おでかけZIOさん

さ迷い人でも言いましょうか、さしたる当てもなく、場所を時間を彷徨っております。

小見川界隈

2016-12-13 16:03:16 | 総の国

散歩での発見は次の散歩を誘発するものですね。
「印波」に続く「香取」に足を向けたくなってしまいました。
香取と言えば香取神宮、鹿島神宮と相並ぶ古社です。
地図で改めて確認すると両社は正に「香取の海」の入口に立つ灯台的存在、なるほどなぁと呟いてしまいました。
行程は利根川に沿うR356に出て銚子に向けて針路をとればOK!
途中、道の駅「発酵の里こうざき」で休憩、、つい発酵食品を衝動買いしてしまいました。😅
次に足を止めたのが利根川横に建つ大鳥居、香取神宮の参道入口となり、傍のBSの名称も「津の宮」でした。この鳥居、平成14年に再建されたのだとか、木造の立派なものでした。
堤防に立ち坂東太郎の豊かな水量を目にし、鳥居越しに遠く筑波山を望む。
 
 
この鳥居の下に立つと江戸時代以降の水運の賑わいを思い起こさずにはいられません。
そして更なる時代を遡って見たくなります。
神崎の街歩きの誘惑を振り捨て先に進みます。
目指すは今は香取市小見川支所になる小見川町役場、なかなか立派な建物である。
その2階にある埋蔵文化財展示室、案内を請うて展示室内に。
町内の城山1号墳の出土物を中心に展示されておりました。
6世紀後半の下海上国造の首長墓と推定されていて出土物も多彩でした。
5振の環頭太刀「吾作」銘の三角縁神獣鏡衝角付兜、挂甲、武人埴輪、馬の埴輪、・・・。
 
 
他にも佐原の古墳から出土の石枕がありました。これは5世紀始めの房総の石枕出現期のものではないかと言う解説でした。(・_・D フムフム。

次に向かうは縄文中期の標準的遺跡と言われ阿玉台式土器としてなじみ深い阿玉台貝塚
南小学校の横の墓地の奥に石碑が立っているだけでした。
道端では水仙が、もう花をつけていました。
 
この地は桓武平氏の祖・高望王の子、平良文が土着した地でもあり、その墓と伝えられている塚も隣接していました。
近くに「田園空間博物館まほろばの里」案内所なるものがあり立ち寄って見る事に。
 
その施設は予想以上に面白いところでした。
施設と言うよりは「案内人」のオジサンがおもしろかったです。
郷土資料館の趣があったのですが「良文貝塚」の出土品が多くありました。
目玉は香炉型顔面付土器ですがレプリカ展示となっておりました。

(実物は豊玉姫神社で保管されていて毎年11/3日に公開している)
話好きの案内人と一時間以上話し込み、あらら、もう夕間暮れ、急いで館を後にしました。
駆け足で、近くの来迎寺、豊玉姫神社、良文貝塚を巡って帰路についたのでした。
   
(12/10)


 


龍角寺古墳群

2016-12-05 12:37:08 | 総の国

晩秋の小春日和、ZIOめにとって古墳巡り日和でもある。
さて何所へ。ほんの散歩程度と言った心持。そして散歩と言うならば近く。
答えは龍角寺古墳群
「千葉県立房総のむら」を目指せばOK、久しぶりの訪問である。
以前は、左程古墳・遺跡に注目していなかったのでスルーしている部分が多いはず、きょうはじっくりと見て回ることにしましょう。
再現町並み素通りして風土記の丘資料館に直行します。ここで古墳見学のアイドリング 。

 この資料館、101号古墳の出土物を中心としたこじんまりとした展示空間である。
龍角寺古墳群が古墳時代後期・終末期の古墳群であるというように、展示物にもそれを感じさせてくれる。
目を惹いたのが石枕、常総の国に多く出土とか、立花を伴い、
葬送の儀式の深遠さをうかがわせる。
当時の香取の海を支配した首長たちは何を思い永遠の眠りについたのであろうか。
また、龍角寺関連の出土物も興味深いところ、なかなかおもしろかったです。

 
 
 
さて、館外に出て古墳巡りを始めましょう。
房総のむら案内図」を片手に古墳広場の数多の古墳を眺めながら針路を北に。
この径、「白鳳道」と名付けられ龍角寺創建当時からあった道なのだとか。
フムフム、晩秋の雑木林を散策する気分は、心穏かになり最高!である。
 
県道成田安食線を越すとそこに、浅間山古墳があります。
全体像が分かりにくいのですが、後円部に祠があり、急な石段が作られていました。
これが終末期古墳を代表する前方後円墳、「印波」首長墓とも言われてる浅間山古墳なのか。少し感傷に浸ります。
 
更に北上、その先に龍角寺がありました。
過去2度ほど訪ねてはいるのですが、この様に辿って来るとより印象的になります。 
ここに白鳳仏があって、住職さんに見せて頂いたのを思い出します。
改めてその境内を見渡すと、その佇まいの貧弱さに啞然としてしまいます。
白鳳仏を持つ古刹と言えば思い浮かぶ深大寺に比べるのは酷だけれども 。
ちょうど銀杏が綺麗に色ずいておりました。その下に苔むした宝篋印塔が佇む感じでしょうか。
圧巻は巨大な塔の礎石です。三重とも五重とも言われている塔を、最大限の想像力を駆使して思い描いたのでした。 
  
もと来た道を南下、紅葉を楽しみながら101号古墳に向かいます。
 
継体陵と言わないまでもカミツケの里の古墳と較べても規模は培塚程度、ちょっと拍子抜け。
が終末古墳でしっかりと残っていると言う事なのでしょう。
 
そして、フィナーレは岩屋古墳です。
第一印象は大きい。終末期方墳としては全国一の規模とか、3段版築の工事は多くの労働力を要したであろう。
そしてこの築造者が、浅間山古墳~岩屋古墳~龍角寺に繫がる印波国造一族であろうと推測されている。
この方墳、蘇我稲目の墓と言われている都塚古墳に通じるものがあるのではないだろうか。
石室に使われている貝化石を含んだ軟質砂岩も特徴的とか。天井石に筑波石も用いられているらしい。
とにもかくにも大いに愉しませてもらいました。
 
 
帰り際、同じ方墳、みそ岩屋古墳を覗いて、散歩は終了したのでした。
 
散歩にしてはハードでしたが・・・。(12/04)