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〈容器〉の理解

 言葉という〈かたち〉を生み出す心のイメージ(理解)は、身体を含む現実世界の中に、その理解の基盤をもっています。抽象的表現は、直接的に知覚したり指さししたりできません。そこで具体的領域のイメージを比喩(metaphor)として利用して、間接的に理解するのです。心という抽象的領域のイメージは容器や方向という具体的領域のイメージで作られているのです。
 
月本洋さん*01によれば、イメージ(想像)は言語の基盤であり、イメージは比喩(metaphor)という形で言語表現に現れます。すなわち、比喩はイメージの言語的側面だ、というのです。
 
比喩には様々な種類がありますが、その中でもとくに〈空間〉の比喩と〈擬人〉の比喩が重要だ、と月本さんは指摘します。〈空間〉の比喩とは、私たちが住み込んでいる現実世界、私たちが直接的に知覚等ができる物理的で具体的な領域の中で理解できるもので、それはさらに次のように分類できます。
 
「心ので」「内容」「含まれる」「納める」等々の使われ方をする〈容器〉の比喩。「地位が上がる」「対する」「立場」等々の〈方向〉の比喩。「研究が進む」「共通」等々の〈運動〉の比喩。「もの」等々の〈存在〉の比喩。「分離して」等々の〈離接〉の比喩などです。
 
これら〈空間〉の比喩の中でもとくに〈容器〉の比喩が重要である、と月本さんは続けます。〈容器〉は、私たちを取り囲む具体的領域の一つであり、〈容器〉の理解は、言葉の世界では説明が不可能であり、身体を含む現実世界にその理解の基盤を求めなければなりません。一方で、「閉じた線で空間が二つに区切られている」ということが、容器というイメージ、比喩のもつ共通性である、と月本さんはいいます。そして共通性であると同時に、具体性を取り去ったごく抽象的なとらえ方=「形式」にもなっていて、それが比喩が機能する重要なポイントとなっている、というのです。 


*01:日本語は論理的である/月本洋/講談社 2009.07.10

 

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考える

 相手の“理解”を操作するためには、相手に向けて“言葉”を発っせなければなりません。音として相手に伝わる言葉でしか、相手の“理解”を操作することはできないのです。この相手に向けて発っせられる言葉は、記号としての操作可能性を持っていて、形式的にその組み合わせや順序の入れ替えなどができます。言葉のどのような操作が相手の“理解”の操作に有効か、人間はその言葉を使って“考える”のです。
 
哲学者の信原幸弘さん*01も指摘するように、構文論的構造をもつ思考を用いてその構造にもとづく思考過程を展開しようと思えば、まず発話または内語を行い、そしてそれらの構文論的構造にもとづいて新たな発話または内語を展開していかなければならないのです。
 
このようにして“意識”にのぼってくる思考が生まれてきました。相手の“理解”の操作のために自らの脳内で“言葉”の組み合わせを“考え”たのです。相手に向かって発っする前に、まず自分自身の中で作り出した“言葉”がどのような“意味”をもつ心的イメージを生み出すか、すなわち“理解”できるか、ということをシミュレーションし、相手と対峠する状況の中で、もっとも自分にとって望ましい相手の行動・反応を導き出すことのできる“言葉”を選んだのです。
 
そこには、相手も自分と同じようにその言葉によって同一のイメージ=理解をするであろう、という暗黙の前提があります。それは自分自身が相手の行動を模倣することができ、そこから相手の隠された行動を“理解”する能力をもっていることから、相手もそうであろうと思うのです。
 
ここに自分がつくり出した“言葉”によって自分自身が“理解”するという自己再帰的な構造が生まれます。“言葉”の生成と“理解”の生成の自己再帰的構造が出来上がった時、はじめて人間は“考える”「自己」意識を持ったのです。


Rodin_TheThinker

*01:考える脳・考えない脳-心と知識の哲学/信原幸弘/講談社現代新書 2000.10.20

 

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言葉の記号操作性

 “理解”を操作するとは、あることがらを“理解”させるために仲間に向かって発せられる言葉を使って、自らの意図する方向へ仲間の“理解”を導くことです。環境との相互作用の中で生まれた“意味”を、心の中のイメージの再現として“理解”し、それを仲間と共有するために、その“理解”に〈かたち〉が与えられます。その〈かたち〉は記号として、情報伝達などの精神行動の働きを助ける媒体として働くわけですが、そう働くためには、どの場面においても同じ形をしている必要があります。その記号が同じ形をしていることによって、仲間が共通の“理解”することが可能となるのです。
 
その〈かたち〉=記号が組み合わされ“言葉”として確立していったときに、言葉は構文論的構造をもつようになります。構文論的構造とは、ある一定の構成要素を、ある一定の構成規則に従って結合することによってできる構造のことで、その構成要素=〈かたち〉はどの表象に現れても、つねに同じ形をしているので、構文論的構造をもつ言葉もまた、どのような文脈に現れても、つねに同じ形を保つことになります。それゆえ仲間に向かって発せられたそれは、それを受け取った仲間の心の中に同一の文脈のイメージを再現させることが可能となり、同じ文脈の中の“理解”を共有することができるようになるのです。
 
