ハッピー(吉田鍼灸指圧治療院から)

宮崎県都城市南横市町7879-2
0986-23-8531
社会と病気の関係について全てを解き明かしていきます。

吉田鍼灸指圧治療院

吉田鍼灸指圧治療院 当院は痛みに対しては徹底的にその場で結果を出すことを追求しています。 慢性疾患については鍼灸とともに食事を中心としてアドバイスで治癒もしくは生活に支障のないところまでフォローしていきます。 私は故安保教授と福田医師の設立した自律神経免疫治療研究会(現日本自律神経病研究会)の正会員です。 日本自律神経病研究会HP http://immunity-club.com/ 正会員名簿(会員医療機関・治療院リスト) http://immunity-club.com/facility/index.html 私の専門は鍼灸です。 施術料 初診料      1000円  鍼灸(大人)   3500円  中学生      2000円 赤ちゃん~小学生 1500円 ※国保で都城市の鍼灸の助成金カード持ってらっしゃる方は一回につき1200円の助成があります。 後期高齢者保険証(75歳以上)で宮崎市内に住所を持ち助成金のカードをお持ちの方は、 施術一回につき1000円の助成があります。 助成金のカードは保険証と印鑑を持ち最寄りの市役所または役場にて手続きができます。 ※現在指圧は行っておりません。 いろいろと試したが良くならない方、あきらめずに当院に一度お越しください。 場所:宮崎県都城市南横市町7879-2 ゼンリン地図 大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI ) ?пF0986-23-8531(予約制です) 診療日:現在のところ、毎週、木・金・土に限定しています。 Facebook https://www.facebook.com/yoshida.yoshihisa/ 吉田鍼灸院 https://www.facebook.com/yoshida.yosihisa 画像が削除されました 遠方から当院に来られる方は、宿泊先として当院に非常に近いHostel-Babters が便利です。 https://hostel-babters-miyazaki.jimdofree.com/

宗教とは何か~一神教と多神教

2024-02-18 18:40:16 | 本質

宗教とは何か~一神教と多神教

イスラム圏の人やアメリカ人と宗教について話をした。

※以下は私の考えであって、日本人を代表しているものではありません。そのことは伝えて説明しています。そしていつものように私は正しいことは言いません。答えもありません。

僕は日本人は自然そのものだったり、自然の神様、そして神道や仏教があるが、それは世界の宗教とは違う。

日本人はいちいち宗教とか考えなくても、ご先祖様だったり自然の中だったり、あらゆるところに神がいて、さらに物質だったりつまりここにある消しゴムにも机にも紙がいると自然に思っているのだよ。

私たち一人一人が神でもあると考えている。

そして仏教は仏陀を崇拝する訳では無く、仏陀は私たちがどうやってこの現世を生きていけば良いかを説明している。哲学やこの世の仕組みを説いているもので、これも宗教とは言えない。

自力と他力で生きていきなさいと教えている。

この自然の仕組みの中にあらゆる神が存在する中に仏陀の教えが存在している。

無宗教では無く、自然とそうなっている。だから私は信仰を持っていると言う必要も無いのだよ。と説明した。

そうするとみんな、そうだその考えは素晴らしいと理解する。

しかし、彼らにとっては自分の信仰が一番大切である。彼らは一神教なのだ。

僕は一神教よりも日本的考えが世界に広まれば世界は平和になるのではないだろうかと述べた。

それも理解できると共感してくれた。

ただ、やはり一神教である。

縄文時代から江戸時代に至るまで、特に江戸時代までは日本人は世界でもありえないくらい陽気な人々で、礼儀正しく、清潔な人々だと当時、日本を訪れた外国人の本や手記などに記載されている。

僕は日本人の精神性について説明しながら、いやどうもおかしいな。今の日本人は全く陽気ではなく、どちらかというと電車に乗っている姿を見ても覇気がなく、どちらかというと鬱々としている。

