「最後の武士道 その壱」より
賊軍の汚名を着せられ辛酸をなめたのは会津ばかりではなく桑名も奥羽越諸藩も同様であるように、少年剣士の悲劇は白虎隊だけではなく、その先陣として二本松少年隊も散っている。
その二本松藩から偉大な人物が誕生しているのは意外と知られていないのではないか。
日本人で初めてアメリカの大学(イェール大学)の教授となった朝河貫一。
朝河貫一は、明治6年福島県安達太良郡二本松の新長屋に、二本松藩砲術指南朝河家の未亡人ウタに入夫していた正澄(二本松藩士宗形治太夫の次男)とウタ夫婦の間に誕生した。
後に日本人初のアメリカ大学の教授となり、その葬儀をイェール大学が行うほどの人物となった朝河を育てた元藩士家族の苦労を知れば、賊軍の汚名を着せられた諸藩の武士たちの生活も自ずと想像がつく。
「最後の日本人~朝河貫一の生涯~」(安部善雄) 『 』引用
『薩長の大軍が「会津攻めよか仙台取ろうか、明日の朝飯は二本松」と豪語しながら、怒涛のように奥羽に押し寄せた時、
二本松少年隊の最後の雄叫びが七月の安達太良山にこだまし、若松少年隊の屠腹の血が八月の飯盛山を染めた。』
貫一の母となるウタは信州田野口藩の藩士の長女で、二本松藩砲術指南役の朝河家に嫁いできた人だった。夫・朝河照成との間に二人の娘をもうけたが、夫照成は天狗党討伐のさい戦死し、舅も戊辰の役で戦死した。一家の大黒柱を失い姑と幼い娘を抱えたウタを更なる悲劇が襲う。二本松城炎上とともに家屋敷も焼失してしまったのだ。路頭に迷ったウタを救ったのが、同じ二本松藩の宗形正澄だった。
正澄は朝河家に婿入りし、一家で新長屋に移り住んだが、『武士を離れた夫婦は、どん底の生活苦を味わわなければならなかった。傘張り・手習師匠や、よその洗濯仕事・針仕事などの内職に身を粉にして働いた』
家族を飢えから守るために、二人は必死で内職しながら、正澄は小学校三等授業生の教員資格を目指して励み、教員資格を修得し教員として迎えられるの契機に、二本松を去るのだ。
一家の内緒は厳しく苦学生ではあったが貫一は大いに学び、また自身も小学校で嘱託教員を務めながらも更に学び続け東京専門学校(のちの早稲田)の編入学し、東京専門学校を首席で卒業すると、その後はダートマス大学やイェール大学で給費性として学んだ。
ただ象牙の塔にこもる学者となったのではなく、日露開戦時には「日露衝突―その若干の原因」という著書において、東アジアにおける国際的関係 -日本の台頭と南下政策を強めつロシアとの関係と清国でのヨーロッパの植民地政策 -を冷静に分析し、日本がロシアと戦端を開かずにはいられなかったと、日露戦争における日本の正当性を訴える活動もした。ダートマス大学で教鞭をとる貫一のこの著書と活動が、アメリカの外交政策に与えた影響力を正確にははかれないが、アメリカ仲介の日露講和のポーツマスへの道を示す説得力を有していたのは確かなようだ。
貫一はヒットラーの自殺も早くから予言していたし、「成功の見込みは百万に一つ」と知りつつも日米開戦を未発とするべく
ルーズベルトに天皇陛下宛ての親書を書くことも勧めていたという。
朝河貫一は、外国の封建制と日本のそれとを国際比較のなかにおきながら追及するとという歴史意識をもっていたが、その『原初的なモチーフは‘’武士道‘’の本質を見極めることにあった』のだろう、と本書の筆者は記している。
では、二本松藩士であった父が士族の身分を離れた後に誕生した貫一にとっての、原初的なモチーフとなった‘’武士道‘’とは何か。
「最後の日本人」の解説より
『朝河貫一は1873年(明治6年)福島県二本松の城下に生まれた。朝河家は藩の砲術指南を勤める家柄だったというが、貫一の生まれるわずか五年前に、二本松藩は戊辰戦役で会津の先鋒として死闘を戦い、壊滅して朝敵の汚名を着たことを思えば、たとえ父親の口は重く敗北の歴史は子に語られなかったとしても、後にこの少年が歴史に目を開いていくその背後に、二本松の戦争の傷痕が翳をおとしていたのではないかと思わずにはいられない』
賊軍の誹りを受ける藩の子弟でありながら、世界と対等のわたりあえる学問を修め、日露戦争や太平洋戦争において日本の為に海外から活動する人物となった朝河貫一を知るにつけ、国内で卑屈なまでに西欧化を取り入れる反動で意固地なまでに日本的なものにこだわり歪みを生じさせた官軍側の政策について、多々思うところはないでもないが、あまり難しいことは分からない。
難しいことは分からないので、私にも実践できるかもしれない朝河貫一の自戒を記しておく。
一 自分の気分を他人に押し付けることなかれ
一 よほど必要でない限り、自分の長所を他人にてらうことなかれ
一 他人が自分をどのように思うも、気にすることなかれ
この自戒にも武士道の精神は生きていると思う つづく
参考文献 日本の禍機 著・朝河貫一
