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和貴の『 以 和 為 貴 』

反日プロパガンダの正体

現在、多くの日本国民がストレスと感じていることといえば、やはり、南朝鮮〔=韓国〕による執拗な嫌がらせ行為、すなわち "反日行為" だと思われます。

そこで今回は、この "反日" というものについて、私なりに考えをまとめてみようかなと思います。



反日の定義

ここ数年来、ネットや書物に限らず、テレビや新聞の報道を見ていて感じることは、「 "反日" という文字を見ない日がない」ということであり、このことは、これまでずっと保守や右翼と称する人たちが、長年訴えてこられたことを、日本のマスメディアも、いよいよ無視することができなくなってきたことの顕れともいえます。

それまでの日本のマスメディアというのは、 "反日" に関してほとんど取り上げることもなく、保守や右翼を称する人たちがこれまで訴えてきたこと全てを、 "陰謀論" 的扱いでもって封じ込めてきたわけですが、わが国の経済や安全保障に関する危機的状況、そしてなによりも、我々日本人の尊厳や人格を貶めるような歴史認識問題など、それらの情報が広く日本人に知れ渡っていくことで、 "陰謀論" ではなく、 "根拠あるもの" として取り上げるようになってきたのです。

では、その "根拠あるもの" とは何でしょうか   
① 拉致問題、尖閣・竹島問題、軍事問題などの安全保障面
② 従軍慰安婦問題、募集工問題などの併合における歴史認識問題
③ 伝統技術や科学技術の盗作行為といった経済的損失
 
それ以外にも、南京事件やスパイ行為や在日特権など、数えればキリがないのですが、現在の日本のマスメディアは、一切取り上げようとしません。

ですから、あくまで日本のマスメディアが取り上げることをもって "根拠あるもの" と解釈し、現段階における "反日" の定義と致します。



◆ 反日プロパガンダの起源 

 "反日" の定義をまとめたところで、ではなぜ、シナ中共政権や南北朝鮮政権は 、 "反日" なのか  、ということに繋がってくると思うので、少し考えをまとめます。

まずもって、前項で述べたように、現段階におけるシナ中共や南北朝鮮の "反日行為" というのは、すべて事実無根のものから成り立っており、しかしその国民の多くが、事実無根のものを「事実である」と、誤った認識をしています。

このことは、学校等における反日教育であったり、マスメディアの流す反日情報であったりと、いわゆる "印象操作〔=プロパガンダ〕" が起因していることはいうまでもなく、さらには、わが国に対する "反日" というのは、昨日今日に始まったことではないということであり、遡ると100年以上も前から計画されたものといえます。

1917年にロシア革命が起こり、「ソビエト」が誕生すると、その指導者となったボルシェビーキは、共産圏のさらなる拡大を画策するため、列強といわれる国家の植民地政策などの研究と調査に力を注ぎます。

ボルシェビーキはこのとき、植民地政策が共産圏拡大のための戦略上で最も有益、かつ、問題の根源になり得ることを知り尽くしており、各列強国に多くのコミンテルンやプロフィンテルン〔赤色労働組合インターナショナル 〕からの調査官を派遣します。そして、当時の大日本帝国だったわが国も例外ではありませんでした。

1925年1月20日に北京で締結された「日ソ基礎条約」と並行して、日露戦争以降途絶えていた日ソ国交が樹立されると、日本国内6か所に領事館が設置されるに至り、大日本帝国における植民地政策の研究と調査が始まりました。

しかしながら、当時の大日本帝国の統治下にあった台湾と朝鮮半島では、学校や病院などの建設、鉄道や道路網などのインフラ整備が急ピッチで進められており、工業や農業や貿易といった経済発展も著しいことから、ボルシェビーキのそれまで抱いていた植民地政策に対する思惑が外れた形と言えます。

しかしながら、派遣していた調査官からモスクワに送られてくる台湾における植民地政策に関する現地資料には、「大日本帝国下における台湾の経済発展は目覚ましい」と認めたのち、「しかし」や「けれど」といった言葉を使い、結果として、大日本帝国の植民地政策を否定するものに変わっていたのです。

例えば、「経済発展はしているが、労働者は惨めである」とか、「農業の技術は進歩したが、農民はその成果を利用できないでいる」とか、「貿易は拡大したが、その利益を利用できるのは日本人のみで、原住民ではない」といった具合にです。