僕の説明と合わないのだ。

そして、彼らは非常に礼儀正しく、安心感に包まれている。

どうしてあなたたちはとても穏やかな顔をしているのかと僕は尋ねた。

そうすると、彼らはこう答えた。

この世界は厳しく暴力的なのはその通りだが、私たちは常に神とともにいて、神と対話し、神に守られている。

だから心が穏やかになり、安心感があると。

もっともこれは誰でもそうであるのでは無く、信仰の厚い人に限られると思う。なぜなら世界は宗教があるのに日本よりも、もっと暴力的だからだ。これは彼らも認めていた。

そこで僕は気づいた。一神教と多神教の違いの一つは、一神教故のシンプルな安心感と言うものが在るのかもしれないなと。

僕は八百万の神が日本には存在して、どこもかしこも自分の中にも神性があると信じているが、普段は意識していない。

あまりにもありすぎて焦点が合わない。漠然としているのだ。

しかし、彼らは常に神とともにあり、常に神と対話しているのだ。そして厳しさも過酷な運命も神から与えられたものだと信じている。

それが僕には無いのだ。何しろ八百万の神だから、その時その時神を意識はできるが、それは初詣や受験や健康やお墓参りの時など、あるいはキャンプをして自然の中にいる時に意識されるが、普段は神とは対話をしていない。

単に僕が不信心で感謝が足りないだけかもしれない。

一方彼らは、常に神を意識して、神と対話し神とともに在る。

一神教なので、神を意識しやすく、対話もしやすく、神とともにいることが出来る。

一方、八百万の神だと、僕はとても意識しにくいし、お天道様が観ているとは言うものの、僕にはあまりに漠然としているし、対話もしにくいし、ともに在るのもなんだか難しい。夜には隠れてしまう。

ニールドナルドウォルシュの「神との対話」では無いが、神とは対話できてもお天道様や八百万の神とは対話しにくい。

彼らの安心感がなんだかよく理解できた。

縄文時代や宗教という概念も無く、文字を持たず本能的で感覚や直観で生きていた人々は、あらゆるところに存在する精霊などと容易に交信できたと思うが、現代の直観や感性が衰え物質的になりすぎた日本人にはそれが不可能になっており、実際は日本人の奥深くに持つ神性が抑えつけられて無理が生じて、今の日本人は鬱々となっているのかもしれない。

これから日本人は本来の在り方に戻ろうとするのだと思う。今は過渡期なのであらゆる崩壊が起きている。

彼らとの対話が終わってから、僕はなんだか安心感に包まれた。

神をイメージし易くなったのだ。

といっても僕はイスラム教でもなく、キリスト教でもユダヤ教でも無い。

まあ親が浄土真宗なので自動的に仏教なのだ(僕は仏教は面白くて好きだ)、そして神道的な神性も好きだ。

ただ一神教の安心感、その意味の一部が少しわかった気がする。

人間は人間を信じても心は安定しない。なぜなら人智を超えたものが確実に存在するからだ。

僕らはそれらに対してなんら答えを持ち合わせていない。それを神とするならば、現世での問題は”大いなる何か”サムシンググレートや神と言う大きなものに任せてしまうのは、この厳しい現世に安心感をもたらすものだと思う。

人智を超えたものにサレンダー(降伏)すると幸福になるようだ。

ちなみに聖書も好きで、キリストも好きだ。僕たちは混乱して、破壊を繰り返して、暴力的で、自己中でどうしようも無いのだ。

だからサムシンググレートが必要になり、それは必要なだけではなく確実に在る。それを神と表現できるだろう。

そういうことを繰り返しながら、自らの神性を取り戻し、神(サムシンググレート)一体化する学び場が現世なのだろうね。

 

本質的な話

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人間に自由意志は存在するか

2024-02-17 08:47:53 | 本質
以下の記事は、正しいとか間違っているとかいう概念とは全く関係ありません。答えでもありません。意味もありません。吉田がただ遊んでいるだけです。
 
ですから、遊びたい人は自分で考えて遊んでください。討論や議論とは全く関係ありません。
 
とにかく自分で考えて下さい(これも僕が自分で考えているのかもわかりませんし、僕が書いている情報も全て外からの情報であり、自分で考えたことなど1mmもありません。皆さんも同じです。何もかも)
 
人間に自由意志は存在するか
 
表題にあるテーマは大昔から哲学的、科学的な大きな問題であり未だに答えはみつかっていない。
 
一般的の方々が日々過ごす上で、自由意志が存在するかどうかは基本的にどうでも良いことだと思う。
 
哲学的にも科学的に考えた場合、現時点においてはどうも人間に自由意志は存在しないのではないかという見解が主流になりつつある。
 
月にロケットを飛ばしピンポイントで月面に着陸させるには、厳密に計算してしまえば可能となる。これはロケットや宇宙船を設計して実際にそれを行う前には計算が終了している(本当に宇宙があるのかは別として)
 
つまり、計算すればすべてが決まるということを意味している。この方法はあらゆることに利用されている。軍事的にも、あるいは旅客機にも鉄道にも建築にもスポーツにも洗濯機にも車にも利用されている。
 
