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収縮する時間

  日本の古代の人々が感じていた「振動する時間」という感覚。それはさらに「収縮する時間」を形成していた、と文学者の平野仁啓さんは指摘*01します。古代日本人の時間意識は、まず何よりも稲の収穫に対する強い関心を契機として成立していた、と平野さんはいいます。人々は、稲の収穫に対する欲望に基づき、稲の収穫を目的として未来を考え、未来へと活動して行きました。そのとき人々の未来のイメージは、稲の収穫のイメージにほかならず、未来における稲の収穫のために、現実の日々の労働が行なわれていったのです。こうした状況の中で、未来はやがて到達すべき彼方にあるように見えますが、実は、未来に向って出発した時にはすでに未来は、祭りや予祝儀礼などの〈聖なる時間〉において決定されていて、完成されたものとして存在していたのです。
  この時、人々の活動の目標は、時間の前方にあるのではなく、時間の後方に見出される、と平野さんはいいます。人々は未来へと赴くのではなく、未来が現在となるのを期待して待つのです。それは未来へ生きるのではなく、過去へと時間を逆の方向に生きることを意味していて、人々の生き方は「収縮」の形式をとることになる、と平野さんはいうのです。予祝儀礼や祈年の祭の〈聖なる時間〉においては、神の力や神秘的な呪力が聖なる時間を満たしていくのに比例して、人間の力は無に近いまで極度に縮小されていきます。それは人間の生き方としてまさに収縮の形式を典型的に実現している、というのです。


未来と過去と現在とが一点に収斂する「収縮する時間」

   真木悠介*02さんは、〈俗なる時間〉において人間の労働が未来に向かうと同時に、平行する〈聖なる時間〉において、神の約束の未来が来るという「収縮する時間」は、やがて、未来と過去と現在とがその一点に収斂する〈時〉に完結し、充足されるといいます。予祝とはこの時の収縮の呪術に他ならなかったのです。

01:続古代日本人の精神構造/平野仁啓/未来社 1976.11.30
02:時間の比較社会学/真木悠介(見田宗介)/1981.11 岩波書店

 

 

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振動する時間

 古代の時間概念は、現代のように直線的ではなく、円環的で、不連続で、自由自在に変化する概念*01だったといわれています。一日、あるいは一年単位のループ状をなしていたり、昼と夜のように「繰り返し現れる対立の不連続」*02であったり、伝説や神話のように、過去におけるインパクトの大きさによって、その過去の時間距離が決定されたり、予言や神託のように、現在において未来の事象が決定されるなど、時間概念は過去、未来にわたって、自由自在に変化していたのです。
 
現代の〈直線としての時間〉に対峙すると思われがちな古代宗教における〈円環としての時間〉という考え方*03も、すでにわれわれの先入見である「時間は連続的に動いてゆくはずだ」という前提が入り込んでいる、と社会学者の真木悠介さんは指摘*01します。日本の上代では、時間はおなじく繰り返すものであっても、円形や循環ではなく、エドマンド・リーチ02が書いているように「繰り返す逆転の反復」「対極間を振動することの連続」「繰り返し現われる対立の不連続」であって、「同じ方向へたえず進行してゆくという感覚」はそこには前提とされていない、というのです。
 
リーチがいっそう原的な時間の感覚とした「振動する時間」、すなわち、夜と昼、冬と夏、乾燥と洪水、老齢と若さ、生と死といった図式にあっては、過去は何ら「深さ」をもつものではなく、すべての過去は等しく過去であって、それは単に現在の対立物にしかすぎない、と真木さんはいいます。リーチのいう「過去」はほんとうは過去というよりも潜在する現在であり、舞台裏で待機しているもうひとつの時空に他ならない、というのです。「振動する時間」の対極は非連続であり、時間がこのように対極間の矛盾として表象されることの帰結は、過渡期がひとつの危機であること、それは時間を直線として表象する者にとっては想像しがたい深みをのぞかせる危機として感じとられていた、というのです。それは「日がまた昇る」ことが必然ではないということを意味していて、そのことの底知れぬ不安を示していたというのです。


対極間を振動する時間
01:時間の比較社会学/真木悠介(見田宗介)/1981.11 岩波書店
02:人類学再考/エドマンド・リーチ/1990.01 思索社
03:聖と俗/ミリチャ・エリアーデ/風間敏夫訳/法政大学出版局 1978.12

 

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時間に“あらがう”行為

 稲垣榮三さんは、あらゆる時代に繰返された式年遷宮への参加は、その時代のもつ「個有の時間からの脱出」*01であり、それはミルチャ・エリアーデ*02が「永遠性に属する太初の時への回帰」とも「永遠の反復」とも呼んだ構造と同じ性格をもつと述べています。エリアーデが指摘するように、この行為は「歴史に対する拒絶」であり「創造的自由の拒否」であって、事実、式年遷宮を持続してきた各時代の造営の努力は、殿舎の形態のなかに何等創造の痕跡を形として残すことがなく、造営の歴史は専ら持続のための努力として虚空に消え去ってしまっている、というのです。そしてこうした造替の反復には、歴史(時間)の進行に「逆らう」ことによってアイデンティティを保持する機構*03があると磯崎新さんは補足します。
 
