66歳の貧乏なアルバイター

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

わがまま

2024-10-08 05:36:54 | エッセイ
古い記憶の話だけれど最近思い出したことがある。
結婚する前に嫁さんが「私はわがままですよ」と言っていた。
その時は、「へー、そうなんだ」としか感じなかった。
長い歳月が経って、確かにうちの奥さんは、結構なわがままぶりを見せてくれる。
ただ、その言葉を、最近改めて考え直してみると、自分自身もずいぶんのわがままなことがわかる。
わがままと言うよりも、身勝手という言葉の方が合うかもしれない。
気が向いた時に気が向いた事しかする気にならないし、忍耐力も相当低い。
おまけに他人に気を使うことができないほど、鈍感な感覚である。
若い頃は体力でそれを補っていたように思う。
でも、歳を追うごとに、自分自身の気性をカバーするだけのパワーがなくなってきているのがわかる。
特に最近 身体を動かすのも億劫なほど体力が落ちている。
体の動きも鈍いし、力もない。
既に介護が必要なのではないかと思えるほどだ。
計算上の年齢は66歳。
近代社会においては、66歳はまだ日常的な行動に損傷がないはずだ。
にもかかわらず、自分自身の感覚年齢は既に80歳を超えている。
病は気からと言うように自分がそれを認めてはいけないとは思うのだけれども、どうにもこうにも肉体は正直に自分に語る。
どうしたらいいか今はもうすでにわからない。
肉体がわがままになってしまっている。
同時に、心もわがままになってしまっている。
ウォーキングはしているものの、たったそれだけでひどく疲れる。
ウォーキング中すれ違う老人がいる。
体つきや外観の年齢は80歳くらいだろうなと思う人が多い。
ところが、その人たちの動きは、ずいぶんと元気に歩きまわっている。
中には走っている老人もいる。
自分の方がよほどヨタヨタしている。
ビタミン剤を飲んだり色々とやっているけれども、どうにもこうにも追いついていかない。
しかも、そういう薬に関しては肝臓が負担を受けて病院の検査では異常な数値が出てしまった。
それはそれで困る。
従って余計に体が弱る。
生活環境自体を変えたいけれども、なかなかそうはいかない。
もっと大きな、社会的な動きがないと、自分の環境は変わらないのだろうか。
あるがままなすがままでしかないとは理解している。
則天去私という。
夏目漱石は確か50歳になる前にはなくなっているし、古くからの懸命な人たちも若くして死んでいる。
彼らは現代人に置き換えると、老人とは言えない年代でこのよう去っている。
自分はもう既にその年齢を超えているにもかかわらず悟っていない。
彼らのような、その精神的境地に至っていない。
身体だけ、ただ単に老化しているのだろう。
生き方がワガママ過ぎるとこうなるのかもしれないな。
残念無念な話だ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« まだまだ未熟 | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ」カテゴリの最新記事