まろんのひとりごと

BPDと診断された娘とがんばる 
母さんのひとりごと。。。。
ちょっとだけトンネルの出口が見えてきたかな。

辛かったケド

2011年06月16日 | Weblog

あとから聞いた話だけど
その彼にはしょっちゅう 暴力を受けてたらしい
その時は私にも相談できなかったんだね。
って言うか 私自身が 娘のことを 好きじゃなかったから
娘もきっとそれを感じてたんだと思う

高校は2年生の時に 勝手に退学届けを出してきてた
それも ある日先生から 学校に来てないんですけど
どうしてますか?と電話があったので 娘を問い詰めた。
だって 毎日学校行ってきま~すと言って出て行ってたのだから…

母子家庭の我が家には定期代や授業料だって
バカにならない金額だ
「お金もったいないやろ!」って私が言ったひとことに
「だったら辞めてきてやるわ!」

高校中退です

昼間寝て 夜遊ぶ生活がはじまった
注意すると 暴言・暴力・破壊(物を壊す)
いつしか「さわらぬ神にたたりなし」 になっていった

働いてもいないのに携帯はじゃんじゃん使う
自宅の電話も2万円とか請求がきてびっくりした
話せばわかる年だけど 娘は「自制」がきかないのだ(こういうのが病気だというのはもっとずっとあとで知る)
ある日 あまりに頭に来て 携帯の 通話をとめた
自宅の電話はNTTに相談したら 着信専用で 発信制限をかけれると言うので
そうしてもらった。
娘が 家の電話が使えない!と言ってきたので「あんたがいっぱい使うから電話代払えなくてとめられた」 と言ったら納得してた

遊ぶお金が欲しいからバイトに行くが喫茶店とかファミレスとかコンビニとか
1週間も続かない。
起きれなくて無断欠勤とかもしょっちゅうあったみたい。
そしてこれもあとから聞いたけど 注文とか受けても覚えられないらしい。
パニックになるんだそうだ。

結局いろんなバイトをして なぜか夜の仕事に落ち着いた
私は母として 世間体も気になったけど
自分で働くと言うことのほうが大事
仕事に行ってくれるだけでも 恩の字だと 開き直った。

店は転々としたけど
夜の仕事はけっこう長いこと続けてた
お店でNO1 になったりしたこともあったらしい。

高校中退から 現在に至るまで
ここには書けないようないろんなことがあった。
書けない内容のほうが ほんとにすさまじい

何度 夜中の病院へ行っただろうか
何度 警察に行っただろうか
何度 警察がうちにきただろうか
何度 殴られただろうか

いくつ モノを壊されただろうか

何度 死んでしまったら楽になるかも と思っただろうか
何度 この子がいなかったら…・と思っただろうか

何度 泣いただろうか
何度 夜の闇に叫ぶ我が娘の声に起こされただろうか


もう私の心はへとへとに疲れてた
疲れきっていた
もう 私には無理 限界
ゆっくり 眠りたい…・
人の話し声 電話の音 救急車の音 パトカーの音 カタっと言う物音
何もかもが 恐怖だった

この間も いろんなことがあり
いろんな人にアドバイスもらったり
私は強くならなくてはいけないと 気づいた
このままじゃいけない…

今度 もし 何かあった時は 絶対に入院させる!
そう心に決めていたある日
その 「今度」がやってきた。
その時がきた時  私はすぐ警察に電話した。
今度こそ、今日こそ、入院させるのだ!と。
心に決めていたけど 揺らぐことがいっぱいあった。
でも 今じゃないと 今 私がしっかりしないと!!!
泣きたいくらい苦しいし辛いのに 涙は出てこない

