雑記zaki

日々の雑記

坐禅とマインドフルネスは違う。

2021-03-17 01:02:00 | 日記
もしかしたら同じ文脈で語る人もいるかもしれませんが、明確に違います。

昨今言われているような呼吸に集中とかビパッサナーのようなラベリングなども坐禅ではしません。

前者は数息観と言われてあることはありますが、どっちにしろ息を数える我が残る以上結局二元論の中です。
ビパッサナーも同じで観察する我が残る以上そこには観察する我と観察される我が残ります。
坐禅ではそのどちらも残ってはならない。
一元論でも二元論でもない。

ではどうするか。
そのままにしておく。湧き出る思いもそのままにする。ラベリングもしない。考えもしない。
言ってみればそれは機能であって人間である以上そうなるってだけなのだ。想念が浮かぶというのは自然なことなのである。
考えることもしない、考えないこともしない。

そういう難しいことわかんねぇー!早く気持ち良くさせてくれって人がマインドフルネスだのビパッサナーだの商業瞑想に走るのだろう。

ticktickいいじゃないの。

2021-03-15 21:24:00 | 日記
ticktickのカレンダー欄にたすくまでとったログが同期できるのでプランナーももはや要らなくなった。習慣管理もできるんで張り切って色々登録した。マジで全部乗せアプリって中途半端になりがちだが、機能オフにすることもできるのでシンプルに使いたい人にもオススメできる。

あとはobsidianをちゃんと使えるようになればobsidian→ticktick→タスクシュートというシステムができる。
upnoteはお役御免かな、外で何かメモするにしてもticktickかたすくまで取って家に帰ってからobsidianに送れば良いし。
upnoteに貯めたノートはobsidianに全部移すという感じで使うのもいいかも。

でもobsidianほんまわけわからん。なんでみんなあんな線が伸びてるんすか。どうやってつながるのかまだわからないんですけど。

ticktickはWindowsの方のアプリはtodoistに比べてちょっと微妙なんですよねぇ。

todoアプリは色々使ったけどticktickとtodoistどっちかって感じですね。
シンプルなものだとMicrosoft todoが良いかと思われる。

最近はとにかく記録を残すようにしています。
ログに対してメモ、ブログとは別に個人的な日記も書いたり。
書いて残すってのは気持ちがいいもんですよ。このブログもやはりその目的がある。
読んでる人にはもしかしたらobsidianだのたすくまだのタスク管理だの意味不明かもしれないんだけど。
でも自分の中ではこういう風にできたらいいなと思ってるんだなと、書くことで俯瞰的に見ることができる。
もしブログを書いてなかったらタスク管理も未だに迷走状態で結局何もしないことになっていたかもしれない。
書いたからこそ自分の欲しいものがわかり、ツールを選択できた。

ただ一つこだわったのは脱アナログである。
ツールに頼るということをしました。
紙に書くって気持ちがいいもんです。今でも唯一願望を書き出すというのだけは紙だったり書き出した紙を声に出して読んだりしています。
ただし僕はタスク管理において紙というのは書いて満足2度と見ない状態に陥ってしまうことがほとんどだったので納得がいくまで絶対にデジタルツールでやるぞ!!と意気込んでました。

そして今のところ、なんとか落ち着いた。
todoを批判してみたり、ノートアプリを使ってみたり。
動かさなかったのはタスクシュートだけですね。タスクシュートだけは絶対に必要だという感覚がありました。今も当然続けています。

タスク管理で調べればたくさんの人がたくさんのやり方でたくさんのツールを使ってやっているわけですが、答えはないので。
自分がどういう風だったら気持ちよく生きられるのかというのは人によって異なるので。

僕の場合、まず今日やることは未来から降りてきたものであること。
ボトムアップではないということです。手当たり次第とりあえず目の前のできることからやろうではない。最終的なトップを見て今日何ができるかを考えるところから始める。
ひたすら目の前のことをやっていたらいつのまにか成功しちゃいました、みたいな奇跡が起こるのを待つわけではない。

しかし僕は未来を非現実とは考えていません。今ここ、現在しか存在しないのです、みたいな話ではない。
確かに存在し、その未来は現在に確実に影響を及ぼす。初めに未来ありきだし、その未来は更新されていく。
これを何故か逆に思っている人がいる。過去こうしたから今こうなってるんだと言う。
例えば明日大事な用事があって早起きしなきゃいけないとする。
その早起きしなきゃいけないという未来が現在の自分に早く寝るという制約をかける。
未来に決まっていることが現在の僕らの生き方に影響を与えている。
しかし、普通の人はこう思うだろう。早く寝たから早く起きれた。逆なのである。早く起きるために早く寝たのである。

この思想が僕のタスク管理の根幹にあることは間違いないと言っていいと思われる。

ticktick有料版を試してみた。

2021-03-14 20:33:00 | 日記
todoistもticktickもサブタスク無限かと思ったら限界はあるんすねぇ。

todoistよりticktickの方が安いしticktickでいくことにした。
ticktickの機能はたくさんあるんですが、ポモドーロはfocus todoを使ってるので非表示にしている。
年タスク→月次→週次→日次という感じで階層化したら今日だけにフォーカスできる。
notionなどは使わないようにした。

workflowyとかアウトライナーでも同じようなことできそう。だが、やはり利便性はtodoアプリに軍配が上がる。
サブタスクを階層化せずにプロジェクトにする人も多いんだろうけど…
絶対タスク本位の方がいいと思うんだが、きっとそんな俺はマイノリティなのだろう。

タスクの細分化とか洗い出し登録は時間問わずトイレに入った時とかでもちまちまやった方が続く気がする。
パソコンの前に座って時間をとって意気込んでやろうとすると挫折する。

