Art&Photo/Critic&Clinic

写真、美術に関するエッセーを掲載。

コーカス・レース

2008年06月13日 | Weblog
「芸術と商品」を考える上で避けて通れないテクストがある。ハイデガーの『芸術作品の根源』である。物、道具、芸術作品をいかに識別するかを論じた、この講演テクストは、中・後期ハイデガーの重要な概念の一つである「Unverborgenheit(不伏蔵性とか、被隠匿性とかと訳されているようだ)」-そして「空け開け」を展開していることでも知られている。実は、このハイデガーのテクストの書かれた時期は、ベンヤミンの有名な二つのテクスト『写真小史』『複製技術時代の芸術作品』と、1930年代というほぼ同時期のものである。二人はどのような「共通の問題意識」なかで、これらのテクストを書いたのか、あるいは語ったのか。興味の尽きないところだが、とりあえずのぼくの関心は、ハイデガーが物・道具・芸術作品をどのように識別しようとしたかである。ちなみに、このテクストは、ハイデガーが例に引いたゴッホの有名な絵画「短靴」をめぐって、美術史家のメイヤー・シャピローが描かれた「短靴」の帰属問題(誰の短靴か?)を論じたことでも有名である。デリダの『絵画における真理』所収の「「返却」もまた、その帰属問題を端緒としたテクストである。

ハイデガーはまず芸術作品とは何かと問う。芸術作品とは芸術家によってもたらされたものである。では芸術家とは誰か?芸術家とは芸術作品を生み出す者である。卵が先か、鶏が先か。芸術作品と芸術家をつないでいる第三のものがある。「芸術」である。両者はまさに芸術によって存在している。では芸術とは何か?芸術とは何であるかは、作品から取り出さざるを得ない。おお、崇高なる堂々巡り。しかし、ハイデガーはこの堂々巡りに踏みとどまることこそ、「思索の祝祭」だという。凄い!

では、目の前にあるさまざまな芸術作品を集めて、それらの特徴から芸術の本質を定義することができるだろうか、あるいは芸術の本質をより高次の諸概念から導きだすことができるだろうか。しかし、それでは芸術作品の根源を問うことにはならない。それでは暗黙のうちにあらかじめ芸術の本質を想定していることになるからだ。で、再度、ハイデガーは芸術作品がもっている物的性格から問うことになる。

古代からすでに「物とは何か」「存在するものとは何か」と問われてきた。ハイデガーによれば、こうした物の物性についての解釈には三つあると言う。まずは「諸特徴(属性)の集まりとしての物」。ギリシア人は諸特徴の集まりの「核」をト・ヒュポケイメノン(基体‐根底に横たわっているもの)、諸特徴をタ・シュムべべーコタ(付帯的なもの・偶有的なもの)と呼んだ。実はこれがラテン語訳され、ヒュポケイメノンがスブスタンティア(実体)となり、シュムべべーコタがアクキデーンス(偶有性)となった。そしてさらに、この「物の構造」は「命題の構造」である「主語」と「述語」に似ていると言う。むしろ、ラテン語訳は後者の「命題の構造」を倣ったものではないのかとハイデガーは問う。そうすることで、ラテン語訳はギリシア人が考えていた、物が「固有発生的でそれ自体の内に安らっているもの」を「主・客」に対象化することで、忘却してしまったと。この指摘はきわめて重要だが、ひとまずは置いておこう。

二つ目の解釈は、「感覚の多様性の統一としての物」。