警察でひとばん過ごし
翌朝 娘は 入院した。
警察の人が一緒に病院へ行ってくれたから だから 私も強くなれた
医療保護入院だ。
この方法しかなった。この日が来るのを待ってた。
先生が入院と言った瞬間 娘は怒りだして「入院なんかせーへんわ!」と
私に助けを求めてきた
でも 私が入院しないとあかんねん!ちゃんと治そう!と言ったので
娘は 私に殴りかかろうとした
先生と看護師さん男性看護師さんもきて 娘は保護されそのまま入院病棟へつれていかれた。
医療保護入院の手続きの説明を聞き 裁判所に行って 手続きした

クリスマスイブの日から2ヶ月 娘は 病院で過ごした。
お正月も毎日 私は 病院へ通った。
病棟の部屋から面会室へ出てくる時と 戻るとき刃物とか持っていないか、
危険なものはないか身体チェックをされる。
最初のころ 二人で面会するのが怖くて(暴力をふるわれるかもと)
看護師さんにそれを言うと
ナースステーションの中にある長椅子で面会させてもらえた。


娘が入院してしばらくは
夜眠れるのが嬉しかった
でも すぐにそれはまた 不安と恐怖へと変わって行った。

娘が退院してきた時のことを考えると怖くてたまらなかった。

先生に 娘と縁を切りたいと 言った
死ぬまで病院においてほしいと言った
先生はそういう方法もありますが縁を切っても 親子は親子だし お母さんのような性格なら
縁を切った(子供を見捨てた)と言う罪悪感に駆られながら一生過ごすことになりますよと言われた…

寒い2月
娘は退院した
しかしまたその 3ヵ月後に 自傷行為をして 自分で救急車を呼び
病院へ逆戻り
その時は 2週間ほどで退院することになった。
このまま病院においておくことが娘のためにならないと、母としての直感を感じたから


それから 2年が経過した

あれから ヒステリックになることはあっても
以前のような大きな騒動にはなっていない
少し自分で感情のコントロールが出来るようになったみたい

いろんなことを話してくれるようにもなった
自分の中に 苦しみや辛いことを抱え込まないで吐き出せるようになったんだと思う。

何がどうなったのか
本当の理由はわからないけど
1回目の入院の時 自分の心を見つめるために気持ちを文字にして書くことをすすめられた娘が
書いた日記を見せてくれた
そこには こう書いてあった
「お母さんに もっと甘えたかった。 淋しかった」と

私はそれをみた時
涙が出て 娘をぎゅっと 抱きしめた
「ごめんね。erikaの気持ちちっともわかってなかった。お母さんもerikaと仲良くしたい。」
はじめて “愛おしい"と 思えた瞬間だったかもしれない

もつれてくしゃくしゃになった赤い糸が この時しゅるしゅるしゅるっと解けて行くのが見えた気がした。

娘と私の赤い糸はもう もつれることはないと思う。

それからだ。娘が変わり始めたのは・・・

自分の居場所がなくて探し求めてたのかもしれない。私に何か言いたかったのかもしれない。それが 叶ったから心が穏やかになったのだろうか

見捨てないでよかった。

死なないでよかった。

死なさないでよかった。

苦しくて辛い12年間だったけど


きっと これから待っているのは
とびきりのしあわせ。娘にも私にも 

しあわせになろう

たくさんの試練を与えてくれて ありがとう

 

あなたのおかげでお母さんは 少し強くなれたよ

 

 


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2 コメント

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Unknown (ぴえろ)
2011-07-18 18:23:18
>たくさんの試練を与えてくれて ありがとう

この言葉を読んで、一回りも二回りも大きく
そして強くなったまろんさんが想像できる。
やっと長い長いトンネルから出る事ができ
たんやね。
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Unknown (まろん)
2011-07-29 13:00:17
ぴえろさん!コメントありがとうございます(o^^o)
こっち見てなくて、お返事遅くなってゴメンなさい。
お久しぶりのコメント嬉しいです。
実はこないだまた胸がざわざわなるような出来事があったんですが(ノд・。)
おっきなことにならずにすぎました。
あ~まだ心配はつきないかも。。。
でも、私もチョット成長したみたい(笑)
しばらく遠くから見守っていきます。(o^^o)
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