何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

読書と応援の道 

2015-11-18 00:05:37 | 
「ウンがついている」で、「流れ星が消えないうちに」(橋本紡)について「つづく」としたが、この本も含め読書と心の変遷について考えてみる。

長年、読書備忘録をつけてきたが、この「何を見ても何かを思い出す」を書くようになり、本のなかの心を打つ言葉に注目するだけでなく、その言葉の何処が心に響くのか、その言葉の何に引っ掛かりを感じるのかに注目するよう心がけると、これまでとは違った視点が生まれ新鮮な毎日を送っている。

今、私的に注目しているのが「心を打つ作品や言葉は年齢とともに変化するのか」ということだが、それを考える契機となったのが「流れ星が消えないうちに」で、主人公の娘と父が「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)について語り合う場面である。
父は、トントン拍子に出世をしているにもかかわらず、本当にやりたかったことをするために会社を辞め、人生の再出発をしたいと悩んでいる。
娘は、高校時代から付き合っていた恋人が、海外で(現地で出会った)女性と一緒に事故死したことから立ち上がれないでいる。

「車輪に下」を読んでいる父に、「おもしろいか」と娘は問う。
この問いかけに、父は答える。
『前もおもしろい話しだと思ったんだが、今読むとさらにおもしろい。~略~
 立ってる場所が変わると、同じ風景でも違うように見えるものなんだな』

この、「車輪の下」を「若い頃以上に今は更におもしろい」という答えに、どうしようもないく違和感を感じたのだ。
『立ってる場所が変わると、同じ風景でも違うように見えるものなんだな』という言葉は、本書の核をなす思想であり、大いに共鳴できる。が、「神様のカルテ2」の夏目漱石「こころ」論ではないが、「車輪に下」にあるのは感動ではなく、もちろん「おもしろい」でもなく、絶望なのではないか? それとも私も年をとれば(立つ位置が変われば)、「車輪の下」をおもしろいと感じる時がくるのだろうか?と疑問に感じたことが、読書と心の変遷を考える切っ掛けとなったのだ。(参照、「良心に恥じぬということ」
 
立ってる場所が変わると、同じ本でも違うように読めるのか。
例えば、「長い目で見てSeize the Day」「日々是好日」(森下典子)は長年読みたいと思っていた本だと書いたが、本書に出会ったのは、もう何年も前のNHKラジオの新刊書の朗読コーナーだった。
ラジオでは、人生の節目ごとに躓き悩む作者が茶道の世界と如何に関わり如何に成長してきたかという箇所を集中的に朗読していたのだが、作者の『自分だけ始まらない』という思いは、当時の私の心に妙に響いた。
あれから何年もたったが、今「日々是好日」を読んでも、初めて聞いた時と同じに心にすっと入ってくるものがあるのは、この間、私に変化も成長も無く、立ってる場所が変わらなかったからなのか?
その一方で、「自由 平等 博愛」「星の王子様」(サン=テグジュペリ)は「読むたびに気になる箇所が違ってくるのは、読む側の心模様を映し出すからかもしれない」と書いているように、時とともに(読書)景色も違って見えることも実感している。

何度読んでも同じ感想に行きつく本と、読むたびに感想が変わる本。

このところ、そんな事を考えながら本を読んでいたが、結局のところ「日々是好日」前書きの映画「道」(フェリーニ監督)についての考えに収斂されると感じている。
この映画について作者は、小5で見た時にはさっぱり意味がわからず、大学生で見た時には胸をかきむしられポロポロ泣き、三十代半ばで見た時には「人間はなんて悲しい」と思い胸が張り裂けそうになったと、時とともに「道」の理解が変化する様を書いているが、時とともに理解が変わるのは、映画「道」だけではない。
作者がお茶のお稽古を続ける25年の間には、茶道の世界に対する反発もあれば失望もあったし、お稽古と人生の壁にぶつかり止める寸前までいくこともあった。が、ともかく25年という歳月を茶道とともに歩むことで、茶「道」の深いところを理解していく、その道のりを、作者は映画「道」に重ねているのだ。

『世の中には、「すぐわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。
 すぐにわかるものは、一通り過ぎればそれでいい。
 けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの「道」のように、何度か行ったり来たりするうちに、
 後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別のもの」に変わっていく。
 そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。』

ただ、すぐに分かったものでも一通りで過ぎるのではなく、何度でも行ったり来たりするうちに、更にじわじわ分かりだすものがあり、自分が見ていたのは、全体のほんの断片に過ぎなかったと気付くことはあると思う。
何かを見つめるとき、同じ作品・同じ対象のなかにも個々に「すぐ分かるもの」と「すぐには分からないもの」があると思うからだ。
だから、私は読んだ本の数を数えあげるのではなく、何度でも同じ本を読み、以前には気付かなかった断片を拾い続けたいと思っている。

ところで、何年も見つめ応援し続けている対象として、皇太子御一家がおられる。
周囲の年長者は口をそろえて、「皇太子様には、幼少の砌から得も言われぬ品格とオーラがおありで、今もそれは増しこそすれ変わることはない」と言う。
私にとっての皇太子ご夫妻とは、御成婚当初は雅子妃殿下の華々しい御経歴が尊敬の対象であったが、御成婚後なかなかお子様を授からない苦しい日々を穏やかに過ごされる御姿を拝見することで、両殿下のなかにある「すぐには分からなかった素晴らしいもの」に気づき、尊崇の念は深まった。
皇太子様が年を追うごとに「単に幸せな人になって欲しいというのではなく、どのような環境にあっても幸せを見出せる人になって欲しい」という願いを見事に結実されていかれる御姿は、厳しい未来の指針となると思われる。(参照、「イーハトーブの星」
又、苦しい治療と流産を経て敬宮様を授かられるまでの苦しい日々を冷静に過される雅子妃殿下を拝見し、知性に裏打ちされた精神力というものがあることを知った。その後、男児を授からなかったことで様々な方面から攻撃を受け、遂には病に倒れてしまわれたが、大嵐のような大バッシングに遭っても他を責めず耐え忍び、苦難の時を乗り越えようとされる御姿に、諦めないことの大切さと生きた「不苦者有知」を教えて頂いた。

敬宮様は、女子であるというだけで辛い茨の道を歩んでおられるが、躓きながらもその度に立ち上がり、前にも増して確かな成長を続けておられる。
それは、敬宮様が皇太子ご夫妻の「すぐ分かる素晴らしいもの」も「すぐには分からないけれど素晴らしいもの」も確実に受け継がれているからだと信じている。

読書の道も応援する道も続いている。
じわじわ理解を深め、「すぐには分からないけれど素晴らしいもの」の断片を楽しく見付けていきたいと思っている。

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