Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2010年05月31日 | Weblog
ぼやき-もういいかげん、ニッポンの漫画やアニメ、いわばオタク文化に依拠したアートというものを批判的に見直す時期に来ているんじゃないのか。若手の美術批評からそんな奴が出てきて欲しい気がする。けっきょく、グローバル・アート・マーケットにおけるオタク文化って、「フジヤマ・ゲイシャ」の世界じゃないの?(笑)。

写真のデジタル時代にあって、今更、写真の真性性をテーマとするような作品が面白いとは思えない。たとえば、ファッション(広告)写真がフォトジェニックな効果によって、偽のイメージを捏造していることを告発すること、あるいは暴露すること。相変わらずの“本物と偽物”という図式。そもそもこうした作品は時代認識がまったくずれている。現代の消費者(イメージの享受者)にあっては、ファッション(広告)写真が偽のイメージであることを自覚している。自覚しながら偽のイメージを楽しんでいるのだ。その心性こそが論点になるべきなのだ。たとえば、小林美香氏がScribdというサイトhttp://www.scribd.com/doc/10934193/Looking-at-Photographs-Digital-Layer
で紹介しているダニエーレ・ブエッティの作品などは、すぐさまファッション写真が応用し、広告写真に回収されてしまうだろう。こうした作品は、眼を刺激するものとしてファッション写真に受け入れられ、その批評性なんぞは簡単に乗り越えられてしまうのだ(笑)。もはや偽のイメージか、本物(リアル)のイメージかが問題ではない。そもそもイメージとはすべて偽のイメージであるということから出発しなければならない。問題はどのような偽のイメージを作っているかだ。誰に向けて、何のために、どんな方法で。

twitter考-まったく見知らぬ人間と公的なコミュニケーションを行うこと。この場合の公的とは理性を理性の目的のみにおいて使用するということである。

短期間のtwitter経験。この急き立てられる感じがどうも馴染めない。自分がいま何をしているかを公表することにどうしても違和感を感じる。自分の意見を不特定多数に向けて発言するといっても、この“急き立て”においては思考が存在しない気がする。下記にも書いたが、同好の士同士の相互掲示板、あるいは意見交換といったところがtwitterのとりあえずの使い方か。意見交換といっても、同じ価値観・考え方の人たちの再認・追認の交換であって、特異な意見は浮いた(無視される)ものになるようだ(笑)。まあ、しばらくは模様眺め。

twitterというのは、フォローされるよりも、フォローする方に意味があるような気がする。土足で人の家に上がり込むようなものではあるが…(笑)。

今更ながらなのだが、われわれが「痕跡の美学」として批判してきたのは、記憶に回収されてしまう記憶(記憶の補助としての写真の記録性=追認と再認)であり、記録に回収されてしまう記録(物語としての記録)なのだ。写真における「痕跡の美学」の回避とは、記憶に還元されない記憶、最も古い記憶であり、記録に回収されない記録、記録を裏切る記録を奪還することなのだ。ありえなかった記憶と記録。けっきょく、バルトの写真論(『明るい部屋』とは、写真というイメージ(光の痕跡)から、“存在者“と“存在”を区別したのだ(ハイデッガーを参照)。つまり、バルトの“存在”とは、記憶にも、記録にも還元できない光の痕跡ということである。

twitterを始めてみたが、正直、どう使っていいかわからない。最も多い使われ方は、同好の士たちの相互掲示板のようだ。もちろん、同好の士たちの集まりがつねに開かれている(見知らぬ人同士が、ある趣味や傾向という一点で集まったり、離散したりする)というのが特徴だが。オープンな掲示板(告知も兼ねた)というところか。心情を吐露するにしても、おそらく、同じような心情をもった人たちが反応(リツィート)するのだろう。自分の意見を公に発言していくという点ではやはり、ブログの方が相応しい気がする。が、140文字の思考というのもあるかもしれない。ニーチェに倣ってアフォリズムでも展開してみようか。

