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ひとつの「文明」を形成した時代

大仙古墳の築造には158か月の歳月と延べ6807千人の労力を要した01といわれています。22年の歳月と延べ3000万人を動員したギザのピラミッドには及ばないものの、当時としてはとてつもない大事業であったことには間違いありません。しかも大仙古墳を筆頭に、全長100mを超える古墳は日本全国で302基(前方後円墳291、前方後方墳1102もあるのです。建築評論家の川添登さんは、この時代の古墳と大ピラミッドを建設した古代エジプトを比較して「日本の王陵の特異さは、古墳そのものの巨大さばかりではなく、そのおびただしい数にある」03と述べているほどです。

3世紀中庸から6世紀にかけてのいわゆる古墳時代は、前方後円など定型化した古墳を日本全国につくり続けた時代でした。その古墳は小さなものでも1基あたり数千人以上の動員を必要とした事業であり、全長100mクラスの古墳の築造にあっては、延べ55000人、50004を要したといわれています。この時代はそれらをつくり続けるだけの経済力と政治力をもっていたのです。

古墳の定型化を則した統一した価値観や経済力、政治力の広がりを考えると、それは古代エジプト文明やメソアメリカ文明などと同じ、ひとつの「文明」を形作っていた時代であったともいえるのです。

 

100m級の古墳の築造風景(ジオラマ)

森将軍塚古墳(長野県千曲市)/千曲市森将軍塚古墳館

 

01「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」/大林組プロジェクトチーム 『季刊大林第20号 王陵』大林組 1985

02:前方後円墳集成/近藤義郎編 山川出版社 1992-2000

03:「木の文明」の成立/川添登/日本放送出版協会 1990.11.301990.12.20
04:森将軍塚古墳(長野県千曲市)/千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック 2005.03.16

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フラットステージを持つ古代遺跡

大仙古墳と同じようなフラットステージのシルエットを持つ古代の建造物として思い浮かぶのが、メキシコ、テオティワカンの太陽と月の二つのピラミッドです。



 太陽のピラミッド/テオティワカン メキシコ
 
大仙古墳と同じくフラットステージが挿入されたシルエットを持つピラミッド。

 

それはエジプトのギザのピラミッドと並び称される古代遺跡(紀元前後~7世紀頃)ですが、大仙古墳は高さでこそ両ピラミッド(65mと47m)に及ばないものの、底面積では太陽のピラミッド(222m×225m)と月のピラミッド(150m×150m)を合わせたほどの大きさを持ち、その墓域の大きさ(486m×305m)は世界最大といわれています。そして大仙古墳はその高さ(35.8m)においても、同じメキシコのマヤのウシュマル(36m)やチチェン・イッツァ(24m)などのピラミッドに匹敵するか、それ以上の高さをもっているのです。



 月〈正面〉と太陽のピラミッド/テオティワカン

 大仙古墳はこの2つのピラミッドを合わせたほどの大きさがあります。


 


 魔法使いのピラミッド/ウシュマル メキシコ

 大仙古墳は実はこのピラミッドとほぼ同じ高さがあります。

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聖なる山

現在見る大仙古墳の姿は、梅原猛さんのいう“山にならんとする意志”をまさに体現しているといっていいでしょう。その山は“聖なる山―神々の棲む山”として古代の日本人が崇拝してきたもので、今なお山をご神体とする神社は日本全国に数多くあります。山にならんとは、「人間が聖なる山となることによって、永遠となり、不死となり、同時に、死後もなお生きている人たちに十分の力をふるうことができる」01ことに他なりません。梅原さんはこれら巨大古墳がならんとした山は、奈良の神奈備〈かんなび〉山(神が鎮座する山)として有名な三輪山ではないかと推論しています。また作家の松本清張さんは、前方・後円という捉え方がそもそもおかしく側方こそ正面ではないか、という考え方から、大阪と奈良の境界に位置する二上山(雄岳は丸く高く、雌岳は平たい二つの山が並んだ形状が側面から見た前方後円墳の姿と重なる)を模したものではないか02という説を唱えています。また中国思想の須弥山の影響ではないかという人もいます。


鬱蒼と樹木が生い茂る聖なる山として

大仙古墳/大阪府堺市

 

このように古代古墳が山を模したという発想には、実在する山との視覚的な共通性という形態的なものと、聖なる山の影響力を自らも得んとする象徴的なものの両方の意味が込められています。その形態的なものには、現状の山がそうであるようにその山を覆い尽くす樹木の存在も無視することはできません。その鬱蒼と生い茂った樹木が、神々が隠れ棲む場所としての神奈備山にふさわしい“隠れ家”を構成しているからです。

ところが、この樹木が生い茂る聖なる山との類似性という発想は、古代古墳が創建時には今とはまったく異なる様相を示していたとなるとどう捉えたらいいのでしょうか。

五色塚古墳と同じく三段のフラットステージを持つ大仙古墳の全容は、全長で五色塚の約2.5倍(486m)、高さで約2倍(35.8m)という巨大なもので、白亜に輝いたであろう創建時には、実に壮大な人工建造物として圧倒的な存在感を示していたに違いありません。

