何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

自然が織りなす秋の赤

2016-11-17 19:15:55 | 自然
毎年毎年、「近年最高のデキ」を「フルーティー」だの「フレッシュ」だのと表現してきたが、それもネタが尽きたのか、今年の味はナント「エレガント」なのだそうだ。

<今年の味は「エレガント」 ボージョレ・ヌーボー解禁> 朝日新聞デジタル 11/17(木) 0:50配信より一部引用
17日に解禁されたフランス産ワインの新酒「ボージョレ・ヌーボー」を楽しむイベントが東京・渋谷であった。主催した「ボージョレワイン委員会」によると、今年は滑らかなタンニンと爽やかな果実味が楽しめる「エレガント」なワインに仕上がっているという。

本気で飲めばウワバミかもしれぬほど「強い」自信はあるのだが、幸か不幸か、それほどアルコールを好む方ではないので、11月の第三木曜日よりも11月15日の方が、私にとっては大切な日だ。

11月15日、上高地から閉山式のニュースが届くと、私の中で冬のスイッチが入るのだが、晩秋の上高地(信州)は一度しか訪問したことがない。
この時期まとまった休みを取りにくいという事情もあるが、秋に物悲しさを感じ行動力が鈍るのは、母が好きな詩のせいかもしれない。
その詩は、母が学生時代に愛読したヘッセの詩集にあったものらしいが、転勤で転居を繰り返しているうちに詩集を失くしてしまったそうだ。数年前、伝手の伝手をたより編集者の方に探して頂いたことがあるのだが、その当時出版されていたヘッセの詩集には、母が云う「枯葉」という詩は確認されなかったので、今となってはヘッセの作品か否か定かではないただ、この詩が私の秋(観)に大きく影響してきたことは確かだ。

枯葉
 私の前を 
風に吹かれていく 枯葉
さすらいも
若さも
愛も
その時があり 終わりがある
あの葉は
風のまにまに あてもなく彷徨い
あげくの果ては森か溝の中にとまる
私の旅は どこまで続くだろうか


若さの終わりを感じる年になったせいか、この詩がもつ物悲しさは、私の中で増しているような気がしていたのだが、最近夜、信州の秋を見事に写し撮っておられるブログなどを訪問し、ホッと一息ついた後など、井上靖氏のいう涸沢の秋も思いだし、夢うつつのまま眠りにつく。
『10月はじめ穂高に登った。涸沢小屋で一泊したが、往きも帰りもナナカマドの燃えるような紅葉の中を歩いた。紅葉に酔うというと変に聞こえるかも知れないが、正真正銘酔っているような気持だった』 (『 』「穂高の月」より)

秋の涸沢に登ったことはないので、この↑写真はウィキペディアさんからお借りしたものだが、「山の季節」(田淵行男)にも涸沢岳をバックし燃えるようなナナカマドの写真が収められている。信州の山をこよなく愛する田淵氏は、山に静けさが戻る秋から初冬が好きだというだけあって、そこに季節の移ろいの寂しさだけを感じておられるわけではない。

季節の置手紙 (「山の季節」より)
十一月初めの常念乗越
深雪のちりばめる小さな足型
初冬の山で 私の受け取る
季節の便り 

兎 リス テン 狐 オコジョ
そして雷鳥
山の友達の素朴な置手紙を
ほのぼのと眺め
しみじみと読み

私も山靴で返書を
余白の雪に書き残して
初冬の山を下りる

ひととせの山路の暦を
心の中でめくりながら
ひととせの山路の日記を
心の中でたどりながら
私の季節の山を閉じる
私は季節の山を下りる

山を遠ざかって 山を眺める季節
山を離れて 山を想う季節
追憶の地図をひろげて
回想の山路をたどる季節
山への希望を育てる季節


秋に人生を重ねて愚にもつかぬ物思いに浸っているよりは、『追憶の地図をひろげて』『希望を育てる季節』と受け留めた方が、残り少ない秋を有意義に過ごせるというもの。
歩いてきた道程を振り返りつつ、来年こそは常念岳に登りたいと期待に胸を膨らませながら、食欲の秋でお腹も膨らませる秋の夕べである。
ボージョレ・ヌーボーで乾杯!

写真出展
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Autumn_Karasawa.jpg?uselang=ja
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