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良心に恥じぬということ

2015-10-28 12:35:15 | ニュース
<米艦南沙派遣>数時間の「航行の自由作戦」緊張高まる 毎日新聞 10月28日(水)0時9分配信より一部配信
米海軍のイージス駆逐艦が南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島で、中国が埋め立てた人工島から12カイリ(約22キロ)の海域内を航行したことに対し、中国政府は27日、軍艦2隻で追跡・警告したことを明らかにした。中国は「主権を脅かすものだ」と強く反発しているが、米国は同様の作戦を数週間から数カ月続ける方針を示し、米中間の軍事的緊張が高まっている。


この件に関して私見を書くつもりはない、というよりは書くだけの情報も知識もない。
人も国も命をかけても守らねばならないものがあるかもしれないし、それはその時々に応じて名誉だったり人命だったり財産であったりするのかもしれない。しかし、そのための掛け声はいつも「自由と平和のための行動」ということになるのだとしたら、肝に銘じておかねばならない言葉があると、ある本の一節を思い出した。

「神様のカルテ2」(夏川草介)
信濃大学医学部出身の主人公栗原一止は、地域医療の一端を担いたいと地域の中核病院で寝食を犠牲にし身を粉にして働いている。そこに大学時代に「医学部の良心」とまで云われた友人がUターン就職するのだが、かつての「医学部の良心」は目に冷めたものを光らせルーチンワーク以外一切の診療に関わろうとしようとしない。
かつての「医学部の良心」は『僕らは医者であるというだけで、まともな食事も睡眠も保障されていないんだ。狂っていると思わないか、栗原(一止)』と問う。
『今さら何を卒業したての研修医のようなことを言っている。そんな理不尽など百も承知で我々は医者をやっている。』と答える一止自身、その日も当直明けにもかかわらず通常通りの診察をこなしているという過酷さだ。
双方それを十分に分かったうえで、今更ながらの禅問答をしているのだが、その締めくくりに一止がかつての「医学部の良心」に投げかける言葉を、「航行の自由作戦」に届けたい。

『良心に恥じぬということだけが、我々の確かな報酬である』
二人は学生時代、この言葉を語り合っていた。
『ケネディは戦争のためにこの演説をふるったが、我々は医療の為にこの言葉を用いようとよく言っていた。
 百人を殺す英雄ではなく、一人を救う凡人であろうとな』

しばらく続くと宣言されている緊張状態に、再度この言葉を届けたい。
「良心に恥じぬということだけが、我々の確かな報酬である』

ところで、主人公一止は夏目漱石「草枕」の愛読者であるが、私はどうにも夏目漱石に苦手意識があるというのは以前も書いた通りだ。その理由を国語の授業で習った「こころ」にあると自分なりに分析していたが、それがあながち間違いでないことに、この本を再読して気が付いた。
浪人中も酒を飲んでいたという新入生に一止が言う。
『ろくでもない浪人生だな。物事には順序というものがある。未成年が酒を飲むなど、漱石の数ある名著を読むのに、「こころ」から始めるのと同じくらい愚昧なことだ』
『~「こころ」だけ読むからダメなのだ。過程をすっ飛ばして結論だけ読んだ若者たちがこぞって''感動した''などとのたまうからバカバカしい。「こころ」にあるのは感動ではない、絶望だ』

「こころ」にあるのが絶望だとは分かったが、漱石に本格的に出会ったのが国語の授業の「こころ」であったのが、やはりいけなかったのかもしれない。そういえば、大人になり大の井上靖好きになれたのは、子供の頃に授業で習った「しろばんば」の洪ちゃの素朴さが根っこにあったからかもしれない。
何事でも順序は重要なのだろうが、読書の喜びは一生の宝だとすれば、そのきっかけとなる国語教科書で取り上げる教材の順序には、もう少し配慮が必要ではないかと思ったりしている、読書週間である。

ところで以前も書いたが、雅子妃殿下の母上の従兄に夏目漱石の研究家としても知られる江藤淳氏がおられる。
「神様のカルテ2」冒頭で紹介される漱石の『運命は神の与えるものだ。人間は人間らしく働けば結構だ』の言葉に、雅子妃殿下のお言葉を思い出した。
ご婚姻に関する皇室会議終了後の記者会見から1年が経ったことにあたってのご会見でのお言葉であったが、当時は風邪をひかれて公務を休まれていたこともあり、すわ御懐妊かと大騒ぎとなっていた頃でもある。記者の「妃殿下にお伺いいたしますが,ご懐妊の期待というのはかなり高まっていると思うのでございますが,逆にご本人としてそれに対してプレッシャーみたいなものはお感じになることはございますでしょうか。」という質問に対し、雅子妃殿下は「どうでしょう。特にそういうこともございませんけれども,物事はなるようになるのではないかという感じです。」とお答えになっている。

このお言葉については正直なところ、不躾な質問に対し少し不快感を持っておられるのかと感じたが、その後自分自身年を重ねるにつけ「物事はなるようになる」という言葉が決して投げやりなものではないと深く感じるようになっていた。

雅子妃殿下が、漱石の研究家でもある江頭氏から『運命は神の与えるものだ。人間は人間らしく働けば結構だ』という言葉を聞いておられたかどうかは分からないが、私自身「運命は神が与えるものだ。物事はなるようになる」と思い、なるべく心穏やかに為すべきことを為していきたいと思っている。

参照、「拙を守って偉くなれ」
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