twitterを試してみる。カント的な意味での公的つぶやきを目指して(笑)。

荒金直人の『写真の存在論』を読む。バルトの『明るい部屋』をきわめて的確かつ正当に解読した本だと思う。バルトの写真が与える「存在の経験」(それはかつてあった)は、記憶でも、記録でもない。いわば時間(この場合の時間とは時間そのもの、持続する時間のことだ)の露出そのものである。バルトの存在論的写真論への関心の一つは、「では、身体はどこに行ってしまうのか」ということだ。なぜなら、バルト的「存在の経験」においては、とりあえず身体を括弧に入れることでもあるだろうからだ。おそらく、バルトの写真論における身体は、唯一、写真の触覚性(光に触れる)によってかろうじてつながっているのかもしれない。とすれば、デジタル化以降の写真は? バルトの存在論的写真にしたがえば、デジタル写真はさらに、その「存在の経験」を純粋化すると言えないか。なぜなら、過去の実在性によって、“いま、ここ”の「現存在」が括弧に入れられることによって、バルトの「存在の経験」が開かれるとすれば、デジタル化以降の写真においては、その過去の実在性そのものの信憑性が崩れているのだ。しかし他方で、デジタル写真というイメージが現前していることは明白である。とすれば、デジタル化以降の写真というイメージにおける時間は実在性なき時間である。しかし、このいわば“偽の時間”はある意味で純粋な時間の露出につながる可能性も秘めているのではないか(超越論的時間?)。もちろん、バルトは否と答えるだろう。荒金直人も指摘するように、実はまさに「存在の経験」における、その“存在”そのものの意味が異なっているのだ、おそらく。そこがデジタル化以降における写真への新たな問いであり、イメージの存在論となるだろう。一つ、方法があるとすれば、「存在の経験」を“いま、ここ”に不断に逆流させることではないか。バルトの存在論的写真論がいまだ有効だとすれば、そこにあるような気がする。もう一つの感想は、写真がこれまで記録という側面に大きな比重が置かれてきたのは何故かという問いだ。これまで使われてきた記録という概念はけっきょく、「存在の経験」の不安を回避・無化するために、映画における物語化のように、記録という近代的な物語に回収することではなかったのか。記憶と記録、そのいずれにも回収されない写真を志向すること(これは長年、言い続けてきたことだが…)。そこに、写真経験のどのような可能性が秘めているか。

カメラの身体化とは「事実的自我(フッサール)」における意識をエポケー(括弧入れ)することであり、身体のカメラ化とはその一方の身体をエポケーすることである。前者によって見出された身体の知覚とはけっきょく、ある一定の有用性に基づいた知覚にすぎないのではないか。後者のエポケーされた身体はまさに空っぽの肉の塊そのものであろう。身体と意識のパラドックス。ところで、この二通りのエポケーによって括弧から逃れるもの(余剰、余分)とは何か。それは同一のものか。

誰かがどこかで「新しい技術というものは、突然出現するものである」と言っていたと思うが、つまり、新しい技術の出現はあらかじめ使用目的があって、あるいはその必要に要請されて生まれてくるものではないということだ。むしろ技術者は小型化とか、高速化とか、コスト削減といった、いわば技術的領域における要請から生まれてくるということだ。むしろ、その使用法は、その技術が普及し、一般化するなかで、大衆の欲望に沿って決定されていくものだろう(ハイデッガーが『技術への問い』で論じた論点の一つがこれである。技術の本質が手段-目的という因果性のうちにあるのか、という問いである。つまり、手段-目的といった因果性は、結果=使用法から事後的に見出されたものにすぎないということだ)。当然、そうした大衆の欲望は、既存の(古い)技術によって形作られた欲望の、あるいは文化領域の延長上にあるに違いない。こうした新しい技術の世俗化、物語化によって、何が取り逃がされてしまうのか。おそらく、新しい技術が持っていた潜在的な使用法ではないか。逆に言えば、新しい技術は紋切り型の感じ方や考え方を覆す潜在性をもっているということだろう(実際、“芸術”という領域こそが、新しい技術の出現に対して、そうした立場-潜在性の探求を取ってきたのではないか。新しい技術の世俗化・物語化への抵抗等々も含め。例えば、ドゥルーズ的に言えば、映画が物語に回収されていくのはまさに、映画と言いう新しい技術の世俗化の現れの一つである。同様に、写真の記録への回収もまた?)。ということは、新しい技術に対する肯定、否定いずれでもない、第三の立場から考察することが重要になるだろう。あるいは新しい技術を肯定する者は、どのような動機からそうした立場をとっているのか、どのような立場に立脚しているのか。その反対に否定する者の動機、立場、立脚点は何かを探ることも重要であろう。写真、あるいはデジタル化以降の写真に関しても同様であることは言うまでもない。