全てが計算できるので決まったように動かすことができる。それが動かないときは設計ミスや老朽化などの要因があるが、それも理由があってそうなっているのであって、決まっているのだ。
 
情報が足りないときにうまくいかないだけであるが、それは情報が足りないだけなのだ。
 
ラプラスの悪魔(すべては最初から決まっている)は未だに存在している。
 
計算をするということを考えるときも、その情報をすべて先にあるものの中で計算が成り立つので、すでにすべてが先にあることになる。
 
この世界が本当にビッグバンから始まったのであれば、すでにすべてが決まっていることになる。
 
私たちの一挙手一投足まですべて決まっており私たちに選択の余地は一切ない。
 
科学的には脳の神経の発火よりも行動が先であることは明白に証明されている。例えばあなたがコーヒーを飲みたくなって自動販売機にコインを入れて、コーヒーを買う。
 
その人にどうしてコーヒーを買ったのですかと尋ねたら、ほとんどの人はコーヒーが飲みたかったからと答えるが、実際はコーヒーを飲みたいと思う前に、コーヒーを買う動作は始まっているのだ。(受動意識仮説:私たちが認識する前に身体が動いている)
購入した後に脳がその行動を後付けで分析して都合よく解釈をしているということだ。
 
あたかも自分がそれを自由意志で行ったように脳は解読してつじつまを合わせるということになる。自分の欲求よりも身体が先に動いているとなると、では誰が自分の身体を動かしているのかということになる。
 
何故そうなっているのかというのは、時間と言う概念(時間は人間が創り出した概念に過ぎず、実際には存在しない)を考えるとおそらく理解しやすいのではないだろうか。
 
時間という物理的概念により、身体表面のセンサー(受容器)に刺激が加えられ、その神経刺激による伝達が脳に届くまでにタイムラグが生じる。つまり刺激に対する認識は遅れる。
 
ろうそくの炎で手をやけどして痛いと思う前に手は反射的に動き、炎から手を遠ざける。その後、脳に痛みとして遅れて到達する。
 
脊髄反射により脳を介さずに瞬時に火傷しないように身体が動く。脳の認識は後になるが、同時に起こっているように感じる。
 
この脊髄反射にしても、瞬時に行われているようだが、実際は痛覚の受容器から脊髄に到達するまでも時間が必要だ。
 
ではこの際に、手を最初に動かしているのは誰なのか?痛覚繊維なのか、それは感覚であり運動神経では無い。
 
このように物理的概念である時間というものを計算したときに、誰が手を動かしているのか全く不明である。
 
そしてすべてが同時に動くことは出来ない。反応は必ず遅れるのだ。もしも同時に物事が起こるのならば、そこに空間としてのスペースが無くなり一ミリも動くことは出来なくなる。
 
時間という物理的概念により空間が生まれて、その間を私たちは動くことが出来るのだ(概念により動けると言うことは、まさにこの世は幻)この空間があることにより3次元の遠近や幅が生まれる。遠くの物を取りに行くには、近くの物を取りに行くよりも時間がかかる。なぜなら、空間として時間がかかるからだ。
 
こういう現世の物理的仕組みを考えた時にラプラスの悪魔や受動意識仮説を考えなくても、私たちが動けるのは、すでにあらゆるものが先に存在しているから動ける。
 
こう考えるとすべての物事は先に用意されていることが理解できるだろう。
 
私たちはすべてがすでに存在し、あらゆるものや出来事を後で認識(解読)して、都合が良いように後付けで解釈しているということになる。
 
もし、あなたの周りに何も存在していないとしたら、これから瞬時(同時に)にあなたはすべてを創造しながら、しかも自分がそれを構築する前にあらゆることを起こしておかないと、あなたは一歩も動くことは出来ないだろう。
 
その際、あなたは何の情報も存在しない状態で、創造しないといけないのだ。このことがいかに不可能かは一目瞭然である。
 
あなたはあらゆるものが先に存在し、出来事が先にあるからこそ、その中で自由に動ける(動いていると錯覚)ようになり、そしてそこのすでに存在している情報を利用して計算したり、創り出しているに過ぎない(あなたが生まれた時にはすでに世界は存在していたでしょう)
このように、もうすでにあらゆる決まっているのだ。あとは私たちの身体や脳がそのことを解読して認識しているだけなのだ。
 
あなたの前に何もなければ一切動くことは出来ないのだ。
 
それでもあなたは自由意志があり、自分で選択して動いていると思うかもしれない。しかし、今日、あなたがとった行動を振り返って頂きたい。
 
あなたは朝ご飯を食べる暇が無くて、コンビニでサンドイッチを購入した。コンビニはいくつもあったが、なぜそのコンビニに入ったのか?なぜサンドイッチを購入したのか?
 
