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遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う

「遊行七恵の日々是遊行」の姉妹編です。
こちらもよろしくお願いします。
ツイッターのまとめもこちらに集めます。

あやしい絵展に溺れる その3

2021-08-09 21:11:47 | 展覧会
安珍清姫伝説もまた多くの画家を魅了した。
清姫を最も清楚に描いたのは小林古径。
清姫を気の毒に思えるように描いたのは村上華岳。
清姫を恐ろしく思えたのは月岡芳年。
清姫をこう描くか、あの人がと驚いたのは鏑木清方。
そしてこの清姫はまだ人の形をしているが、既に心は枠を越えつつある。

木村斯光 清姫 
大正末期の清姫。花の吹輪をつけているところや振り袖が娘であることを示しているが、もう顔つきはそんなものではない。少しばかり六代目菊五郎に似ているのは時代のせいかもしれない。
ヨカナーンにしても安珍にしても恐ろしいほどの情念を持った女に思いつめられたのである。

2で少し上げた名越国三郎の残した数少ない作品から「水のほとり」

ありがたいことにこの作品を含んだ画集「初夏の夢」は国会図書館デジタルアーカイブで見ることが出来る。
こうして見て見ると、ハインリヒ・フォーゲラーの影響を受けているように思う。
大正五年の作なので、明治43年の「白樺」表紙絵に使われたフォーゲラーの絵も当然見ているだろうし…

梶原緋佐子の展覧会を見たのはもう随分昔のことだ。手元にある図録を見ると1991年ではないか。
京都の高島屋で見たように思う。その時、絵の変わりように驚いた。
わたしは晩年の綺麗な婦人像ばかり見ていたので、初期の社会派的な作風を知らなかったのだ。
昭和初期から突如として優美な婦人像が描かれる理由について、彼女は言葉には残さなかったが、これは重苦しさが限度を超えた世相への華麗なる反抗だと思う。
もう、大正までの社会の底辺をうごめく人々を描くことが出来なくなるほどの、時代・世相の悪化を実感したのだろう。それで絵が変わった。
この「老妓」は大正中期の作品である。飾られているのは写楽の「二世瀬川富三郎」か。


なまなましい女を描いたのは京都画壇だった。
中でも佐渡出身の麦僊から「穢い絵」と決め付けられた甲斐庄楠音は実際「あやしい絵」を描いていた。

踊る女達はなにやらグロテスクな魅力を放っている。

この赤。内臓のうごめきを思わせる。

発表当時大変人気の高かった「横櫛」の京近美版


着物の細部を見る。




大阪展では広島県美の「横櫛」も出る。


甲斐庄は日本画壇を離れてから溝口健二の映画製作スタッフになり、多くの仕事をした。
「雨月物語」の娼婦たちなどは彼の絵から抜け出てきたようにしか見えない。
溝口組の他にも「旗本退屈男」のあのハデハデ装束を御大市川右太衛門(北大路欣也の父)に着せて、世間に「旗本退屈男」のイメージを定着させたのも甲斐庄だった。
やがて晩年のかれは京都の名士の一人となり、再び絵筆をとるようになった。
彼の死後、その生涯を追った栗田勇は「女人讃歌 甲斐庄楠音」を執筆する最中、未完の大作「畜生塚」を発見する。








悲痛な運命を嘆く女達、諦念を懐く女達、いまだどうしても納得がゆかない者もいる…
「殺生関白」と呼ばれた秀次の乱れた生活に巻き込まれた数十人の女達。
処刑を待つその一群の姿を描く。

苦しむ女を描いたのは甲斐庄だけではない。
秦テルヲもまたその描き手だった。

かつて練馬区立美術館で回顧展を見た時、その重さに苦しんだ。
ただ、かれの絵日記などでようやく息をつけた。
そのうちの一点

働く人たちがいる。

この絵が発見された時のことをよく覚えている。1985年。
岡本神草 拳を打てる三人の舞妓の習作

当時まだそんなに日本画に興味があったわけでもないのだが、このニュースにはなにやら興奮した。
その発見から様々な事情をまとめたのが「美の巨人」で、まだその放送回のまとめ記事は生きていた。
こちら
絵が全景を取り戻してよかった。

続く。

あやしい絵展に溺れる その2

2021-08-09 21:07:14 | 展覧会

初めてミュシャの絵を見たのは高1だった。
夏休みが明日から始まるというので、友人宅で打ち上げをした。
そのときに出会った。
常にミュシャの絵と様々な記憶とが絡み合って蘇ってくる。