エリア-デの主張する「永遠の反復」は、無限に反復する《円環としての時間》を前提としていますが、稲垣さんや磯崎さんの歴史の「拒絶」や歴史の進行に「逆らう」という言葉には、歴史は直線的に流れるもので、不可逆性をもつという《直線としての時間》という考え方がその根底にはあるように思われます。直線的に進行する時間であるからこそ、それを「拒絶」し、「逆ら」い、「脱出」するという、時間の進行に“あらがう”行為によって発生するエネルギーを、アイデンティティを保持するエネルギーに換えている、ということなのかもしれません。


円環する時間を象徴する時計の歯車/東芝科学館

01:式年遷宮の建築的考察/稲垣榮三/日本建築の特質-太田博太郎博士還暦記念論文集/中央公論美術出版 1976.10.25
02:聖と俗/ミリチャ・エリアーデ/風間敏夫訳/法政大学出版局 1978.12
03:建築における『日本的なもの』/磯崎 新/新潮社 2003.04.15

 

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反復性の持続

 古式のかたちを繰り返し造り替えるという、反復性の十三世紀にも及ぶ持続。それこそが他に類をみない、式年遷宮の驚異なのです。そしてそれは反復を可能にする社会的システムが組み立てられていることを示しています。建築史家の稲垣榮三さんは「神宮の建築と式年遷宮制のなかに、日本個有の文化的性格が濃縮されている」*01と述べています。この制度は律令国家成立期という歴史的背景のもとに成立したものでしたが、その後世における持続はまた別の歴史的状況のなかで進行し、その全体像のなかに日本の文化を特色づけるある根源的なものが隠されている、というのです。
 
「祭が繰返し行われる限り、過ぎ去ることのない起源の時がそのつど再現される。これこそこの制度を創始した人の求めたもの」*01だったと稲垣さんはいいます。伊勢の神宮の備える記念的性格は殿舎の造形のなかだけにあるのではなく、定期的に遷宮を実施することによって始めて完結するのであり、式年遷宮制の創始者は「建築を造営する行為とそれへの移動という行為、すなわち最も原初の宗教的表現を持続することを王権の象徴として求めた」というのです。そしてこの儀礼は、律令国家が崩壊したあとも消滅しなかったばかりか、近世以後はかえって洗練され、より強化されて現代に引継がれているのです。
 
磯崎新さんは同一の型が反復されることが「アンデンティティを保持する手段」*02であったとして、反復する再生という生物学的なモデルを採りだして造替を説明しています。生物はその種を保持するために、同型を生みだしていきます。それは生物が雑多な外的な文脈との対応によってかなりな変容を強いられた場合でも、ゲノムという遺伝子にえがかれた暗号にもとづき、アイデンティティを保持するべく復元するフィードバック・システムが仕込まれているからです。イセの造替はそれに似ている、というのです。
 
神宮では、あえて掘立柱や萱葺きといった耐久性のない形式を存続させながら、まるごとのレプリカを造るという再生産過程において、常に建物や儀式が古形にたいして、アイデンティカルであろうとしている、と磯崎さんは指摘します。


内宮新殿舎が完成した際の空撮写真。上が新殿舎、下が旧殿舎。朝日新聞社「朝日新聞 報道写真傑作集1954

01:式年遷宮の建築的考察/稲垣榮三/日本建築の特質-太田博太郎博士還暦記念論文集/中央公論美術出版 1976.10.25
02:建築における『日本的なもの』/磯崎 新/新潮社 2003.04.15

 

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古式のデザイン

 伊勢神宮の式年遷宮が制定された7世紀後半は、仏教が伝来してすでに1世紀半が経過していた時代でした。そして仏教とともにもたらされた、まったく新しい建築技術や様式によってつくられた四天王寺や法隆寺といった数多くの仏教寺院が建設されていた時代でもありました。
 
木造建築の作り手として雄略帝の時代に名工と謳われた猪名部真根(いなべの_まね)や闘鶏御田(つげの_みた)たちは新羅系の工匠でしたが、200年以上も後に編纂された「日本書紀」にもその名を残さざるをえないほど活躍した彼らも、政治力を保持できなかったことや、仏教建築についてはまったく無知であったことなどのために、新たに渡来した百済系の工匠たちに圧倒され、衰退してしまいます。
 
このように、まったく新しい「外部」の技術と「作り手」たちによってつくられた仏教建築でしたが、さすがに7世紀後半には、先進的な「外部」技術・様式の単なる模倣の時代から、独自のものを生み出せるほどに熟練と洗練を加えた段階に到達していました。
 
しかしながら建築のこのような状況にもかかわらず、伊勢においては古式の建物のデザインが採用されたのです。最先端の技術と華麗さを誇ったであろう仏教建築に対して、古来より神聖で高貴な形式であったとはいえ、その当時においても、いかにも土着的で原始的なデザインと見えたであろう古い形式の建物が、皇祖神を祭る神社の様式として選ばれ、そして式年、つまり定められた年度に古式はそのままに、新しい社殿をつくって遷宮する、という制度さえつくられたのでした。


日本仏教最初の官寺である四天王寺の当時の伽藍配置
四天王寺HPより

 

 

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