Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

イメージの病(やまい)-臨床と症例 6

2013年12月03日 | Weblog
くねくね、だらだら、淡々と
田中功起『雪玉と石のあいだにある場所で』(青山|目黒)

いま、その作品のみならず批評活動においても、最も注目される現代美術作家の一人、田中功起の個展『雪玉と石のあいだにある場所で』を見る機会があった。田中功起はヴィデオ映像をメインとしたインスタレーション作家として知られているが、そのモチーフは“日常的なもの”“普通のもの”“何でもないもの”のなかに微細なものを見つけ出していくという、いわば反スペクタクルとも呼ぶべき作品を数多く発表している作家である。

今回の個展『雪玉と石のあいだにある場所で』もまた、事務所なのか、何かのショップなのか判然としない空間-「青山|目黒」ギャラリーに一歩入ると、誰かのアトリエか、仕事場を思わせる雑然とした空間が設えてある。周囲の壁には本展のオープニングパーティ時のスナップ写真だろうか、簡素な紙にコピーされたような写真がテープで無造作に貼り付けられている。作品と思しき写真(チーズやゼリーをモチーフとした作品)もあるようだが、作品なのかどうかの区別は判然としない。会期中に何回の展示替えがあるとのコメントがあったので、僕が見たものとは異なる展示が行われていた可能性もある。

それでも、ここでのインスタレーションの意図は明白であろう。まずわれわれ鑑賞者は日常的な空間から隔絶された、異次元の世界に誘われることはない。この雑然とした空間はどこか作家のアトリエとか、仕事場を思わせる。いわば作家の日常的な空間と地続きのような場とも言える。ここで鑑賞者はどのような知覚経験を強いられることになるのだろうか。まずここにはアート空間という日常的な空間から分離・区別された空間を設えることで、作家のフェティッシュな世界、あるいは視覚的なスペクタクルの世界に誘うという意図はない。とするならば、現代アートにありがちなアート空間という特殊な、特権的な空間に対して“何でもないもの”を対置することで、“反芸術的な世界”を築こうとしているのだろうか。確かに、そうした側面もないとは言えないが、どうもそれだけではない気がする。それを証明するのが雑然とした空間の一角に設けられた、モニターに流れるヴィデオ作品である。

おそらくこのヴィデオ作品が本展のタイトルにもあるようにメイン作品なのであろう。ヴィデオ映像にはアメリカの大学構内で行われているフリーマーケットで、椰子の葉を売る田中功起のパフォーマンスが記録されている。壁に貼られた説明文にもあるように、このヴィデオ作品は北米で行われた「Someone's junk is someone else's treasure」(だれかのガラクタはだれかの宝もの)を参照したもので、日米のふたつの作品-雪降るニューヨークの路上で雪玉を並べて販売したデヴィッド・ハモンズの「雪玉セール」(1983)と、失業した男が河原で拾った"変わった形の石"を並べて販売し物思いに耽るつげ義春の漫画「無能の人」(1985)がきっかけとなって制作されたらしい。確かに、“雪玉”が儚いもの、つかの間のものであり、“石”が強固なものであるとすれば、田中功起が販売するのは、椰子の葉という、いわばどちらにも属さない、中間的なものである。“雪玉”=儚いものが芸術的なイデア(観念)に、“石”=物質的なものが“リアルさ”に相当するとすれば、本展のタイトルに記されたように、椰子の葉はそのどちらにも属さないものとして選択されていると言えるだろうか。こうした区別はハイデガーが『芸術作品の根源』で展開した、“もの”“芸術作品”“道具”といった区別を思わせるものだ。

ところで、この“あいだ”で考え、実践するという田中功起のモチーフは、初期の作品以来、一貫したものように思える。たとえば、『GRACE』(2001年作)というヴィデオ作品では、バスケットボールがガランとした教室の床の上で、途切れることなくバウンドしている運動が繰り返し映し出されている。いわゆるループ・ヴィデオと呼ばれるものである。バスケットボールがバウンドするという一連の運動を反復させた映像。一般的にわれわれは一つの運動を始まりと終わりを想定することで、運動の各瞬間を認識する、あるいは各瞬間を一つの運動全体に還元する。しかし、田中功起のループ・ヴィデオにあっては、始まりも終わりもない。ヴィデオの鑑賞者は円環上のいずれの点(瞬間)をも任意に始まりと終わりを想定することが可能である。とするならば、ここでの運動は予め定められた全体を回避し、その任意に選ばれた始まりと終わりによって、権利上その都度、新たな運動が生成されることになるだろう。この時、この一連の運動の各瞬間には、“無数にあり得たかもしれない世界”への契機が潜んでいることになる。この“あいだ”で考え、実践するという田中功起のモチーフは、ドゥルーズ=ガタリの“リゾーム”を思わせる。

「リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲intermezzoなのだ。・・・・・・・樹木は動詞「である」を押しつけるが、リゾームは接続詞「と・・・と・・・と」を生地としている。この接続詞には動詞「である」をゆさぶり根こそぎにするのに十分な力がある」*1