バーン・ジョーンズ「flowerbook」より。
このシリーズをまとめた本が手元にある。懐かしい出版社。

浮世絵もある。

雷鳴と凄まじい雨の描写。

早世した田中恭吉の版画
百年前の若者の描いた幻想


青木繁を集めた章がある。
神話への憧れ
明治の若者が夢みたもの。
かれは日本神話と天平時代とを多く描いた。
百年後の人々はかれの描いた天平時代に強く惹かれ、神話の絵にときめいた。

黄泉比良坂 明治36年すなわち1903年
この年は豊饒の年であった。
八雲は帝国大学を退職したが、学生たちにときめきを残した。
漱石が英国から帰り、露伴が活躍し、そしてまだ若い鏡花が「風流線」を世におくった。

伊弉諾を追う黄泉醜女たちが桃を投げ擲たれる様子。改めて眺めると、こちらを見る女もいた。
恐らくこの女も青木の恋人・福田たねか。


大穴牟知命  この絵も来ていた。東京へ見に行ったのはこの絵がここでだけの展示だからだ。これは撮影禁止。
わたしがこの絵を知ったのは高校の時熱狂した谷川健一「魔の系譜」に一生丸ごと充てられていたのを読んでのことだった。つまり本物を見るより先にわたしは谷川健一の文章世界に溺れ、それから実物を見るまでの長い間、妄想に焦がされ続けたのだ。
社会人になってから青木の画集を買ってその絵を見たが、やはりよかった。
本物を見た時、谷川の文章とわたしの妄想とが入り混じったものがようやく昇華した。

今回の展覧会でもしかするといちばんクローズアップされているのは橘小夢かもしれない。
かれの回顧展はこれまでに弥生美術館で行われている。
その後も二、三度やはり「あやしい絵」を集めた展覧会で主要な作家として作品が集められた。
実際大阪での展覧会の告知ポスターとして車内吊り広告にかれの絵が使われている。

安珍に巻きつく歓喜の清姫

鏡花の「高野聖」は多くの芸術家を魅了した。
ここでも清方、川端龍子らの絵がある。
小夢もまたモノクロ、それから彩色の絵を残した。



迷い込んだ男たちをおもちゃにし、飽きるとさまざまな生き物に変化させる力を持つ女。
中国に伝わる「三娘子」から「旅人馬」の話が本朝に伝わったのは江戸時代だが、鏡花はその物語を更に妖しく進めたのだ。

だが、男の変化ものよりあやしい生命体としては女の方が多くの人を歓ばせた。

水島爾保布「人魚の嘆き」がある。
挿絵はモノクロの静かな美をみせるが、彩色は魚類の生臭ささえ感じられる。
中公文庫版の谷崎の小説群は挿絵もそのままのものが多い。
「人魚の嘆き・魔術師」「鍵・瘋癲老人日記」「聞書抄」などがそれである。
わたしは水島の人魚しか知らなかったが、名越国三郎のそれが発禁処分になったというのを後に聞き、一度くらい見て見たいものだと思っていたが、この絵を発禁にしなかった政府が、どのような絵を発禁にしたのか、妄想を逞しくしていた。ただ、名越といえば草花を摘む女の絵を1990年頃から見知っていたので、どうもよくわからないままなのだった。
今回少しばかり調べるうちに興味深い論考を見つけたのでご紹介する。
「人魚の嘆き」挿画考~挿画家の謎

ところで水島はビアズリーにたいへん影響を受けていた。
日本でビアズリー、ミュシャの影響を受けた画家、マンガ家は数多い。
中でも画力の高さを誇る作家の方がより多くかれらの絵を自作に引用している。
わたしがビアズリーの「サロメ」を知ったのは手塚治虫「MW」からだった。
リアルタイムに連載を読んでいたので小学生の時に知ったのだ。
ただそれ以前にそうと知らずビアズリーの絵をモチーフにしたものを見ていたことに、後年気づいた。
高階良子「血まみれ観音」である。時計塔のある洋館に飾られた絵画が実はビアズリーの作品の転用だった。
あの絵が飾られていたことで、洋館がいよいよ謎めいて見えていたのである。
そのビアズリー「サロメ」を掲載した本が出ていた。


つづく

あやしい絵展に溺れる その1

2021-08-06 23:48:04 | 展覧会
現在大阪歴博で開催中の「あやしい絵」展だが、わたしは諸般の事情(要するに待ちきれなかったのだ)により東京で見た。
東京では清方の作品以外は著作権の関係もあってか、撮影可能だった。
国内から、就中大阪、京都から集められたねっとりしたあやしい絵が観覧者を惑わせ、そのあやしさに溺れこませたようである。
われから耽溺したいとその坩堝に躍りこんだわたしはあの当時、ツイッターで撮影したものをあげ続けた。
あれはなかなか皆さんに喜んでもらえた。
今回はその時とは異なる恣意的な言葉をつけたいと思う。


