阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

立飲み「銀狐」でニッカのハイボールと竹鶴のロックを、下町の定番焼酎「キンミヤ焼酎」との出会い

2014年04月22日 | 食べる飲む
しばらくぶりにウオーキングに出ました。国道2号線を越えてまだ浜側へ国道43号線まで歩きました。目の前に国道が出来るとは
江戸時代の店の創業者は思っても見なかったと思う和菓子の店「虎屋吉末」があります。↑
ここから阪神御影の駅は5分ほどです。画像は阪神御影駅の浜側の広場。



喉が渇いたので御影駅のガード下の商店街「旨水館」市場の中にある立飲み「銀狐」に入りました。

この店はウイスキーはニッカ限定と言う嬉しい店です。ワンコインセットは500円ではなく540円になっていました。

「冷奴」と『竹鶴』のロックを追加。

焼酎のハイボールと書いたポップがあったので読むと、四日市市楠町「宮崎本店」の「きんみや焼酎」でした。
 ママさんに聞くと、営業の人が熱心なので置いているとのこと。東京ではホッピーで割るけど、神戸ではホッピーは馴染みがないので
レモン酎ハイがお勧めとのこと。頼んでみたらなるほどすっきりとした飲み口で旨かった。楠町は合併で四日市市に入った時に
町の歴史博物館が出来て、行ったことがある町です。


<諏訪十郎貞信さん>   2005.06.01メールマガジンで発信。

 先週、2泊3日のあいだ三重県四日市市の四日市弁に、たっぷり漬かってきました。卒業した港中学のクラス会が湯ノ山温泉であったので四日市へ行きました。
四日市市も最近の市町村合併の動きの中で、隣町の「楠町」と合併したそうで、その記念モニュメントでもあるのか、この4月半ばに「四日市市楠歴史民俗資料館」をオープンさせていました。 知人も新聞で知ったばかりで、行ったことはなく、東洋紡の楠工場の近くにあるという記事の記憶を頼りに訪ねました。彼女の奮闘で車はまだ木の香がぷんぷん匂う純日本家屋の資料館に無事に到着しました。
 4,5人の見学者が初老の男性にパネルの説明を受けていたので、勝手に壁にかかっているパネルで、楠の中世の歴史から読み始めてすぐに、おおげさではなく飛び上がるほどびっくりしました。

 「楠城の初代城主は信濃の国諏訪の豪族、諏訪十郎貞信で・・・」と書いてあったのです。

 正平24年(1369)に貞信が城主になってそれから3代続き、応永19年(1412)に楠 正威の楠一族に替わったと書いてあります。(聞いてナイヨ)と思いました。ほぼ六百年前とは言いながら、ここ伊勢の国、楠にわが家のルーツの地である信濃の諏訪出身の城主がいたなんて知りませんでした。
前の組の説明が終わり、こちらに向き直った説明員(ボランテイアでやっていますとのことだった)に、私は親が信濃・諏訪の出なので、城主の初代が諏訪出身と知って驚いていますと言うと、彼もエエツ、それで今はどこに住んでいるのですかと、ちょっとビックリされてました。後で考えれば見学者は各地から来るだろうから、驚くことはないのですが、私が感激していたのに影響されたのかも知れません。
 庄屋をやっていたこの地区の岡田家の家屋敷が市に寄付されて、この資料館が建設されたことはさておき、私は長年の疑問が、この諏訪十郎貞信の名前のせいでまた頭の中に湧いてきました。 それは四日市言葉の語尾には、「~で」、「~でね」という言葉が多用される事なのですが、これは信州の諏訪地方も全く同じ言い方をするのです。
 「明日も忙しいでね、帰る時間がおそくなると思うで、晩御飯はいらねえわさ。」と言うような具合です。
これは今でも結構日常的に普通に使われている言い方です。(と今回の四日市で改めて思いました。)確か、名古屋地方ではこの言い方はあまり聞きません。(と思います)

 さて、600年前に諏訪からきた殿サンとその家来連中が喋っていた言葉が、その後もこの地に残ると言うことがありえるのでしょうか?それとも私が知らないだけでこの「~で」、「~でね」と言う言い方は三重県各地では普通の言い方で、諏訪とは全く関係ないのでしょうか?
 もう一つ、「それは違うに」の「に」と同じくらい、語尾に「それは違うわさ」と「さ」が多用されるのも名古屋弁と違うところだと思うのです。若い連中がテレビの東京弁に影響されて日本各地で言う「~さ」ではなく、年配の我が同級生が今も自然に語尾に、「さ」をつけて話します。これも関東方言圏の信州では普通の言い方です。

 兵庫県の出石の「出石蕎麦」のルーツは、江戸中期に信州上田藩の仙石政明が出石藩に国替えになり、そのとき上田の旧国許から蕎麦職人を連れてきたのが始まりで、平成の今も信州ソバ系の「出石ソバ」で残っていますが、食べ物でもない信州・諏訪の「物言い」が四日市に600年後の今も残るでしょうか?

 旧市内の真ん中にある四日市の諏訪神社をインターネットで調べると、「鎌倉時代の建仁2(1202)年、信濃の諏訪大社より勧請した神社で、うんぬん」とあり、この城主とは直接の時代の関わりはないようです。
世間様に何のお役にも立たない極私的疑問をいつか晴らすべく、あちこち渉猟するヒマネタがまた出来ました。    了
 
追記

 ある時期の父親の勤務地だった四日市は、阿智胡地亭には地縁も血縁もない土地ですが、阿智胡地亭はたまたま当地で生まれました。
しかし偶然とはいえ、四日市には信濃の諏訪大社から勧請された諏訪神社があり、この神社をセンターにして四日市は江戸時代から市が立ち、町が栄えました。
 そんな四日市の隣の町にある楠城の初代城主が、諏訪からきた武士だったと知ると、四日市が縁もゆかりもない土地とはとても思えなくなりました。

 もう一つ諏訪大社がらみのエピソードでは、東京の江戸川区に住む身内がたまたまここに住もうと決めた平井にも、由緒ある諏訪神社があることに後で気が付いたそうです。
一家は初詣やお宮参りは諏訪神社に詣でています。

まるで諏訪の神様に呼ばれたように、平井で家を借りる契約をしたことになりました。諏訪から出てきた諏訪大社の氏子一家がたまたま住む事になった他国の地に、既に諏訪神社がその土地で尊崇されていたのは、全くの偶然が続いたとはいえ、ありがたいような不思議な気がします。

諏訪の神様は日本全国に勧請されて分布していて、阿智胡地亭が現在住んでいる神戸にも諏訪神社があり、諏訪山という地名があります。

四日市の諏訪神社のエントリー
平井の諏訪神社のエントリー



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