Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

メタ・フォトグラフィ論-デジタル化以降の写真について・改訂版

2010年12月09日 | Weblog
-マイケル・フリードが現代写真における「被写体と写真家の関係性」から「写真と観者の関係性」への移行を指摘しているが、この移行が意味していることはどういうことだろうか。従来の写真が「被写体と写真家の関係性」を重視してきたのに対して、現代の写真家は写真を観る者との関係において、自らの写真を撮る(写真作品を制作する)ようになったということだろうか。ということは、写真というイメージを、その被写体(現実の対象)に依拠することなく、あるいは現実の対象に還元することなく、一つの自律したイメージとして提示するようになったということだろうか。現実対象とイメージの明確な分離。観る側からの立場で言えば、写真家が何をどのように撮ったか(写真家の現実的経験)をとりあえず捨象し、まずは眼の前にある写真(イメージ)と対峙するということだろうか。

-写真を観る側はいずれにしても、眼の前にある一つのイメージを見るのであって、そこが出発点ではないのか。バルトが写真を語る上で出発点とした現象学的な態度のように。

-確かにその通りなのだが、バルトの現象学的な態度とは言うまでもなく、文字通りに写真という一つのイメージに対峙することなのであって、まずは眼の前のイメージを何ものにも還元しないということであろう。まあ、話の先を急がずに、フリードの問題提起(?)を受けて、デジタル以降の写真、あるいは現代写真について考えてみようではないか。その考察の基本的な図式とは以下のようなものだ。「被写体(現実の対象)-カメラアイ」「被写体-カメラアイ-撮る主体」「被写体-カメラアイ-撮る主体-メディア〔=写真が流通する媒体〕」「被写体-カメラアイ-撮る主体-観る主体」。つまり、写真というイメージを生成し、流通させ、(観る側が)享受するという、一連の関係項から写真(イメージの生産)を考察してみようというものである。生成(生産)、流通(ここには当然ながら、各種のメディアのみならず、批評家やキュレーターの存在も含まれる)、消費。ここで考察してみたいと思うのは、一連の関係項のどの関係性を重視するのか(あるいは制作の動機になっているのか)によって、写真(イメージ)が異なってくるのではないかという仮説である。

-写真作品における動機の文法を探るということか?

-(無視しながら)さらに言えば、いずれの関係項を重視するかによって、見えるものと見えないもの(見せないもの)のエコノミー、つまり選択(可視性の可能性)と排除(不可視性の制限)の配分法則があらわになるのではないかという隠れた意図もある。もう一つ付け加えておけば、デジタル以降の写真(あるいは現代写真)を流通、消費という関係項を重視、あるいは関係項自体をテーマとして生成された写真(イメージ)ととらえてみたいということだ。そしてそれらの写真(イメージ)を「メタ写真」と呼べるのではないかと。

-しかし、従来の写真家だって、自ら見たもの、経験したものを誰かに見せることを前提にしてきたんじゃないのか? 見る側だって、目の前にあるイメージ(写真)を出発点として、写真家が何をどのように撮ったのかをたどっていったわけだし……。

-その場合、写真家は最終的に何を見せようとしたのか、あるいは見る側は何を見ようとしたのだろうか。写真家が見せようとしたもの、見る側が見ようとしたものをとりあえずここでは、現実の対象化されたものと呼べば、現実の対象化されたもの(=イメージ)を被写体(現実の対象)に還元し、現実の在り様(事物の状態)を見せようとしてきた、あるいは見ようとしてきたのではないか?さらに今、君は「見たもの」と「経験したもの」を分けて言っているけど、そこには大きな違いがあるのではないか?

-これまでの写真は、写真家が見た、経験した、解釈した“現実”を記録し、見る側に伝えることに重点が置かれていたように思えるね。つまり、写真家は見たものを、あるいは経験を、見る側は写真(あるいは写真家)を介して、その現実を、写真家の経験を追体験することを強いられてきたということかな?確かに、写真家が「見たもの」と「経験したもの」は異なる。それがあなたのおっしゃる「被写体(現実の対象)-カメラアイ」と「被写体-カメラアイ-撮る主体」という二つの関係図式か?