稲垣仲静 猫 星野画廊  なるほどあの星野画廊さんにいたのか、この猫は。
描いたのがあの稲垣仲静だということを思うと、確かにこの猫はこんな目つきをしているだろうし、あやしさもひとしおだろう。
そしてカメラの都合で生人形が入り込んでいる。


安本亀八の白瀧姫である。


真っ向からながめる。

往時の作者と人形


えくぼもあるが、彼女は笑わない。


そしてこの美しさに息をのむ。


橘小夢の絵が現れる。少しずつ彼の絵が世に広まればと思うが…

泉鏡花「高野聖」で山の中の女と若い頃の聖と。


蕭白 この絵からインスピレーションを受けて大野一雄が「枯れた狂気を舞う」を創作したという。

狂女の視線はどこへむいているのだろうか。

つづく。

「佛 祈りのかたち」

2021-07-16 00:09:28 | 展覧会
既に終了した展覧会だが、御影の香雪美術館の「佛 祈りのかたち」展は面白かった。
最終日に行ったので当然ながら恒例の出だしとなった。
その前日の三日は中之島香雪美術館の「上方絵師」の初日に行ったので、これはもう怠惰としか言えねえわな。


さて今回の展示は主に仏画でした。
村山さんのご遺族さんからの寄贈の中心に仏教美術があり、それを今回特に伝・探幽の三十三観音図を全図並べるという快挙だったわけです。
展示リストを見たら16点なのでえらい少ないなと思ったら、ぎっしりみっちりの展示でしたわ。

まずは木彫の神像から。サイズさまざまのうち、十体の内から対のような男女神二体。
いずれも平安から鎌倉時代。
細身で男神は鱗文の変形のように文様の着物に虫食いもあるが、しゅっとしている。
小柄な女神は神像にしては珍しく仏像のように首に「三道」がついていた。
つまり三本横皺。とはいえ細いのね。上着の朱色が褪色してはいるが残っているのもよかった。
後ろへ回ると、髪は肩までだとわかった。

この二体の神様から展示が始まるのだった。

愛染明王図 室町時代  丁度勝曼院の愛染祭が終わった直後。愛染明王当たり前だが赤い。暗い赤さの絵。炎が形になったまま辺りに舞い散っていた。

愛染曼荼羅 鎌倉時代  これは色は割とはっきりし、愛染明王の開いた口内の歯並びがくっきり。鬼歯はない。なだらかな歯並び。上に柄杓をひっくり返した北斗七星、下に九曜の神々。蓮台などに截金や金泥が使われている。

一字金輪曼荼羅(大日金輪) 鎌倉時代  この一字金輪は転輪聖王がモデルだそう。
転輪聖王といえばヴィジュアルは「暗黒神話」のそれが浮かぶけれど、世界の王と言うことですなあ。ぐるりと七宝が取り巻く。七つの宝。ゾウ宝、馬宝、と鉱石ではない存在のものが宝として顕現する。


伝・寛性入道親王 般若理趣経 平安―鎌倉  鳥羽天皇第五子、仁和寺五世という人のだと伝わるもの。字の左に「博士 はかせ」がある。「博士」とはdoctorではなく「音階・旋律を図示したもの」だそう。それについてはコトバンクのこの紹介文がある。
(「ふしはかせ(節博士)」の略) 平曲、謡曲などの「うたいもの」、あるいは声明(しょうみょう)などの節のきまり。また、それを示すために文句のそばに書きしるす点や線の譜。墨譜。胡麻点。
なるほどなあ。
金銀砂子の綺麗な装飾経。

五鈷杵 平安12世紀  わりと可愛い。
九鈷杵 明代  九龍形式。ただし鹿角はなしなのでマカラ魚ともみなされるよう。
当時明ではチベット仏教ブームがあったそうで、こうした形のものにはエキゾチックな魅力を感じたのだろう。

二階へ上がりますと伝・探幽の三十三観音図がずらーーーっ
これは東福寺の明兆の原本の写しで、元にはないものも書き込んだ図絵。
基本的な構図として、上部に白衣やカラフルな装いの観音がいて、下部には人や人ではないものたちの物語がある。観音の化身や変化した人などにはつながりを示す吹き出しのような描写がついてもいる。観音の髪の色は群青色。

