昨晩、「佐賀のがばいばあちゃん」をテレビで見ました。仕事がらつい茅葺民家のほうに目がゆきます。しかし、ばあちゃんが野菜を川から拾いながら「拾うものがあっても、捨てるものはなか」という言葉に考えさせられました。
前回、プレカットのことを書きましたが、プレカットも含め、木製品が規格化されだしてから、ある一定の寸法の材の価格が高く、大きくても需要が少ない材の価格(?あたりの単価)が安いという現象がおこっています。たとえば3.5寸角(105mm)や4.0寸角(120mm)の柱材を製材するに最適な寸法、140mmから180mmの丸太の価格(?あたりの単価)が高く、200mmから240mmの丸太の価格(?あたりの単価)安いという現実があります。佐賀県の木材市場で取引されている現状でありますが、おそらく他県でも変わらないと考えます。私は38年木材業にかかわってきましたが、以前は小径木の単価より大径木の単価が高く取引されていました。単純に大きい方が良い材とは言えませんが、生育のための年数を考えれば、大きい材のほうが価格的に高いのが自然だと考えます。
古民家再生の仕事をいただいて思うことは、そのほとんどが一山の立木を捨てることなく適材適所に使ってあるということです。
現在の木材流通の中で、山に置き去りにされている木材が数多くあります。山から搬出されている木材でも集成材をつくる板材やのこくずに加工される材が多くなってきました。
今、日本の国は80%の木材を輸入して30年の住宅しか造っていないのが現状です。30年で住宅を造る木材は育ちません。これでは、日本の森林は守れても世界の森林は守れないと思います。先人たちが残してくれた古民家の技術に学びながら、がばいばあちゃんの言う“もったいない”の思想を考える時代ではないかと考えます。
子どもたちの喜ぶ家とはどういう家でしょうか、自然に近い家だと考えます。この住まいは、末口5cmの丸太から末口60cmの丸太までを製材して使用しています。小屋梁や二階床梁もできるだけ丸太をいかした小屋組にしました。自然の環境にできるだけ近く造り上げてゆくということが大切だと考えます。
今日、長崎街道八戸の家のI様が完成慰労会を開いていただきました。そのご挨拶の中で、「子育ての始まりは生まれ時からではなく、子どもが宿った時から、母親はどのような子どもに育てようかと考え始める。子育ては生まれる前からはじまっている」というお話をお聞きしながらなるほどと感心いたしました。
子どもたちが喜ぶ家も、内装を仕上げる以前、建前のとき、いやそれ以前、丸太を選別するとき、いやそれ以前造る計画を考えはじめた時期と考え始めたら限りはありませんが、少なくとも建前のときにはその骨格が出来上がるとの思いでいます。
骨太の木を職人の手で刻み、立ち上がってゆく光景をながめる時、“がばいうれしい”がばい楽しい“気持ちが生まれます。
代表 松尾