あとは週次レビューと日次レビューをしっかり繰り返せばいい感じだ。
ticktickにはテンプレートが用意されてるんでそれでもいいんだけど、4行日記のテンプレートを借りようかなと思っている。

なかなかいい感じに回り出した。

現実的な目標はどこまで明確に立てるか

2021-03-14 00:02:00 | 日記
僕が思うに必要なのは月次までで一番大事なのは週次目標だと考える。週次が決まれば日次は勝手に決まるからである。
目標通りにはいかないからといって期限を設けないの愚かな話である。
逆に1年分立てるというのは非現実的と言わざるを得ない。
やってくうちに修正する。無理なものは諦めるなど。
結局年次目標を細かく立てたとしても100%月次週次記録から修正を迫られる。だから数ヶ月先まて何月に何をして〜みたいな完璧な言葉目標を立てるのは徒労に終わる。
なら1年分考えなくて良いかと言われるとそうではなくて、リスト自体は必要。じゃないと月次でやってることが全体に寄与してるか分からない。
それの中から月次レベルに落とす。さらに週次へ、そうすれば1日どの程度やれば良いかわかる。

アナログでやっても構わないような気がしてきて手帳でやりたくなってしまうのだが、徹底的にデジタルにこだわる。
1年でやることの全てを作業レベルまで解体するのはダルすぎます。そんなことやってる時間がもったいない。
全体リストから今月やることを抜き出してその段階で作業レベルまで具体化するのがしっくりくる。

なんだかんだでtodoistが一番完璧にそれができる。
サブタスクの概念一つとっても、todoistは異なる。
todoistのサブタスクというのはタスクを階層化させたものであってタスクを進めるためのチェックリストではない。サブタスクも親タスクと同様全て設定ができる。
upnoteに全体的なリスト→todoistに月次〜日次まで登録→たすくまで計測
という流れが出来つつある。
upnoteはobsidianにいずれ移行する。
todoistは他に良いものがあれば移ってもいいかも。ticktickを試してみたいっていうのがある。
todoアプリでサブタスクをタスクと同様の概念で扱えるアプリってまー正直少ないです。
obsidian早く使えるようになりたいんですがよう分からんのです本当に。ノート同士を繋いだりなんちゃらするのがまだわかんないですはい。第二の脳に一番近いアプリみたいですが。

upnoteの代わりに部分的にnotion使ってみようかなとかも考えました。年リストだけnotion。
色々試してみてようやく固まりつつある。
なんだかんだでいくつかのツールを使うことになってしまったなぁ。
タスクシュート強化版みたいなアプリができると良いが、タスクシュートの思想的にはダメなのだろうなぁ。

個人的な野望は抽象性を帯びる

2021-03-13 00:46:00 | 日記
今ふと思ったが野望という言葉はなんかいいな。
願望より荒々しいし願望より下心がない。

今自分のやってることに納得して、ただそれだけをやればいいという段階になったら本当にタスクシュートだけでいいんだろうけど、多くの人はそうじゃないと思う。
必要だけど十分ではないという。

航に例えると、個人の状況は以下のように考えられると思う。
1.船に穴が空いて沈没寸前
2.船は大丈夫だがオールがない状態(行きたい場所に行けない)
3.船もオールもあるが予期せぬ嵐で何もかも失ってしまう人
4.船もオールもあり、予期せぬ災害への対処もできる人。
1と2は流されるがままで方向性がありません。
2はオールが無いので方向性を持ったとしても自分で漕いで行くことができない。
運良く何かにたどり着くことはあるかもしれない程度。
3は方向性をもって漕いで行くことができるものの、何か問題が起こると全てを失ってしまう人。
4が求めるべき状態である。

ところでこの喩えで考えてみると、いい船を手に入れてオールを手に入れてから方向性を定め行きたい方向に行くと考えるのが人間の約99.999%である。
つまり準備が整った暁には欲しいものを手に入れて行きたいところにいってやりたいことをしようと考えるのである。

これが大きな間違いを生む。
方向性が先、準備が後なのである。
前の例で言うならば、オールや船は後でどこに行くか先に決める。
行き先を決めてからチケットを取るというようなことでもある。
方向性を決めて目標を定めるからこそ周りに見えるものが変わる。
例えば流木はオールにできるかもしれないし、船の穴を塞げるかもしれない。
しかし、方向も目標も無い人にとっては目の前の現実が全てであって、流木を見ても何も思わないかもしれないし、目に入りさえしないかもしれない。

つまりしっかりとした目標さえ手に入れることさえできれば目の前の現実は違った形に見え始めるということである。

しかし凡夫である僕たちはその目標を近くに設定しすぎる。
つまり目標が手段になっていることが多い。
前の例で言うならば、目標に辿り着くためにオールが必要であるということだったはずがオールを手に入れることを目標にしてしまう。

でもこれって自己啓発にありがちなことですよね。
大きな馬鹿げた目標なんか立てるな、できることからやりましょうというのは誰でも見たことがあると思います。
もしできることからやって、いつしか成功者になれるのならスラム街などできようがないし、ホームレスが一生ホームレスであることはないでしょう。
少なくとも彼らは彼らにできる最大限のことをしているはずです。

とにもかくにも野望が先でありその野望というのはやはり自分の想像を超えている必要がある。
ステップバイステップの最初のステップとは野望を掲げることだったのだ。

前にも書いたが細部だけで役に立つ技術には僕はどうやら納得ができないのである。
それこそホームレスだろうと子どもだろうと一般会社員であろうと誰でも必ず望みに到達しうる方法論は構築できるはずだ。むしろ細部は違っていたとしても全体としてはおそらく取る方法は変わらんだろうという感じが僕にはするのです。

そういうわけで僕は仏教に注目しているのかもしれない。