本当に食べたくてサンドイッチを購入したのか?もしかしたら、鳥の唐揚げを一緒に購入したかもしれない。最初に鳥の唐揚げを食べようと思ったのだろうか?
 
目に入ったから一緒に購入したのであって、食べたいから購入した訳では無い可能性が高い。それはサンドイッチの横にディスプレイされていたので食べたくなった。
 
昼になり昼食を食べようとスマホの情報を見た。どこか良いカフェは無いだろうか?美味いしく安価なカフェと検索に入れた。あなたはなぜカフェと入れたのか?
 
それはあなたがすでに知っている情報の中でカフェを選択したに過ぎない。検索する前に広告を見たのかもしれない。
 
いくつか候補が出てきて、その中でも古民家風のおしゃれなカフェのパスタが目に入った。ここにしようと決めた。しかし、あなたは最初からパスタが食べたかったのか?
 
このように突き詰めていくと、自分で選択して自分で決めていると思っていることも、実はすでにある情報が外部刺激として与えられ、ただそれに反応して決めているに過ぎない。
 
そのあと、パスタが食べたかったからその店を選んだとか、あるいはパスタが食べたかった訳では無いが店の雰囲気が良かったからとか、とても美味しくて良かったとか、不味くて行かなければ良かったとか、後付けで理由をつけるのだ。
 
そこにはあなたの自由意志など存在せず、都合の良い後付けの解釈しかなく、その情報は先に存在し、情報があなたを動かしたということであなたが自由意志で動いた訳では無い。
 
つまり、あなたは自分で考えて判断したことなど何も無いのだ。情報は先に存在しており、その情報があなたを動かしている。
 
これはすべてのことについて言える。
 
テレビをネットを観ていて突然飛び込んできた情報により、その物が欲しくなり購入したり、旅行に行ったり、その数秒前までそんなことを考えていなかったにも関わらずサプリメントや便利な掃除機や鍋やきれいなネックレスを購入してしまう。
 
それは本当にあなたが欲しかったものだろうか?
 
人間が何もないところから何かを創造することは出来ない。すでに存在するものを利用して創造している。何度も繰り返すがすでに何もかもが存在している。もし存在していないものがあれば、それは単に未発見(情報不足)というだけである。
 
大自然も私たちの身体も見事にプログラムされており、それが完璧に作動することによってこの世界は成り立っている。何もかもがカオスであれば、この物理的プログラム世界は存在しえない。
 
人間にそれが出来る筈もない。今の人類はこの世界を仮想現実としてプログラムして、その世界を創造しようとしているが、もしもそれが可能になったとしたら私たちがすでに完璧にプログラムされた仮想現実の中に住んでいるということになる。
 
なぜなら、仮想現実を作り出した瞬間に、仮想現実が無数に存在することになり元の現実がどれであるかわからなくなるという事態に陥る。
 
今のところ仮想現実社会を私たちは構築できていないので、この世界はリアルだと思われるが、それもわからない。
 
この世界をプログラムした知性があるのであれば、それは神と呼べるかもしれない。仮想現実の仮想現実が未だに無いことを考えると、この世界はすべてが決まったシュミレーションゲーム(シュミレーション仮説)であり、必ず終わりを迎えることになる。
 
それがリセットなのかはわからない。
 
自由意志が存在せず全てが決まっていると考えると、なんだかつまらないと考える人もいるかもしれないが、全てが決まっているというのは九州大学の妹尾武治(ベクションを心理学に応用している研究者:心理学的決定論)氏が言うように、全てはあなたのせいではありません。となり、すべてを自分以外の何かに任せてしまい、結構気楽にこの世界を楽しめるかもしれない。
 
何しろ自分が思うようにいかないのは、決まっているからだと考えると腑に落ちるし、気楽になれる。それを自分が自由意志で選択して、生きているんだとなると、結構大変な人生かもしれない。すべては自分次第となり、上手くいかないのは自分のせいなのだ。
 
僕は自分が思ったようになると考える方が、かなり無理があると思う。何しろ自分の身体は自分がコントロールしなくても勝手に動いている(心臓も内臓も何もかもほとんど勝手に動いている)のだから。
 
