清沢冽は中外商業新報(現日本経済新聞)や東京朝日新聞の記者をしたジャーナリスト。
清沢は1941年2月、内閣情報局によって「意見の発表を禁止すべき人物」にリストアップされ、発言の機会を封じられる。
1945年5月21日、戦後を見ることなく、肺炎のため55歳で急逝する。死の4ヶ月前の日記には戦後日本への遺言のような言葉がある。 【言論の自由が行われれば日本はよくなるのではないか。来るべき秩序においては、言論の自由だけは確保しなくてはならぬ】
彼はリベラルな姿勢を貫いたため、戦時中はほとんど発表を封じられた。戦時の軍国日本を痛烈に批判した日記が死後「暗黒日記」として刊行された。
○「世界の歴史において一国の政治が、かくのごとく低級無知なる人間の一団の手に落ちた例ありや」(1945年5月20日 暗黒日記)
○「元来が、批判なしに信ずる習癖をつけてこられた日本人」 (1945年4月17日 同)
○「ジャーナリズムだけには両方の立場を公平に報道するというリベラリズムが必要である」
「日本の新聞の欠乏しておるものは、リベラリズムの立場がないこと」
「リベラリズムのない国の新聞と言うものは、とかくに一つのサイドのニュースしか伝え得ない」 (1934年 講演)
○「注入主義の教育は、何が善であり、何が悪であるかということを内容を検討せずに教え込む」
「詰め込み教育の危険なのは、物を批判的に見ず、ある既成概念を固守する結果、社会的に討議して、
漸進的進歩をとるということが困難だ」 (1935年 論文「現代日本論」)
「清沢さんにとって、人間に一番大切なことは自由と幸福を追求すること。それを阻む戦争には徹底して反対だった」・・清沢冽顕彰会 事務局長 永沼孝致さん
「父は勉強についてはなにも言わなかったが、人を肩書きで見てはいけないと言っていた。父にとっての教育とは学問だけはなかったように思う」
「お前にただ一つの希望がある。それはお前が相手の立場に寛大であろうことだ。そして一つの学理なり、思想なりを入れる場合に、
決して頭から断定してしまわない心構えを持つことだ」・・「1933年 我が子に与ふ」
♪「シリーズ戦争と言論人ー足跡を訪ねて ③ 清沢 冽」2010年8月10日付日経新聞朝刊の記事を一部引用かつ要約。
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