Ustreamというのが流行しているらしい。インターネットによって誰もが一つのメディアを獲得したように、いまや誰もがテレビ局をもったわけだ。当然、ここで流れる映像は、いま、この時の、世界の非決定的な断片の連なりである。かつてのメディアであれば、その“誰?”というのが問題になるとしても、一つのイデア的総合(いわゆる編集者、あるいはその他もろもろの関係者)の機能を果たす“誰か”が介在していたわけだ。しかしもはや、その役割を果たす者はいない(このブログもまた、原則的には誰の介在も経ることなく垂れ流されているわけだが…)。この個人化された無数のテレビ局(メディア)は、ある傾向(文化的な趣味)によって共有され、“見る””見られる”関係を形成する。世界の無数の断片化。この非決定的な瞬間(の連なり)は確かに、その使い方によっては何者かによって中心化された世界の再現(あるいは記号化された世界)に対してのオルタナティブな視点を用ち得るかもしれない(写真における非決定的瞬間=非中心化された視覚、あるいは世界の断片化がある意義を持ちえたとすれば、それはありえたかもしれない過去の存在に思考をうながすためであった。たとえば、プロヴォーク-中平卓馬)。しかし一方で、これら分散(断片化)された世界の再現は、個々人の想像的世界と直結することで(それが一つの趣味の傾向としての村社会、島々だ。極論してしまえば、各村社会や島々から流れるものは、実はそのほとんどのものが既存のメディア・コンテンツを模倣した情報-文化趣味にすぎないということだ-笑)、現実・世界(社会)・私の諸関係を誤らせることになるだろう。あたかも断片化された世界が現実そのものであるかのように、つまり、介在する世界(社会)はすでになく、われわれは現実(=世界)と直結しているかのように(ベルナール・スティグレールが言う「象徴の貧困」というやつだ。つまり、諸断片が全体なるものをどう規定するかという問いが欠如しているということだ)。なんと恐ろしい世界(社会)だろう!(大笑)。

「そうした錯覚の再現は、或る意味でその錯覚の修正でもあるということにはならないだろうか。手段が人為的であるということから、結果も人為的であると結論してよいのだろうか」(ドゥルーズ『シネマ1‐運動イメージ』財津理他訳)

演出された(あるいは加工された)写真は、人為的であるがゆえに批判される。あたかも本来の写真が自然的知覚であるかのように。確かに、写真は自然的知覚に類似している。ただし、二つの知覚とも“錯覚”という資格において。同じように、デジタル写真は人為的(偽物)であるがゆえに批判される。あたかもアナログ写真が自然的知覚であるかのように。確かに、アナログ写真は自然的知覚に類似している。ただし、二つの知覚とも”錯覚”という資格において。演出された(あるいは加工された)多くの写真が、あるいは多くのデジタル写真が批判されるべきなのは、あまりにも裸眼(肉眼)という自然的知覚に似すぎているがゆえに批判されるべきなのだ。

森山大道が写真においてその“質”よりも“量”を重要視するのはなぜか。“質”はポーズに由来し、“量は”写真における「任意の瞬間」に由来する(この任意の瞬間を“視覚的無意識”ととらえてはならない。ベンヤミンは写真=カメラの眼による切り取りを“無意識”と言うことで、写真の知覚を心理化してしまったと言えないだろうか。つまり、カメラの眼が裸眼の奥底に潜む知覚をあらわにしたと。ここからカメラの眼が「生きた経験」による純粋知覚という誤解が生じることになった)。特権的瞬間(=ポーズ)から任意の瞬間へ。決定的瞬間から非・決定的瞬間へ。森山大道の“量”への関心はまさに、運動を捉え、再構成する方法の“超越的総合”と“内在的分析”の違いを語っているのである。つまり、森山大道における写真による現実(対象・被写体)の切り取りは、“超越的総合”による選択ではなく、まさに現実の実在的運動の“内在的分析”による選択-非・決定的瞬間からの選択であり、現実(運動)の修正なのである。

表現、あるいは芸術の役割を「見えないものを見えるようにする」と述べる多く言説は、おそらくデリダが下記のように語ることに集約できそうに思える。

「…あなたをいわゆるテクスト-外なるものへと慌てて閉じこめてしまうのだ。知覚という前-テクスト、生きたことばという前-テクスト、素手という前-テクスト、生きた創造という前-テクスト、現実の歴史という前-テクストなどなどといったテクスト-外なるものの中へと」(デリダ『絵画における真理』阿部宏慈訳)

