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静止した画像の非日常性

 ルネッサンス期に現実に「見える世界」をわが手もとに引きつけるために追及された透視画法でしたが、それによって描かれた光景は、あるひとつの固定した視点(場所)から見た光景であり、それはきわめて限定された「見える世界」でした。
 
常日頃私たちの視点は、動きまわり、止まることを知りません。サッケード(人間の目は、一秒間に三回から四回という早い速度で視野の中で視点を変えることができます。これをサッケード(saccade 跳躍運動)といいます)する私たちの眼球は、一瞬一瞬のコマ撮り状態の映像情報をとらえ、脳に伝達しているのですが、私たちの脳は、それをスムーズな流れとして補正し、捉え直す働きをもっています。したがって私たちにとっては、流れる視点が通常であり、一点に固定された視点で見るということは、日常的にはあまりないことなのです。それは三万一千年前に洞窟の奥に人類最古の壁画を描きだした“画家”たちにおいてでさえ、すでに動物の“動き”をその絵の中に表現していた事実からもわかります。それほど動きを捉える流れる視点は人類にとって根源的なものだったのです。
 だからこそある特定の視点に固定され、切り取られた画像を見る時、私たちはそこに非日常性を感じ、強く惹かれていくのではないでしょうか。「絵画」というものの根源的な魅力の一因がそこにある、といっていいのかもしれません。
 
三次元的な空間を「絵画」に納めることにより、リアルな「見える世界」をわが手もとに引き寄せることに成功した透視画法は、その表現の精度を上げ、よりリアルな光景に近づければ近づくほど、こうした非日常性のために、逆に違和感を人々に与えずにはいられなかったのです。


人類は最初からものごとを動くものとして表現していました。
人類最古の動体表現/ショーヴェ洞窟(フランス/アルデシュ県/ポン・ダルク近郊)

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「見える世界」をわが手もとに

 《一九〇〇年》様式のもっとも大きな特徴は、《感傷的な透視法》の最も嘆かわしいメカニズムをもっていることだ*01とダリは指摘します。ここでダリが取り上げている透視法(透視画法・遠近法)とは、もともと演劇の舞台の背景画として描かれた「街並み」の作図法として発展したものでした。その起源は古く、いまから2000年前の古代ローマ時代にウィトルウィウスが著した「建築書」(De Architectura)の中でもその作図法が紹介されています。彼はそこで背景図とは「正面と遠ざかって行く側面の模図であって、コムパスの中心に向かってすべての線が集中しているもの」*02と記述しているように、それは二次元の画面に三次元の奥行きを与え、実際に「目で見た」ように工夫された作画手法でした。その後画面に碁盤目状の枠を設定し、幾何学に則った精密な作図法が追究されたのはイタリア・ルネッサンスになってからでした。
 
ルネサンスの画家たちが透視画法の研究に熱中したのは、ひとえに「見える世界」をわが手もとに引きつけるためだった*03と建築史家の横山正さんは指摘します。横山さんによれば、イタリア・フィレンツェのサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム)の建設(1420-1434)によってルネッサンスの幕を開けたといわれるフィリッポ・ブルネルレスキ(Filippo Brunelleschi 1377-1446 )が、この図学的に正確な透視画法の創始者だったという伝記が残っている、といいます。。
 
透視図においては画面のなかに描かれる平行線が、すべて一点(すなわち消点)に集まります(多消点の作図法もあります)。それはそこに描かれた世界に統一ある秩序が存在することの証しでもあった*03のですが、ブルネルレスキの方法にあっては描かれる事物が距離に応じて正確にその大小が定められました。まさにエウクレイデス(ユークリッド)がまとめあげ、19世紀まで空間を処理および概念化する「真実や確実性の極み」と考えられていたユークリッド幾何学に則って秩序化された「見える世界」であったのです。
 さらにブルネルレスキの作成した透視図のパネルには、空の部分に銀箔を張り、そこに大空の雲の往き来が映るようにしていた*03と横山さんは紹介しています。それはまさに現代の建築家がコンピュータ・グラフィックを駆使して建築作品の出来上がりの姿をリアルに表現しようとするのと同じように、建築家の頭の中にある空間のヴィジュアル・イメージ-すなわちわが手もと(脳内)にあるそのイメージを、周りの人々に「目に見える」かたちで伝える手法でもあったのです。
 
ところがこうして描かれたプロスぺッティーヴァProspettivaが示す空間の完結は、逆に画家たちに現実に「見える世界」とは別の、新しい仮構の世界、もうひとつの世界の構築の可能性を告げ知らせた*03と横山さんは指摘します。


イタリア・ルネッサンス期の画家マサッチオ(1401-1428)が、ブルネルレスキの協力を得て作成した、体系だった透視図法を導入した最初期の絵画
Masaccio, Trinità (1425-1427), Santa Maria Novella, Firenze

01:モダン・スタイル建築の可食的な、恐怖させる美について/ナルシスの変貌-ダリ芸術論集/サルバトール・ダリ/小海栄二・佐藤東洋麿訳 土曜美術社 1991.03.10
02:ウィトルーウィウス建築書/ウィトルーウィウス/森田慶一訳 東海大学出版会 1979.09.28(原著 BC3023
03:透視画法の眼-ルネッサンス・イタリアと日本の空間/横山 正/相模書房 1977.05.31

 

