エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ロウソクの火を囲んで 改訂版

2015-12-17 07:12:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
その男、1人を嫌って、結局孤独に舞い戻る
   情緒的に0歳の大人。学校の先生、大学の先生、病院の先生してても、そういう人に少なからず出会います。 p.89第2パラグラフ。 ...
 

 クリスマスもあと一週間。アドベントの準備を様々にされている方も、おられることでしょう。クリスマスは、キリストのおミサ。キリストの誕生を祝う日(実際の誕生日ではない、とするのが定説)。クリスマスでも、誕生会でも、テーブルに、床に、ロウソクの火を灯します。クリスマスにロウソクの火を灯すのは、キリストの誕生は、「光」の復活だからです。あるいは、誕生した人、ひとりびとりの人生に「光あれ」と願うからでしょう。

 私どもがロウソクの火を灯すのは、ですから、そういう「光」を大切にする気持ちの表れですね。光は、明るさと温もりを、私どもに届けてくれますイエス・キリストの誕生が、私どもひとりびとりに、計り知ることのできない、圧倒的で、しかも、静かな、明るさと温もりを届けてくれるのに、同じです。

 キリストのおミサでは、ですから、テーブルや床に灯したロウソクを中心に、人々が集まり、イエス・キリストの誕生をお祝いします。カトリックでは、そのロウソクの火を囲んで、式文を唱和し、「みなさんのために」、「司祭のために」、お祈りが捧げられます。あるいは、そのロウソクの火を囲んで、パンとブドウ酒を、皆でいただきます。イエス・キリストの「最後の晩餐」を模したサクラメント(典礼、礼拝)をする場合も多いでしょう。私ども無教会は、その種のサクラメントは致しません。ロウソクの火は、イエス・キリストの「光」を象徴するものですから、「みなさん」に対しても、「司祭」に対しても、「牧師」に対しても、ロウソクの火は、超越した存在になります。

 こうして、イエス・キリストが、私どもを≪信頼≫する≪信頼≫が、人と人とに分かち合われます(異論のある方もあるでしょうが、今は、その点は割愛)。≪信頼≫は、こうして、人智や組織を≪超越≫する存在があって、初めて、伝え合うことが可能になります。

 それだけではありません。「最後の晩餐」を模して、パンとブドウ酒を共にするサクラメント。これがコミュニケーションの語源なんですね。コミュニケーションの語源は、このサクラメントで「食事を共にすること」なんですからね。ですから、ろうそくの火を囲んで、初めてコミュニケーションも可能になる、という訳です。換言すれば、人々は、≪超越≫があって初めて、気持ちや思いを伝え合うことが出来る、という訳ですね。

 

 人間にとって、最も根源的で、最も日常的でもある、≪信頼≫とコミュニケーションは、真の意味では、いずれも、≪超越≫があって、初めて可能なのだ、ということは、知っておくだけの価値がありますよね。

 ろうそくの火(や、それを模した灯り)を街のそこここで目にする季節。あなたも、そんな灯りに目が留まりましたら、ろうそくの火を囲むことの意味を、思い出していただけましたら、実に、アーメン、アーメン、幸いなことです。



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