駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年③

2005年12月18日 | 歴史「百里物語」

Y女史町長が誕生して間もなく、百里原の現地では、防衛庁の動きが活発になっていった。 

反対同盟の農家ががんばっているために、滑走路建設の見通しは全くたっていなかったが、それにもかかわらず防衛庁は、すでに基地反対同盟以外の開拓農民から入手していた同地に、格納庫や隊舎などの施設を建設しようとしているのだった。


防衛庁は、着工に向けての準備として、まず、仮設道路の造成を開始してきた。 

仮説道路というのは、百里原の北側を通っている県道の、大和田←→旧侮軍航空隊正門の中間地点から、百里原の内部の 管制塔・司令部・格納庫などの建設予定地に至る、幅十数メートル、長さ千数百メートルの建設工事用の仮の道路のことである。


この仮設道路が、農道を分断してつくられたことへの抗議と、そこを通ってブルドーザーなどが建設現場へ進入するのを阻止するために、57年9月24日の雨の中、百名近い農民たちが仮設道路上に座り込んだ。

これに対して、警察機動隊が出動して実力排除の挙に出たのである。


これが、百里基地反対闘争における最初の警察力の介入であった。 

「最初の激突」といわれている闘いである。

その後、畑と防風林が広がる百里原の開拓地の中に、N松建設やK木建設などの現場事務所・飯場が建ち並び始めていく。

建設作業員がぞくぞくと送り込まれてくる。

その中には暴力団系の組も労務者をかき集めて入ってきた。


『KURENAI プロジェクト』の3安

『KURENAIプロジェクト』ブログは、「百里シンポジウム」での過程、「整備街・牧場・公園」の構想、有志の動きを随時掲載し、『IBARAKI』といえば「安全な空・安心な食・安らかな体」という3つの安を日本全国、アジア、世界に発信します。  この動きがまちを考える人達に勇気を与え、それぞれが動く事で発展していくことを希望します。