ここでドゥール=ガタリが言う「である」とは、予め定められた全体、閉じられた全体を意味するだろう。始まりも終わりもない、“あいだ”で考え、実践するということは、予め定められた・閉じられた全体を回避し、いわば開かれた宇宙全体の持続と共振するということである。本展のメイン作品であるヴィデオ作品は、『GRACE』のような抽象化された運動が対象ではなく、日常的な現象-フリーマーケットという場、そこでの人との接触等々が含まれている。いわば一つの出来事=エピソードのようなものの反復である。それだけにより不確定な要素が多い、つまりより開かれた運動とも言えるかもしれない。あるいは『GRACE』が形式化された純粋思考に近いものであるとすれば、本展の作品はより日常に近いものとも言えるだろう。この違いには重要な問題が含まれているような気がする。

田中功起はその批評活動のなかで-Web版ARTiTで連載中の往復書簡のなかで、展示すること、見せること、見ること、作ること、行為すること等々、芸術をめぐるさまざまな概念を分割・細分化することで、無反省な二項対立が成立する地そのものを無効化し、芸術という概念を刷新しようと試みている。たとえば、最新版のARTiT*2では、美術批評家・林卓行が問題提起をした「彫刻/オブジェ」という対立概念を受けて、さらに制作行為を三つの「予定調和」-(造形)感覚・(展示)空間・時間に細分化している。ここでわれわれが注目したいのは、その内容よりも(もちろん内容も重要だが)、その分割化・細分化の方法である。「である」に回収することなく、「・・・と・・・」「・・・と・・・」と分割・細分化していくこと。田中功起における主要なテーマは、その制作活動においても、批評活動においても、くねくね、だらだら、淡々と、接続詞による分割・細分化を繰り返すことにあるのではなかろうか。

もう一度、本展のインスタレーションに戻ってみよう。上記したように、まず鑑賞者は作家のアトリエや仕事場に迷い込んだように感じるであろう。作家のアトリエ、あるいは仕事場とは、作品が生まれる場、従来のような意味での作品でもなければ、その素材でもない、一つの中間地帯である。田中功起もどこかのインタビューで名前を挙げていたが、ブルース・ナウマンがスタジオでのパフォーマンスを作品化した『Eleven Color Photographs』のような作品との類縁性も感じる。鑑賞者を作品が生まれる場に誘い込むことによって、作家の思考のなかに迷い込ませること。そしてわれわれは椰子の葉の販売というパフォーマンス映像を通して、芸術作品とは何かをめぐる迷路にはまることになる。われわれはこうした思考の迷路をくねくね、だらだらと経巡ることで、日常的なものから横滑りしていく。したがって、田中功起の作品がわれわれの日常的な感覚や経験から分離・区別をさせないわけではない。

田中功起の作品はしばしば、日常的なものを非日常的なものへ転換することと言われているようだが、田中功起の作品に日常/非日常、ケ/ハレ、俗/聖、禁止/侵犯・・・といった二項対立はない。むしろ、そうした芸術をめぐる二項対立が何故に生じ、どのように機能しているのかをあらわにしようとしているように思える。ここで思い出すのは、ミシェル・フーコーの“系譜学的批判”である。フーコーは「啓蒙とは何か」のなかで、自らの“系譜学的批判”について、次のように語っている。

「この批判が<系譜学的>であるというのは、私たちに行いえない、あるいは、認識しえないことを、私たちの存在の形式から出発して演繹するのではなく、私たちが今のように在り、今のように行い、今のように考えるのではもはやないように、在り、行い、考えることが出来る可能性を、私たちが今在るように存在することになった偶然性から出発して、抽出することになるからだ」*3

フーコーの系譜学的批判を“芸術”や“美術”という領域で語るとすれば、今あるように“芸術”があり、“芸術活動”を行い、“芸術”について考えることから抜け出すためには、今あるように“芸術”が存在することになった歴史的な偶然性から出発して、そこから抜け出すための可能性を抽出するということになるだろう。もちろん、ここでのポイントは「存在の形式から出発」するのではなく、「偶然性から出発」するということにある。いずれも演繹的方法ではあるが、そのスタート地点が違うということだ。前者がグリーンバーグのフォーマリズム批評だとすれば、後者はデュシャンということになろうか。デュシャンのレディ・メイドとは、予め誂えられたものであり、予め与えられたものである。予めあたえられたものを分割・細分化すること-芸術/非芸術、事物/表象、作ること/見出すこと、作品/行為等々を通して、芸術という歴史的な機能が暴かれるとともに、それを芸術と呼ぶかどうかは別にして、われわれは知覚の別の迂回路を見出すことになるだろう。その意味で、田中功起はデュシャンに連なる正当な作家と呼べるかもしれない。

注:
*1・ドゥルーズ+ガタリ著『千のプラトー』(河出書房新社 宇野邦一他訳)

*2・Web版ARTiT連載「田中功起 質問する第6回」http://www.art-it.asia/top

*3・フーコー・コレクション6所収「啓蒙とは何か」(ちくま学芸文庫 石田英敬訳)



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