因みに原本のは西宮大谷美術館で見ている。当時の感想はこちら。
西宮の狩野派・勝部如春斎
全編ではないがこうしてみることが出来てなかなか嬉しかった。
紹介サイトには画像がある。

芥川の「蜘蛛の糸」ではないが、佛は案外暇なようで、きまぐれに救いの手を出すこともあるわけで、その時々の状況が絵になっているようにも思われる。
悪人に襲われたり、悪魚に食い殺されそうになっても助かるものは、佛の御真言を唱えるのである。
救われるには救われるだけの理由がある。ギブとテイクが信頼関係の上に成り立つのが信仰なのである。
それにしてもこの眺めは壮観でしたわ。
そうそう、三十三身の内、上空に手を合わせる人もいて、システムをわかっているらしいのもいた。
下界のそのずっと上空に仏の国。

配置的に向かい合う感じになった二図。
伝・周文 白衣観音図 室町時代  
伝・曽我蛇足 白衣観音図 室町―江戸
素知らぬ顔はしていない。

千手観音二十八部衆像 南北朝―室町  にぎやかな金仏を中心にずらり28部衆。北斗や滝も描かれている。



そして歩いて助けに来てくれたり、見守ってくれてたりするやさしいお地蔵さんの登場。
地蔵菩薩像 南北朝  来迎。右下向き。美ボーズ。

矢田地蔵縁起絵巻 室町時代  地獄めぐり図。剣の山、針の山、たいへんですわ。
ちょっとばかり奈良絵本風味がある。

閻魔王図 室町時代  罪人引っ立てられてる図。爪食い込んでるなあ。

盂蘭盆経惣釈 鎌倉時代  これはリアルに使ってたそう。色々跡がある。
そういえば六波羅蜜寺近くのお寺では地獄極楽の絵解きがあるが、あれも古いのをずっと使っている。

再び女神・男神像をみる。平安から鎌倉時代と言うのは共通しているが、全く別個の様子なので、村山さんのところで顔合わせしてから百年ばかりの間に仲良くなられたのかもしれない。
憤怒相もいて、けっこう怖い顔。手首の先は別の木だったようで今は不明。どんなポーズだったのか興味はわくけれど、他方、もしかすると何かしら怖い様子でそれであえて先を取られているのでは…とも妄想が湧く。

八幡縁起絵巻  神功皇后の軍が住吉明神に出会うところが出ていた。
老人の住吉明神に出会い、後に一行は海上でも明神に救われる。牛の角を掴んでエイッ。
海の黒牛。

松花堂昭乗 山崎離宮八幡宮梵鐘銘案文  寛永十一年十二月の月日が記されていた。

室町時代の鰐口もある。がごーーーーんとやるやつ。千四百年。今から621年前。

面白い展覧会でした。

「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展を見る

2021-06-30 16:50:48 | 展覧会
実は前衛的な作品と言うものがよくわからない。基本的に「わかる」作品が好きだという性質がある。
わからないものをわかろうとしたいのだが、わかることに意義がないものもこの世には存在する。
ではこの戦前・戦時下の前衛作家の作品は「わからなくてもいい」と言ったか。言ってはいないのである。
ただし「わかれよ」とも言われていない。
自分のわかる範囲でしか感想は挙げられない。
それはわたしなりの作品・作家への誠意の表れだと思っている。
なので作家が意図したところから離れた感想であっても、あくまでもわたしの誠意の表れだと言える。



東京の板橋区立美術館で開催された展覧会の巡回である。
東京でのチラシ表はこのように作家名がずらりと記され、その合間合間に展覧会のタイトルが落とし込まれている。まるで数珠玉のようである。
個人的には京都文化博物館のチラシの方が「綺麗なので好き」ではあるが、情報量は確かに板橋の方が多く、合理的ではある。


5つの章分けがされているが、京都での展示の始まりは松本竣介の愛らしい顔立ちの人物たちを描いた作品である。
これは入りやすいと思う。特にわたしのような客にはよろしい。

かつて松本竣介の回顧展が神奈川の葉山館であった。
その時かの地まで向かい、松本竣介の生涯に産みだされた作品群を目の当たりにした。
当時の感想はこちら。
生誕百年 松本竣介
もう9年前だが鮮やかなイメージは損なわれていない。
今回もここにある作品をその場で見ていた。
嬉しい心持で絵に対峙する。

松本竣介 顔(自画像) 1940(昭和15)年 油彩・板 個人  やはり可愛いなあ。
フルポンさんのお顔である。28歳の美少年。

松本竣介 りんご 1944(昭和19)年 油彩・板 株式会社 小野画廊  いつ見ても赤々としたりんごが愛しい。そして改めてこの時代に描かれたことを考えた。
戦時中のもののない時代に赤々としたりんごとそれを手にする子供の頬。


