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キャンバスとしての都市

 大干ばつに見舞われた乾燥した気候の中で、人々は日干し煉瓦による住居をつくり始めます。日干し煉瓦は、粘土を固めた後に天日乾燥させて造る煉瓦で、アドビ(Adobe)と呼ばれる、砂、砂質粘土とわらまたは他の有機素材を使用したものも含め、見かけ以上に耐候性に優れ、古くから地球上の各地でよく使われてきました。これらの素材で造られた建物は熱を吸収したあと非常にゆっくりと放出するため、建物の内部は涼しいままに保たれ、乾燥地帯では理想的な建築材料の一つとなっていて、現在でも広く使われているのです。
 
洞窟から出た人々は、森林内に、いわば外に広がる空間から仕分けられた内なる空間としての空洞である居住地を切り開いていきました。その後、気候の変動に翻弄されながらも彼らは、農耕をはじめ、移動生活から定住生活へと移行し、人口を増やしていったのです。大集団を形成するようになっていった彼らは、高密度な社会関係を生き抜くために理解〉を操作するための〈かたち〉=“言葉”を駆使した、十分に発達した“考え”「自己」意識をすでに獲得していました。自然環境や地理的状況の変化に、彼らはその新たに獲得した能力を使って様々に対応していったのです。
 前一万年前から
ヨルダン川流域のエリコで広がりつづけた農耕定住地は、ヤンガー・ドライアスの干ばつのあいだも自然のオアシスである湧水の近くで繁栄を続け、さらに大きな農耕共同体へと発展していきました。中庭と狭い路地で仕切られた家屋が蜂の巣のように密集した村の周りを、石塔を備えた巨大な石壁が囲い、さらにその周囲は深さ三メートル、幅三メートル以上の岩を削った掘割で囲まれていました。当初、森林内を切り開いてつくられた居住地は、ここでは堅固な石の壁となって、明確な境界として共同体の内外を仕分けるようになったのです。この壁が敵にたいする防壁として建てられたのか、洪水対策なのかは議論の余地があるようですが、いずれにせよ、この膨大な共同作業をやり遂げるほど政治的にも社会的にも発達したコミュニケーション能力を、彼らが獲得していたことをそれは示しているのです。


エリコの塔great stone tower jericho

 
その中で気候の乾燥化というさらなる変動に対応した彼らの住まいは、人工の洞窟ともいうべき日干し煉瓦や石などを使った内なる空間をつくりだしていきます。それが、仲間と共有し、理解を操作することを可能にした、キャンバスとしての内なる空間として機能したことを明らかにしたのが、トルコ中部のチャ夕ルホユック(Çatalhöyük)に残された古代都市でした。

 

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人工の洞窟

 森の中に仲間と共同して空洞をつくり出してきた人間は、その中に広がる居住地を彼らの共同の内なる空間として、外に広がる空間から仕分けてきました。自然の境界にせよ、人工の境界にせよ、「隔て」の意味をもつ境界が内の空間を外の空間から分けることは、意味を分けることが分かりの初めであるように世界に住むことの始まりであった、とドイツの教育哲学者オットー・フリードリッヒ・ボルノウさん*01は指摘します。それはドイツ語の空間ラウムRaumが文化と非文化との境界によって切り取られた「内なる空間」を意味した*01ように、文化を人間の共同の行為の及ぶ領域、非文化をそれ以外の領域とするならば、アブ・フレイラに住みついた人々は、まさにそうした意味で世界に住みついた人々だった、といっていいのかもしれません。
 
アブ・フレイラに生まれた共同体が恒久化したのも、野草の自生地やオークの林から離れられなくなったのも、原因は人口の増加というよりは、女性たちの食糧加工作業の結果だったのではないか、と考古学者で人類学者のブライアン・フェイガンさん*02は指摘します。女は植物性食物を採集して加工し、男は狩猟や漁にでかける。さらに手間がかかるようになった食糧加工の仕事は、女性を定住地に縛りつけ、何万年ものあいだ狩猟採集社会を特徴づけてきた移動の連続の暮らしを終わらせたのではないか、というのです。彼女たちの働きで多くの人びとが養われましたが、そのための代償もまた大きかったのです。昔からつづいてきた移動力と、社会の流動性が失われたのです。新しい恒久的なべースキャンプは急激な気候の変化にきわめて脆弱であり、とりわけ大干ばつには太刀打ちできなかった*02のです。
 
