを出ると、ビールを飲みたいと俊宏が言い出したので、周りにどっか店はないかと探していると、海のほうに何やら、あの出島の如く浮かぶ小さな街のようなところがあって、そこに食事が出来るようなところがあったので、入ってビールを瓶で一本頼んだ。頼んだのは「ハイネケン」。初めて飲んだが、少し特徴のある臭みがあったものの、それがまた美味しかった。この場所は、後でヒロに聞いた話によれば、「マリゾン」と呼ばれる場所で、食事を楽しむことは勿論、ショッピング、またチャペルもあり、港としても使われており、「国営海の中道海浜公園」と呼ばれる国営公園まで高速船が出ているということだ。「海の中道公園」では、しばしば浜崎あゆみのライブが行われているらしい。そこでしばし、これからの行程を考えつつ、休憩。もう時間は21時半をまわっていたので、その日は日曜だったこともあり、名物の屋台は早めに閉まってしまうとヒロから聞いてもいたので、どうするか迷った末、とりあえず天神辺りまで戻ることになった。天神に着いて、しばらくあてどなく歩いた。夜の天神、博多の街、気持ち良かった。その反面、明日でこの旅行も終わってしまうのかと思うと、少し寂しさが胸に現れ始めていたのもこの頃からではなかっただろうか。改めて街の大きさを実感しつつ、屋台の立ち並ぶ通りに出くわしたので、一軒寄ってみることにした。そこで、その日の通算にして三杯目のラーメンを食べた。食後、俊宏が芋焼酎を頼んだので、僕も同じものを頼んでみた。芋焼酎、水割り。焼酎はまともに飲んだことはなかったので、そのとき僕は絶えずむせ返っていた。けれども、それ以降、芋焼酎にすっかりはまり込んでしまった僕であった。屋台を後にすると、またしばらく歩き続けた。もう23時を回っていたと思う。途中再び中洲を通り、今度は風俗店街を少し通り抜けた。客引きのお兄さんたちが面白かった。二人も僕らに絡んできてくれ、お二方とも、仙台の国分町では見られないような、体を張っての客引きをしていたのが印象的だった。

続く…

写真は中州です。すこ~し酔ってテンション高かったときに撮影しました。川にデジカメを落とさないように慎重に撮影しました。