松本竣介 三人 1942(昭和17)年頃 鉛筆・紙 個人  子供たちの顔が3つ。見切れているものもある。コクトー、そしていわさきちひろにも通じるような描線。
どこかあたたかい。

松本竣介 顔 1942-43(昭和17-18)年頃 鉛筆・コンテ・紙 個人  こちらも愛らしい。少年だろうか。画家本人が愛らしい美少年だったからか、どの子供の顔も愛らしく、夢見るような優しい、ふわふわした良さがある。

松本竣介 婦人像 1943(昭和18)年頃 木炭・紙 個人  しっかりした肉体の背中である。



・西洋古典絵画への関心
福沢一郎 二重像 1937(昭和12)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  二人の女性を描いた縦長の作品だが、どちらも嫌な表情を浮かべている。時代が時代だから何かあるのかと思い、タイトルについても色々と考えたが、解説を読むと新約聖書の「アナニヤの死」の話からのイメージらしい。どうも調べてもどれを指して言うのかがわからない。
こういうことがあるから好悪・宗旨を構わずなんでも知っておかねばならなぬのだ。

小川原脩 ヴィナス 1939(昭和14)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  ワンピースを着た仏顔な女。ううむ…

吉井忠 1505年フィレンツエ・マルテリ街Leonardの画室にて 1942(昭和17)年 インク・墨・紙 個人  要するにダヴィンチが画室でモナリザを描いている様子を描いた。こういう二重構造は面白い。

吉井忠 薄田つま子 1941(昭和16)年 インク・紙 個人  2点もあるが、これは当時の女優さんらしい。調べたら薄田研二の娘か。ああなるほど。薄田が(多妻者の)倉田百三の妻の一人と結婚して生まれた娘なのか。Wikiになにやら書いてある。


・新人画会とそれぞれのリアリズム
前述の松本竣介の作品群はこちらに属していた。
この新人画会についてはこちらに詳しい

麻生三郎 とり 1940(昭和15)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  チラシに絵があるがわたしはニガテ。

麻生三郎 女 1944(昭和19)年 油彩・板 板橋区立美術館  きりりとした女性。

麻生三郎 一子像 1944(昭和19)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  寄り目の赤子。以前にも見ているが印象的な顔立ちである。

麻生三郎は後年の本の装丁などが好きだ。油彩画とは全くイメージが違うので、同じ作家の絵だと長く知らないままだった。

丁度今度靉光の特集が新・日美で放映されるようだが、わたしはどうも靉光の作品は本当にニガテで…今こうして前に立ってても何が何だかわからないままなのである。

寺田政明 芽 1938(昭和13)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  重いぞ…

寺田政明 かぼちゃと山 1943(昭和18)年頃 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  暗い…
どちらの絵も怪獣の造形のための絵にもみえる。そう思えばなんだか親しみを。
ここには出ていないが「発芽A」「発芽B」も怪獣にしか見えなかったなあ。
俳優・寺田農さんの父上がこの人だと知ったのは「池袋モンパルナス」展からだったと思う。

池袋モンパルナス 歯ぎしりのユートピア
池袋モンパルナス展 ようこそ、アトリエ村へ!



・古代芸術への憧憬

難波田龍起が現物を見ることなく写真集などから古代ギリシャ像を学習していたことを今回の展示で初めて知った。
そういえばこの時代にギリシャに行くような人はまれだし、ルーブルや大英博物館に彼が行ったとも聞かないし…
とはいえその学習が結実してよい作品が生まれているのだから、やはり画家の目と言うものは怖い。

難波田龍起 ヴィナスと少年 1936(昭和11)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  好きな作品で右側のミロのヴィナス像、左手のしりもちをついたような少年、奥のパルテノン神殿らしきもの、配置がまた良い。


難波田龍起 ニンフの踊り 1936(昭和11)年 油彩・キャンバス 板橋区立美術館  久しぶりの再会。何故か唐風にもみえる美女。更にちょっとデモーニッシュな味わいもある。

難波田龍起 春 1939(昭和14)年 油彩・板 板橋区立美術館  ボッティチェリの絵のカットアップ。勉強の成果と見做す方がいいのか。

実際勉強の成果がこちらの4点。
難波田龍起 ヒュプノス 1935(昭和10)年 鉛筆・水彩・紙 板橋区立美術館
難波田龍起 ミロのヴィナス 鉛筆・紙 板橋区立美術館
難波田龍起 マウソロス霊廟のフリーズ 鉛筆・水彩・紙 板橋区立美術館
難波田龍起 テセウス 鉛筆・コンテ・紙 板橋区立美術館
ギリシャ彫刻の本からのデッサン。テセウスは首のみ。

