鹿児島の三大行事の一つである『曽我どんの傘焼き』は、鎌倉時代(1193年)に相模国(静岡県)の曽我兄弟が父の仇討ちを遂げる際、傘を焼いて松明がわりにしたという故事にちなんだ伝統行事です。兄弟の父が闇討ちで殺されてから18年目に成し遂げた仇討ちで、兄十郎(21歳)はその場で討たれ、弟五郎(19歳)は仇討ちした祐経の子に首をはねられましたが、兄弟の美談は遠い鹿児島で、武士の意気高揚と稚児(6~15歳)やニセ(16~25歳)の道徳教育として、藩政時代には『郷中(ごちゅう)教育』の一環として行なわれていました。維新ふるさと館の近く甲突川の川べりで毎年傘焼きが催され、7月18日(土)は和傘のオブジェが飾られ、19日(日)は日が沈んだ後、櫓(やぐら)に積み上げられた和傘に火が灯されました。去年は和傘が300本集まったが、今年は200本に減ったとのこと。薩摩藩が治水工事をしたことで、恩義を感じている岐阜の方々が和傘を提供してくださったりで続けられている行事です。
甲突川沿いの新ふるさと館につながる歴史ロード「維新ふるさとの道」で行われました。
結構最近完成したばかりです
去年12月の看板
18日の16時頃
19時からの和灯りに向けて準備中のようです
十文字(島津の家紋)のある灯籠の橋(南洲橋)
18日21時前
和傘のオブジェです
多数の灯籠が並べられています
きれいです
19日16時頃
櫓(やぐら)に積み上げられた和傘
小さな灯籠の正体
蝉の方が気になる次男(汗)
18時からの自顕流演舞
暗くなり、観客が増えてます
リバーサイドコンサートもありました。
小さな灯籠に火が
薩摩琵琶の演奏。少し音色が硬い感じがしたのは僕だけ?
和傘の周りで再び自顕流演舞が。
曽我兄弟の唄(狩り場の嵐)を歌いながら、松明を持った少年・青年・大人が上流(南洲橋の下)から土手沿いに歩いてきました。
和傘の周りを行進しています
曽我兄弟の唄熱唱中
下側の和傘に火をつけましたが、上方から先に煙や炎が出てきました
火の回りはとても速かったです。バチバチッと音を立てていました。
すぐ燃えるので、いろいろ前置きが長いのでしょう
大分焼けました
追加の和傘を持っています
和傘の追加です
離れて見ている僕達にも時々熱気が来ていましたので、近くで焼いている人達はそうとう熱かったと思います
長持ちさせるためか、川の水にどっぷりつけた最後の和傘です
電車(日豊本線)に乗って加治木町へ帰るため、鹿児島中央駅へ向かいました。
子供達も祭りを楽しんでくれたようでした。
甲突川沿いの新ふるさと館につながる歴史ロード「維新ふるさとの道」で行われました。
結構最近完成したばかりです
去年12月の看板
18日の16時頃
19時からの和灯りに向けて準備中のようです
十文字(島津の家紋)のある灯籠の橋(南洲橋)
18日21時前
和傘のオブジェです
多数の灯籠が並べられています
きれいです
19日16時頃
櫓(やぐら)に積み上げられた和傘
小さな灯籠の正体
蝉の方が気になる次男(汗)
18時からの自顕流演舞
暗くなり、観客が増えてます
リバーサイドコンサートもありました。
小さな灯籠に火が
薩摩琵琶の演奏。少し音色が硬い感じがしたのは僕だけ?
和傘の周りで再び自顕流演舞が。
曽我兄弟の唄(狩り場の嵐)を歌いながら、松明を持った少年・青年・大人が上流(南洲橋の下)から土手沿いに歩いてきました。
和傘の周りを行進しています
曽我兄弟の唄熱唱中
下側の和傘に火をつけましたが、上方から先に煙や炎が出てきました
火の回りはとても速かったです。バチバチッと音を立てていました。
すぐ燃えるので、いろいろ前置きが長いのでしょう
大分焼けました
追加の和傘を持っています
和傘の追加です
離れて見ている僕達にも時々熱気が来ていましたので、近くで焼いている人達はそうとう熱かったと思います
長持ちさせるためか、川の水にどっぷりつけた最後の和傘です
電車(日豊本線)に乗って加治木町へ帰るため、鹿児島中央駅へ向かいました。
子供達も祭りを楽しんでくれたようでした。