-そこで問題なのは、写真を見る側は写真(カメラアイ)によって対象化されたもの(=イメージ)をつねに〈現実〉に還元してきたということだ。いわば、直接話法による視覚的イメージの伝達と言えるだろう。そこでの現実とイメージ(写真)の基本的な関係図式は、現実とイメージが一対一の対応関係にあるということだろう。

-そこにいかなる問題があるのか?

-おそらく、現実・写真家の(カメラを介して写真家が知覚した)経験・写真(イメージ)という関係構造は、さらに次のように細分化できるだろう。現実(不可視の、現実それ自体)・裸眼(あるいは人間の自然的知覚)によってとらえられた現実・写真家の経験・写真(イメージ)と。この関係において、最も素朴なあり方は、現実・裸眼による現実・写真家の経験・写真のすべての項を等式で結び、それらをすべて〈現実〉という名の下に統括するという姿勢ではなかろうか。もっと正確に言えば、現実と写真が直接つながり、その間の関係項を捨象してしまうあり方だ。いわゆる写真(イメージ)の透明性の問題。

-今時、そんなあり方を信じている人はいないだろう。写真の〈記録〉というイデオロギー。

-君はそう言うけど、意外にわれわれの中に根強く残っている姿勢ではないか。写真を消費する日常的経験を振り返ってみればおのずと明らかなことだ。証拠としての写真、証言としての写真、証明として写真・・・・。しかし問題は、だから写真は虚偽であり、虚構であるとして告発・断罪することではない。実際、われわれの社会のなかで、写真が証拠として、視覚的証言として、出来事あるいは観察の証明として機能しているのは明らかだし、その理由もあるはずだ。科学というものがある限定された領域の中で意味をなすように、証拠・証明・証言としの写真もまた決して無意味なものではない。この写真における部分(断片)と全体の関係、あるいはイメージと画面外の関係についてはあらためて語ってみたいと思う。ここで考えてみたいのは、現実、裸眼による現実、写真家の経験、写真(イメージ)という各項のズレに対して、写真家、あるいは見る側がどのような反応、対応をしてきたか、あるいはそれらのズレをどのようなに考え、制作(撮ること)のモチーフにしてきたのか。そして、そのズレを解消するために、どの項を最終的な審級-最終的な裁き手、裁判官にしたか。重層的決定における最終的審判官は何か。それが問題となるだろう。まずは上記の項をとりあえず、現実、裸眼(自然的知覚)、カメラアイ、イメージ(写真)という呼び方で話を進めてみたい。

-何だか、アルチュセールを想起させるね(笑)。

-最も素朴な写真に対する考え方、とらえ方は、先に言ったように、現実とイメージを直結させてしまう姿勢だ。このイメージの透明性は、たとえばバルトが「写真は被写体が密着している」と語ったことだし、写真を見ることの困難さにもつながっている。つまり、われわれは写真というイメージではなく、被写体(現実)を見てしまうということだ。撮る側もまた、それを最大の関心事にしてきた。

-イメージを現実と混同してしまうというわけだ。

-何度も言って申し訳ないが、だからといって、写真というイメージの透明性を告発し、断罪することに問題があるわけではない。写真というイメージの透明性は写真の重要な特質としてとらえておかなければならないだろう。問題は写真というイメージの透明とは何かということだ。現実とイメージの間に、カメラという存在があることを意識し、そこにこそ写真の本質があることを本格的に論じていったのがベンヤミンではなかったろうか。つまり、裸眼とカメラアイのズレ、違い(差異)。そのズレをどうとらえるか。