そして日本の仏像、白鳳時代の仏像をも絵にしている。
難波田龍起 釈迦三尊 1943(昭和18)年 油彩・板 個人
難波田龍起 薬師如来 1943(昭和18)年 油彩・板 個人
どちらも赤茶色で描かれていて、なんとはなしにニンマリしている。

難波田龍起 阿修羅像 鉛筆・コンテ・紙 個人  困り顔をクローズアップ。珍しいな。
難波田龍起 法隆寺夢殿救世観音像 コンテ・紙 個人
難波田龍起 法華寺十一面観音 鉛筆・コンテ・紙 個人
リアルな写生。

難波田龍起 健駄羅佛像 鉛筆・コンテ・紙 板橋区立美術館  ガンダーラ仏風な。

それから難波田龍起のハニワがずらり。人も馬も色々。こちらも画集からだそう。戦前はなかなかハニワを見ることが出来なかったのだろうか。


小野里利信(オノサト・トシノブ) はにわの人 1939(昭和14)年 油彩・板 東京都現代美術館  こちらは謎としか…

長谷川三郎 都制 1937(昭和12)年 毛糸・綿・小豆・ガラス・厚紙 学校法人甲南学園 長谷川三郎記念ギャラリー  コラージュはそれ自体がわかるもの・わからないものに分かれるが、詩がつくと何故か素敵に思えるのだよなあ。
これは一体何なんだろう。
…待てよ、近くで見るからわからんのか。離れてみてみよう。
なんか手描きの観光マップに見えてきたなあ…

・京都の「伝統」と「前衛」

集団制作「浦島物語」お題に合わせて一枚絵を各自が描いてゆく。
今、「各自が」と打ったら「描く自我」と出た。ある意味正しいかもしれない。
面白いのは14点のうち月を描く人がけっこういることか。
1937(昭和12)年 油彩・キャンバス というくくり。いずれも京都市美術館蔵。

1 吉加江清(京司) 浦島亀を救ふ(憧憬)  手なのか。
2 小石原勉 亀の迎へ(誘惑) 右向きの三日月と卵?
3 北脇昇 海上へ(好奇) 左向きの三日月、タツノオトシゴ?
4 原田潤 海底を(愛慕) ぐるぐるの貝@@
5 安田謙 龍宮見ゆ(歓喜) 須田国太郎風な重厚な色彩
6 今井憲一 龍宮に着く(讃嘆)  宝貝と蝦蛄?骨魚も
7 松崎政雄(八笑亭) 乙姫に会ふ(恋着) 三段のシマシマの波。貝の中に乙姫。赤子もいるが、他の作品と違いかなりおどろおどろしいところがある。
8 井上(村上)稔 龍宮の生活:A(親和) シュールすぎてわからない。
9 田村一二 龍宮の生活:B(惑溺) これもシュールすぎるが「惑溺」とは本来そうかも。
10 三水公平 龍宮の生活:C(虚無) シュールすぎてこちらが虚無になる。
11 小栗美二 龍宮の生活:D(厭飽) 少し遠くに赤い建物?…竜宮かな、と手前に貝
12 小牧源太郎 郷愁を訴ふ(倦怠) 左にいるタツノオトシゴ。右には謎のもの。オーロラの下かな。海底のオーロラ
13 杉山昌史 玉手筥に誓ふ(執着) 陸へ。足がある何か。
14 島津俊一(冬樹) 玉手筥は遂に開かれた(批判的現実)  白い。そこになにかくるくるしたものが続き、太陽がある浜辺。

これ、抒情的な作風の人で作画したら案外退屈かもしれないな…
わからないものはわからなくてもいいかもしれない。

ここから北脇昇の作品が並ぶのだが、かれは「クォ・バディス」は知っているもののこれだけたくさん見ることは初めてかもしれない。
そして意外なくらい面白く思えた。

北脇昇 秋の驚異 1937(昭和12)年頃 油彩・キャンバス 京都国立近代美術館  上に葉っぱをスタンプ。

北脇昇 変生像(観相学シリーズ) 1938(昭和13)年 油彩・キャンバス 京都市美術館  人形の少女の顔が…が…

北脇昇 非相称の相称構造(窓) 1939(昭和14)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  なんかどっかで見たようなと思ったら、茶室などにある窓の感じなのだった。

