乾いた雑巾を、もっと強くしぼる。
それで、雑巾は破けてしまった。
こんどは異次元の金融緩和で、お金がジャブジャブのバケツに浸してみる。
しかし、敗れた雑巾では、使いようがない。
これがアベノミクスの現状だ。
ふつう人々は「自由経済」と「共産主義経済」とに分けて、物事を考えようとする。
自由な経済とは競争が行われている社会のこと。そして共産主義経済では、計画的な生産がおこなわれ、必要十分な品物が行き渡る保証はなかった。それで人々は配給がはじまると、仕事もそっちのけで、その配給の行列に並んだもの。西側のマスコミなどは、このような貧困な社会主義の現実を、シニカルな視線で切り取った映像を流したものだった。
それにたいして、西側自由主義経済では、「商品があふれている。」
あたかもそのように、スーパーなどの店頭を写してみれば、見えなくもない。
ところが、どっこいスットコ・ドッコイで、商品が溢れているように見えるのは、『行列をするほど買い手がいない』と診ることだって出来る訳で。
アベノミクスがはじまった今日この頃でも、店頭に品物は豊富に並んでいるが、売り切れてしまったとか、値段が上がっているとかは、一般的には謂われていない。値段が上がったのは、円安になって輸入原料が高騰したとかで、石油燃料系とか、小麦粉とか油脂を材料とした食料品など。
なぜ一般消費財が
それほど上がらないのかは、
人々の財布の中に
「リストラ減給」の
影響が多く残っているから。
ある古い友人とひさびさに遇って、世間話をすることとなった。
構造改革とは、日本の政治文化ばかりか、経済も牛耳っている 「アッチ系」 が自分らの取り分を最大にして、一般日本人を奴隷のようにこき使うことだ。そのように何時もの持論を言ったら、彼は即座に笑いながら応えた。聞けば彼の認識でも、企業の 8割 がたは、アッチ系がトップに居座っているという。
マスコミとか経済学の書籍には書いていないが、一般現実に生活している人々、とくに経営陣をまじかで見たことのある、50才以上の人にとっては、この 「アッチ系」 の跋扈が、身につまされる現実なのだ。
安倍晋三政権のスタートした、此の一年でグラフに鮮明に現れているが、円の価値は、20% も下落した。
つまり、日本人の労働力とか、技術資本とかの価値が、ドルに比してこれほどまで下落してしまった。
ところが、友人も言っていたが、「アッチ系は円ではなく、ドルで資産を形成している。」ならば、安倍晋三政権のやったことは、アッチ・キムチ系の銀行預金の価値を、二割も嵩上げしたこととなる。このことを指摘して、サヨク系がなんやらカンヤラと批判めいたことをいう。このサヨク系はご存じ半島系などの、特亜の輩。そして、この者たちは日本社会の上層部を形成する、支配層になり損ねた、どちらかというと落ちこぼれとか、スネ者たちの集まりなのだ。一方、有名大手企業などの役員名簿に名を連ねる者たちは、小泉時代に流行った言葉で謂うと、「セレブ」という事になる。
さて、安倍晋三政権は、破れたボロ雑巾みたいな、
『構造改革』 の旗を降ろしてはいない。
こと経済とか、金融のことともなれば、
人びとはその中身のことなどわっかるメエ。
とか、舐めてかかっている。
「自由経済」と「共産主義経済」とに分けて、物事を考えようとする。
このような大衆とかには、
現実を分析的に診られる能力など、
期待するのが酷というものだ。
しかし、前にも書いたが、
『 構造改革とは、日本の政治文化ばかりか、経済も牛耳っている「アッチ系」が自分らの取り分を最大にして、一般日本人を奴隷のようにこき使うことだ。 』
という事を知っている。
知ってはいるが、その解決策が見えていない。
人びとは社民党とか民主党、あるいは日本共産党の 『嘘』 に翻弄されてきた。そして、今は途方に暮れている。解決策は、エライ人とかが授けてくれると信じている。マルクスはえらい人。エンゲルスも同じこと。レーニンとかスターリンは神様だ。この程度の脳みそでは、現実のリアルな分析など、絶対にできない。
そもそも、金融構造改革という名の、日本を、日本経済を壊した愚策は、
日本のバンカーたちが、ノウタリンで、クルクルパーだったから、その馬鹿げた政策の跋扈を許した。
生産コストの、10%を企業利益として抜き取れば、経営者は懐が豊かになる。
企業利益に課税せず、高額所得者の報酬にもお目こぼし。そのうえ遺産相続税も減額する。
そして、この馬鹿げた米欧の
支配階級の強欲が、
社会の成長と調和を乱す。
このことに、アメリカ・金銭至上主義のプラグマティスと達は、けっして思いが及ばない。彼ら彼女らには 「哲学が無い」 とは、現金主義者を批評してよく言われることだ。ならば、哲学とは何ぞや。これをプラトンなどの時代にまでさかのぼってしまっては、階級支配が当たり前主義の、ポンツク思想から離陸して、国家をもっと高い天空から俯瞰することは出来ない。ドイツの観念論哲学は、観念論とは他からするケチ付けで、実は産業資本主義の、野卑なブルジョア主義からはなれた、思想的な高みをもっていた。この精神現象の分析などは、また別稿に譲るとして、本稿は、「構造改革主義」の本質は、単なる支配階級の『収奪の言い訳』であることを指摘して、とりあえず終わることとする。
この「構造改革」に付帯して惹起される、経済の停滞とか、金融の混乱とかは、また稿を新たに立てねばならない。
この構造改革の究極の姿が見て取れるのは、オリンパスとかパナソニックの惨状である。
企業はユダヤとかキムチなどの寄生種に憑りつかれて、スネを齧られ遂には屋台骨まで、解体されて産廃業者に捨て値で叩き売られてしまう。
ヤクザな金融などの、経済理論とやらが、『構造改革論』 だと判ればそれでよい。
緑の馬毛島も、ヤクザ金融にかかれば
上の絵のような砂漠化が、とことん進行してしまう。
この陥穽から抜け出す術は、そのうち別稿を建てようと思う。