-カメラアイ(=機械の眼)という概念は、写真にだけではなく、文学や美術、芸術一般に大きな影響を与えてきたものだよね。例えば、ドス・パソスの小説とか。

-歴史を俯瞰的に眺めれば、写真の発明というのは、近代科学革命の延長上にあることになるだろう。ドゥルーズが指摘するように、現実の運動を特権的な瞬間に連関させるのではなく、任意の瞬間に連関させること。軌道と時間の関係を規定するケプラーの近代天文学、物体の通過する距離と落下する時間を関係させるガリレオの近代物理学、動く直線の任意の瞬間における位置を求めるデカルトの近代幾何学等々。いわば運動の図式化の延長上に、光の痕跡=外観の輪郭を定着する写真もあるわけだ。表象からイメージへ、イデアからイメージへ。

-とすると、ベンヤミンは写真のなかに改めて近代的思考を再確認し、そこに何らかの可能性を認めたということか?

-裸眼との違い、あるいは絵画(従来の知覚形式)との違いをカメラアイの中に認めることで、その違いが与えるさまざまな影響を測定したということだろう。「アエラ」「展示的価値」「非人間的風景」等々、ベンヤミンの周知の概念は、裸眼や絵画あるいは表象とカメラアイとの知覚的差異、感覚的差異、認識論的差異等々を考察することでもたらされたものであろう。

-当時の芸術に対する考え方からすれば、カメラアイと絵画や表象が異なるからこそ、写真は芸術たりえないと見なされていたわけだ。写真にはイデアによる総合的な把握が存在しないと。

-しかし他方で、だからこそベンヤミンは写真に可能性を認めるわけだ。可能性というよりも、現実に対する感覚・知覚・認識の違いを。例えば、ベンヤミンは写真を撮る主体あるいは写真家という関係項をあまり重要視しない。ベンヤミンは、現実と裸眼(あるいは絵画的知覚)、現実とカメラアイという項の関係に焦点をあてて写真をとらえる。いやむしろ、撮る主体、あるいはイメージを生成する主体の不在にこそ、写真の特性を見ていると言えるだろう。アジェの写真にベンヤミンが見出すイメージの特性とは、その非人間的な風景だ。人間の存在、いわば見る主体の不在において存在する風景。世界は世界として存在するということだ。たとえば、アンドレ・バザンも「写真イメージの存在論」のなかで、写真というイメージを人間を締め出したメカニックな再現ととらえ、そこにこそ写真の本質を見ている。

-裸眼によってとらえられる現実、あるいは言葉や絵画的知覚によってとらえられる現実とカメラアイとの相違。そのズレに、ベンヤミンは写真の特性を見出したわけだ。と同時に芸術と文化の変質を。

-われわれがベンヤミンから読み取るべきポイントは、撮る主体の不在、表現する主体の不在という点だろう。ベンヤミンが初期写真からやがて写真は人間化されてしまう、と述べたのは撮る主体が前景化してくるということではないだろうか。ということは、ベンヤミンにあっては写真家(撮る主体)の経験は問題の俎上に挙がっていないということだ。

-主体の不在、そこにはどんな意味があるのか。

-当然ながら、裸眼や言葉、絵画的知覚を相対化するという意味があるだろう。けっきょく、報道写真やモダニズム写真というのは、このカメラアイの特性に重点を置くことで、写真表現を深化させていったように思える。スティーグリッツらに始まるストレートフォトにその典型が見出せるように、カメラアイという写真的知覚を純粋化し、いわば純粋視覚ともよぶべきものを追求したと言える。この姿勢はモダニズム美術における視覚的イリュージョンの自律化、純粋化に対応する。実際、スティーグリッツは当時のモダニズム美術(ヨーロッパ美術)の良き理解者であり、アメリカへの紹介者でもあった。

-裸眼(あるいは絵画的知覚)との差異を強調していくことで、写真(カメラアイ)に純粋な視覚を求めていったということか。それは写真というイメージの透明性をより純化させていくということではないのか。その写真というイメージの透明性こそが客観的イメージと呼ばれてきた所以なのか。そこで報道写真と交差するわけか。

