遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

自分の求める答えしか聞けないということ

2013-07-20 09:05:01 | 教育

原発を巡って

あるいは政治問題について

私の考え方が 偏ったところで決めつけていないか?という話になったとき

人は 自分の求める答えを引き出そうと情報を漁る

という話をしていて

自分もそうだ

ということを指摘されて

目が見ひらいた

異常な事態になっていろいろな学者の意見を漁った

でも

学者だからと言って

解明できるような問題ではないわけだし

ネットで発信する情報は

全て発信者のバイアスがかかっている

・・

そりゃそうだな

だから

自分が集めた情報が偏っている と

あまり自覚はしなかった

が いいんだ偏ってて

それをわきまえたうえで また考える

それはいいのだが

美術について 同じことが言えると

で より深い知識があったとして

それを語っても 相手は自分の結論が決まっていて

それに合わせてしか話の中から情報を引き出さない

というのだ

!!!!!!

そうだよなあ

そういうことを大塚先生も 感じているか?

感じているんだろうなあ

それでもどかしいことはいっぱいあるだろう

私自身も 過去の作家から

何を読み取るかって

その時の自分の甲羅に合わせてしか読めなかった

ということは気がついてはいた

こういうことは

大人の中の教育関係では 大事なことなのだろうと思った

大塚先生が

この頃 自分がパワハラになりそう

と言ってたのは

それにかかわる話かもしれない

若い学芸員を教育するのは大変だろう

大学の中での教育というのも

だいたい教育者がそこまで考えるかな?

思うように意を汲めない学生を 馬鹿かこいつと思い

あとは学会なり 画壇なりの力関係で

ごり押しをする

そういう構図なのだろう

大学における教育学とか大人の教育学とか

そういう学問ってあるのかしら?

ある学力の高いと言われる大学から大学院に来た人の作品のデッサン力のなさに驚いたことがある

なぜだろうと思っていたが

その人は

デッサンなんか必要ない感性で描くような絵に変って

あら

いいんじゃない?

と思った

デッサンが苦手という人の中に

ある性格的な傾向があるらしいというのもあるんだ

普通訓練すれば 誰でも 一定のデッサン力が身に付くというのは嘘だ

ある種の人には  合わない

そういうパターンが あるのだなたぶん

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