しかし、こんな理屈など知らなくても、あるいは信じなくても、自分で自由に生きていると考えるのも悪くはない。
 
どちらが正しいかはわからない。そもそも正しい答えなど存在しない。
 
もしかしたら、起こった出来ごとは同じでも、その解釈は自由に出来るのかもしれない。そうすると、見えていた景色がまるっきり変わるので、そういうことにより自由を獲得できるかもしれない。
 
僕はこのようなことは、その時その場で都合よく解釈して生きていくのが良いのだと思う。
 
幸せな時もあれば最悪の事態もある。人生はそうなっている。
 
#本質 #この世界の仕組み #自由意志 #運命論 #決定論
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”無為自然”

2024-01-26 13:43:03 | 本質
いやーばんばん過去の悪事が露呈していくね。
そしてそれからは結局逃れることが出来ず、本人にそのまま帰ってくる。
現世での出来事は繰り返される。
もう好きな歌も歌えないね。
権力と金を手にした人は政治家も経営者もしかり、芸能人もミュージシャンも善人も狂っていく。
ある程度何でも出来るようになった時に、欲望に負けるんだね。
人は弱いもんだ。
そして欲望から自分が狂っていることに気づかなくなる。
しかし、しでかしたことは、必ずまた本人に降りかかる。
ただ言えることは人間は誰しもが未熟であるということだ。だからいずれ痛い目に合う。
その後始末をきちんとつけるしか無いと思うね。
この世のシステムだな。このシステムを見抜いて、繰り返しから抜け出すことと、”無為自然”であることが大切なことだ。
”無為自然”
 
 
追記

私たちの社会では何か問題が起こった時に善悪の概念を持ち出し、どちらが正しいとかジャッジをして、その個人や団体あるいは一部の責任にして幕を引こうとする。

しかし、それは何の解決にもならない。

なぜそのようなことが起こったのか、加害者、被害者と言われる双方の背景がどうだったのか?

必ずそこに至る理由があるはずであり、そのことをお互いに考えて共有して癒していくことが必要だ。

一方的な問題であったとしても、生まれた時にナイフを持って生まれて来る赤ちゃんはいない訳であり、育っていく過程でなぜそうなったのかということを考える必要がある。

そうなると、悲惨なことが見えてきて、その人も被害者という視点も出てくる。

社会としてはやむを得なく裁く必要があったとしても、根本的な問題を置き去りにすることは、私は関係ないと思っている人も問題に加担している可能性もあるし(社会的歪がその人個人に重荷を背負わせている可能性もある)

あるいは自分がそうなっていたかもしれないという視点。

これが重要だし、社会的視点から抜けていることだ。
 
社会的歪は必ず正常化されるために、表に出て症状(社会的混乱)を出します。これは身体の治癒反応と同じです。ひずみが多いほど、混乱の度合いは深くなります。日本は治癒反応が激しく出る時期のようですね。
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ナダブラーマ瞑想

2024-01-19 14:20:47 | 本質

僕がナダブラーマ瞑想を行っている時に視えている世界のひとつです。

#ナダブラーマ瞑想 #色鉛筆画 #瞑想 #サイケデリック #多次元

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すめらの不思議なお話会

2023-11-26 16:09:52 | 本質
先日の高千穂で行われた左京源皇(さきょうみなもとのすめら)さんのお話会に参加した。
 
左京さんとは共通の友人がおり繋がった。実際にお会いしたのは6年前ほど。
 
またお会いしたいと思っていたら神話の里高千穂で九州初のお話会をするとのことで、すぐに主催者に電話した。
 
すめらさんは確か2年ほど前に僕の家の近くの霊峰高千穂の峰に登っていた。
 
それを知って、すめらさんに僕の家の近くです。とメッセージを入れたら、今回それを覚えていて、すめらさんから、高千穂町に行きますと連絡をもらったのだ。
 
久しぶりにお会いして、話を聞いた。
 
やはり、実際にこの肉体を持ったままでは普通できないレベルの深い体験をしたすめらさんの言葉は、そこに参加していた皆さんの、奥深くに響いた。
 
話題は多岐にわたり、それは楽しい3時間でした。
 
すめらさん。ありがとうございます。
 
そして、そこには猿田彦tvのカタカムナ研究者である天道聞(てんぢにんもん)氏も来ていた。
 
新しい繋がりに感謝します。
 
そして、僕をいつも助けてくれ、当日も助けてくれたあなたに感謝致します。
 
#左京源皇 
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