そしてここでびっくりしたのは、北脇昇はあの河原町の廣誠院に生涯住まっていたのだった。知らなかった!そうだったのか。それでかあそこ所蔵の染付の動物の可愛いのとか大好きなんだが。随分前に一度公開されたのを見学した。実に良い和風別荘建築だった。
当時撮影したのをこの展覧会をみてからまとめた。
廣誠院の思い出について

北脇昇 廣誠院庭園 鉛筆・パステル・紙 個人  彼が住んでたころから半世紀以上後の訪問だったが、どことなく面影を感じもする。

北脇昇 京都 植物園 1932(昭和7)年 油彩・キャンバス 廣誠院  温室を見る位置の図

北脇昇 植物園 水彩・パステル・紙 廣誠院  ごくシンプルに。だが、こうした絵の方がわたしは親しく感じるのだ。

北脇昇 竜安寺石庭測図  *前期 1939(昭和14)年頃 墨・インク・鉛筆・色鉛筆・紙 東京国立近代美術館  そう、測定したのを記した地図でもある。面白い。

北脇昇 竜安寺石庭ベクトル構造 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  線で石の配置をつなぐ。とても面白い。
龍安寺の石庭といえば手塚治虫「三つ目がとおる」ではアトランティスかムー大陸かの海図だという設定だったな。あれは面白かった。
わたしもそれがアタマにあるので、色々妄想にふけった。

北脇昇 文化類型学図式 1940(昭和15)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館  ギリシャ彫刻@能面(小面)@中国の仏頭@…

伊東忠太の描いた比較図を思い出す。やりたくなるのかもしれない。

北脇昇 周易解理図(泰否) 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 京都市美術館  わからないままにどんどん面白くなってきた。

今回の展覧会で、これまでになく北脇昇作品に面白さを感じるようになった。
彼の望むものとは違うかもしれないが。

次に小牧源太郎の仏画を見る。これも実際に見たのでなく画集からだそうで、弛まぬ研究の成果としての絵画なのだった。
資料がたいへんこまかく、参考資料展示のこれらの一端をみて、うなるばかり。
小牧源太郎 絵画諸論 1939(昭和14)年~ 伊丹市立美術館
小牧源太郎 史迹・美術資料ノート 第1~17部 1941-1946(昭和16-21)年 伊丹市立美術館
小牧源太郎 スクラップブック 1937-1947(昭和12-22)年 伊丹市立美術館
実に凄い。しかしその研究成果の仏画が怖かった…

小牧源太郎 鳥紋図形 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 京丹後市教育委員会  怖い

小牧源太郎 壁画(十一面観音像) 1943(昭和17)年 油彩・キャンバス 京都市美術館  笠置のをモデルにしたと言うが、あのとろけた摩崖仏は確か立像。これはちょっと違うような。

小牧源太郎 仏頭 1943(昭和18)年 油彩・キャンバス ギャルリー宮脇  仏像ノートとリンクしているのだが、それにしても怖い。これは背後は守護する蛇のナーガラージャ…ムチリンダか?それにしては十あるから…孔雀にも見える。孔雀と蛇は天敵だから…
ああ、わかるものか。

小牧源太郎 弥勒石 1944(昭和19)年 油彩・キャンバス 京丹後市教育委員会  彼の妄想なのだと思うが、表現が怖い。
日本画の秦テルヲの仏画もそうだが、逆に仏が怖いのがあるように思う。

再び共同制作。「鴨川風土記序説」1942(昭和17)年 油彩・キャンバス 東京国立近代美術館
北脇昇 鴨川風土記序説(平安京変遷図)
小牧源太郎 鴨川風土記序説(藤原時代)
吉加江清 鴨川風土記序説(足利時代)
原田潤 鴨川風土記序説(桃山時代)
小石原勉 鴨川風土記序説(徳川時代)
このうち北脇のは文化遺産オンラインなどで見ることが出来る。


今井憲一 造花と風車 1939(昭和14)年 油彩・キャンバス 京都国立近代美術館  どこに風車ふうしゃなりかざぐるまなりがあるのかがわからないが、真っ赤な地になんとなく綺麗なものがある絵。

須田国太郎 戸外の静物 1941(昭和16)年 油彩・キャンバス 京都府(京都文化博物館管理) 奥に家々、手前にバナナ!なんかよくわからんわ。

・「地方」の発見
これまでと全く趣の違う作品群が最後に現れた。
吉井忠 『東北記(1)馬市ー岩手ヨリ青森へ』『東北記(3)秋を行くー斉川の春』 1941-44(昭和16-19)年 鉛筆・ペン・原稿用紙 昭和のくらし博物館
リアリズムの写生。農村風景。