不用意にも“不特定多数”という言葉を使ってしまったが、TWITTERも含め、ネットにおけるコミュニケーションとは、実は不特定多数に開かれたメディアではないのだ。むしろ、きわめて限定された-つまり、同じ趣味、同じ関心、興味、嗜好等々の仲間たちに向けて(限定されたあて先)発信されるメディアなのだ(このブログもしかり!)。同じ匂い・臭いを探し求めて、さ迷い、漂う情報。インターネット・メディアとは公的なもの=普遍性の喪失のメディアなのであって、小さな共同体への分散、回帰なのかもしれない。インターネットによって作り出される無数の村社会。かつての村-共同体が血(出自)と大地のコードによって制御されていたとすれば、インターネット時代の村社会は、階級でもなければ、貨幣(富)でも、知識(教養)でもない、“文化(趣味)”というコードによって制御されているのだ。もはや誰も普遍性(公的なもの)などは求めていない。であるならば、ドゥルーズが言うごとく、電子技術時代に問題となるのは匂い・臭いの発信元とあて先である(笑)。誰が、誰に向けて、何の目的(意図、あるいは関心でから)で、いつ、どこで発信しているのか(もちろん、このブログは公的な時空に向けて発信しているつもりだ。お前はまだ公的なものの存在を信じているのか、と言われようが…)。コミュニケーションのドラマ化。

物・商品(道具)・芸術
ご存知のように、ハイデッガーの『芸術作品の根源』は芸術とは何かを解明するにあたって、単なる物・道具・芸術作品の区別から出発する(つまり、これらの“物”が経験上あらかじめ峻別されてあることを前提にする)。芸術作品は単なる物や道具といかに峻別することができるのか、と。しかし、われわれはあらかじめ物や道具と芸術作品が区別される時代に生きているのだろうか。むしろわれわれはこれらの“物”が峻別できないことから出発しなければならないのではないか(もちろん、ハイデッガーにおいても、従来の物概念-実体〔主体〕/属性〔述語〕、感覚的なもの/思考的なもの、質料〔内容〕/形相〔形式〕といった対概念によって、これらの“物”が区別されていないがゆえに、物・道具・芸術作品を峻別することから出発すべきだと主張するわけだが…)。たとえば、ハイデッガーは道具と商品の区別を考慮していないような気がする(『芸術作品の根源』に登場するゴッホの絵画“靴”をめぐるデリダの論考「返却」は、ある意味では道具と商品の区別に関する考察の一ヴァリエーションではないだろうか)。現代芸術にあっては、単なる物・商品・芸術作品はいかに区別されるのだろうか。実際、19世紀後半頃から、道具は芸術作品に近づき(道具の商品化)、芸術作品は単なる物に接近していく(芸術作品の物化。マネの絵画がオブジェ-物質としての絵画を志向したことを想起せよ)。もともと芸術作品は道具(有用性)から分離していったものではないか。芸術の非有用性(芸術の無用性化・無償化)。道具のパレルゴンとしての芸術(装飾の芸術化)。あたかも、道具は引き剥がされていった芸術を追うように芸術作品を目指し、芸術作品はそこからさらに逃れようと単なる物になろうとしているようである(そして芸術は単なる物を目指すことによって、その追求を“美から真理へ”の転換を果たすだろう。あるいはイデアからイメージへ)。もちろん、こうした図式はきわめて乱暴なものだが、ここに何か近・現代における“芸術”のあり方を読み解くヒントのようなものが見え隠れする。写真というイメージにおけるインデックス性の強調も決してこのことと無関係ではないだろう(いわく“物としての写真-イメージ”)。ここであらかじめ断っておけば、ハイデッガーにおける物・道具・芸術作品の区別も決して単純なものではない。例のゴッホの“靴”の絵を例に述べる下りは三つの区別が奇妙な絡み合いを演じている。ハイデッガーはゴッホによって描かれた“農婦の靴(?)”がその道具としての有用性をあらわにしたがゆえに芸術作品足りえていると示唆している。ゴッホによってあらわにされた“靴”のむき出しにされた有用性(道具性)。何故、ゴッホの絵は道具の有用性をむき出しにしているのか。それは“農婦の靴”が使い捨てられ、むしろその有用性が摩滅したからこそなのだ。ゴッホの“農婦の靴”にあるのは、“靴”と大地との関わりのなかで“使われた時間”の痕跡である。いわば、道具がその有用性を剥奪され、単なる物になろうとしている状態をゴッホの絵は描いているということだろう。道具は使い捨てられてこそ、その道具性があらわになるということである(この論理はいわゆる骨董という道具に似ている。骨董を愛でる人たちは、その質や技、あるいは他者の欲望を愛でるのであって、道具の有用性を引き離すことのなかに価値を見出す。それでも骨董趣味の基盤には有用性-生活道具という使用価値がなkればならない)。ゴッホはそれを描いた。道具の道具性の開示-存在の真理の開示、それこそが芸術というわけである。ハイデッガーは芸術作品は一つの道具よりも単なる物に近いと言っている。現代の商品において有用性(使用価値)は二次的なものである。商品の価値はその使用価値ではなく、交換価値による。もちろん、使用価値が消滅したというわけではない。商品においてはその価値が交換価値によって規定されるということである。いわば、使用価値が二次的なものとされ、前面にはないということだ(50年代頃から世界同時的に起こった美術の潮流-日本の具体やフランスのヌーヴォー・レアリズム、イタリアのアルテ・ポーヴェラ等々はまさに、むき出しされた有用性への志向と言えるだろう。後に、ジェフ・クーンズらのように商品自体もむき出しにされることになる…)。しかしもはや商品という概念さえ過去のものと言われそうだ。そうだ、商品に代わる情報の概念。交換価値から情報価値へ(笑わざるを得ないな~)。物・情報(道具→商品→情報)・芸術。