まさに、これこそが、 "反日プロパガンダの起源" ともいえ、当時の日本人が如何に優れていたかを、証明するものでもあるのです。

 
(※ 出典は臺灣學研究 第20期 民國105年12月 國立臺灣図書館 ソ連・コミンテルンのプロパガンダにおける日本植民地政策の批判:臺灣を中心として)より



◆ 反日プロパガンダが招いた東アジアの混乱

しかしながら、如何に優れていた当時の日本人といえども、急激に変化する時代の流れというものに限界を感じていた人も多かったと思います。

当時のソ連というのは、 共産党体制をさらに強化させるための、"反日プロパガンダ" を利用していた側面もあり、また、日本以外にもその他の列強国の植民地政策をも否定的に捉えていたということは、日本国内の西欧列強における植民地支配を否定する者とは、ある程度の意見の合致はあったのではないか、と考えることもできることから、「一日も早く、アジアにおける西欧列強の植民地支配を打破する」を、スローガンとした大東亜共栄圏構想の実現のために、ソ連贔屓となる者が出てこないともいえません。

実際のところ、多くの日本人がソ連贔屓や共産党贔屓へと傾倒していったことが明らかとなっており、このことは、わが国最大のスパイ事件といわれ、1941年に発覚した "ゾルゲ事件" によって、首謀者だったリヒャド・ゾルゲ(ドイツ人でソ連共産党のスパイ。死刑)のほかに、そのスパイ活動に尽力していた尾崎秀実(元朝日新聞記者。死刑)や宮城与徳(左翼運動家。獄死)や西園寺公一(元華族の政治家。懲役1年6か月)など、ソ連共産党のスパイとなっていた文化人や政治家がいたことも明らかとなっています。

そしてなによりも、ゾルゲを筆頭とした彼らソ連共産党のスパイたちの活動内容によって、日本とシナとの対立が深まり、結果として1937年に日支戦争が勃発されるに至ります。また、その後の1940年には、日独伊における三国同盟の締結を成功させ、日本は本格的な世界大戦の場へと進出しなければならなくなったわけですから、彼らスパイのソ連共産党に対する功績というのは、凄まじいものがあったと言わざるを得ません。

こうしたことからも、ソビエトが誕生してからの1920年ごろに始まった、コミンテルンやプロフィンテルンといった共産主義者たちが日本国内で行った研究と調査結果に基づいた結果であると考えた場合、如何に日本の情報(極秘情報も含め)がソ連に漏れていたかを裏付けており、また、日本国内におけるスパイ活動が容易に実施されていたことも想像に絶えません。

なにより、日本国内のみならず、当時の米国やシナ中華民国においても、 "反日プロパガンダ" によってもたらされた、 "抗日" という考えが蔓延してしまったことにより、この東アジア全域が大混乱の渦へと巻き込まれ、結果、多くの犠牲が出る大惨禍へと発展してしまった事実というものを、「べノナ文書」という米国の公文書として1997年に発表された内容によって明らかとなってきており、多くの米国人は現在、その戦争責任というものを痛切に感じているものと私は考えます。



◆ 戦争責任を果たそうとしない戦後の日本

ところが日本国内では、米国のように、戦前の "反日プロパガンダ" によってもたらされた大惨禍の責任というものを果たそうという動きが見えてこないのです。というよりも、ゾルゲ事件の発覚と共に、ゾルゲ以下、ソ連共産党のスパイだった尾崎秀実や宮崎与徳らを処分したことで、一定の戦争責任を果たしている、といった風潮が垣間見えるのです。

特に、極東国際軍事裁判 (=東京裁判)では、結果として東条英機元首相はじめ、いわゆるA級戦犯といわれる人々が処刑されてしまい、またその後は戦後賠償をもって戦争責任を果たしたと考える国民も少なくありません。

もちろん、朝鮮半島における戦後賠償など存在するはずもないわけですが、しかし、1965年に、当時の自民党政権は日韓基本条約という形で、戦後賠償を南朝鮮に与えてしまったことをきっかけに、50年談話や60年談話や70年談話といった歴代総理の発言が注目されるようになり、益々、本当の意味での戦争責任を果たそうとしなくなってしまいました。

ですが、わが国日本は何故、戦争責任を果たそうとしないのか  

その理由は実に簡単であって、今なお、かつてのソ連共産党が宣伝した "反日プロパガンダ" に毒された日本人が、わが国のあらゆる媒体を牛耳っているからであり、未だ憲法改正やスパイ防止法が成立されないことや、政治とカネの問題や、さらには近年稀にみる経済政策の失政など、あらゆる分野において、反日政策が続行されていることをもって証明がつくと思います。

