筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

杉山龍丸とプラスティックの博多人形2

2010-03-23 22:59:30 | 日記




木が2本並んだロゴマークからして、
この会社が杉山龍丸氏が設立した
プラスティック素材の博多人形の
製作会社であったと思われます。
今川にすでに工場があったようです。

壊れにくい、汚れてもふき取れる。
そこにニーズがあると見たのでしょう。
同じ切り口で素焼きの生地にホルマリンなどの
化学物質を染み込ませる取り組みなどがあったことが
新聞記事などから読み取れます。
昭和30年代から40年代にかけての博多人形界は
商売側はこのように作品をクラフトと見切って
いた節が看取されますが、
作り手側、特に作家と呼ばれる側は
常にアートを志向していました。
そのかい離した部分は基本的に現在まで
引きずられたままのようです。

ある意味で杉山氏は実験的に
身をもってこの矛盾に切り込んでいきましたが、
結果的に成功には至りませんでした。

博多の双樹社人形

2010-03-22 23:20:11 | 日記

ここに一枚の古いパンフレットがあります。
左側のオレンジの帯には「博多の双樹社人形」
「HAKATA`s SOJYUSHYA DOLL」と書かれています。


そして解説には「特殊な製法で作られていますので、
普通では割れたり毀れたりしません。」とも。
戦後の消費ブームに乗って博多人形にも新手な企業家が参画し、
このような事態が発生しました。昭和40年代後半頃でしょうか?

杉山龍丸とプラスティックの博多人形

2010-03-22 23:14:11 | 日記
玄洋社頭山満の盟友杉山茂丸の孫龍丸氏。
今でいう非政府系組織をいち早く立ち上げて
インドの深刻な緑化に没頭したことは有名ですが、
一方では企業家でもあったようで、
「博多人形に革命を起こす」といい
プラスティック素材の博多人形を
開発する会社を立ち上げたりしていました。
祖父茂丸氏は後に中国革命の父となった孫文を
日本亡命中にかくまうなど、アジアの政局に深く係わっており、
息子泰道(夢野久作)の整理した茂丸氏50代の日記には
海外の知人向けに博多人形を贈っていたことが書かれています。

龍丸氏も台湾やインドに博多人形を郷土福岡の土産として
贈っていたようですが、いかんせん素焼の製品はいかにも脆く、
そのような背景でプラスティック素材の博多人形を
会社を立ち上げてまで作ろうとしていたのでしょう。
当然、博多人形業界からは反対されて原型を製作することが出来ず、
彫刻家安永良徳に人脈を頼って事業を進めようとしたようです。
残念ながらこの事業からは芽が出ませんでした。

雛祭り

2010-03-03 23:29:41 | 日記

今日はひな祭りです。
新暦なので少し肌寒いのですが
桃や杏子の花は満開のものも・・・


先日紹介した上の写真は萩山中家のもの。
下も紹介した太宰府館に展示されていたもの。
彩色は異なりますがいづれも同じ原型の作品です。
上のは博多祇園町の中の子家の作例で
下は津屋崎原田(半蔵?)家の製作品です。
このタイプの内裏雛の土人形は
佐賀の弓野人形にも型が入っているようです。
かつて中の子勝美さんに取材したときに、
女雛の肩からストーンと落ちた造形は
木彫の意匠が下敷きになっているのでは、
と指摘をされたことが思い出されます。
原型を彫った中の子吉三郎の多芸の所産です。

中の子にはもう一つのスタンダードな
一回り大きな内裏雛があります。

これは今は亡き福岡市西区今宿の
大橋重雄氏の工房で記録したものです。
大橋氏のポリシーは父清助氏が彩色していた通り、
それをぶれずにきっちり仕上げる、というものでした。
この作品は福岡市歴史資料館に寄贈され
今は福岡市博物館が所蔵しているものと思われます。
いずれも鬼籍に入られた作家の貴重な作例です。

萩伝来の博多中の子系雛人形

2010-03-01 23:26:07 | 日記

先日は太宰府館展示の津屋崎人形原田家作
古博多中の子系の内裏雛を紹介しました。
これは今でも津屋崎では生産されているようですが、
元は江戸末から明治期に博多中の子家で作り出された人形です。

中の子家は江戸後期には一族で分業体制を確立し、
型を同業者に頒布したために業界ができ、
博多が土人形の産地として成立しました。
その型は博多から津屋崎、西公園上田家、
そこから今宿へと・・・同業者間で広がっています。

ここに紹介したものは恐らく中の子家直販の遺作です。
とにかく白眉。変退色のないこのような状態は希有です。
よほど大切にされて来たのでしょう。
キャプションでは萩の山中家所蔵とされています。