-しかし、重要なことは写真というイメージの透明性(直接性)は、決して裸眼の透明性ではないということだ。写真というイメージの透明性と裸眼の透明性を混同してしまうところに、報道写真の、つまり現実=写真イメージとの混同がある。

-報道写真といわゆるモダニズム写真とはどう異なるのか、あるいはどう共通点があるのか。

-報道写真が現実とイメージを混同した(記録としての写真)とすれば、モダニズム写真は裸眼を超克しようとした。つまり、モダニズム写真はカメラアイにある種の曇りのない眼を見出したわけだ。共通する姿勢と言えば、裸眼が間違った知覚で、カメラアイがより現実に近く、正しい知覚という捉え方だろう。主観的知覚=裸眼と客観的知覚=写真。もちろん、ベンヤミンも、裸眼に対してカメラアイが正しい知覚と言っているわけではない。当然ながら、カメラアイの危険性にも自覚的だったし、その両義性を強く意識していた。それでも、ベルグソンのように、裸眼も、写真的知覚も、共に錯覚なのだという明確な認識はなかったように思える。もちろん、であるがゆえに、ベルグソンは写真や映画に批判的だったわけだが。

-カメラアイの危険性というのは、写真の透明性を現実と写真(イメージ)を同一のものとしてとらえてしまうことか?

-写真というイメージの透明性とは決して現実が透明に見えることではない。先に引用した「写真イメージの存在論」のなかで、アンドレ・バザンは「すべてのイメージは事物として、すべての事物はイメージとして感じとられなければならない」と語っているが、ここで言う事物とは文字通りのものであって、裸眼のとらえた事物ではない。写真の透明性とはカメラアイ、機械の眼がとらえた透明性なのであって、ここを混同してきたことが、例えば写真史における「記録と表現」というアポリアを生み出したと言えないか。

-捏造されたアポリアというわけか?(笑)しかし、いわゆるモダニズム写真(ストレートフォト)は、報道写真とは異なりカメラアイがとらえた現実にこそ、写真というイメージの透明性を求めてきたのではないか?

-確かに。写真史における記録派も表現派(モダニズム系芸術写真)もともに、写真の透明性を表現モチーフの一つとしたことは明らかだろう。記録派が写真による透明性を現実=イメージという透明に求めたとすれば、表現派はカメラアイによる現実の透明性に求めた。カメラアイによる現実とはいわゆる事物のことだ。記録派が裸眼とカメラアイの一致を求めた(知覚レベルでは。しかし、その視覚的伝達性に時間・空間を越えるものとしての大きな可能性を見た)とすれば、表現派は裸眼の超克を求めたと言えるだろう。人間を超える眼-そこに崇高さを投影することになるだろう。

-ロスコーやニューマンのように?

-確かに。しかし、問題は現実という透明性とカメラアイの透明性である。この二つの透明性は、実は写真がもつ二つの機能なのであって、どちらにも還元できないものなのではないか。例えば、われわれが一枚の写真を見る場合、現実の外観を光学-化学プロセスによって直接転写したものであるがゆえに-つまり、その物質的痕跡であるがゆえに、写真に転写されたイメージを被写体に-つまり現実の事象に還元してしまう。「写っているものは、何々である」と。いわゆる写真における現実の指示的機能だ。他方で、写真は現実の事象から、写真家が何かを分離・区別する表現的な機能もある。光学的な手段を中心とした描写的機能だ。この写真がもつ現実の指示的機能と描写的機能とは、現実という透明性とカメラアイという透明性に置き換えることができるだろう。

-それはけっきょく、記録と表現、現実とフィクション、あるいは自然と文化という、相変わらずの写真をめぐる二分法ではないのか?

途中ではあるが、無駄なことを書いていることに気づいた。
あらためて、Metaphoto-graphyca論として再開しようと思う。