しかし、日本のマスメディアは、現在の南朝鮮のように、あくまでも "根拠のあるもの" を取り扱いはするにしても、 "根拠のないもの" は 陰謀論的風潮でもって隠蔽しようとします。これは、結局のところ自民党への忖度というよりも、 "反日プロパガンダ" に毒された日本人への忖度といってよく、終戦の日に因んでNHKが放送した「拝謁記」という番組は、日本の戦争責任を果たさないよう仕向けるための、いわゆる工作番組だったと言わざるを得ず、まさに、自民党の石破茂元幹事長がご自身のブログで、「17日にNHKで放映された「拝謁記」における昭和天皇様と田島道治初代宮内庁長官とのやり取りを、畏れ多くも複雑な感慨を持って視たことでした。 」という文言に心の底から感銘を受けた次第でした。



◆ まとめ

現在、「戦争責任」発言をし、多くの国民から誹謗中傷の的にされている石破茂氏に対する、私自身の感謝の気持ちを込めて、今回改めて「戦争責任」についての考えを述べてみたわけですが、そうはいっても、やはり石破茂氏への不信感が完全に消えたわけではなく、寧ろ、さらに現在の日本社会に対する不信感が強くなったともいえます。

そして、旧ソ連のように、その指導部や中枢部は、日本という国が如何に偉大な国であったのか、ということをよくよく知りながらも、敢えて "反日" という立場を崩さなかった  、ということを考えた場合、現在の反日国家であるシナ中共や南北朝鮮においても同じことが言えると思うのです。

「日本は偉大だ。けれど、日本は極悪だ」といった感じに  

現在の南朝鮮政権は、日韓合意の破棄と日韓基本条約の破棄をも視野に入れた反日政策を推進していますが、もしかすると、それは "反日プロパガンダ" に毒された日本人に対する反日政策であって、本当の意味においての「戦争責任」を果たせというメッセージが込められているのではないか  、そして、実のところ、ボールは日本側の手の内にあるのではないか  、とさえ感じてしまうのです。

しかし、これはあくまで指導部や中枢部の考え方であるに過ぎず、我々一般国民にとっては、無関係な話しともいえます。

ですから、政治は政治であり、国民との交流には関係がない、とする、ある種の "親日(親韓)プロパガンダ" 的手法によって、国民の意識を変えようとする動きも感じられますが、そうなれば、いよいよもって日本の「戦争責任」に対する意識が薄れていき、益々 "反日プロパガンダ" に毒された日本人たちにとってのみ、有益な方へ向かう恐れが生じてしまうことにもなりかねないのですが、こうしたことを深く考慮した結果として、最後のまとめとします。

【結論】

"反日"  "親日" という枠組みに捉われるのではなく、日本は日本  、韓国は韓国  、と割り切って考えることが、なにより大切なんだと思います。


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コメント一覧

無飼
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
yusuke1012
goozmakoto様、こんばんは!
ソ連崩壊後、間もなくして制定された暴対法によって以降、労働組合がその受け皿となったと思われます。少なくとも関西では…。
かの関西生コン事件でお馴染みになった労組なんかがいい例だと思います。

尚、その他いろいろ考えられる要素はあろうかとおもいますが…。
goozmakoto
不思議なことは、ソ連が崩壊して、共産主義に対する憧れというものが壊れたはずなのに、なぜ反日日本人が増殖しているかです。そのひとつの鍵は、コミンテルンなどによってつくられた労働組合、特にJR労組や官公労にあると思います。小室直樹氏によれば、戦前の人々の心の支えだった村落共同体が崩壊し、急性アノミーが発生するのを抑止するための受け皿として、会社共同体が現れました。村落共同体があるうちは、終身雇用などなく、職を転々として平気でした。会社共同体の一部を担ったのが、かの労働組合です。労働組合は親分のソ連が崩壊しても、反日だけは失わなかったのです。村落共同体の代わりの受け皿だから、労働組合の団結は強いのです。著名人の政治論には、労働組合問題は滅多に登場しません。組合に吊るしあげられるという悲惨な体験を想像もできないからです。
yusuke1012
ハブグレジュンタのマミーさん、おはこんばんは~(^^♪
全くもって仰られるとおりで、戦争に負けはしても、しかし、これまで70年以上も国内の反日分子を駆除してこなかった(戦争責任を果たしてこなかった)ツケが、現在の東アジア地域における悲劇をもたらしてしまっていると考えます。
ですから、ひとりでも多くの日本人が、こうした声をあげるべきだとも思います。
hobbesgracie911
おはようございます。
私は中韓による反日に対するストレスもそうなんですが、日本政府機関による腑抜け態度に、よりストレスを感じます。日本政府が毅然たる態度で、最初から反日(国内外で起こる)に臨んでいたらこれほど反日が蔓延していなかったと思います。子供の良し悪しは親の責任でしょ。
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