筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

古代大宰府の羅城8

2017-03-25 23:45:31 | 古代西海道研
阿部義平氏がこの羅城南部域のライン想定をした作業の詳細を見てみる。

阿部義平1991「日本列島における都城形成-大宰府羅城の復元を中心に-」国立歴史民俗博物館研究報告第36集

「ではこのような西側に想定された羅城が東側でも復元できるであろうか。分水嶺のとり方からみると、大野城の東側は只越付近から宝満山に至る稜線にもとめられよう。宝満山から南方では、まず阿志岐の地は府外とみるべきであろう。また、阿志岐を含む宝満川の本流の筑後平野に連なる平野もとりこむことができるとは思われない。西側の小水城のあり方からすると、発達した丘陵群の連結性が有効であれば、小河川も閉塞してとりこんでおり、宝満川の西にはそのような丘陵が南北に連なる形で望んだように存在している。関屋土塁がとりついた丘陵から北に連なる丘陵はまったくうってつけで、博多湾側の羅城のとり方と同様の方法が適用できる。かくして城ノ上の丘陵から大振山のある丘陵、さらに永岡の地まで連なってこの間で4か所の小河川を横切る。さらに高尾山から派生して永岡近くまで続く丘陵が愛岳山をへて宝満山に達する閉塞のラインが想定されることになる。こう見ると、消失した7ヶ所の小水城と実在する2ヵ所の土塁があったわけで、必要な土塁の数は東面も西面もほぼ等しいことになる。こうして大宰府の東側にも西側にも、さらに南側と北側にも羅城が復元できる。しかし、東面では関屋土塁をその南端としても、大部分が想定ラインにとどまり、遺存が知られないことも事実である。」

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古代大宰府の羅城7

2017-03-22 06:25:43 | 古代西海道研
大宰府羅城説に対する批判的意見はおおかた2種に大別できる。
一つは羅城そのものの概念規定についてであり、
もう一つはルートについてである。
前者については学史を含め後述する。

ルートについては鏡山説による水城から大土居小水城間は
ここ50年の戦後の大宰府研究においてはほぼ是認されてきた。
問題は大野城から基肄城間であり、関屋土塁の存在は
鏡山説段階で紹介されていたものの阿部説が登場するまでは
論究するものはいなかった。
阿部は関屋土塁の西側の区画整理事業で「とうれぎ土塁」が発見されたことを
発想の原点として羅城南部のルート設定をおこなった。


1991年の阿部義平説に依拠した大宰府羅城概念図
(九州歴史資料館刊行 「大宰府復元」大宰府史跡発掘30周年記念特別展図録より)
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古代大宰府の羅城6

2017-03-22 00:07:10 | 古代西海道研
前畑遺跡と関屋土塁間で新たに設定したルートの検証をしたい。
この間には筑紫野市での隈・西小田遺跡群と小郡市の苅又遺跡群がかつて存在し、
両市では数年かけて大規模な区画整理事業による発掘調査を実施している。
調査報告書によれば筑紫野市分ではデータが不十分で検証は不可能であった。
しかし、小郡市分では2か所において推定ルートと調査地点が一致し、
両者ともに通行に関する遺構が検出されていた。



(※図は小郡市教育委員会刊行苅又遺跡群報告書より引用、一部加筆)

勝負坂J地点と永浦D地点がそれである。
勝負坂J地点では丘陵を登り上がる頂部手前の2か所で
分岐または交差する溝群があり、調査者は通行痕跡と報告している。
永浦D地点では古墳(円墳)の周溝を切って交差する溝群があり、
その反対側には1メートル以上の古墳斜面を埋めた人工的な盛り土があったと報告されている。

さらにその南側は苅又遺跡群の調査対象地外になるが、
ルート上に複数個所で今の地形で目視できる土塁状の構造物が
4か所以上で新たに確認された。

1970年代の地形図と目視できる土塁状の地形位置(①~④)


①三沢土塁aとした遺構(幅10m以上、高さ3m以上)



②さらに三沢土塁aの西にある遺構




③さらに②の西にある遺構


④三沢土塁bとした遺構


④三沢土塁bの開発で掘削された縦断面の人工積土層

比較のために前畑遺跡南側の山林部分での土塁の現状写真(未調査部分)を見てみよう。

前畑遺跡のそれは里道沿いにややミミズ腫れしたような帯状の高まりが並走する。
それからすれば三沢でみられる土塁群のほうがよほど立派に見える。

推定したルート上を検証したところ、発掘調査所見で2か所、現地の遺存遺構で4か所(+1か所)と
ともに複数の通行痕跡や土塁が存在することが明らかとなった。

余談だが、勝負坂J地点のすぐ南にある「山道堤」という
ルートからすれば意味深な名称の池の堰堤があり、
それがまったく上記の道筋に合致して今も存在している。

⑤三沢Cとした土塁=池の堰堤
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古代大宰府の羅城5

2017-03-21 23:27:55 | 古代西海道研
阿部義平氏が1991年に提示された大宰府羅城説でのアキレス腱は
まさにこの南部地域のルート設定の論拠の弱さであった。
地形図上でのめぼしい丘陵部を基山の関屋土塁から大野城跡に導くには
7つ以上の水城が消失したと仮定しなければ説明がつかなかった点であった。

発掘所見から土塁が通行帯であって、
多くの場合里道としてその機能が踏襲されている可能性が高い、
という論理性を一つのルート設定の仮説として前畑から関屋間を
再度考え直してみた。そのルートが明治33年の古地図にみられる山道としての里道である。


大振山を介して小郡市三沢から筑紫に至るルートがかつてあったことが確認される。
大振り山以南のルートは小郡市側ではかつて「苅又みち」と呼ばれる北に向かう主要な往還路だったらしい。
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古代大宰府の羅城4

2017-03-20 22:42:12 | 古代西海道研
前畑遺跡の土塁と池田遺跡の土塁には一つの共通点があった。
共に土塁が里道として集落間の通行に使われていたと言うことである。
さらに前畑遺跡では土塁上位の土層中に土間土状の硬化した土壌があり、
土塁西側には土塁に沿うように分岐や結合を繰り返す溝状の遺構があり、
そのラミナ構造を繰り返す埋土も硬化した箇所が見られた。
これらは過去の事例から通行に伴い形成された痕跡と考えられる。
この事から土塁そのものは大宰府の外郭線を明示すると伴に
防衛に関する拠点施設への通行帯としての機能を帯びていたと判断された。

※中央の高まりが前畑遺跡の土塁で、それに並走する右手の帯状の窪みが今に生きる「里道」

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