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《一九〇〇年》様式

 1929年にサルバドール・ダリが絶賛したモダン・スタイルの建築。それは今、私たちがモダン・スタイルという言葉を聞いて思い出す、いわゆるモダニズム建築とは趣が異なります。ダリがモダン・スタイルと呼んだそれは、19世紀後半からヨーロッパ各地で巻き起こり、のちに《一九〇〇年》様式と呼ばれるようになるデザイン様式の流れを汲むものでした。
 
産業革命以降、工業化による大量生産、均一化の進行、それらによる創造性の枯渇に対し、危機意識を持ったウィリアム・モリス(1834-1896)らによるアーツ・アンド・クラフツ運動によって、個々の製作者の特性を生かした創造活動が提唱されました。彼らは、美はアカデミズムの専売特許ではなく、人々の身の回りの日常的に使うものにもあるべきとし、生活と芸術を一致させようとするデザイン思想とその実践によって、この時代のヨーロッパ中の多くの人々に多大な影響を与えたのです。
 
18世紀から19世紀初めにかけて、支配者層に限られていた「美」の世界、歴代の王朝の特色に彩られた「美」の様式への反発から、それらを超越するものとして、古典古代の「美」の規準に立ち返る「新古典主義」が一世を風靡します。しかしながらそれらの「美」の規準もまた「知的審美主義」の支配したアカデミズムというある種の特権階級に属するものでした。
 
これに対し、産業革命によって、あらたに冨と自由を得た人々は、それら既存の権威に対する反発のもと、あらたな「美」の規準を求めていました。それがモリスらの運動を大きく受け入れる流れをつくりだしたのです。
 
それはまたモリスが大いに影響を受けたジョン・ラスキンの「人間存在をその全体性においてとらえる」*01という姿勢を強く受け継いだものでした。すなわち製作者に求めるものとして、野生(粗野性)、多様性(変化愛好)、自然性(自然愛)、型破りの想像力(独創的構想力)、厳格性(頑固さ)、饒舌性(惜しみない表現力、寛容さ)を重視したのです。それはいわばある意味製作者の個人主義的な創作活動の奨励でもありました。
 
ダリはこのあらたな「美」の追求の運動の特色を、「矛盾し、まれにみる凶暴な個人主義」*02と評し、その個人主義が「集団的感情」となって「前例を見ない《独創的感情》の革命を生み出した」と指摘したのです。
 
アーツ・アンド・クラフツ運動に端を発し、19世紀末のヨーロッパを席巻したこの「美」の様式は、1900年にひとつの大きな結実を迎えます。それをいま私たちはアール・ヌーヴォーと呼んでいますが、それは1900年に開催されたパリ万博を支配し、象徴する表現となったのです。
 
しかし1900年はまさに世紀末でもありました。次の年から新世紀を迎えた人々は、この《一九〇〇年》様式を、前時代のものとし、あらたな世紀にふさわしい「美」の新機軸-すなわち20世紀のモダン・デザインの追及に没頭していくことになるのです。
 
ところがパリ万博で一世を風靡したこの《一九〇〇年》様式は、一般には、ダリ自身が述べているように、それを安易に、文学的に続けようという傾向が、止みそうになかった*02のです。彼は、ファッションであれ、建築であれ、そうした傾向が表れた時、知的審美主義を持つ人々‐すなわちあらたな美的追究を試みる人々にとって、それは〈防御〉と〈撃退〉の、反射的で、反逆的な顔面収縮-すなわち寛大で理解のある微笑みと、素直で爆発的で抑えきれない嘲笑とを交互に引き起こすものでしかなかった、と述べています。


エッフェル塔(1889年建設)がそびえる1900年の第5回パリ万博
サミュエル・ビングが出店した装飾美術をあつかう店(パビリオン)が一躍注目を集めたことで、店名であった「アール・ヌーヴォー」からその呼び名が一般化します。

01:ヴェネツィアの石-建築・装飾とゴシック精神/ジョン・ラスキン/内藤史朗訳、法蔵館、2006
02:モダン・スタイル建築の可食的な、恐怖させる美について/ナルシスの変貌-ダリ芸術論集/サルバトール・ダリ/小海栄二・佐藤東洋麿訳 土曜美術社 1991.03.10

 

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常軌を逸した建築

 サルバドール・ダリは、1929年に著した「見える女」*01の中で、モダン・スタイルの常軌を逸した建築を芸術史上もっとも独創的でもっとも並はずれた現象とみなし、次のように述べています。
 
「多分いかなる幻覚も、モダン・スタイルの驚くべき装飾的建築を構成する偉大な幻覚以上に、いつわりもなく理想的なという名辞を与えるにふさわしい全体的効果を、創り出しはしなかった。いかなる集団的な努力もまた、それらモダン・スタイルの建築物ほどに純粋で心をかき乱す夢想の世界を創り出せなかったのである。それら建築物は、いわゆる建築物の埒外にあって、凝固した欲望の真の実現をそれだけで創り出しており、そこでは最も激烈で残酷なオートマティスムが、幼年期の神経症の際に起こるように、現実への嫌悪と理想的な世界へ逃避したいという欲求とを、苦悩にみちて表わしているのだ。」02
 
ここでダリが絶賛したモダン・スタイルの建築とはどのようなものだったのでしょうか。


01La Femme visibleEditions Surrėalistes1930(出版年)
02:見える女/ナルシスの変貌-ダリ芸術論集/サルバトール・ダリ/小海栄二・佐藤東洋麿訳 土曜美術社 1991.03.10

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