比較的暖かい日。友達の会社の登記で都内まで出た。渋谷は大人の街だったと友だちと昔を懐かしむ。そのころは二人とも大学生だったから渋谷は大人の街だった。その欠片もなくなってしまった。忙しいけど二人でのんびり話せるのもあと少しなのでそのことに時間を割いた。帰りの電車は1時間。始発駅から優先席に当然のように座る。本を読んでいると眠くなりうとうとしていた。乗り込んできた可愛い女の子が座りたいとごてている。ダメなのよ、おばさん疲れているから と心の中で弁解する。それでも子供は座りたいという。同じくらいの年の隣の方が「じゃあ、この間に座りましょう」と声をかけた。嬉しそうに小さなおしりを割り込ませてきた。睫毛がながくて可愛い子だ。孫がかわいいのはこれか と思う。おばあさんの財布の紐も緩むわけだ。ましてやおじいちゃんは。
子供がいないから孫もいない。だから、孫がいる人がうらやましい。子供がいない原因が肉体的なものだからあきらめはきいたが、諦めるときは泣いて泣いて1週間過ごした。ふと、そんな日を思い出した。でも、いま私は軽い嫉妬からなのだろうか、引っ越すことを羨ましがられている。自分がこうしたい、ここで一生を終わりたいと思ってできるのは、うらやましいと言う。ほとんどの人がそれができないで現状の中で生きているのにそれができるなんて と言われた。「ひとりだからね」と私はさびしく答えるだろう。
引っ越す と軽く跳んだ。でも、それには長い助走があったのよ。ためてためて想いをためたからできたのよ。想いを残さない道はそれしかなかったの。私をつなぎとめるものはないからと跳べたのだけど、その代わり孫守りはできないわ。人は二つは選べないの。せめて樹木希林さんの「死ぬときくらいは自由にさせてよ」かな。