何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

番外編 個々の点とぜんぶ

2018-10-05 12:00:00 | 
今年の夏山は、自分自身が不完全燃焼だったということもあるが、かなり不愉快な話が話題となり、山が穢されたような気がしている。

山や自然を歩く楽しみはそれぞれだろうが、生活を賭けている登山家は別にして一般には、俗世間から離れ自然を楽しむために、そこに身を置くのではないだろうか。それが、自分の優位性を誇示するために、より高い山を登ろうとする、しかも不心得な手段を使ってでも登ろうとする輩がこの夏に話題となり、かなり不愉快な思いをしていた。

もっとも最近では、山を舞台にした小説にまで、殺人やらテロやらが持ち込まれていることを見ると、現在の山は「そこに山があるから(登る)」という単純なものではないのかもしれない。

そんな思いを持っているときに読んだ本。

「白虹」(大倉 崇裕)

山岳ミステリーというジャンルの本なので詳細を書くことは控えるが、夏の間だけ山小屋でアルバイトする元警察官の五木を主人公とする本書は、「気づくこと」「(それに対して)どう動くか」について考えさせられる。
五木には、人には見えないものが、見える。
と書いたからと云え、アチラの世界の話ではない。
観察眼が鋭いのか感性が豊かなのか、五木は他の人が気付かないような些細ことに、気付く。
警察官時代には、先輩警察官が見過ごしてしまうような小さな「点」に事件の端緒を見出し追い詰めるのだが、他の協力が上手く得られず、結果的には最悪の事態を招いてしまう。
山小屋でアルバイトするようになっても、先輩小屋番が気に留めないような「点」に違和感を覚え 行動したおかげで一人の遭難者を救うのだが、後にその遭難者が人殺しをしたうえ自殺したという二ユースを知り、「自分が、あの時救わなければ、殺人事件は起きなかったのではないか」と苦しむ。

「観察眼が鋭く、些細な違和感に気づくことができる」「それに対して、対応できる」というのは、警察官としても小屋番としても、優れた特性なのだろうが、それによる結果は必ずしも’’吉’’とはでない。
では、何にも気づかず、何もしなければ良いのか?
苦しむ五木に先輩警察官が言った言葉が印象的だ。(『 』「白虹」より)

『君が見ているのは、白虹かもしれないな』
『日暈とも言う。太陽や月の周りに、巨大な丸い光の輪が見えるんだ。雲を通り抜けるとき、日光や月光が屈折して起きる、珍しい現象なんだそうだ。私も何度か見たことがある。巨大な光の輪が空に浮かび上がって、息を呑む美しさだったよ』
『その一方で、白虹は凶事の兆しとも言われているんだ。白虹貫日という言葉を聞いたことはないかな?』

同じ光の輪を、『息を呑む美しさ』だと感嘆するのか、『凶事の兆し』と恐れおののくのか、本来同じ一つのことでも、見方は大きくことなるし、見方が変わればそれへの対応も異なってくる。

そう考えると、個々の「点」の位置づけは、「点」ではなく、「全部」の中でこそ生じてくるのだと思うのは、今日が「時刻表の日」ということから「点と線」(松本清朝)を思い出したからかもしれないし、夏の山でそのあたりについて考えたからかもしれない。

そのあたりは又つづく、のだが、次回はたぶんちょっといい話。


追記
山に穢いものを持ち込む輩は、それにより得られるものに、美しいもの(利点)をみているのかもしれないが、それは白虹でいずれ凶事に変わるかもしれない。