相手に向かって投じられる〈かたち〉は、相手にその〈かたち〉がもつ“意味”を投じることと同じです。当初のその〈かたち〉は、たとえば敵の襲来を仲間に伝える「逃げろ」というような指示的な“意味”をもつ警報“音”のようなものだったのでしょう。それはまさに仲間と同一の時空間の中にいるときに共有する“理解”の〈かたち〉だったのです。そこから次第に〈かたち〉が分化し、〈なまえ〉が与えられ、抽象的なことがらさえ間接的に表現できるようになると、その場の出来事だけでなく、時間も空間も離れた、抽象的な出来事に対しても“意味”と“理解”を与えられるようになっていきます。そこには言葉のもつ構文論的構造が重要な働きをしているのです。
 
構文論的構造をもつ言葉は、どのような文脈の中でも常に同じ形を保っているゆえに、構成要素=記号どうしの順番を入れ替えるといった形式上の操作を可能とします。共有する物理的空間から離れた抽象的な出来事を、具体的な〈かたち〉を使って間接的に表現するうえで、こうした操作が必要となるのです。このように、言葉が記号としての操作可能性を秘めていたことが、“理解”を操作することを可能にした大きな要因だったのです。
 
では仲間同士のコミュニケーションの中で、相手の“理解”を操作する、といった行為はなぜ起こってきたのでしょう。
 
それはこの地球上に人類の敵がいなくなった、ということが大きく作用しています。個体としての人間を凌駕する動物たちは多数存在します。しかし集団としての人間にかなう動物たちはいなくなったのです。そうなると人間の最大の脅威は、ほかならぬ人間ということになります。
 
ずばぬけた“理解”する能力をもつ人間は、ニーチェ*01がいうように、長い数千年間にわたって、すべての未知の生きものに危険を見てきました。人間はそのようなものを見ると、たちまち顔つきや動作の表現を模倣し、これらの顔つきや動作の背後に隠れている悪しき意図の性質を推定したのです。そして地球上のすべての動物たちの力を、種としての人類が凌駕した時、背後に隠れている意図を見抜く能力は、同一種である人間に向けられていきました。相手の隠れている意図を“理解”したうえで、相手の“理解”を自らの意図する方向に導くよう“言葉”を使って操作することが可能となると、彼の立場を集団の中でより有利にすることができたのです。


Illustration of Humpty Dumpty from Through the Looking Glass, by John Tenniel, 1871. Source:http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Humpty_Dumpty_Tenniel.jpg

「その言葉は、僕がその言葉のために選んだ意味を持つようになるんだよ。僕が選んだものとぴったり、同じ意味にね」ハンプティ・ダンプティ
不思議の国のアリス/ルイス・キャロルより

*01:曙光-道徳的偏見についての考察/フリードリッヒ・ニーチェ/ニーチェ全集9 氷上英廣訳 白水社 1980.01.10(原著1881

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理解を操作する

 脳の神経回路の計算機モデルであるニューラル・ネットワーク・モデル*01によれば、脳内の複雑なニューロン結合による計算とは、一つの層の上に実現された興奮(活性化)パターンを次の層の興奮(活性化)パターンに変形する操作、ということになります。この時、層から層への興奮パターンをどう変形するかを実質的に決めているのは、各層の重みづけの全体が構成する〈重みづけ配置〉*02です。ここでいう重みづけとは、シナプスの結合の強さを表しています。
 
生き物たちにとっては、それは経験値の積み上げによってつくりあげられてきたものでした。環境の中の数多くの類似のイメージ(意味)の中から、経験値の積み上げによる〈重みづけ〉によって、理解としてのイメージが抽出されるのです。この経験値の積み上げは、多層構造のニューラル・ネットワークを用いた機械学習であるディープ・ラーニング(深層学習)の成果が示しているように、扱う計算資源、データ量が多ければ多いほど、適切なイメージを抽出する〈重みづけ〉を得る可能性が増していくのです。
 
人間の脳は少なく見積もっても100億(10の10乗、10ギガ)個の神経細胞(ニューロン)で構成されています。さらにその神経細胞同士をつなぐ配線(細胞間結合=シナプス)の数は、1ニューロンあたり数千ともいわれています。すなわち人間の脳神経の配線数は10兆をはるかに超えているのです。人間の脳の中はまさにジリオニクス(Zilionics)の世界といっていいでしょう。ちなみにイヌのニューロンの数は1億6千万個、ネコは3億個といわれています。いずれも脳神経の配線数は1兆を満たしていません。それでも環境世界で存在し、反応し、自分で考え、行動するには十分すぎるほどの知性を持っているのです。
 
人間の脳は、このように多層のニューラル・ネットワークを構成するのに十分すぎるほどの配線数を持っており、そこに多数の構成員による複雑な社会関係の構築と、それによるコミュニケーション・ネットワークの高密度化(すなわち計算資源、データの量)が飛躍的に進行したことが、人類(おそらくは人類だけ)が遭遇しなければならなかった生物学的な試練となった、といっていいのでしょう。その試練によって人類は、他の人間の行動を理解し、反応し、さらにその理解を他者と共有するだけにとどまらず、その理解を“操作”するという対処を余儀なくされていったのです。


*01:ニューラル・ネットワーク /静岡理工科大学 菅沼研究室
*02:ロボットの心―7つの哲学物語/柴田正良/講談社 2001.12.20
 

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