吉井忠 南会津山村報告記 1942(昭和17)年 鉛筆・ペン・紙 個人
吉井忠 山村の形態 1941(昭和16)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 木地師の山小屋 1942(昭和17)年 インク・紙 昭和のくらし博物館  実際この頃は里山で見かけることもあったろう。
吉井忠 杓子・箆の製作過程 1942(昭和17)年 インク・紙 昭和のくらし博物館
吉井忠 道具 1942(昭和17)年 インク・紙 昭和のくらし博物館
吉井忠 佐々木カヨ 金沢村ニテ 1942(昭和17)年11月23日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 福島信夫山 1943(昭和18)年2月14日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 ソバを蒔くうね(スキフミ) 1943(昭和18)年鉛筆・紙 個人
吉井忠 スキフミ 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 鋤踏み 1943(昭和18)年 油彩・キャンバス 個人
吉井忠 《毛馬内風景》のためのスケッチ 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 秋田曲田 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 曲田福音会堂 1943(昭和18)年 鉛筆・紙 個人  正教会である。山下りんのイコンもあるそう。
吉井忠 青森県三戸郡階上村 桑原一郎氏宅 1943(昭和18)年10月10日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 青森県階上村 1943(昭和18)年10月11日 鉛筆・紙 個人
吉井忠 花巻豊里町 宮沢政次郎氏宅 1943(昭和18)年10月12日 鉛筆・紙 個人  宮沢賢治の実家だ。今のは建て替えたもの。彼の生きた家だ。
吉井忠 豊浦町 佐藤弥助氏宅 1944(昭和19)年 鉛筆・紙 個人
吉井忠 斉川村 1944(昭和19)年 鉛筆・紙 昭和のくらし博物館
吉井忠 安達ヶ原 1944(昭和19)年9月5日 鉛筆・紙 個人


最後に出していた雑誌や企画した展覧会の紹介もあり、彼らが戦時下でも旺盛に表現活動をしようとし続けたことがわかる。

美術文化 1~6号 1939-1941(昭和14-16)年 美術文化協会 板橋区立美術館
第2回美術文化小品展目録 1941(昭和16)年 美術文化協会 板橋区立美術館
美術文化 第3回展集 1942(昭和17)年 美術文化協会 板橋区立美術館
美術文化 4回展集 1943(昭和18)年 美術文化協会 板橋区立美術館
第1回新人画会展(案内はがき) 1943(昭和18)年 板橋区立美術館
第2回新人画会展(案内はがき) 1943(昭和19)年 板橋区立美術館
美・批評 1931-1934(昭和6-9)年 個人
世界文化 1935-1936(昭和10-11)年 京都生活協同組合
土曜日 1936-37(昭和11-12)年 同志社大学人文科学研究所
学生評論 1937(昭和12)年 個人
京大俳句 1935-1939(昭和10-14)年 個人
同志社派 1932-1936(昭和7-11)年 個人
個人が国家にどれだけ抗えるかについて考えたい。

雑記帳 1936-37(昭和11-12)年 総合工房 個人  林武、岡本かの子、猪熊源一郎、長谷川利行など。
須田国太郎 原稿(朝日新聞社京都支局宛て) 1943(昭和18)年 個人  思えばこの頃須田は能狂言デッサンにものめりこみ、断弦会主催の能狂言を見に行っては描き続けていたのだなあ。

映像が流れていた。 
能勢克男 京都 1935. 1935(昭和10)年 発行:六花出版(DVD) 様々な京都の町の様子を捉える。大丸、高島屋、菊水もある。見ていて楽しい。
丁度この時代は村上もとか「龍 RON」でも描かれていたか。ラストに「京都は生きている」と言葉が入るのだ。
そして能勢が主催した雑誌「土曜日」の記念映像もある。
能勢克男 「土曜日」が一周年を迎へた。 1937(昭和12)年 発行:六花出版(DVD)  楽しそうに行楽地へ行く人の姿もある。
その能勢克男 スクラップブック 1933-1934(昭和8-9)年1937-1938(昭和12-13)年 同志社大学人文科学研究所 
この人は仙台に生まれ東京帝大卒業後、同志社の教授、弁護士、今でいうコープを立ち上げたりと言う人で、1938年に「土曜日」で治安維持法で挙げられてしまう。2年後に山科刑務所を出所。現代のリンゴ日報を思う。
そして戦後は松川事件の弁護団にも加わったそう。
京都のリベラルの在り方を改めて考える。

非常に興味深い展覧会だった。
今日にこの企画展が東西で開催されたことの意義についても考える機会になった。

7/25まで。