まろんのひとりごと

BPDと診断された娘とがんばる 
母さんのひとりごと。。。。
ちょっとだけトンネルの出口が見えてきたかな。

診察日

2009年08月14日 | Weblog
昨日は 娘の診察日でしたが
娘は 行きませんでした。

8時に起こしてと メモがあったので
行く意志はあったんだろう。

起こしたけど
「お母さんだけ行って薬もらってきて」
と言って また寝てしまいました。

薬は今は 睡眠薬だけ。


先生も ちょっと苦笑い。

「まぁ落ち着いてるのならね・・・」と

睡眠薬だけ出してもらえました。

とりあえず3ヶ月が無事に過ぎました。

どうかこのまま ずっと 無事に過ぎますように。

あきらめないで

2009年08月14日 | Weblog
8月の初めにBPD家族会に参加してきました。

私は今回で3回目かな?

今回初めて参加の方も多数いらしてました。
みなさんの状況を聞くと
我が娘はほんとに トンネルから抜け出しつつあるんだと
実感します。

保健所の人から
「入院させるなら少しでも早い方がいいのよ」と
いつも言われていましたが
それを 実感します。

もちろん本人の病気に対しての自覚や
入院へのタイミングなど色々あるので
早ければいいと言うものでもないとは思いますが

BPD(パーソナリティ障害)であることに
早く気づくことが大事ではないのカナ・・・と思います。

歳を経てから 病気ではないか?と気づくと
やはり色々みなさんご苦労されているみたいです。

少しでも早く医療の現場につなげることができたら・・・と
切に思います。
世間ではこの病気に対しての理解がまだまだないのだと思います。

精神科の大きな病院でありながら
この病気の患者を受け入れることを嫌がる病院もあります。
実際そのような病院にかかってきました。

BPDに理解のあるドクターはまだまだ少ないのが現状です。


私が娘を医療につなげることができたのは
本人の自覚ももちろんありますが(おかしいのではないか??と)
保健所と警察とのつながりでした。

公的機関は 自分から行かないと動いてくれません。

うちの場合は
4~5年位前に
私が一度保健所へ相談に行きました。

しかし その時に担当だった精神科のドクターに
「あなたの娘さんは異常です。即入院させなさい」と
言うようなことを言われ

その時の私の心理状態は
「藁にもすがる思い」でしたので
とにかく今のこの現状をなんとかしてほしかった。

今から思うと その時がどん底だったのかなと思います。

その先生の 入院 異常 と言う言葉が
私の心の中には入ってきませんでした。
泣きながら 「もう二度と来ない!」と 誓って帰りました。

その時は私も無知でした。

その後、心療内科や他の精神科にもかかりましたが
(本人は行きません。私が相談に行くという形です)
進展はありませんでした。

何事もなく穏やかに過ぎる日々もあるので
ああ もう大丈夫かも・・と思うのです。

そして また 崖から突き落とされるような恐ろしい思いをしたり
娘の地雷を踏んだり。

そんな繰り返しでした。

あるドクターには
「この病気は治った症例がない」とさえ言われました。

泣いて泣いて泣きました。
この娘とこの病気と一緒に 
私の人生は終わってしまうのだ。。。と

そして何年か過ぎ
おバケ屋敷かジェットコースターかというような
日々を送っていた時
娘が 自殺未遂をして 警察と保健所のお世話になることに。

その時に 保健所の方から
「お母さん、何年か前に相談に来てくれていたよね!?」と

相談のカルテ?が残っていたんです。

そして このとき警察の方と 保健所の方と一緒に
行った病院で 初めて本人を診察の上で
「"境界性"人格障害」ではないかとの診断が。

保健所の人が言いました。
「この病気をみてくれる先生がいる!
 お母さんが前回 もう二度と来ない!と
 泣いて帰った あの先生です。」と

「このあたりで人格障害を診てくれるのは
 あの先生しかいない!」との 言葉に

あの時は ココロをひらけなかったケド
もう一度 先生にあってみようと思いました。

この時 二度目のどん底だったと思います。

もう一度保健所の 無料相談を訪れました。
あの怖い先生がいました(笑)
でも 私は 「娘を入院させたい」と 言いました。

先生は 「お母さんの強い意志が大事。」
何かあった時(昼間であれば) 救急で受け入れ可能とのこと。
ただしベッドがあいていれば・・・。

なんとかして 娘をその先生のいる病院に連れて行きたいけど
どうしたものか。。。と
思っていた矢先

娘本人が 「しんどいから(心が) 病院に行きたい」と
言い出したのです。

チャンス!!と思いました。

「良い先生がいるらしいから ○○病院へ行ってみようか」と

その先生の診察日を選んで連れて行きました。


娘は先生を気に入ってくれて
先生も 上手に治療してくださいました。(カウンセリング)

それが 本当の意味での治療の始まりでした。
医療にたどりつくまで 長い長い年月がかかりました。

次に何かあったときは
絶対に入院させよう!と 思っていました。
3回目の診察予約の前日に 
事件は起き(2008年12月の日記見てくださいね)

警察で夜を明かし そのまま病院へ行き
入院となりました。

診察室で「入院して治療しよう」と私が言いました。
(私が意志表示をしないとだめらしいです)

もちろん 本人は入院の意志などなかったので
大暴れしました。
でも この "暴れる"ことが 入院のチャンスだったのです。
かっ!となった娘は診察室で私へ 暴力を振るいました。

「他者への危害が及び危険」とのことで

入院 となりました。

(事前に先生と相談の上
 本人の意志は関係なく私が入院させることができる
 医療保護入院と言う形を取りました。
 医療保護入院については こちら

正直言ってものすごく怖かったです。
鎮静剤を打たれ それでも暴れている娘を見るのは
辛くて悲しくて 怖かったです。

涙なんか 出ませんでした。

「○○ 病棟へ」 と 看護士さんたちに
抱えられ つれていかれました。

お母さんは外で待っててください。

といわれ
外にいましたが 大声で叫ぶ声がずっと
聞こえていました。

耳をふさいでしまいたかった・・・・。

でも これで いいんだ!
これでいいんだ! って 自分に言い聞かせていました。

悩んでいるお母さん ご家族のみなさま
みんな 辛い辛いどん底の思いから 這い上がっています。

大丈夫です!
きっと トンネルから出れます。
できれば医療につなげられるといいと思います。

そこに行くまでが大変だけど
考えてみたらうちも10年くらいかかりました。

この病気は 時間がかかります。
気づかないまま30代・・40代・・・と
なっていかれる方もあります。

保健所の方がおっしゃっていました。

「少しでも早いほうがいいのよ」

「20年も(娘のような状態で)ほったらかして40歳50歳になって
 今になってもっと早く気づけば・・と言う人もいるから
 お母さんの選択は間違っていないから。
 お母さん 今まで よくがんばったね」と

おかしいと思ったらとにかく 
相談してください。
市役所とか 保健所とか 警察とか・・・

自分(母親)で動かないと 誰も助けてくれません。
自分が腹をくくって 「闘う」ことが 大事だと思います。

中断中断しながら 書いたので
支離滅裂な まとまりのない文章で
ごめんなさい。