アブ・フレイラから人が去ったのは前10000年ごろでした。干ばつがいっそう深刻化したこの時期に、住民はこの村を見捨てたのです。ヤンガー・ドライアス期の終わりに再び温暖化が始まると、農業が生活の中心となり、前9500年ごろ、放棄されたテル(重層的に築かれたために丘状に盛り上がった遺跡)の上に、まったく異なった新たな定住地が出現*02したのです。
 
この新しいアブ・フレイラ(Abu Hureyra 2)はもっと大規模な村で、数千人の人口があったのではないか、といわれています。日干し煉瓦で建てられた長方形の、同じく日干し煉瓦の壁で仕切られた多くの部屋をもつ家が密集し、家々のあいだは狭い路地と中庭で仕切られていました。人々は穀物の栽培にほぼ全面的に依存していた*02とみられていています。
 
洞窟から出た人々は、大地の上にシェルターをつくって暮らし始めます。そのための技術的知能は、すでにネアンデルタール人が雪中の野営地として、マンモスの骨を組み、その皮をテント状に張ったものを44000年前に作っていたように、彼らは十分に持っていました。温暖期になり樹木が豊富に手に入るようになると、木材を組み合わせて作ったいわゆる竪穴式住居が生まれます。しかし再びヤンガー・ドライアス期の寒冷が始まると乾燥が進み、干ばつに見舞われるようになり、森は減少し、それまでの木材に依存した住居形式はとれなくなっていったのです。すでに大集団化していた彼らは、自然の洞窟に戻ることもできませんでした。そこで彼らは人工的な洞窟をつくり出していったのです。

Village on the Euphrates by AMT Moore, GC Hillman, and AJ Legge that was published by Oxford University Press in 2000

01
人間と空間/オットー・フリードリッヒ・ボルノウ/1978.03.03 大塚恵一・池上健司・中村浩平訳 せりか書房
*02:古代文明と気候大変動-人類の運命を変えた二万年史/ブライアン・フェイガン/河出書房新社 東郷えりか訳 2005.06.20

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森林の中の空洞

 いまから11500年前にアブ・フレイラに住みついた人々は、それまで何万年も続いた狩猟時代の移動生活から、このとき初めて特定の場所に定住する生活を始めたのです。彼らは密集した集落に、数世代にわたって、たがいに触れ合わんばかりの状態で暮らすようになり、こうした状況は、500年間続きました。温暖な気候と食料に恵まれたアブ・フレイラの「春」を謳歌していた彼らは、たとえ移動したいと思っても、もうそこから離れられなくなっていたのです。そしてその間に、家族同士の関係も、親族同士、若者と年寄りの関係もかぎりなく複雑なものになっていった*01のです。
 
500年のあいだ主に野生動物の狩猟、魚や野生植物の採取が中心だった彼らですが、11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から検出されています。この時期は、最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガー・ドライアスという寒冷期の始まりにあたり、この地域も気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、採集に依存していたこの地の人々は食糧確保のために農耕を始めた、と考えられるのです。
 
厳寒の雪と氷の世界から解放された人類は、その後も続いた気候変動に翻弄されながらも、植物の栽培(農耕)を始め、野生動物の家畜化なども始めていきます。それにともない人々の集落はさらに大きくなっていきました。多数の構成員による複雑な社会関係の構築とコミュニケーション・ネットワークの高密度化が急激に進行していったのです。それは人類、そしておそらくは人類だけが遭遇しなければならなかった生物学的な試練となったのです。高密度な社会関係を生き抜くために人類は、他の人間の行動を理解し、反応し、さらにその理解を他者と共有するだけにとどまらず、その理解を“操作”するという対処を余儀なくされていったのです。
 