賊軍の汚名を着せられ辛酸をなめたのは会津ばかりではなく桑名も奥羽越諸藩も同様であるように、少年剣士の悲劇は白虎隊だけではなく、その先陣として二本松少年隊も散っている。
その二本松藩から偉大な人物が誕生しているのは意外と知られていないのではないか。
日本人で初めてアメリカの大学(イェール大学)の教授となった朝河貫一。
朝河貫一は、明治6年福島県安達太良郡二本松の新長屋に、二本松藩砲術指南朝河家の未亡人ウタに入夫していた正澄(二本松藩士宗形治太夫の次男)とウタ夫婦の間に誕生した。
後に日本人初のアメリカ大学の教授となり、その葬儀をイェール大学が行うほどの人物となった朝河を育てた元藩士家族の苦労を知れば、賊軍の汚名を着せられた諸藩の武士たちの生活も自ずと想像がつく。
「最後の日本人~朝河貫一の生涯~」(安部善雄) 『 』引用
『薩長の大軍が「会津攻めよか仙台取ろうか、明日の朝飯は二本松」と豪語しながら、怒涛のように奥羽に押し寄せた時、
二本松少年隊の最後の雄叫びが七月の安達太良山にこだまし、若松少年隊の屠腹の血が八月の飯盛山を染めた。』
貫一の母となるウタは信州田野口藩の藩士の長女で、二本松藩砲術指南役の朝河家に嫁いできた人だった。夫・朝河照成との間に二人の娘をもうけたが、夫照成は天狗党討伐のさい戦死し、舅も戊辰の役で戦死した。一家の大黒柱を失い姑と幼い娘を抱えたウタを更なる悲劇が襲う。二本松城炎上とともに家屋敷も焼失してしまったのだ。路頭に迷ったウタを救ったのが、同じ二本松藩の宗形正澄だった。
正澄は朝河家に婿入りし、一家で新長屋に移り住んだが、『武士を離れた夫婦は、どん底の生活苦を味わわなければならなかった。傘張り・手習師匠や、よその洗濯仕事・針仕事などの内職に身を粉にして働いた』
家族を飢えから守るために、二人は必死で内職しながら、正澄は小学校三等授業生の教員資格を目指して励み、教員資格を修得し教員として迎えられるの契機に、二本松を去るのだ。
一家の内緒は厳しく苦学生ではあったが貫一は大いに学び、また自身も小学校で嘱託教員を務めながらも更に学び続け東京専門学校(のちの早稲田)の編入学し、東京専門学校を首席で卒業すると、その後はダートマス大学やイェール大学で給費性として学んだ。
ただ象牙の塔にこもる学者となったのではなく、日露開戦時には「日露衝突―その若干の原因」という著書において、東アジアにおける国際的関係 -日本の台頭と南下政策を強めつロシアとの関係と清国でのヨーロッパの植民地政策 -を冷静に分析し、日本がロシアと戦端を開かずにはいられなかったと、日露戦争における日本の正当性を訴える活動もした。ダートマス大学で教鞭をとる貫一のこの著書と活動が、アメリカの外交政策に与えた影響力を正確にははかれないが、アメリカ仲介の日露講和のポーツマスへの道を示す説得力を有していたのは確かなようだ。
貫一はヒットラーの自殺も早くから予言していたし、「成功の見込みは百万に一つ」と知りつつも日米開戦を未発とするべく
ルーズベルトに天皇陛下宛ての親書を書くことも勧めていたという。
朝河貫一は、外国の封建制と日本のそれとを国際比較のなかにおきながら追及するとという歴史意識をもっていたが、その『原初的なモチーフは‘’武士道‘’の本質を見極めることにあった』のだろう、と本書の筆者は記している。
では、二本松藩士であった父が士族の身分を離れた後に誕生した貫一にとっての、原初的なモチーフとなった‘’武士道‘’とは何か。
「最後の日本人」の解説より
『朝河貫一は1873年(明治6年)福島県二本松の城下に生まれた。朝河家は藩の砲術指南を勤める家柄だったというが、貫一の生まれるわずか五年前に、二本松藩は戊辰戦役で会津の先鋒として死闘を戦い、壊滅して朝敵の汚名を着たことを思えば、たとえ父親の口は重く敗北の歴史は子に語られなかったとしても、後にこの少年が歴史に目を開いていくその背後に、二本松の戦争の傷痕が翳をおとしていたのではないかと思わずにはいられない』
賊軍の誹りを受ける藩の子弟でありながら、世界と対等のわたりあえる学問を修め、日露戦争や太平洋戦争において日本の為に海外から活動する人物となった朝河貫一を知るにつけ、国内で卑屈なまでに西欧化を取り入れる反動で意固地なまでに日本的なものにこだわり歪みを生じさせた官軍側の政策について、多々思うところはないでもないが、あまり難しいことは分からない。
難しいことは分からないので、私にも実践できるかもしれない朝河貫一の自戒を記しておく。
一 自分の気分を他人に押し付けることなかれ
一 よほど必要でない限り、自分の長所を他人にてらうことなかれ
一 他人が自分をどのように思うも、気にすることなかれ
この自戒にも武士道の精神は生きていると思う つづく
参考文献 日本の禍機 著・朝河貫一