TWITTERを覗く。“つぶやきコミュニケーション”。書き手のつぶやきからその人間の(といっても、多くの場合はその人間がどのような人物かは知らないのだが…)日常生活や一日の行動パターンが分かる。もちろん、書き手の日常生活についてのつぶやきに限らず、不特定多数の人間に対して、自らの意見(?)を表明するTWITTERもあるのだが…。こうしたつぶやきに対して、不特定多数の人間が(しかし、多くの場合は何らかの接点-つながりがあるみたいだが…。それでも不特定多数の人間に開かれているというのがインターネットのしくみとしての大前提だろう)反応し、またつぶやくというコミュニケーションのようだ(メールはあくまでも指定されたあて先、限られた人間に対する発信である)。この“つぶやきコミュニケーション”とは何なんだろう?自分の意見(つぶやき)を不特定多数の人間に発信するというのはまだ何となく理解できる。まあ、それがつぶやきという形態をとるのはなぜかという問題は残るが(このブログにしても、同じような形態なのだから)。しかし、自らの日常生活に関することをつぶやき、それを不特定多数の人間に対して発信するというのはなかなか理解するのが難しい。プライバシーの侵害どころか、自らプライバシーを公表しているわけだから。この日常生活のつぶやきの発信は、誰かとつながりたいという“コミュニケートすることの欲望”ではない気がする。なぜなら、たとえ自らのつぶやきに対しての反応がなくても、おそらくつぶやき続けるだろう(まあ、このブログもそうなのだが…)。むしろ、自分が“ここにいる”という自己(存在)確認の行為のように思える(写真を撮ることにおいて、“いま・ここ”における存在確認をするように)。“俺はここにいて、生活してるぜ!”“俺は、私はいま、ここにいる!”の発信。いわば、インターネット時代における“実存”の一形式なのかもしれない。これは自らの意見の発信における“理念”の喪失でもあるのではないか。なぜなら、意見(発言)になる前の“つぶやき”を発信することで良しとするわけだから。ここに“理念的な総合”はない。「今、俺は何を食ってるぜ」「俺はこれこれをしてるぜ」等々。それに対して、「俺は、私はこうした」と答え、反応する。“お宅コミュニケーション”がここまできたわけだ。もちろん、TWITTERを批判しようというわけではない。このコミュニケーションのあり方はいかなるものなのだろうという問いかけに過ぎない。実際、TWITTERを新たなコミュニケーション形態として使用する可能性がないわけではないだろう、おそらく。それにしても、何故にこれほどまでにプライバシーを公表するのだろうか(親しい人の間で私的なことがらを吐露することは理解できる。それは親しみの共有であり、円滑なコミュニケーションをするための一つの方法なのだから。例えば、食卓を囲んだコミュニケーション-語りあり、議論あり、冗談がある)。しかし、不特定多数の人に向けて、プライバシーを吐露するというのはなかなか理解しがたいものだ。このプライバシーの公表にはいかなる欲望が作動しているのだろうか(もちろんこのブログを含めて。ただ、前にも書いたことがあるが、このブログの使用法はあくまでも公的領域に向けての個人の発信という自覚があることだけは付け加えておきたい。つまり、公的なものから個人的なものを奪い取り-引き剥がし、それを公的な領域に送り返す行為。インターネット・メディアにおけるプライベートな使用法とは、メディア=公的なものから個人的なものを奪い取ることであって、私的なことがらを吐露することがメディアのプライベート化ではない気がするのだが…。しかし、メディア=公的領域では決して取り上げることがない私的ことがらを述べることは、公的なものから私的なものを奪い取ることではないのか。そんな反論があるかもしれない。確かに、過剰なほどの私的ことがらは公的な領域を脅かす。実際、ネット上のプライベートといっても自己規制がなされたほどほどのばかりには違いない)。