〈理解〉を操作するとは、あることがらを〈理解〉させるために仲間に向かって発せられる〈かたち〉=“言葉”を使って、自らの意図する方向へ仲間の〈理解〉を導くことです。環境との相互作用の中で生まれた〈意味〉を、心的イメージの再現として〈理解〉し、それを仲間と共有するために、その〈理解〉に〈かたち〉が与えられます。その〈かたち〉は、情報伝達などの精神行動の働きを助ける媒体として働き、その〈かたち〉を意図したように操作することで、仲間に共通の〈理解〉を起こさせることを可能としたのです。そしてここにこの〈かたち〉を使って考える「自己」意識が生まれ、発達していきました。この〈理解〉の〈かたち〉は、音声として発せられる“言葉”だけではありません。身振りや手ぶり、岩壁に描かれた絵画や記号なども同じ役割を果たしていました。密集して暮らさざるを得なくなった人々にとって〈理解〉を操作する必然性はますます高まり、それを伝える〈かたち〉も発達していったのです。
 
初期のアブ・フレイラでは、集落は少数の円形の竪穴式住居で構成され、それらは家族単位の“巣”的な内なる空間でした。家族以外の仲間と共有していたのは、彼らが移住する場所として森林内を共同で切り開いてつくった間伐地で、植物が繁茂する中に人為的につくりだされた、いわば空洞だったのです。それはいみじくもドイツ語の「空間」を意味するRaum(英語のroomと同根)の語源*02と同一のものだったのです。


*01:古代文明と気候大変動-人類の運命を変えた二万年史/ブライアン・フェイガン/河出書房新社 東郷えりか訳 2005.06.20
*02:人間と空間/オットー・フリードリッヒ・ボルノウ/1978.03.03 大塚恵一・池上健司・中村浩平訳 せりか書房

 

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自らの手でつくりだす「空間」

 仲間たちが受け取る〈理解〉を操作するために、心の中の動物たちのイメージを“見”て“考え” て〈かたち〉にした31000年前の人類たちの行動を触発したものは、彼らが住み込む「空間」でした。その空間は、内なる空間として仲間と共有された空間で、仲間に〈理解〉を即し、〈理解〉を操作することを可能にした空間でした。そこには、その操作のために人為的に手を加えることのできる対象が存在し、それはある意味キャンバスとして利用できる空間だったのです。
 
人類は、そのキャンバスに自らの身体を動かし〈かたち〉を描き込みながら“考え”るということを進化させていきました。この最初のキャンバスである空間は、彼らの周囲に自然に存在した洞窟だったのです。彼らは何万年もの間そこで暮らしていました。厳しい氷河期の環境がそうさせたのです。
 
その進化の歩みは非常に緩やかだったように見えます。3万年のあいだ彼らが残した痕跡は、多くの具象的な動物画のほかは、ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガーさん*01も強調するように、たった32の抽象的な記号でしかなかったのです。しかし3300年前、象形文字が登場した時、それは確かに動物壁画を彷彿とさせ、それらを単純化、抽象化させていった延長上にあるものであることは明らかでしたが、具体的な対象を指し示すものだけでなく、ある種の事態を表現する動詞や形容詞的な文字も既に存在していました。そこには〈理解〉を操作するための〈かたち〉を十分に“考え”た、大きく発達した「自己」意識の存在があったのです。
 
緩やかだった歩みが大きく発達したきっかけは、その“考え”る「自己」意識を育んだ「空間」の大きな変化にあったのではないでしょうか。それは彼らが洞窟を出たあと、仲間と共有し、理解を操作することを可能にする、キャンバスとしての内なる「空間」を、自らの手であらたにつくりだしたことによっておこったものだったのです。


自らの手でつくりだした「空間」
世界最古の町といわれるエリコ(紀元前8000年頃)/パレスチナ ヨルダン川西岸地区

*01:最古の文字なのか?-氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く/ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー/櫻井裕子訳 文芸春秋 2016.11.10

 

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