何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

道程 それを人生と人は呼ぶ

2017-01-06 22:33:55 | 自然
今年は暗澹たる気分で年明けを迎え、何を書く元気もなかったのだが、仕事始めで日常ペースに戻り、寒の入りともなれば、いつまでもグダグダ愚痴ってもいられない。
愚痴ってもいられないのだが、このような心情になる原因を自分なりに考えてみると、一つに年齢があると思ったのは、正月休みにしていた写真の整理で、ある写真を見たからだ。
蝶が岳から続く憧れの常念岳への道

昨年は、憧れの常念岳に初挑戦のつもりが、家人の突然の病気のため急きょ取りやめとなり、常念岳は未だに憧れの山のままだ。  「憧れ、常に念じる山」
北穂、奥穂、槍ケ岳と、常念岳より標高の高い山に登りながら、常念岳~蝶が岳の縦走が出来ていないのは、車でのアクセスの問題もあるが、常念岳~蝶が岳を歩いた人の脅しが効いているせいもある。

曰く、登りつめては下山する山とは違い、縦走には違う趣があるのだという。
縦走を、てっぺん散歩などと云えば楽しそうだが、実際には登っては下り登っては下りの連続だ(そうだ)
せっかく稼いだ高度を、一気に下り、また登らなければならない尾根歩きは、体力的にキツイというよりは精神的に堪えるのだそうだが、私が憧れる常念岳~蝶が岳間の凸凹はかなりキツイらしく、西に広がる穂高連峰~槍ケ岳の大パノラマがなければ心が折れてしまうと脅されてきた、これが妙に効いていて、私は憧れながら常念岳にもその縦走にもチャレンジ出来ていなかった。
この写真を見ながら、そんな脅しを思い出していると、尾根歩きとは、そろそろ差し掛かる年齢に似ているように思えてきた。
若い頃のそれは、ただ真っ直ぐひたすら上を見上げて必死で進めば良いのかもしれない。
一つの目標を達成すれば、リセットしなおし新たな目標へと上を向いて歩く、それが若いということかもしれない。
だが、ある年齢になると、もう、一旦 総てを降ろして、あるいは総てから降りて、一から登りなおすということは難しい。
それまで歩いてきた延長線にしか、これからの道はないのかもしれない・・・・・。
とは云え、この晴れやかな空の元の稜線伝いの道を見ながら、愚痴っぽく湿っぽくなるのを年齢のせいばかりにしてはならない。
私が穂高に憧れ山を歩きたいと思った切っ掛けの一つとなった「氷壁」のなかで井上靖氏は「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」と書いているそうだ※注
そうであれば、今の私の愚痴っぽさは、新年早々怠けの虫に憑りつかれているせいかもしれない。

だらだらと登り下りを繰り返す道も、足元には可憐な花が咲いているかもしれないし、何より西に目を転じれば、槍ヶ岳から穂高連峰への雄大な大パノラマが広がっている。
 「目を転じる」と云えば、面白いけれど考えさせられるコマーシャルがあったな ワンコ
「空から桜吹雪のように万札が降っているのに、うつむいてトボトボ歩いている人は、その万札に気付かない」っていうアレだよワンコ
しかめっ面で考え込んでいる時、家族に不穏な空気が流れている時、ワンコがフッと違う空気を運んでくれることで、緊張が解け、違う視点まで得られることが多かったよ ワンコ
せっかくワンコが、一呼吸置き違う視点でものを見るという大切さを教えてくれたのに、愚痴っぽい自分に逆戻りしていてはいかんな ワンコ
去年の今頃・・・そう思うと、胸が締め付けられるほど辛いよ ワンコ
だけど、ワンコと過ごした日々から何も学ばず退行していたのでは ワンコだって悲しいな
そんな風に思わせてくれる本を今読んでいるよ ワンコ
ワンコの''目的''が達成できたと思える自分になるよう努力するから、それを確認するために会いに来ておくれよ ワンコ

注※「氷壁」に「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」という言葉があるらしい。
いかにも主人公・魚津恭太の上司である常盤大作が言いそうな言葉だが、私としてはこの言葉は記憶にないし、読書備忘録にも記されてはいない。(本棚から「氷壁」を取り出し読めば分かることだが、それをする元気が、今はない)
だが、いつも訪問する山ブログさんに「山の本にある名言」として記されていたので、それを信用すると同時に、今の私に必要な言葉だと思い、引用させていただいた。

追記
題名の「道程 それを人生と人は呼ぶ」は、私の応援歌「道程(みちのり)」(作詞作曲 みなみらんぼう)から頂戴した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする