人より先を行く、というのは、とてもとても大変なことだ。一緒に走って来たはずの人たちが、気がつくともう隣にいない。ことさら人に先んじるつもりもなかったのに、ふと気がつくと、なぜか自分が先頭を走っていることに気づく、ということすらある。けれども、そうなった時にはもう、立ち止まって待つことはできなくて、ひたすら走り続けるしかない状態になっていたりする。その時、自分の視界には、先を行く誰もいないのだ。誰かの後をついて行くこともできない不安を抱え、向かい風は真っ先に受けなければならない。
先頭は大変だね、と仲間は言ってくれるかも知れない。しかし、その言葉の裏に、程度の違いはあれ、妬み(ねたみ)や僻み(ひがみ)が入り混じってしまうことは少なくない。そういう感情は誰にだって多かれ少なかれあるものなのだから、それは当然であり、仕方のないことだ。ただ、そういう感情を向けられる側は、どうしても少しずつ、心に重荷を負っていくことになる。
そして、互いの立場に明暗が生じると、親しかったはずの友人とさえ、うまくいかなくなってしまうことがある。実を言えば、友の幸運を祝う側は、むしろ割り切りやすい。しかし先に行く側は、自分に恵まれた幸運を相手の前で喜んで良いものかどうか、どんな顔で相手に向かい合えば良いのか、善意の人であるほど悩み、気まずくなるものだ。話がそれるが、本当はそういう時に、我が世の春を自慢げに語れるくらい神経が図太い人の方が、社会では生きていきやすい、というか、特に厳しい社会では、それくらいでないと生き抜けないような気もするのだが。
この話、また続く。
先頭は大変だね、と仲間は言ってくれるかも知れない。しかし、その言葉の裏に、程度の違いはあれ、妬み(ねたみ)や僻み(ひがみ)が入り混じってしまうことは少なくない。そういう感情は誰にだって多かれ少なかれあるものなのだから、それは当然であり、仕方のないことだ。ただ、そういう感情を向けられる側は、どうしても少しずつ、心に重荷を負っていくことになる。
そして、互いの立場に明暗が生じると、親しかったはずの友人とさえ、うまくいかなくなってしまうことがある。実を言えば、友の幸運を祝う側は、むしろ割り切りやすい。しかし先に行く側は、自分に恵まれた幸運を相手の前で喜んで良いものかどうか、どんな顔で相手に向かい合えば良いのか、善意の人であるほど悩み、気まずくなるものだ。話がそれるが、本当はそういう時に、我が世の春を自慢げに語れるくらい神経が図太い人の方が、社会では生きていきやすい、というか、特に厳しい社会では、それくらいでないと生き抜けないような気もするのだが。
この話、また続く。
ですから、読んだ人がそれぞれ、トップランナーであると考える人について、私の書いていることを当てはめてみていただければ良いと思います。
と言いつつ、私の想定している人はいるのですが、その人には別途、あなたは今、トップランナーになっているのですよと伝えてあります。