Y女史町長が誕生して間もなく、百里原の現地では、防衛庁の動きが活発になっていった。
反対同盟の農家ががんばっているために、滑走路建設の見通しは全くたっていなかったが、それにもかかわらず防衛庁は、すでに基地反対同盟以外の開拓農民から入手していた同地に、格納庫や隊舎などの施設を建設しようとしているのだった。
防衛庁は、着工に向けての準備として、まず、仮設道路の造成を開始してきた。
仮説道路というのは、百里原の北側を通っている県道の、大和田←→旧侮軍航空隊正門の中間地点から、百里原の内部の 管制塔・司令部・格納庫などの建設予定地に至る、幅十数メートル、長さ千数百メートルの建設工事用の仮の道路のことである。
この仮設道路が、農道を分断してつくられたことへの抗議と、そこを通ってブルドーザーなどが建設現場へ進入するのを阻止するために、57年9月24日の雨の中、百名近い農民たちが仮設道路上に座り込んだ。
これに対して、警察機動隊が出動して実力排除の挙に出たのである。
これが、百里基地反対闘争における最初の警察力の介入であった。
「最初の激突」といわれている闘いである。
その後、畑と防風林が広がる百里原の開拓地の中に、N松建設やK木建設などの現場事務所・飯場が建ち並び始めていく。
建設作業員がぞくぞくと送り込まれてくる。
その中には暴力団系の組も労務者をかき集めて入ってきた。