 

創建時の壮大な石の建造物

現在の鬱蒼と生い茂る神々の隠れ家とはほど遠い、そのもの自身の強烈な存在感を示しています。


01:塔/梅原 猛 集英社 1976

02:清張通史2-空白の世紀/松本清張 講談社 1977

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白亜に輝く人工の石山

古墳も「埋葬のかたち」として、そうした日本の自然と文化が相互内在的に関係し合った特質を古くから代表しているものと思われてきました。ところが長年の発掘調査の結果をへて、創建当時の古墳の姿があちこちで再現されてくると、その蘇った原初の姿は私たちが常日頃慣れ親しんできた古墳のイメージとは全く異なるものだったのです。

 


水平ラインが挿入された人工の石山/
五色塚古墳(兵庫県神戸市)

1975年、10年の歳月を経て神戸の五色塚古墳が創建当時の姿に復元されると、その、現存する古墳のイメージとのあまりに異なる姿に驚かされた人も多かったに違いありません。その復元された姿は、巨大な墳丘が石でびっしりと覆い尽くされ、白亜に輝く人工の石山となっていたのです。

その形状も、前方後円という特徴ある平面形もさることながら、それ以上に(前方後円というかたちの幾何学性は高いところから俯瞰するという視点がないとなかなか見る人に伝わりません)三段構築という築造方法が墳丘の中段にフラットなステージを生み出し、そこに並べられた埴輪がそのステージをさらに強調することによって、墳丘のシルエットに幾何学的な水平ラインが挿入され、その巨大性とあいまって、自然の丘のなだらかな円弧を描くイメージとはあきらかに異なる、古墳という建造物の人工性を際立たせていたのです。

その白亜に、あるいは五色に輝く(五色塚という呼び名は、そのように輝いて見えたので付けられたのではないかという説があります)その表層は、葺石と呼ばれる川原石や礫石を墳丘の斜面に葺いたものですが、大型の前方後円墳に特に特徴的にみられるものだといわれています。日本最大の大仙古墳(仁徳稜)も現在は欝蒼とした樹木におおわれていますが、創建時には葺石で覆われていた壮大な人工建造物だったのです。

 

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幾何学的構造を持つ日本の自然

そうした日本の自然のあり方を敏感に感じ取った芸術家がクリストでした。

巨大な建築物や自然を梱包する芸術活動で有名なクリストが、1991年に日本とアメリカで同時開催した《アンブレラ》プロジェクト。このときクリストは、「日本の空間の本質は、とても規則正しく、そしてそこにはある種の隠された幾何学的構造が潜んでいる」01と述べています。この日本の空間に潜むある種の“幾何学的構造”とはなんでしょうか。日本の空間は“有機的”な空間、と考える人にとって、クリストのいう“幾何学”的という言葉に違和感を覚えた人も多かったのではないでしょうか。


《アンブレラ》/クリスト/
1991.10/茨城

 

ヨーロッパには、自然の本質は理性であり、秩序・規則・調和を根本の様相にするというプラトン的自然観があります。公園の木々を幾何学的に刈り込むなどはこの考えにもとづいています。これに対し日本では自然は自然なりにあつかう有機的デザインが日本の本質ではないか、というのが一般的な見方としてありました。

 クリストは、自らが考え出した“かたち”の内部の幾何学的構造や形態上の配置が、その場の持つ可能性の中に潜んでいると考えていました。そしてその“かたち”が、それらの空間内の様々な要素との対話を生み出し、様々な状況、すべての違った状況を結び付けて行く役割を果たすと考えていたのです。それが、彼の芸術活動の根本にある考え方でした。

それではクリストの《アンブレラ》プロジェクトで、彼が考え出し、配置した“かたち=巨大なアンブレラ”たちは、一体何を、日本のその“空間=里山に囲まれた田園地帯”から引き出したのでしょうか。

《アンブレラ》プロジェクトは日本と同時にカリフォルニアでも開催されました。クリストはアメリカのその場所を選んだ理由を「有機的な巨大な開放空間があるから」01としています。そこには人間の手がほとんど加えられていない自然そのものの空間があったのです。そしてその空間のすぐそばに、対照的に人工の産物である道路が走っていました。

これに対し日本では自然に見える里山も実はほとんど人の手が入って管理されていたのです。自然の形態の中に直線や円といった純粋に幾何学的な図形というものはありません。それらは人間の叡智が作り出したものです。そういう意味で、自然に人間が何らかの手を加えた空間に対し、そこに人間の叡智、すなわち何らかの幾何学的構造があると呼ぶのであればそれはクリストの指摘するとおりというべきなのでしょう。

クリストは日本の自然の空間に潜む特性を、その突出した感性でつかみ出したのです。


01:クリストが語る―《アンブレラ》プロジェクト/クリスト/クリスト展図録1987 軽井沢(財)高輪美術館

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